大人社会のいじめを心理分析しよう   要約

            筑波大学名誉教授、国際医療福祉大学教授 小田晋

 19991120 椛蝌a出版  発行  ISBN4-8047-6070-9 Copyright 1999 Susumu Oda

要約2001125 山田 隆章 Copyright 2001 Takaaki Yamada

 

この本の要約を作ろうと思い立った理由は2つある。一つは、いじめの行為があまりにも社会に蔓延している事を感じているからだ。 「からかう」に始まり「人を負かす」、「いばる」、「人を馬鹿にする」、「ダメ人間のレッテルを貼る」、「仲間はずれにする」へといじめのレベルは深刻化していきやすい。いじめは、段階的に進行していく為にそれがいじめだと認識しにくくなるようだ。こういう社会の病理現象への危機感が私にはある。もう一つの理由は、友人の自殺にある。入社当時、寮で同室だった彼とは、その頃、夜間通っていた(会社の)専門学校でも同級であった。この時彼とは勉強で競って、そして負かしていた様に思う。本当は能力があったのに負かされて自信を失ったかも知れない。それに彼のあけっぴろげで優しい性格は揚げ足とりの対象になりやすかったかも知れない。なんとなく馬鹿にされていたのかも知れない。そしてダメなやつのレッテルを貼られていたかも知れない。ダメのレッテルを貼られると、不思議な事だがそのレッテルの金縛りでもあうかの様に力が出せなくなってしまうものだ。私にも経験がある。いじめ社会の病理がダメ人間を作り出しているという危機感が私にはある。

いじめの理屈について納得がいく説明をしてくれる本はほとんどない。まだまだ研究が未熟な領域なのだろう。この本は動物行動学等の生物学的な知見を取り入れている点で、従来の心理学や倫理感の枠を越えて訴えるものがある。人間の動物としての本質が追究されている。そしていじめられる方にもいじめる方にも事態を改善する気づきを促している点で役に立つ本だと思う。ただ、動物行動学を引用していじめを堀下げる深さには少し物足りないものを感じる。また情緒的な見方を否定していながら従来の倫理感や正義感に訴える部分には矛盾と限界を感じざるを得ない。これらの点は要約文中にコメントとして補足した。

とは言ってもこの本はいじめに悩んでいる人、自分をダメ人間と思っている人には改善のチャンスと光明を与えるに違いないと思う。臨床心理の現場においても取り入れるべき点が多いと思う。是非多くの人の目と心に触れて欲しいと願ってこの要約を書いた。ただ原著者の著作権を尊重する意味で電子データでの配布はこのページを含む頭3ページに限定している。

又 原著書(¥1400)も是非買って頂きたいと思う。       2001/12/05  たかあき

 

全体の概要とコメント(青字はコメント、ゴシックの斜体は原著になくて追加した部分)

                                        

いじめは脊椎動物が本能的に持つ「攻撃欲」に起因していると考えられている。攻撃には餌を奪いあう時の攻撃、メスを奪い合う時の攻撃、なわばりを誇示する時の攻撃がある。そして攻撃には快感がともなう。いじめも攻撃の一種とすれば、これに快感がともなっていても不思議はない筈である。

いじめには集団のなかで順位を争うタイプの「にわとりのつつき順位(順位闘争)型いじめ」と異質な者を排除しようとする「みにくいアヒルの子型いじめ」がある。

後者も高順位の可能性を芽のうちに潰してしまおうとする順位闘争の一種として考える事も出来よう。この意味でいじめの本質は順位闘争にあると言える。  たかあき

1998年日本人の自殺者のなかで中高年の増加は失業率の増加と相関してか、前年比50%近くにもなっている。 一生懸命会社の為に仕事をし、それなりに貢献してきたと思っていたのが、突然、必要ないと言われては自分の存在の否定を宣告されたも同じである。会社が人生の全てだった人にとっては耐えられようのない衝撃である。こうなればやがてうつ病へと進み、生きる道を踏み外して死へと旅たってしまう人も少なからずいる。悲惨な出来事だ。

いじめにあいやすい人には、反撃をしない人(順位闘争で楽に勝てる相手)もしくは目立って優れていそうな人(逆転すべきターゲット)で集団を作らない人(よってたかれば勝てるかもしれない相手の2つのタイプがある。

相手が出来ないと解っていながら仕事を押し付けては自分優位の快感を得る光景をしばしば見ることがある。 拒否できないが故に、引き受けてしまい、出来ない故にいじめられる。いじめられるから拒否できない、そんな固定的な悪循環の構造がここにはある。 出来ない人はやがて自分に能力がないと思い込んでしまい、この関係は益々固定化されていく。 やがてダメ人間のレッテルが貼られてリストラの対象ともなり易い。     たかあき

 

いじめからの脱却にはまず「自分はどうせダメな人間と決して思わない事」「いじめられる自分が悪いと思わない事」そして相手のペースに巻き込まれない為に「距離を置く事」である。

次は勝てるチャンスを入念に見計らって喧嘩の勝負(大人の世界では理屈の上の勝負)に出る事だ。いじめている相手は順位確認の為にそうやっているのだから、一度でも逆転すれば関係が劇的に変わるはずだ。とにかく最初からダメな人間などいないし、生まれながらにしていじめられる運命にある人間もいない。いじめ社会こそがダメ人間を作り上げているのである。

 

目次

    日本社会に増殖するいじめ 

第1章  子ども社会のいじめと大人社会のいじめ

    いじめは人間の本質なのか              ストレス社会で増殖するいじめ

    欠陥動物としての人間                  いじめにおける三つのパターン

    ボスの存在がなくなった社会            管理教育はいじめを誘発するか

    子供のいじめと大人のいじめ            いじめをどう抑制するか

第2章  サラリーマン社会・いじめの構図

    増加するリストラ自殺                  ・オジサン臭いと言うなかれ

    ・蔓延するテクノストレス                ・社員研修という名のいじめ

    ・リストラ離婚                          ・リストラうつ病

    ・いじめられる人の傾向と対策            ・希薄化するいじめへの認識

第3章  社会病理といじめの関係

    過労死をする人                        ・女のいじめはなぜ陰湿なのか

    ・幼児虐待といういじめ                  ・非婚時代に猫を飼う人たち

    ・おばあさんが死に急ぐ社会              ・気質といじめの関係

    ・強気型人間と弱気型人間                ・「セルフ・エスティーム」の確率

    ・「男は愛嬌」の時代

第4章  日本人の心の深層

・ガラスのプライドと架空のプライド     ・強調性と個性の矛盾                  

・ダメ人間を作り出す社会               ・社長が解任されるとき

・アメリカのいじめ-日本のいじめ        ・「釣りバカ日誌」への憧れ

・「橋田ドラマ」がウケる理由            ・恥をなくした日本人

 

