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奇術・あいさつ・綱渡り 〜1953年のテレビ番組探検記〜
第2話 すきまの番組

1 定時番組が安定するまで

ここからは、「定時番組」について考えていきたいと思います。定時番組といっても開局日からカッチリ決まっていたわけではなくて、私の見る限り、安定するには2ヶ月近くを要しています。だいたい大相撲秋場所が終わった10月第2週頃からが、本格的な定時番組の時代と考えていいでしょう。それまでの2ヶ月間は微妙に不安定でした。思いつきで変わっているような番組内容、気が付いたら動いているような時間と曜日、そして、所々空いてしまった場所を埋めるかのような「すきま番組」。これらは、わずか2ヶ月ながら確かに存在した定時番組の「前史」です。その前史を、特に印象的な3つの短命すきま番組、「私のご挨拶」「曲芸」「文化映画」を軸に見ていきましょう。

2 「あいさつ」する有名人たち

最初に紹介するのは、8/31-9/18の3週間、月曜から金曜の休止時間帯前(13:55-14:00)に放送されていた『私のご挨拶』なる番組です。要するに有名人が出てきてカメラの前で何かを言ったんでしょうが、その顔ぶれは、わずか17人ながら非常に興味深いものがあります。まずは一覧を見てください。人物プロフィールは私が調べたものですが、不適当なものがありましたら御一報ください。

人物人物のプロフィール(当時)
8/31高橋誠一郎元文部大臣・日本芸術院院長
9/1喜多村禄郎新派俳優
9/2貝谷八百子バレリーナ
9/3早川雪州映画俳優
9/4津島恵子映画俳優
9/7福井盛太衆議院議員・元検事総長
9/8松田トシ童謡歌手
9/9五条珠実日本舞踊家
9/10高田せい子洋舞家
9/11白井義男プロボクサー
9/14 下八川圭祐 声楽家
9/15長門美保声楽家
9/16青山圭男・原信子青山・・・舞台演出家、原・・・声楽家
9/17栃錦・吉葉山力士(ともに大関)
9/18 伊東深水 日本画家

さて、このラインアップをどう分析するかです。第1回の高橋誠一郎は、日本テレビの開局と関わりのあった人物ですから妥当としましょう。それ以外のメンバーの特徴として、舞踊家・声楽家・俳優という芸術畑の人物が多く含まれていることがあげられます。当時の定時番組には舞踊・バレエ・独唱などがあり、このメンバーの中では貝谷八百子・松田トシ・五条珠実・高田せい子・長門美保の女性5人が、その後実際に番組に登場して演じます。開局当初からテレビと友好な関係にあった舞踊界・バレエ界・声楽界の大物を出演させ、テレビへの期待を述べてもらったのではないかと推察します。

白井義男、栃錦、吉葉山はそれぞれ世界フライ級選手権、大相撲秋場所に登場しますから、来るべき勝負の時に向けて抱負を述べたか、局に頼まれてしぶしぶ出たか。野球界からの登場がないのはシーズン終盤だったからと思われます。

喜多村・早川・津島の俳優勢はどうでしょうか。喜多村禄郎ですが、私の見る限り新派劇の中継は見当たりません。しかし翌1954年、NHKで新派の名作『婦系図』をスタジオドラマ化したものに主演していますから、テレビに対して前向きな人物であったことは間違いないようです。早川雪州ですが、映画ファンの方は「なぜ、早川雪州?」と思われたかもしれません。しかし彼は、のちにテレビドラマ史上初の芸術祭参加作品『鬼の久右衛門』(日本テレビ・1954)に主演する人物なのです。このドラマには、早川の法外なギャラ要求に日テレが泣く泣く応じたというエピソードがありますが、果たして『私のご挨拶』のギャラはどうだったのでしょうか。最後の津島恵子ですが、当時のトップ女優の中からなぜ彼女が出演したのか、その理由は分かりません。

残る人物ですが、福井盛太、伊東深水の2人は見当が付きませんでした。文化界からのテレビシンパ代表という意味合いでしょうか。余談ですが、伊東深水って朝丘雪路のお父さんなんですね。下八川・青山・原のオペラ勢は、初期テレビ番組と声楽との結び付きからきたキャスティングであることは間違いなさそうですが、彼らが選ばれた理由までは分かりません。

