1979年。ファンとっては衝撃的なニュースが飛び込む。ビヨルンとアグネッタの離婚だ。理由は仕事と家庭に対する意見の食い違いだった。アグネッタはアバというスーパー・グループのシンガーであると同時に、2児の母親でもあったのだ。「もうアバにはうんざり、これ以上の成功なんていらないわ」とアグネッタが語る一方、ビヨルンの方は、「とにかくアバにとっては大事な時期だった。まだまだやり残したことがぼくらにはあると思っていた」と真っ向からの対立だった。テレビで撮られていようとも、一目をはばからずキスをしていたくらいの二人だったが、アバの存在はあまりにも大きくなりすぎてしまった。アバをとるのか?アグネッタとの生活をとるのか?ビヨルンは究極の選択の末、前者を選んでしまった。

 待望のニューアルバム「ヴーレ・ヴー」発売。イギリスを含む殆どのヨーロッパでナンバー1を記録。このアルバムからは数々のヒット曲が生まれているが、残念なことにイギリスチャートにおいては、ナンバー1ヒット曲を出すことが出来なかった。アバ中期の名曲とされる「チキチータ」が、どうしてもブロンディの「ハート・オブ・グラス」に勝てなかったのだ。おもしろい事にやはりこのアルバムからシングルカットされた「エンジェル・アイズ」。実はこの頃、イギリスのロックバンド、ロキシー・ミュージックも同名タイトルのシングル曲をリリースしていたのだ。イギリスにおいて、チャート争い演じていたこの2曲に泣かされたのがラジオのDJ達。間違えてアーティスト名を取り違えるなど、宣伝上、重大な問題を起こしていた(しばしばこのような問題は訴訟ざたになるものだが、そこはお互い紳士のグループ。この年、スイスのチャリティー・コンサートで共演したこともあって、大きな問題にはならなかった)。又この年、ポップスファンにとっては忘れられないイベントが開催されている。国連本会議場で開かれたチャリティー・コンサート<ミュージック・フォー・ユニセフ>である。このイベントにはアバの他に、オリビア・ニュートン・ジョン、アース・ウィンド&ファイヤー、ビー・ジーズ、ドナ・サマー、ロッド・スチアートなど、当時のポップスシーンを席巻していたアーティスト達が一同に揃うというまさに夢のようなイベントだった。これはNBCテレビを通じて全米に放送され、FM25局を通じて日本にもオン・エアーされた。ここでアバが演奏した曲は「チキチータ」。「チキチータ」は完全なチャリティー・ソングとして作られたもので、アバ中期の最高傑作と謳われている。

 アバ、おそらく最後のワールドツアーを13ヵ国37ヵ所で行う。当初マスコミの間では、アグネッタとビヨルンの離婚により、アバ解散は時間の問題とされていた。なによりアグネッタの精神的なダメージを考えれば、誰もがツアーなど行えないだろうと考えていたが、ビヨルンの強い説得もあり、予定通りのスケジュールが組まれる事になった。辛くとも彼女がファンの期待を裏切る事はなかったのである。一時、彼女が脱退した場合に備えて、スティグが新しいメンバーを捜しているというマスコミのデマが流れたが、こんな話はファン達を激怒させる以外なにものでもなかった。

 1980年。欧米各所で行われたアバのツアーは、日本で締めくくられることになる。これは日本武道館での6回公演を含め、日本各地で計11回というかなりハードなスケジュールとなった。又これは、彼等が初めて日本本土で開いたコンサートとなり、日本のアバファンにとっては、生のアバを見られる最初にして最後のチャンスとなった。

 さて、今まで欧米の活躍を順次述べてきたが、我々の国日本ではどのようにアバを見つめていたのだろうか?マネジャーのスティグが日本のマーケットをどう思っていたかは定かではないが、彼等の最大の目標は、ヨーロッパとアメリカの完全制覇であり、それこそが彼等の終着駅だったのは確かなことである。故に、それが彼等に出来る精一杯のことであり、スウェーデンから遥かに離れた日本でのプロモーション活動が後回しにされたのは当然のことだろう。しかし実質的に彼等は、レコードという媒体で日本の人々を十分に虜にしていたのは事実である。日本において、アルバム「アライバル」は、洋楽アルバム史の中でも空前の大ヒットを納め(最終的に日本で一番売れたレコードアルバムは、「グレイテスト・ヒッツ2」)、「ダンシング・クイーン」もあらゆるラジオ番組、音楽誌で1位を獲得した。アバの来日を記念して日本で作られたテレビ番組、「アバ・スペシャル」の日本での視聴率の高さを見れば、いかに日本のポップス・ファン達がアバの音楽を賞賛していたのかがお分かりいただけるであろう。多くのライバルがいる中、この爆発的な人気は彼等が解散する最後まで維持されることになる。だが当時、ディスコ・ブームの嵐が吹く中で、アバも単なるディスコ・グループの一員であるかのような評価を下す評論家がいたのは、本当に残念なことであった。宣言するが、アバの音楽こそ20世紀を代表するクロスオーバー・ミュージックなのである!