はじめに

  日本の年間自殺者数は1998年度で3万人を超え、とりわけ4050歳台の増加は前年度比48%の急増を示している。その背景を透かして見れば「いじめ」の構造が見えてくる。筆者は精神科医として多くのいじめに関する事例とめぐりあってきた。

  人はえてして、安易で情緒的な人間観を、「こころの教育」や「人権尊重」といった錦の御旗として受け入れがちである。最近の比較行動学や生物学そして「利己的な遺伝子」で有名なR・ドーキンスが開拓した社会生物学は人間を生物として客観的に捉える見方を提供していて従来の情緒的な人間観を覆す。いじめの問題を情緒的な人間観で捉えようとしても解決しない。この本では生物学的な観点を「いじめ」という問題に応用する事を試みた。そして、「人間はどうしていじめを行うのか」を人間の性質の根本にかえり、さらに「生物としてのヒト」の視点にかえり、読者とともに考えようという立場で書いた。「いじめをやめさせる」、「いじめに負けない」ための処方箋にもなっていると思う。

 

序章

大人社会おも侵食するいじめの病理

1986年の東京、当時中学2年生だった鹿川裕史君が自らの命を絶った。「葬式ごっこ」という先生も含めたクラスの大多数の人間が参加した過酷ないじめが「生き地獄だよ」と書き残して死を選ばざるを得なかった。その後もいじめによる子供の自殺は痛ましい記憶として我々の記憶に生々しく跡を留めている。

これらを単なる子供社会の病理として片付けてはいけない。いじめの病理は今、大人社会の中にも確実に浸透し始めている。この事実に早く気づいて何らかの対策を講じていかなければ、社会全体がいじめの構造に陥ることになりかねない。

  リストラという名の究極のいじめ

      社会的な病理現象は、最初子供社会の中に現れる。次にそれを追うようにして大人社会の中に現れてくるのが常である。何故なら大人社会では理性による表面上の抑制がそれを見えにくくしているからである。しかしリストラと言うあからさまな人員削減によって大人社会にもはっきりとしたいじめの現象として現れてくる。リストラされない側に立ちたい、即ちいかに負け組みに入らないかと言う背に腹の変えられない状況に追い込まれてしまう。これは子供のいじめで見られる構造と同じ自己保身と無関心として捉える事が出来る。

失業率に比例して増える中高年の自殺

失業率の増加と相関するように、中高年の自殺が増えている。失職したからと言って生きていけない程日本の経済は落ちぶれていない。それにも係わらず彼らは死を選ぶのは何故なのか? 経済的な破綻よりも精神的な破綻が原因ではないだろうか。会社の為に身を粉にして働いて来た自分は会社にとって必要な人間の筈だ。それなのにある日突然、必要ないと言われては自分の存在の否定を宣告されたようなもので心はズタズタになる。そしてやがてうつ病へと進み、自殺の道を選択してしまう。

崩れ始めたいじめのルール。

上司にかわいがられる部下は出世する。出世しようとすれば、上司にかわいがられよう、上司にいじめられないようにと自己保身に神経を使う。自分がいじめられない為にいじめに参加する中学生と同じである。

  いつの時代においても、共同体を作る限り、いじめが存在する。それでも従来は何らかの抑制機能が働いていた。生徒といっしょになって葬式ごっこに参加していた教師の対応と言えば、トイレに捨てられていた運動靴をあらっては「悪いな、先生にはこんな事くらいしかしてやれないんだ」と言っていたそうな。

 

 

 

 

 

第1章 子ども社会のいじめと大人社会のいじめ

いじめは人間の本質なのか 

生きるからには不可欠な攻撃欲

脊椎動物の基本的な欲求には3つの種類がある。その第一は食欲で所有欲も食欲からの派生と考えられる。  第二の欲求は性欲である。 三番目の欲求が攻撃欲で、これは食欲と性欲に密接な関係を持っている。エサが横取りされようとすればこれを攻撃して守り、メスを確保するにも他のオスを攻撃しなくてはならない。攻撃欲は生命の存続にとって不可欠なものである。

 

比較行動生物学の祖 K.ローレンツはその著書「攻撃」で種の攻撃性にもう一つの観点を主張している。それは獲物を得る目的で狭い範囲に限って同種の個体が競い合うよりも一定の距離をおいて獲物を得た方が種の繁栄にプラスになると言う事による。この目的で同種の個体同士が一定の距離をおく為にはお互いが反発するかの様になわばりを主張し、近づいたものを攻撃する事が理にかなっている。人間にも進化の過程で身に付けた縄張りのたぐいが本能として残っているとすれば歴史上かってない人口密度の増加は人間の攻撃性を必要以上に高めていると言えるのかも知れない。  たかあき

 

古態心理学にみる人間の攻撃システム

心理学者のA・ベイリーは人間の攻撃システムの性質を次のように説明している。

@攻撃行動は、哺乳動物の種に内在する行為である。

A攻撃すること自体に快感がある。

B攻撃は下位中枢に原因がある。

C人間の新皮質は攻撃性の抑制に関係している。

D人間の新皮質の働きは後天的につくられる。

攻撃を発する下位中枢の働きは他の脊椎動物と変わりない。攻撃の抑制に関係する新皮質は文化や教育などの後天的な要因によって作られる。とはいっても道徳的な刷り込みが新皮質にされたからと言って本質的な攻撃性が消える訳ではない。ストレスなどによって新皮質による抑制が効かなくなる事もある。

 