この17人の顔ぶれは、テレビ局側の思惑と、出演者側の思惑との交錯点を示しています。当時テレビはソフト不足で、まだまだ既成の視聴覚芸術に頼らざるを得ない状況でした。そんな中で、ラジオ時代にはあまり出番のなかった演劇・舞踊・バレエの分野からしっかりと然るべき人物を選んでいるのは、テレビを視聴覚芸術の媒体としてとりあえず成立させようという両者の思惑の、スムーズな合致を象徴していると言えます。またこの顔ぶれは、各芸術分野に「マスメディア・アイドル」が生まれたことも示しています。1954・55年とNHK紅白歌合戦に連続出場するオペラ歌手・長門美保をはじめ、創作舞踊の五条珠実は伝統的日舞へのレジスタンスとしてテレビに積極的に関わっていたフシがあります。芸術家にとって「テレビに出る」という行為がサブカルチュラルな意味を持っていたであろう状況を、『私のご挨拶』はほのかに映し出している、と考えると、非常に興味深いものがあります。しかし、彼らはいったいカメラの前で何をしゃべったんだろう。実はそれが一番大事なことなんですが、全くもって不明です。近況報告か、テレビの話か。

3 テレビという見世物〜様々な「曲芸」

しかし分からないものはしょうがないので、次の話にいきます。たった今、初期テレビは「視聴覚芸術の媒体」としてとりあえず成立しようとした、と述べましたが、日本の視聴覚芸術は舞踊やバレエだけではありません。もっと、大衆に身近で分かりやすい視覚芸術がありました。それは奇術や曲芸などの「見世物」です。初期のすきま番組では、さまざまなパフォーマンスがスタジオ中継されました。中にはビッグ・ネームもいたでしょうに、『私のご挨拶』には全く顔を見せないところなんか、いかがわしさに拍車をかけていい感じです。見世物的パフォーマンスは、主に放送開始直後の12:00-12:30に放映されました。特に毎週金曜日の「テレビ・カーニバル」は、そうした芸を中心にした番組です。

どんな芸があったかというと・・・。落語奇術はもっともノーマル、紙切り声帯模写もまだノーマル、タップあたりからアヤしい匂いが、居合玉乗り自転車曲乗り曲吹きときて、綱渡り、そして究極が器械体操!。器械体操は曲芸だったんですね。せっかくなら、皿回しや噴水芸なんかもやってほしかったですね。

これらの演し物から特に深い考察ができるわけではないんですが、まず思いついたのは「BGMはあったのか」ということ。シーンと静まり返った広いスタジオに鉄棒を握る「キュッ、キュッ」という音だけが響き渡り、屈強な男が白タイツ姿でひたすら大車輪を繰り返すなんて、想像するだけで胸が踊りますね。居合もいいですね。綱渡りは、天井の照明付近まで綱を上げてやったんでしょうか。と、妄想していてもキリがないので先に行くと、制作側がこういう見世物的パフォーマンスを番組として思い付いたという、そのこと自体が注目に値します。とにかくテレビは「見せるメディア」だという強い自意識が彼らにあったことは間違いなく、それでいて、スポーツや映画や演劇などの見せるソフトは全時間帯を埋めるほどはない。そこで誰かが曲芸を思い付いたのでしょう。その発想は確かに自然ですが、テレビスタジオの見世物小屋的性質、あるいはお座敷的性質を彼らが無意識に感じていたことの「表出」と考えると、ある種、テレビの将来を予言しているといえなくもないような。ところで演じる側としては、スタジオはいつもの座敷や道端と違って異空間です。なにしろ生身の客が前にいないのですから、不安だったでしょう。失敗はなかったんでしょうか。玉乗りが玉から転げ落ちるとか。

4 「文化映画」のはかない命

最後に、すきま番組の代表格「文化映画」を紹介します。文化映画とは何か、というのは難しい問題ですが、ひとことで言えば教育的な短編ドキュメンタリー映画のことです。詳しく調べていませんが、学校や公民館などで上映されていたのでしょうか。だいたい15-25分くらいの長さが相場です。この文化映画が、最初の1ヶ月くらいはわりと積極的に、その後の2ヶ月くらいは臨時番組による時間のズレを調整するかのように、プログラムのあちらこちらに流浪の民のごとく点在しているのです。テレビ放送は確かに、文化映画の上映場所としてはなかなか適当のように思われますから、NHKを含めて、制作側としても乗り気で映画を売ったのではないでしょうか。その後「ドキュメンタリー番組」というジャンルが発生して、テレビ局はこのような番組を自前で制作するようになりますから、文化映画はある意味でドキュメンタリーの「前史」と言うことができます。

