1969年。ビヨルンとベニーは時を同じくして、二人の女性と運命的な出会いをすることにる。ベニーがヘップスターズ脱退直前、ツアー先のホテルのバーで偶然にもアンニフリッド・リングタッド(もちろん、アバのボーカルことフリーダ)と出会うことになる。二人ともスウェーデンでは名声を獲得したアーティストであるが、落ち合うのは初めてのことだった。「もちろん彼女のことは知っていたよ、本当に素敵な女性だった。フリーダの方もヘップスターズの大ファンだったんで話しが弾んだんだ」二人はその後、偶然にもラジオのクイズ番組で共演し、急速に親しくなっていく。一方のビヨルンもこの時期、アグネッタ自ら担当していたテレビ番組のゲストとして招かれることになる。ビヨルンはアグネッタに初めて会った感想を次ぎのように述べている。「恥ずかしいけど、本当に一目惚れだったんだ。美しいブロンド、美しいソプラノ、気が付いた時には、彼女に打ち明けていたんだ」一方、アグネッタの方は「初対面だったので、正直言って戸惑ったわ。でも、話し込んでいく内に彼の芸術性の高さと、音楽に対する情熱に惹かれていったの」と二人の恋も意外なまでに進展していく。それにしても、この運命的な出会いを果たした二組の男女が、後に世界の音楽シーンをリードしていくグループに変身するなどとは、まさしく、神のみが知ることであった。

 1970年。アグネッタとビヨルンが結婚。意外にもフリーダとベニーの関係は進展なし。しかし、この頃から4人は小さいセッションを行い始める。

 1971年。ビヨルン&ベニーのデビュー・アルバム「LYKCA」が発売されるが、これは完全な不発に終わってしまう。(このアルバムの収録曲「ヘイ・ギャブレ・マン」という曲で、彼等は初めてアグネッタ、フリーダをレコーディングに参加させている。スティグはレコード契約上の問題から彼女らを参加させることには大反対だったのだが)又この年、アグネッタがミュージカル”ジーザス・クライスト・スーパースター”のマリア役に抜擢され、好評を博している。

 1972年。ファースト・アルバムの不振に肩を落としていたビヨルンとベニーだが、意外な所から幸運が訪れる。この年に発売されたシングル、「木枯らしの少女」は日本で50万牧を売る大ヒットとなり、一時的といえども、彼等に経済的な余裕と自信をもたらすことになる。そして、これが元で彼等は、日本で行われた世界歌謡際に招待されるこになるのだが、そこで歌った「サンタ・ローザ」という曲の出来がいまひとつで、ビヨルンもベニーも「あまり思い出したくないね」と苦笑いで答えた。

 ビヨルン、ベニー、アグネッタ、フリーダは4人でチームを組むことに自信を持っていた。それはお互いの音楽性を強く信じ合っていたからに他ならない。4人は決意を固め、「ピープル・ニード・ラブ」という曲をレコーディングすることになる。このことは、二人の女性を単なるバック・ボーカリストではなく、正式なメンバーとして扱うということを意味している。初めスティグは、ビヨルン&ベニーの名目でこの曲を発売する予定だったのだが、ビヨルンとベニーはアグネッタとフリーダの名をクレジットするように強くスティグに申しでた。(前年、アグネッタのレコーディングにビヨルンが参加した際、ポーラーとCBSの間に契約上のトラブルが発生していたので、彼は非常に神経質になっていたのだ)結局このシングルは、ビヨルン&ベニー、アグネッタ&アンニ・フリッドのクレジットで発売され、スウェーデン国内で17位まで昇るスマッシュ・ヒットとなった。この当時、まだアバの名前は生まれていなかったが、実質的にはこれがアバのファースト・シングルであると言うことは、ファンならば誰しもが認める事である。第2段目のシングルとして「ロックン・ロール・バンド」が発売されたが、この曲は完全な失敗に終わる。