ストレス社会で増殖するいじめ

過度なストレスが本性を呼び覚ます

いじめには快感がある

攻撃自体に快感がともなうとすれば、いじめにも快感がともなうと言ってもよい事になる。事実いじめをしている子供に聞いても「楽しいから」「気分がすっきりするから」とその理由が返ってくる事がある。これこそが人間としての正直な答えというべきである。この人間の本性を考える事なく「みんな仲良くしましょう」と言っても何の本質的な解決にならない。いじめの欲求が誰にでもある事を踏まえた上で対応を考える必要がある。行き過ぎたいじめの行為には犯罪という認識をもたせない限り“楽しいいじめ”はなくならない。

大人の場合、大抵この楽しいいじめを「ただの冗談」「おまえの為」「皆の足を引っ張らないために」等と言っていじめ行為を正当化しやすい。大人は智恵と体面がある故に自分が楽しいからいじめているとは言わないしむしろ正当化してしまいがちである。    たかあき

 

いじめにおける三つのパターン

ニワトリのつつき順位型いじめ

ニワトリを狭い空間に囲って飼うと、強いニワトリが弱いニワトリをつつく。弱いニワトリはさらに弱いニワトリをつつくと言う。この現象は広い空間で飼われているニワトリには見られない。人間の世界でも学校や会社の組織がこの狭く囲われた空間に相当し、いじめを誘発しやすいと考えられる。

みにくいアヒルの子型いじめ

アンデルセンは子供の頃、転校生としていじめられた経験を持つ。この時の経験が童話「みにくいアヒルの子」を生んだと言われている。標準語しかしゃべれないとか、とにかく異質とみなされる何かがあればいじめの口実となって排除される。

非行型いじめ

 

ボスの存在がなくなった社会

かって先生は学級のボスザル的存在だった

かっての学校現場にはクラス担任というボスザルが存在して圧倒的な権限を握っていた。学級はこのボスザル的な先生によって秩序が保たれていたと言える。

ボス不在の状況が陰湿な小競り合いを招く

最近では先生からリーダーシップというものが消えてしまった。ボスザルがいなければ群れは成り立たない。先生も皆も一緒という民主的な顔をした金八先生はドラマの世界でしかあり得ない。

本当にボスザルという権威・権力が必要なのだろうか? そもそも権威・権力にはそれに従う盲目性がある。 ボスが間違えば皆間違えるといった危うさがある。

類人猿にボノボという種がいるが、この種はボスザルがいても他の類人猿のように君臨してはいない。比較的民主的な社会を作っている。権力の代わりに性的な接触が挨拶のように行われて集団を結びつけているという。 権力をつかもうとする個体の集団にボスがいなくなれば、それこそボスの座めぐる小競り合いが起きるのは当然と言える。 権力を行使しない集団では双方向のコミュニケーションが活発になると言うのが私の仮説だがどうだろう。  たかあき

 

 

管理教育はいじめを誘発するか

自由な伸び伸び教育は理想論

先生がボスでなくなって来た時、組織の秩序を保つのが法つまり「決り事」である。今の教育現場では先生に怒られる事くらい平気で、先生が怒れば逆に生徒から反撃されたりする。先生の方は「決り」「罰則」を作ってこれに対抗する。いわゆる管理教育である。管理教育によるストレスがいじめを誘発しているという議論もあるが、良識ある社会人を育てる為の必要なシステムだと思っている。管理をゆるやかにすれば子供は本能のままに行動して、いじめはさらに増えるに違いない。

 

管理教育や権力はいじめを誘発するというのが私の考えである。 管理の強化は権力の強化でもある。 権力の強化は通常、権力側と現場の距離を離す。いわゆる机上の大本営と疲弊した現場との2極化をまねきやすい。 いじめなど起きていないとする大本営は現場の悲惨さを知るセンシティビティを単に失っているだけとは言えないのだろうか。  たかあき

 

管理システムの崩壊に戸惑う大人たち

大人社会では管理システムが崩壊を始めている。年功序列が崩れ実力主義の時代が到来しつつある。細かな管理の代わりに結果が求められる。このシステムはより明確な順位性を生み出していて、いじめ社会を加速しているように思える。

著者は臨床の現場において実力主義の台頭によってリストラされた人の痛みを思うあまりに実力主義を嫌悪しているような気がしないでもない。 実力主義のオープンさはむしろいじめとは逆の健全な流れではないかと思うのだが。   たかあき

 

いじめをどう抑制するか 

しつけや教育等の大脳皮質への働きかけが鍵

子どもたちから「どうして人をいじめてはいけないの? こんなに楽しいのに」と言われたら、これに答えられる人はいないだろう。それほどこの問題は人間の根源に関わっていると言える。しかし人類がいじめを容認したら、おそらくいじめによって人類は絶滅してしまうかもしれない。人間にはいじめを抑制する本能的な機構を持ち合わせていない。本能的な欲望を抑制するのは大脳皮質がつかさどっている。

いじめには必ず罰を与える

幼児期のスキンシップが大切

人の心の痛みを理解する能力には、幼児期の母親の影響が大きいとされている。母親の密接な働きかけが子どもの情緒的な心を成長させる。

 

 

第2章 サラリーマン社会・いじめの構図

増加するリストラ自殺

会社に見捨てられたという喪失感が自殺に走らせる

ある企業で管理職をしていた中年男性が郷里に近いホテルで首をくくって自殺した。その前日、小学校時代の友人を訪ねて久しぶりの杯を交わしていたと言う。この人が勤める会社は業績悪化から管理職の一割削減を打ち出していた。医師にも行く末の不安を訴えていたと言う。パソコンと英語が苦手で後輩にも昇進で先を越されていたのだろう。「会社にとって必要のないお荷物」との思いも膨らんでいたようだ。

電車に飛び込んだ男性は営業の管理職だった。技術畑の出身だったが不況の波が技術より営業の強化となって押し寄せ営業に回されたのだった。アイデアマンの彼は営業に新しいやり方を取り入れようとはりきったのだが部下からの猛烈な反発にあって断念せざるを得なくなった。以降営業成績はがた落ちとなって「自分はダメだ」と思い込むようになった。そして発作的に電車に飛び込んだのだった。異質を排除するいじめとも言えなくは無い。