 この年にリリースされたアルバムは、アバのヒット曲をスペイン語で歌った「グラシアス・ポル・ラ・ム・シカ」と、ツアーの間を縫って約1年という時間をかけて作られた「スーパー・トゥルーパー」である。当初ビヨルンは、ライブ・アルバムの発売を匂わせていたが、我々がこのライブ・アルバムを耳にすることが出来るのは、実に6年後の1986年のことであった。しかし、この時すでにグループの存在は消滅しており、なぜこれほど後にライブ・アルバムが発売されることになったのかは、今もっての謎である。

 さて、彼等にとって10作目にあたるアルバム「スーパー・トゥルーパー」であるが、おそらくアバファンにとってどのアルバムが最高傑作かと聞けば、必ず「アライバル」か、この「スーパー・トゥルーパー」の名前を挙げるだろう。もちろん、アバのアルバムはどれをとっても完成度の高いものだが、特にこのアルバムには粒の揃った名曲達が連なっている。「ザ・ウィナー・テイクス・イット・オール」、「ハッピー・ニュー・イヤー」、「アワー・ラスト・サマー」、「アンダンテ・アンダンテ」など”メロディは美しくなければならい”というビヨルンとベニーの哲学が一貫して貫かれた作品となっている。又、アグネッタとビヨルンの破局をテーマ描いたとされる「ザ・ウィナー・テイクス・イット・オール」は、アバ最後の大ヒットシングルとなった。(全米7位、全英1位)しかし、この曲をリリースするにあたっては、メンバーの間で、あまりにも私生活を生々しく描きすぎたのでは?という声が上がったが、当の二人は別に気にすることもなく、予定どおりの発売となった。むしろファンにとっては、この美しくメランコリックな曲が、アバそのものの終焉を描いた歌に聞こえたようだ。アルバムタイトルである「スーパー・トゥルーパー」も、イギリスで最後のトップ・シングルに輝いた。

 1981年。ベニーとフリーダが離婚。ファンにとってこの離婚は実に不可解なものであった。二人の間には子供もなく、仕事に差し障りのあるようなトラブルは何も起こっていない。周囲の人間にすら理由の分からない結末だった。あえて想像を働かせるならフリーダは、ベニーほどアバに執着していなかったということであろう。むしろ彼女は、アバというものをステップに、フリーダという一人のアーティストとして世界の舞台に立ちたかったのではないのか?テレビのインタビューでフリーダは、「人間なのだから10年間も一緒にやっていれば、うんざりすることもたくさん出てくるわ。」と正直に述べているが、これはビヨルンとベニーという最強のソングライターに支えられながらも、アバの中でしか生きられない自分に見切りをつけたかったのではないのか?そうであるなら、ベニーとフリーダの別れには説明が付く。だが、これはあくまでも推測であり、本当の真相をさぐるすべはない。

 アバ、実質的にコンサート、プロモーション活動を停止。2月から計10ヵ月をかけて次ぎのアルバム制作に取りかかる。この時期ビヨルンは、イギリスの劇作家ティム・ライスとミュージカル制作の話しを進めている。ビヨルンとベニーは、かねてからミュージカル制作に興味を示しており、マスコミの間でも大いに話題になった。

 1981年。アバ最後のアルバム「ザ・ビジターズ」が発売される。このアルバムの発売前に、シングルである「ワン・オブ・アス」が発売されているが、「ザ・ウィナー・テイクス・イット・オール」程のヒットには至らなかった。(イギリス・チャートでトップ3)ファンの一部から、このラスト・アルバムが駄作アルバムと言われているのは、前作のアルバム「スーパー・トゥルーパー」の出来がよすぎた為と、「ダンシング・クイーン」、「チキチータ」、「ザ・ウィナー・テイクス・イット・オール」のような、いわばアルバムの顔という曲が存在していなかった為と思われる。当時、日本で話題になったのは、このアルバムの8曲目に収められている「スルッピング・スルー・マイ・フィンガーズ」。この曲は、某有名な清涼飲料水の王冠の当たりによって、ピクチャー・レコードをプレゼントされるようになっていた。

 1982年。1973年のデビュー以来、世界中のポップス・ファンに愛され続けたモンスター・グループ、アバがついに解散を発表。解散直前に発売された「アンダー・アタック」は、実質的にアバ最後のシングル曲となった。(グループで最後に録音されたシングルは「ザ・デイ・ビフォー・ユー・ケイム」だが、発売は「アンダー・アタック」よりも先だった)モンスター・グループ最後のシングルにしては、商業的に大きな成功を収めることができずに終わってしまう。それはあまりにも静かな解散劇だった。この時、スティグの頭にはまだ次回アルバムとなろう「オーパス・テン」の構想が少なからずもあったが、結局これは御破算となってしまう。解散発表を受けて欧米では、彼等のヒット曲で作られたベストアルバム「ファースト・テン・イヤーズ」(日本未発売)を、急遽、クリスマスに発売する。それはファンにとって、決して忘れらる事のないクリスマス・プレゼントになった。

 アグネッタは語る。「アバは自然に始まって、自然に終わったわ。楽しんでやれる限りは、グループ活動を続けましょうといつも話していたの。でも今は違う、ぜんぜん楽しくない。でも勘違いしないでほしいの、これは一人一人が成長した結果なのだから、とても楽しかった。素晴しい時間を過ごしたと思うし、アバの一員であったことを埃に思うわ。ただものごとには終わりがあるの、それが自然に来ただけだわ。」この発言は、アバが単に男女間のいざこざで終わったとするマスコミへの反発とも受け取れる。だが、そんなことはどうでもいいことなのである。ただ言えることは、休みなく世界のファン達に、音楽の喜びを提供し続けてきたアバに感謝の気持ちを捧げずにはいられないということなのだ。心を込めて、”サンキュー・フォー・ザ・ミュージック!”


注意1)この文は【原書】ABBA(Harry Edgington and Peter Himmelstrand著)【訳書】アバ世界の恋人たち(山本沙由理訳)及び、かまち 潤さんのアバ年表を参考文献として書かれたものです。

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