では、1953年に放映された文化映画のタイトルリストを示します。(不明)とあるのは、テレビ欄に単に「映画」や「文化映画」とだけ書かれているものです。調べのついた限りで、備考欄に制作会社と制作年を載せておきました。漫画映画は基本的に外してあります。

日付 タイトル 備考
8/28 上代の彫刻 三井藝術プロ(1951) 「上代彫刻」
8/28 天竜川 岩波映画(1952)
8/29 鉄道電化 理研映画(1950)
8/29 シャムの拳闘  
8/30 五人の選手団 北欧映画(1956) 「オリンピック体操・五人の選手団」か?
8/31 水鳥の生活 理研科学映画(1939)
8/31 アイヌの川漁 岩波映画(1953)
9/1 北陸風土記 岩波映画(1953) 「新風土記 北陸」か?
9/1 ぼくらの良寛さん  
9/2 能の話 石田ぷろだくしょん(年不明)
9/3 (不明)  
9/3 山祭  
9/4 凸レンズ 岩波映画(1950)
9/5 奈良の大仏  
9/5 ミシン  
9/6 京都と奈良  
9/6 コムギの祖先 日映科学映画(1953)
9/7 歩く文明 岩波映画(1951)
9/8 生活と水 岩波映画(1952)
9/8 雄花と雌花  
9/9 (不明)  
9/10 草も木も生きている  
9/10 カーリターダー  
9/11 (不明)  
9/12 火と炎  
9/12 スケート教室  
9/13 ナゾの音 (1940)
9/15 中尊寺 日本映画社(1951)
9/17 新生活の村  
9/28 慈悲心鳥 理研科学映画(1942)
10/6 蟹工船  
10/10 町と下水 岩波映画(1953) *羽仁進作品
10/17 ツルの来る村  
10/20 子供の天国 インタナショナル映画(1953)
10/24 鉄路に生きる  
10/24 稲田家の新婚  
10/26 桃山美術 三井藝術プロ(1952)
10/27 サケ  
10/30 (不明)  
10/30  
10/31 結核の生態 日映科学映画(1952)
10/31 生まれかわる客車  
11/6 綱渡りの男  
11/10 電源地帯 日本映画新社(1953) 「電源開発は進む」か?
11/13 神路山  
11/18 忘れられた人々  
11/20 海の闘魂  
12/2 少年の美術教室  
12/4 白魔は招く (1940)
12/9 海魔陸をゆく  
12/9 楽しいスキー学校  
12/23 雪に描く  
12/30 雪の楽園・北信編 日本映画社(1951)

さて、考察をするには情報が少なすぎますが、ポイントは2点、当時のテレビ放送における「ソフト不足」と「教育的内容重視」です。放送教育という観点から、都内の小学校などでテレビ視聴が行われたという資料があります。NHKが中心だった可能性が大ですが、もしかすると、日テレの文化映画も見たんじゃないかと推測しています。放映時間も午後1時台のものがけっこうありますし。ただ、それ以上のこと、例えば映画制作会社がテレビをどう考えていたかとか、そういうことはまだ調べがついていません。翌54年からは、文化映画の放映は極端に減っていきますが、なくなるというわけでもなく、突然ポツンとあったりします。

戦時中に制作された文化映画が戦後も「現役の商品」として流通しているのは、少し奇異な感じもします。国策臭の強い映画は多くがGHQに没収されたり、放映禁止になったりしていたので、主に科学系・芸術系の文化映画が生き残って、戦後もこうして日の目をみたのです。戦後、国策の名の下に制作されたものはなんでもかんでもダメだった、というわけでもないのですね。

5 まとめ

あいさつ・曲芸・文化映画という三大「すきま番組」を紹介してみました。雑誌の創刊号のコピーがその雑誌の方向性を暗示しているように、テレビ番組最初期のコンテンツが、テレビの将来を暗示しているように思います。「私のご挨拶」はタレント重視へ、「曲芸」は見世物的性質へ、「文化映画」はソフトの外注へと、それぞれテレビ放送を支える構造へと繋がっていくと考えると、創業当時のスタッフはテレビの本質を無意識に理解していたんだな、というのは多少強引な論理ですが。とにかく、面白いです。初年度のテレビ欄は。


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