リストラ=人間失格という構図

自殺の話を聞くと「仕事の事くらいでなぜ死ぬのか、生きていれば何とかなるのに」と普通の人なら思うだろう。しかしそのような正常な判断が出来ないのが、うつ病の特徴でもある。アメリカではレイオフが当然のこととして行われるが、自殺につながる事はあまりない。これはレイオフされたからと言って人間失格の烙印を押される事がないし、次の仕事がまっていると考えるから日本の場合より精神的な負担が少ないのである。

人格を否定する病んだ職場環境

中高年の自殺の背景には病んだ職場環境があるケースが多い。明らかに自主退職を迫る「いじめ」があったと解るケースが少なからずある。この人格否定の精神的な苦痛が「うつ病」ひきおこす原因となる。

 

蔓延するテクノストレス

コンピュータ導入による落ちこぼれ

10年程前、中年の管理職男性がコンピュータの研修に出された。湖畔のホテルに一週間ほど缶づめしてコンピュータプログラムをマスターさせるというものだった。講習が終わった後、湖畔近くのバス停に一人たたずむ姿を目撃されたままこの男性との連絡が途絶えてしまった。それ以降誰も彼を見たものはいないという。

不安をかかえながら参加した研修というものはつらいものだ。ついていけるだろうかという不安がそれだけで理解や作業の効率を落としてしまう。 体面を気にしやすい中高年にこの傾向が強いとしても無理はない。本当は歳だからついていけないのではなくて、頭に余計な事がたくさん浮かぶ為についていけなくなるのだが。 要はさらけだせれば問題のない事なのである。 研修の講師もこういった心理を理解して受講者を誘導出来ていればこういった事件は起きにくくなる筈だと思う。   たかあき

 

リストラ離婚

不況になると離婚が増える訳

リストラによって失うものは仕事や地位だけではない。家族を養うと言う家庭内の地位まで失ったりする。金の切れ目が縁の切れ目と言うが、実際に妻から離婚を宣告される事ほどショックな事はないはずだろう。現実のデータを見れば経済と離婚は密接に関係している事が明らかとなる。

家族の絆を見直すとき

会社の中で自分がリストラの対象となっている事が知れると周囲の目と態度が一変する。同僚にはなんとなく避けられ、部下にも挨拶さえされなくなる。やがて回覧が回ってこなくなり机も隅に追いやられてしまう。つつかれる一匹の弱いニワトリと化す訳だ。

それでも家族関係がしっかりしていればまだ救われるだろうが、家に帰ってまで妻や子どもにつつかれたらそれはたまらない筈だ。耐えられるものではない。そうならない為にも家族との絆を過信してはいけない。今一度見直しては如何であろう。

 

リストラうつ病

リストラうつ病の3タイプ

うつ病は3つのタイプに分類できる。第一のタイプは実際にリストラされた精神的なショックによって半ば自己喪失の状態となり、人生に絶望してしまう。

第二はいつリストラされるかも知れないという不安からうつ病になるケースである。ちょっとした失敗でも不安になりやがては心のバランスを崩してしまう。

第三には周囲の人が次々とリストラされる事によって辞めた人の分まで仕事が回ってくる事でオーバーワークとなりストレスが溜まってくる事による。揚げ足を取られる事を恐れて同僚に弱音を吐くことさえはばかれるようになる。じょじょに心が閉ざされていきやがてうつ病に行き着いてしまう。

 

失格者というレッテルを貼る資格は誰にもない

リストラうつ病が増加している背景にはいじめの構造が根底にある。苦しんでいる同僚を見ても哀れむどころか喜びを感じたりする。

ある会社が能力が低いと判断した一割の社員には仕事を与えない事を決定した。会社へ行っても仕事がないという事は、周りで見ている人の想像以上につらい事である。結局その人たちは辞めざるを得なくなって自主退社していく。

この会社の経営者はそれだけでは済まさなかった。無能な一割の社員に仕事を与えない事によって辞めさせたと公言したのだった。世間は無能とレッテルを貼られた人を再び雇う事はない。せっかく再就職が決りかけた人も絶望の道を歩まされる事になる。

一人の人格ある人間に無能のレッテルを貼る権利がいったい誰にあると言うのか。

 

相手が出来ないと解っていながら仕事を押し付けては自分優位の快感を得る光景をしばしば見ることがある。 相手はそれを拒否できない立場にあるが故に、「はい」と言って引き受けてしまうのだ。出来ないからいじめられる。いじめられるから拒否できない、そんな固定的な悪循環の構造がここにはある。 出来ない人はやがて自分に能力がないと思い込んでしまい、この関係は益々固定化されていく。 日常的に見られる光景である。 どちらかがこのいじめの構造とその理屈に気がついて決別しない限りこの関係が終わる事はない。     たかあき

 

いじめられる人の傾向と対策

どんな人がいじめにあいやすいか

社内でいじめにあいやすい人には二つのパターンがある。一つは反撃をしない人たちだ。逆に反撃する人には、支配の快感に見合わない労力を要する事からいじめにあいにくい。リストラでも反撃しない人が選ばれやすい。説得の労力がいらないからでいじめと共通する。

もう一つのパターンは何かが目立つ人間である。営業成績がずば抜けていいというのもいじめの対象となりやすい。日本人にありがちな横並び意識とデキる者に対する嫉妬心がいじめの矛先を目立つ人にむける。ほんの少しのミスでも大げさに騒ぎたてたり、その人がわざとミスを犯すように画策する。 非常に優秀だった人が突然「なんだ優秀に見えていたのはただのメッキだった、剥がれればなんの事はない」と言われてペテン師扱いされたりする。やがていじめを画策した人以外の周りの人までが相手にしなくなり、そしてうつ病へと進行してしまう。

会社や周囲の人との間に距離を置く

いじめからの脱却を考える時、その第一歩は「自分はどうせこういうタイプ」と思わない事である。いじめられているという事は、相手のペースに呑み込まれていると言う事だ。こんな時は集団との間に距離をおいてみる事が効果的である。そして関係を冷静に見てみよう。固定的な関係に決別するチャンスが到来するはずだ。

 

勝てるチャンスをみて喧嘩を吹っかける

集団とある程度の距離を置くことが出来たら、次はチャンスを見て喧嘩をする事だ。偉そうに指示を出している人は順位の確認の為にそうやっている。この力関係を変えるには喧嘩が効果的である。ただし冷静に100%勝てるチャンスを選んだ上で勝負に出るべきだ。勝てるチャンスは必ずある。取りあえず一度だけでよい。一度でも勝てば固定的な関係は一変する筈だ。