 1973年。この年、彼等が4人編成のグループを組んで、初のビッグ・ヒットが生まれる。それが第3段シングルの「リング・リング」という曲だ。スウェーデン国内で1位を記録し、ヨーロッパ各国でもベスト10入る大ヒットになった。(ヨーロッパで最もアバ熱が高いと言われたイギリスで、この記念すべき曲が無視されたというのはなんとも皮肉なことだが)初の大ヒットを受けてスティグは、スウェーデン人の呼びにくい名前を解消する為に、彼等の頭文字をとってABBAというグループ名を付けた。アグネッタが笑いながら話す。「スウェーデンにはABBAという水産会社があるの、だから、スウェーデン人にとっては余りセンスのないグループ名に感じたんじゃないかしら、なにはともあれ、この会社の許可をとらなければならなかったの」(一説にはBABAという名も候補に上がったようだが、日本人からすればこちらのほうがひどいのでは!)会社の方も戸惑いはしたが、彼等の活躍に乗じて許可を出すことになった。事実、おつりがくるほどこの会社が有名になったのはいうまでもないことだが。さて、大ヒットを記録した「リング・リング」は、この年のユーロビジョン・ソング・コンテスト(ヨーロッパ最大の歌謡祭)の参加曲として採用されることになる。アバにとってこれはとても重要なことであった。ビヨルンは語る。「この歌謡祭は数億人のヨーロッパ人が見るんだ。そこで優勝すれば世界に僕達の名を知ってもらえる。というよりこれが世界進出の唯一の道だったんだ。当時、アメリカのレコード会社にテープを送って見たところで、すぐにゴミ箱行きだよ、特にスウェーデン人なんて過去に偉大な大作曲家がいるかい?むしろ、グリーグやシベリウスを排出しているノルウェー人やフィンランド人のほうが音楽と結びつきやすいだろう?」残念ながらこの曲は予選落ちに終わってしまうことになるが、彼等の野望はこれで終わった訳ではなかった。「僕らは優勝を信じていたが、審査委員の連中らは、僕らのコマーシャリズムが鼻についたようだった。でも一般大衆の反響が凄かったんで、思ったより落ち込まなかった。というよりも、成功の道はまだ閉ざされていないことを確信したんだ」

 1974年。この年、ついに彼等の希望が叶えられることになる。アバとクレジットされた初のシングル「ウォータールー」が、この年行われたユーロビジョン・ソング・コンテストのグランプリ曲となったのだ。実はメンバーとスティッグ・アンダーソンは、この出場曲の選曲にあたっては非常に迷っていた。前年と同じ様な曲調イメージではまた鼻つまみにされてしまうのではないかと?むしろ他の候補曲「落ち葉のメロディ」のような落ち着いたイメージを売り込んだほうがいいのではないかと?ビヨルンが当時を語る。「確かに迷いはあった、しかし、僕らは自分達にうそをつけなかった。本当にやりたいことをやらなければ真のアーティストじゃないだろう?”ウォータールー”この曲じゃなければ優勝しなかったさ、この曲じゃなければ世紀のアバは存在しなかったのさ」このグランプリ曲である「ウォータールー」は、全世界34ヵ国で発売され、ほとんどのヨーロッパ各国で1位を獲得。アメリカでもビルボード誌でベスト6に入るという快挙を成し遂げ、グループの人気を決定付ける初の世界的大ヒット曲となった。(意外だが日本でこの曲は、セカンドシングルとして発売された。ファーストシングルは「アイ・アム・ア・ジャスト・ガール」)アバは国内において24時間、マスコミの注目の的になったのは言うまでもないことだが、中にはアバの実力を怪しむ声もあった。と言うのも、過去の優勝者の中で世界的な人気を維持できたアーティストというのは、ほんの一握りの存在でしかなかったのである。(代表的なアーティストを挙げるなら、クリフ・リチャード、フリオ・イグレシアス、オリビア・ニュートン・ジョン、セリーヌ・ディオンといったところだが、アバと同じ大会に参加していたイギリス代表のオリビア・ニュートン・ジョンは、優勝候補に挙げられながらも4位に終わってしまう。優勝できなかった彼女はかなり不満顔だったらしいが)「確かに、ヨーロッパ最大の歌謡祭かもしれないけれど、スウェーデン国内では、イギリス、アメリカ以外のグループなんて一発でさよならさ、という空気があったのも事実なんだ。我々スウェーデン人から世界に通用するアーティストが出るなんて、まったく半信半疑だったのさ」一躍、人気グループの仲間入りを果たしたアバはこの後、セカンドアルバム「ウォータールー」をリリース。それにともない本格的なヨーロッパ・ツアーに出ることになる。

