1946年12月16日、ベニー・アンダーソンはストックホルムに誕生した。元々ベニーの両親は音楽好きで、楽器に興味を示す幼いベニーに、アコーディオンやピアノのなど楽器を買い与え、ベニーも驚位的な早さでそれらをマスターしていったという。「両親は驚くほど音楽に理解があり、本当に楽器ならなんでも買ってくれたんですよ」と笑顔でベニーは語る。大手の会社で建築技師としては働く父親は、ベニーにも同じ様な仕事につかせようと思っていたらしく、いったんはベニーも本気で勉強に励むのだったが、一向に学問の成績は上がらず、ついに15歳の時に中退してしまう。学校を中退し、この先どうしたらいいのか戸惑っていたベニーだが、まさかこの先、自分が音楽で生計を立てようなどとは、本人も両親も夢にも思っていなかったと言う。とはいえ、音楽が好きでたまらなっかたベニーも、ついにアマチュアバンドに加わる事になり、一応の音楽活動らしきものが始まる。

 家から遠くにあったクラブで、はした金でピアノを弾いていたベニーだが、そのクラブである男と知り会う事になる。スヴェンネ・ヘドルンド。後にスウェーデンのビートルズなどと評価されるヘップ・スターズのボーカリストである。スヴェンネは当時を楽しそうに振り返る。「確かに、ベニーは腕のいいキーボーディストだったが、その短い髪といい、きちんとしたネクタイといい、まるでロックをやるような男には見えなかったぜ」と笑って言う。しかし、そんなことはどうでも良かった。スヴェンネは、才能豊かなベニーのプレイに惚れてしまい、強くバンド加入をせまった。ベニーの方も、いつまでも芽のでない今のバンドにいる意味はなく、むしろシングル1枚をリリースしているヘップ・スターズに入ることの方が、自分にとって得策であることを悟ったのは言うまでもない。

 その後、まさしくベニーは幸運の使者そのものになってしまった。最初に録音した曲である「キャディラック」、「ファーマー・ジョン」、「ア・トリビュート・トゥー・バディ・ホリー」は、それぞれスウェーデン国内でいきなり1、2、4位を獲得することになったのだ。元々、これらの曲は彼等が書いたものではないが、ベニーの卓越したアレンジなくしては、このような成功は収められなかったであろう。実質的に彼等のオリジナル作品として最初に大ヒットしたのは「サニー・ガール」という曲である。この時の喜びをベニーは語る。「本当に嬉しかったよ、そして確信したんだ、なんとかこの世界でやっていけるんじゃないのかとね」1965年あたりになると、ヘップ・スターズの人気は普通でないものになっていた。超満員のコンサート会場は女の子だらけで、すこしハニカミ屋のベニーは、スヴェンネと人気を分けるほど女の子の注目になっていた。

 本当の意味で、スウェーデン最高のロックバンドとなったヘップスターズだが、その代償として、ベニーにとってとてもつらいことが起きてしまう。それは、学生時代に知り合ったクリスチーナ・グレンヴェルとの別れだった。結婚はしていなかったものの、すでに二人の間には子供が生まれており、ハードなバンド活動以来、まともに逢うことすらできななくなっていたのである。又、嫉妬からくる女性ファン達の不当なクリスチーナ攻撃もあり、別離は自然の成り行きだった。「残念だったけど、本当に電話一本でぼくらの関係は終わったんだ」と無表情にベニーは語った。


注意1)この文は【原書】ABBA(Harry Edgington and Peter Himmelstrand著)【訳書】アバ世界の恋人たち(山本沙由理訳)及び、かまち 潤さんのアバ年表を参考文献として書かれたものです。

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