一度で済むかどうかは関係が固定化されていた期間による。 長く続いていた関係では習慣化されている為に相手にその気があっても習慣として順位確認の儀式が表にでてくる事が多い。そんな時は粘り強く関係が変わるまで戦う必要がある。  たかあき

 

社内いじめの二つめのパターンは私にも強烈な経験として深く印象に残っている。他人事ではない。もう15年も前の事だが、私はLSIの設計インフラ構築とその標準プロセス化で先頭にたって仕事をしていた。それまで乱立していた設計手法、そして設計タイプ毎にある多種多様な製造プロセスのメンテナンスと多様な開発要求が限られた開発資源を著しく分散していた事を知っていた。 私はこのあまりの非効率さに危機感を持って改革の推進を決意していた。 私は製造プロセスからトランジスタデザインそしてディジタルからアナログまでの回路技術そしてそのアプリケーション技術に通じていた。 だからそれぞれの設計手法や製造プロセスが何故必要なのかあるいは必要ないのかを理解していた。しかしその当事者達は自分の手法、自分のプロセスに固執しプライドさえ持っていた。 それ故にそれまで誰もこれらを効率よくまとめて標準化しようとした者はいなかったのだった。 私は基本となるメインプロセスを設定して特殊な要求にはオプションを用意する階層的かつ長期的なロードマップを用意して彼らの多様なニーズに答えられる事を説得して回った。 多様なニーズに効率よく先手をとって対応していく事に誰も異論はない。しかし、この納得には自分のなにかを放棄しなくてはいけない無念さがしこりとして心に残っていたのかもしれない。有限のリソースのなかで誰に対してもよい顔をすれば誰に対してもろくな結果を生む事は出来ない。

一方、我々の開発パワーを特定のグループの為だけに使おうと画策する輩も出てきた。 私はこういう輩をしりぞけようとしたがそれは上司の一人であった為に結局私はこの仕事から追われ本社のR&Dプランニングの部署へ行く事となった。1年間の社内留学で見識を深めるという名目だった。そこまではまだ良かったのだが、1年後に元の部署へもどって見て愕然としてしまう。それは私がいない間になんと私が極悪非道な人間に祭り上げられていたからだった。私が信頼していた上司からさえ、「おまえはとんでもないやつだから当分仕事をさせられない、机に座って充電していなさい」と宣告されたのだった。 私は目の前が真っ暗になり、涙さえ込み上げてきた。「どこがどうとんでもないのか具体的に教えて欲しい」と懇願しても、それは言えないとさえぎられるだけだった。他の何人かの管理職からも判を押したように同じ言葉が返ってきた。 そして私がLSIインフラの標準化の必要性と実現性を議論して説得してきた人の多くは唾を吐き捨てる様な態度をとった。 かっての部下達の何人かも目線をそらしてくる。愕然とした。

幸い私がレールを敷いたLSIインフラ整備の長期計画はある程度軌道に乗っていて標準プロセスの概念も当たり前の様に根付いていたのが大きな救いであった。そしてなにより、信頼できる友人達が私を激励し支えてくれた事が嬉しかった。もつべきものは友達だと言うが、ほんとうに身にしみてこの言葉をかみしめていた。今から思えばうつ病が進行していても不思議ではない状況だった。 その別れ目は話せる友人の存在だったと思う。ありがたいものだ。 私はこの時の出来事を恨んではいない。むしろ「めったに経験出来ない貴重な体験」としてその後の生き方に深みさえもたらしたと考えている。この時を起点に私の新たな出発が始まったのだから。

たかあき

 

第3章 病理社会といじめの関係

過労死をする人

「アレキシシミア」から「心身症」へ

過労死をする人に共通する事は、責任感が強く真面目だという事である。会社にうまく適応し、そして出世していく。一見うつ病とは無縁に見える人がある日突然、病に倒れたり命を落としたりする。こういう人たちは自分の感情を抑えて上司に一生懸命仕える。しかしその間にストレスがじわりじわりと心身をむしばんでいく訳だ。この仕組みをアメリカの精神科医、シフォニオスは「アレキシシミア(自己感情読み取り不能症・失感情症)」と呼んだ。これが進むと心身症へと発展する。社会への適応は必要な事ではあるがストレスを生む。健康の為には程ほどにしたほうがよいという事だ。

過剰適応がもたらす弊害

組織に適応しすぎる事による病理は「過剰適応症候群」と呼ばれる。その中でも有名なのが「日曜神経症」である。 休日に家にいても落ちつかない。そしてたいして仕事がないのに会社へ出て行ってしまう。そんな経験をした人は少なくないはずだ。へたをすれば仕事熱心では済まない。何かのきっかけでうつ病になる危険性をもっているからだ。もし日曜神経症の自覚があるなら会社や仕事との距離をもっととるべきである。

過剰に適応して成功を収める為に自己を形成することを「性格防衛」と呼ぶが、それは成功の代償として心身に異常をきたす事を覚えておいてほしい。

 

女のいじめはなぜ陰湿なのか

男の行動はイヌ型、女はネコ型

男と女では嫉妬心の質が違う

女性のいじめが陰湿化する原因に嫉妬心がある。嫉妬心は男性にもあるが質が違う。夫が浮気をすると、今まで自分の家に獲物を運んできてくれていたのに、突然他の女のところへ獲物を運ぶようになる。獲物を運ぶ夫は絶対に取り戻さなくてはいけない。死活問題である。この様に女の嫉妬には、今あるものを守ろうとする特徴がある。

一方男の嫉妬は子孫を沢山残せるモテル(女性を沢山囲える)同姓に向けられる。権力への嫉妬もルーツは同じと言える。

 