 1975年。「やっぱりな」こんな言葉がマスコミで囁かれるようになっていた。「ウォータールー」に続くシングル、「ハニー・ハニー」、「ソー・ロング」、「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」の反応が期待はずれに終わってしまったのだ。もちろん、一部の国(オーストラリア、オランダ)ではそれなりの成功を収めていたのだが、マスコミはもうアバが落ちることはあっても、昇っていくことはないと見切りをつけていた。スウェーデンの有力紙タゲンス・ニューエターなどは、アルバム「ウォータールー」を、「色々な曲を切り抜いてきた恥じ晒しなアルバム」などと酷評した。「そりゃー、世の中甘くはないと考えてはいたさ、でもマスコミほど我々は落ち込んでいなかった。なぜかって?それは自分達の可能性がもっと高い所にあることを自ら認識していたからさ」とベニーは語った。考えてみればこのマスコミの陰悪ともとれるアバ叩きも、半ば彼等に期待していたが故に行われたものだったのかもしれない。もちろん、ここで言うマスコミとはスウェーデンのマスコミのことだが。しかし、このような悲観的な噂を吹き飛ばすようなビッグ・ヒットがついに生まれることになる。この年の夏に発売されたシングル「SOS」だ。この曲は、ヨーロッパ各国で1位を獲得、アメリカでもベス10に入る好成績を挙げたのだ。「この曲で全てが動き出したんだよ。もう、アバが一発屋でないことを証明できたんだ」このビヨルンの見解は正しかった。その後に発売されたシングル「ママ・ミア」も、「SOS」に匹敵するくらいの大成功を収めることになったのだ。又、これらの曲を収めたサードアルバムである「ABBA」や、初のベストアルバムとなる「グレイテスト・ヒッツ」も多くのヨーロッパでベスト・セラー・アルバム(このアルバムは、イギリスのアルバム・チャートで初のトップ・アルバムに輝いた)となり、それまでアバに対して冷ややかだったイギリスのマスコミ達も、彼等が並みのアーティストでないことを認めるざる得なくなっていたのだ。そればかりかこの先、余りなじみのなかったスウェーデン人の若者に、心を奪われ続けることになろうとは、まったく予想していなかったに違いない。このことは、アバとっても多いにプラスだった。ビートルズを生んポップス大国イギリス。この国のマスコミに認められるということは、その他(アメリカは別だが)の国での評価より数倍も数十倍も価値のあることは、当時のどんな音楽アーティストも認識していたことなのだから。問題はアメリカだった。もちろん、「SOS」やそれを収めたアルバム「ABBA」もアメリカにおいて満足の行くセールスを上げていた。しかし、爆発的なヨーロッパでの成功と比べればやはり見劣りするものがあった。このギャップを完全主義者であるスティグ・アンダーソンが放っておく訳はなく、彼は早速、アバをアメリカプロモーションツアーに送り出し、マイク・ダグラス・ショー、ディック・クラーク・ショーなど、アメリカのメジャーなテレビ番組に出演させることになる。


注意1)この文は【原書】ABBA(Harry Edgington and Peter Himmelstrand著)【訳書】アバ世界の恋人たち(山本沙由理訳)及び、かまち 潤さんのアバ年表を参考文献として書かれたものです。

注意2)このページはターゲットフレームを適用しています。読み終わったらウインドウを閉じてください。


TOP PAGE
注意)このサイトに掲載されたABBA(アバ)画像の権利は全てユニバーサル・インターナショナル及びポーラーに帰属します。
(All rights on ABBA's pictures in this site belongs to Universal international and Polar)