幼児虐待といういじめ

幼児虐待は今に始まった事ではない

女性の犯罪率は男性の約十分の一と言われているが、放火と殺人だけが男性のそれと接近している。女性が犯す殺人の標的のほとんどは家族、とりわけ子どもに向けられている。

育児ノイローゼからくるうつ病

母親が犯す幼児虐待や子殺しの大きな要因として育児ノイローゼからくるうつ病が上げられる。核家族は育児の経験者を不在にしたため、必然的に育児書などのマニュアルに頼る事が多くなる。そしてそのマニュアルから少しでも外れた結果を見て不安になる。この不安が膨れてくると、やがては母親として失格だと思い込み、しまいには生きる力を失ってしまう。母親は子どもとの一体感が強い故に、子どもを殺して自分も自殺を図る。

育児ノイローゼが幼児虐待につながる事も多いようだ。 母親に、この子は他の子より出来がいい筈だし、自分にはそう育てられる能力があるという思いがある時、問題を起こし易い。 要はプライドが高い母親と言える。こういう母親は自分が描いていた通りの子育てが出来ないと、その原因を子どもに求めてくる。 わが子への愛情が憎しみに変わりそして虐待が起こる。

同じ様な事が会社にもある。 自分が優秀なリーダだという思い入れがある上司は、仕事がうまく行かなかった時にその原因を部下に求める。 そして部下をなじる。よく出会う光景である。もっとありのままの自分を受け入れる事が必要なのだが。優秀でない自分を許容出来た時、人は本当に優秀になれる。このパラドクスを理解できれば家庭の中も、会社の中も、もっと健全になる筈だと思うのだが・・。   たかあき

 

おばあさんが死に急ぐ社会

70歳を過ぎての女性の自殺率は世界第三位

一般に女性の自殺率は男性の二分の一ないし三分の一と言われている。ところが日本では70歳を過ぎた女性の自殺が急増し男性のそれに近づいている。

かってのおばあさんは家庭の中を切り盛りし、嫁に家事やしきたりを教え、また孫が面倒をも見て家の中では大きな存在であった。しきたりが風化し、家事は家電製品が中心となるなどおばあさんの存在が薄くなってきた。つまり家庭のなかでおばあさんがリストラの運命にあっているとも言える。

一人暮らしより同居のほうが高い自殺率

核家族化の反省か、最近3世代で同居する傾向が増えている。たしかにそれは良い事かもしれないが、息子夫婦と同居しているおばあさんの方が一人暮らしをしているほうより明らかに自殺率が高い事を知ってほしい。なにがお互いにとってよい事なのか今一度考えなくてはならない。

 

気質といじめの関係

循環気質はいじめにあうと落ち込みやすい

ドイツの精神科医 E・クレッチマーの気質に関する学説は有名である。彼が行ったのは太り型、痩せ型、筋肉質型という三つの体系に関連付けた気質のぶんるいだった。

  太り型の体型の人は循環気質といって躁鬱の傾向をもっている。社交的で情緒的な人が多く、気分にもむらがあって躁と鬱の状態を行き来する。常に他人から相手にされていないと気がすまないこのタイプがいじめにあうとガックリと落ち込んでしまいがちである。

 

被害もうそうを抱きやすい分裂気質

痩せ型の人は内向的で理想主義的で孤独を好む傾向がある。過敏さと鈍感さを行き来する。また他人にあまり関心がないため、いじめにたいしてあまり動じない傾向もある。いじめがいがないためにいじめも自然消滅しやすい。ただ分裂気質の傾向がある為その敏感な部分が表に出ている時は要注意である。つまり他人に対して被害妄想的に過敏な状態に陥る事があるからだ。ちょっとした事を悪意にとらえ直訴をしたり外部に訴えたりする事がある。これが行き過ぎると分裂病に至る。

粘着気質は一気に爆発する

最後に筋肉質の人は粘り強く、苦労にも耐える力を持っている。それゆえに頑固で、その限界を超えると一気に怒りが爆発しやすい。言い返さないからと言ってナメていると一撃をくらう事になる。クレッチャーの学説を参考にしながら自分を改めてチェックする事は今後のプラスとなるに違いない。

 

強気型人間と弱気型人間

敵をつくりやすい強気型人間

人間が人前でとる態度には強気型、弱気型、勝気方3つのタイプがあるとされる。

強気型は、本当は気が弱く小心であるにも関わらず常に強気で高飛車な態度を取り勝ちであり似非強気型とも言い換えられる。こういう人間にたいしては仕返しにあうリスクが高いためいじめが起きにくい。しかしこんな似非強気型人間には敵が多い。今は言う事を聞いているが、いつか足をすくってやろうと考えている人たちが周りにいる。従ってこのタイプの人間が一度失敗すると、それに伴ういじめは露骨なものになりがちだ。

そして似非強気型人間に対するいじめには同情する人がいない悲惨さがある。

この手の人は高飛車な態度を取る事でいじめられる恐怖から逃れようとしているのだ。 自信のなさの裏返しと言える。 とんでもない人というよりは哀れな境遇にある人なのだ。 だって、内心はあなたからのいじめに怯えているのだから。そう思って暖かく接してあげよう。時間はかかるが事態はいずれ好転するはずだ。  たかあき

 

弱気型から“変身”する勝気型人間

一見強気型に見えて違うタイプに「勝気型人間」というのがある。もともとは弱気で神経質、自分の劣等感をバネにして生きている人間だ。彼らは人に負けまい、勝つべき人間だと思っている。強気型と違って脇の甘いところがなく陰湿である。上目使いに人を見上げていることが多い。自信がないぶん余裕もない。このタイプの人間がいじめる側に回ったら、相手を徹底的にたたきのめすことになる。逆にいじめられる立場になった場合は徹底的な被害者意識をもつ。

自分は優れた人間の筈だという思いが、失敗の原因が自分にあると認める事を拒否する。 失敗を成功に変える能力が育たない為にこういう人は真の成功を手にいれる事がない。失敗を自分の問題として受け入れる事が真の成功へと導くものだ。  たかあき

 

目立たぬことがいじめへの自己防衛手段

弱気型人間というのは、常にいじめられる危険にさらされている。小さい頃に何かのいじめに遭った事がトラウマとして残っている場合が多い。この手の人間は、いじめを楽しみとしている連中の格好のえじきとなりがちである。ただ、似非強気型人間と違って徹底的にいじめられるような事はない。なぜなら目立たないという自己防衛手段を身につけているからだ。

弱気型人間が気をつけるべき点は、「自分にも悪いところがある」と決して思わない事である。たまたまうまが合わないだけと思って欲しい。さもないと本当のいじめられ人間、ダメ人間として固定化されてしまうことになる。

いじめられっ子に罪はない

いじめられている生徒に対して、「いじめられているのは、お前にも悪いところがあるからだ、まずはお前の悪いところを直せ」と言うことが多いようだ。これには文部省の“いじめ防止マニュアル”が原因となっている。先生にこう言われた子どもこそ哀れである。自分に非がないのに反省させられるのだからたまらない。自己否定と無力感に襲われて不登校や自殺にまで発展する事にもなる。文部省はなんとも罪作りな事をしたものだ。いじめにあっても決して自分を否定してはいけない。

 

セルフエスティームの確立

セルフエスティームとは自分に自信を持って生きていく力のことを意味している。日本語では「自尊心」と訳される。人生の難局に直面しても屈しない強さでもある。ではどうやってこの力が育つかと言うと、両親とくに母親の愛情によって育まれるとされる。

比較をすれば欠点が目に付く

His Mother’s Son」という論文がある。「大統領や企業のTopなどに共通する特徴として、彼らの母親が熱烈な愛情をもって育てたという事だ」と記されていた。子どもを過保護に育ててはいけないと言われてきたが、この論文を読んでその定説を疑うようになった。

最近の母親をみると、“べき論”で子育てをする親が多い。情報の過多が“こどもはこうあるべき”“この年齢ではこうなるべき”と決め付ける。そして他人の子より優れた子になるべきだと比較ばかりする。こうなると目に付くのは自分の子の欠点である。だからお前はダメだという子育てではセルフエスティームは育たない。

 

男は愛嬌の時代

愛嬌はいじめ防止の切り札

愛嬌の要素は、楽天的な考え方と素直な心である。楽天的な人間をいじめても面白くない。いじめによって相手が落ち込んだり、悲観的になるからこそ快感が得られるのである。愛嬌とは、相手のいじわるい心をフワーッと受け止める能力といえ、いじめ防止の極意ではなかろうか。

 

 

危機意識の希薄な日本人

ジェラシックパーク・シンドローム

「ジェラシックパーク」というヒットした映画がある。恐竜を復活させたテーマパークが舞台となっている。ここでは恐竜と観客との間に高電圧が印加されたフェンスがあって仕切られている。恐竜が人間を襲わないのはこのフェンスのおかげである。

人間の欲望という恐竜にもフェンスが必要なのではなかろうか。ところが日本は平和ボケの状態にある。相変わらず安全と水はタダだと思い込んでいる人が多い。日本に蔓延するこの危機感のなさを私は「ジェラシックパーク・シンドローム」と呼んでいる。

いじめや少年非行に対しても、しっかりしたフェンスを作らなければならない。快感をともなういじめに対し、なんらのフェンスも無ければいじめは増殖するに違いない。

「修身」の重要性を見直すとき

刑罰や警察力は具体的なフェンスとして存在している。さらに教育という精神的なフェンスを築く事も重要である。今の日本に欠けているのがこの精神的なフェンスであるとも言える。日本は敗戦によって、学校教育から「修身」が消えた。この徳目教育をなくした事が、いじめの増殖に大きく影響していると私は見ている。

小学生に頭ごなしにでも「いじめは絶対に許されない」と叩き込むほうがよいのではなかろうか。まずは話あいの出発点となる基準を作ってやる事が必要なのだ。

正義を信じなくて何を信じるのか

大人が正義を信じなくなれば子どももそれに価値を見出せなくなるのは当然のことである。戦後の民主化と民主教育は「正義」という言葉を空虚なものにしてきた。「強きをくじき、弱きを助ける」、この倫理感を今一度教えるべきではないか。

今のテレビを見るにつけ、弱い者をバカにし、いじめることで笑いをとっている芸人のなんと多いことか。それを見ている子ども達はどうなるのだろうか。今の日本はこういう下品な社会に成り下がっている。いじめという恐竜がフェンスを乗り越えて人々を襲っているのだ。

 

「正義」とはとても相対的な概念であって、時と場所が変われば変化する。 正義と言う名のもとに戦争や侵略が正当化されてきた事も多い。私はもともと「正義」という言葉事態が空虚なものだったという事を支持する。

テレビのお笑い番組やトークショーがいじめを助長している場合が多々ある事については全く同感である。弱い者を探してはバカにする等は卑劣で下劣な行為である。身の周りで見るいじめにもテレビの影響を感じる事が少なからずある。テレビ局にもっと抗議しようではないか。   たかあき

 

 

 

第4章 日本人の心の深層

 

協調性と個性との矛盾

個性化とは逆方向にある教育現場

現代は個性の時代などと言われ、教育現場でも個性重視がうたわれている。しかし実情は矛盾に満ちている。給食でも、出されたものは全部食べる事、時間内に食べる事等を強要する。食事は人間の基本的な本能に関わることであって無理やり食べさせられるというのは苦痛にちがいない。この強制はいじめを生みだすこともある。好き嫌いの多い子、食べるのが遅い子がいじめの対象となることがある。強調性という名のもとに異質をあぶり出しているのだ。

こういう教育を受けた子どもは、他人と違う事を非常に恐れ、みんなと同じにしていなくてはいけないと思い込むようになる。個性化とは逆行していると言える。

没個性化の原因は価値観の単一化と画一化

没個性化を招いた原因は、一方的な価値観のおしつけにある。明るくハキハキしているのが個性なら、引っ込み思案で泣き虫というのも個性のはずだ。この両方を認めてこそ個性の尊重といえる。現実には後者はだめとされる。

ひところ「根クラ」「根アカ」の言葉が流行した。そして何時のまにか「根アカ」がよくて「根クラ」な人間はダメだという価値観を作り上げてしまった。根クラと称される人たちには思慮深さや真面目さといった長所がたくさんある。にも係わらず、根クラと決め付けられてその長所までが否定されてしまった。そして根クラなやつはダメだと言う、メディアが作り上げた価値観が、今の若者達を「どこか表面的で空虚なバカ騒ぎ」に駆り立てているのではないだろうか。

マジメ人間がバカにされる社会

これまでコツコツと働いてきた中高年サラリーマン。そんな人たちが若者たちの笑いの種になっている。何故バカにされなくてはいけないのか?

 

私も中年サラリーマンの一人である。 遊び仲間の若者に「・・おやじ」とか「・・じじい」とか言われる事がたまにある。そんな時、私は彼らにきっぱり言うことにしている「おやじとかじじいは差別用語であって許さない」と。なんとも浅はかなテレビの影響のように思えて腹がたつものだ。はっきりと抗議しようではないか。  たかあき

 

ダメ人間をつくりだす社会

間違いだらけの育児がいじめの温床

何気ない大人の場当たり的で矛盾した言動が子どもの不信感と分裂気質を醸成する事を忘れてはならない。

「お前はダメな子だね」という一言も子どもを追い詰める。悪い事をした時には「そういうことをしていけない」というべきなのだ。物事の善悪を教えるのがしつけであって「ダメな子」だと叱るのはしつけではない。小さい頃から「ダメな子」のイメージを植え付けるといじめを引き込む性格を形成してしまうことになる。

「ダメ社員」との烙印を押すのも明らかないじめ

失敗をしない人間などどこにもいない。部下が失敗をしたときにはあくまでもその仕事の進め方だけを叱るべきである。それなのに「こんな失敗をするようなお前はダメな奴だ」と言う上司がなんとも多い。客観的に人を評価するシステムがない為に主観が多分に入る。感情的に「出来る社員」と「ダメ社員」を分けてしまいがちとなる。そして同じ失敗をしても「出来る社員」には寛大で「ダメ社員」に対しては徹底的に叱責し人格まで攻撃する。これはもういじめである。

ダメ人間などこの世にいない。また生まれたそのときからいじめられる運命にある人間もいない。いじめ社会が作り上げたものにすぎないのである。一人の人格ある人間を「ダメ」にしてしまう事が許されてよいものか。

椅子が地位を物語るという不思議

現代の日本企業は、社長を頂点として、経営陣、中間管理職、一般社員と続くピラミッド型社会である。順位の逆転があり得る不安から、上位の者は下位の者に対して常に順位を確認しようとする。上位にいくほど椅子が立派になる慣習は、順位を誇示し確認するためのものなのだ。わざわざムダと思われるほどの大きな椅子に小さな身体を沈め、必要以上に横柄な態度をとる人は、要するに順位が逆転される事を恐れているのである。

順位性にあぐらをかいていると足下をすくわれる

 

アメリカのいじめ・日本のいじめ

いじめが尾を引かないアメリカ

アメリカは基本的に転職社会である。会社を変わりながらスキルを磨き、ステップアップしていく。したがって自分のスキルに自信さえあれば、上司とぶつかってクビにされたところでどうという事はない。逆に理不尽ないじめを受けるくらいなら会社を辞めて次を探せばよいわけだ。こういう社会構造の中では、いじめが長く尾を引くことはない。

安心感も得られるが陰険さも漂う体質

日本の場合、職務での上下関係が人間関係そのものにも及んでいる。飲みに行っても、遊びに行ってもこの関係が付きまとう。このような社会には一体感のようなある種の安心感があると同時に、陰険な利害関係が渦巻くものでもある。

 

「釣りバカ日誌」への憧れ

いじめなど“どこ吹く風”という主人公

「釣りバカ日誌」という漫画の主人公はグータラな万年平社員だ。上司には毎日のように怒られている。しかし本人はいたってのんきで出世にも一切興味がない。そんな主人公が命をかける場面が釣りなのだ。主人公の一番の釣り友達が自分の会社の社長である。会社では社長として君臨しているが、釣りの勝負ではいつもグータラ社員である主人公が勝つ。この単純なストーリーが何故サラリーマンにうけるのか? 主人公の飄々とした態度は、上司の叱責やいじめに対してもどこ吹く風と流している。こういう事をやりたくても現実には出来ないサラリーマン達にとって、主人公は憧れの対象なのだ。

仲間ハズレになるのが怖い会社人間

ただ出世を諦め、お気楽に生きようと思えば誰にでも出来るかも知れない。しかしこの主人公はただのお気楽だけではない。釣りという他人に負けない武器がある。この釣りこそが彼の座標軸なのだ。

サラリーマンとして会社にどっぷりとつかっていると、仕事で評価される事が喜びとなる。仕事一筋の、会社を座標軸とした生き方で本当によいのだろうか。会社以外の座標軸をもてないのは何故か。それは、座標軸を変える事が怖いからである。人間関係を変えるという事に不安を覚えるのだ。

主人公には釣り仲間という座標軸を共有できる人たちがいる。基本的に利害関係がないわけだからいじめもない。自由で上下関係のない世界がそこにはある。この自由でここちよい世界への憧れがサラリーマンにあるのだろう。

思い切って人生の座標軸を変えてみる

これまでの座標軸を変えてみてはどうだろう。趣味でもいい。さもなければ80歳になっても相変わらず元上司にいじめられ続けることになりかねない。

私はこの十数年アウトドアの遊びに熱中してきた。春夏秋にはカヤックを、冬にはテレマークスキーをやっている。仕事で疲れた頭は川と山で癒し、川や山で疲れた身体は会社で癒す週間サイクルを続けている。遊びの仲間に会社の人は一人もいない。意識してそうしている。会社内の関係を遊びにまで持ち込みたくないからだ。おかげで超健康な毎日を送っている。

遊びの仲間同士でいじめがないかというと、やはり集団である以上いじめが存在する。私には上下関係のない社会が心地よい。大企業の専務であろうが新入社員であろうが同じ目線の高さで話が出来る自分がとても嬉しい。しかし上下関係のない世界である筈の遊びにおいても、集団の中で順位を競う行為が日常的に存在する。最初は冗談を装って揺さぶりをかけてくる。それでひるめば相手優位の第1敗となる。適当に撃退していかないと、この手の揺さぶりはエスカレートして順位を固定化する方向に向かう。別に偉そうにしたい訳ではないが、偉そうにばかりされて卑屈になるのではこちらも参ってしまいかねない。だから適当に撃退する訳だ。

たかあき

 

恥をなくした日本人

薄れつつある「世間体」というタガ

「恥」にかわるものは「法律」しかない

 

おわり