Anon No Memo
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Date: Sun, 16 Jun 2002
Subject: 特殊相対性理論
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古典物理学を覆す相対性理論を生んだのは、類稀なるアインシュタインの天才的閃き
であったと、僕は思い込んでいましたが、最近読んだブルーバックス「ノーベル賞で
語る20世紀物理学」によれば、必ずしもそうでないようです。相対性理論そのものに
それ程興味はありませんが、この話は僕の既成概念を覆した点で興味を覚えた次第で
す。

20世紀初頭の1905年に、当時26才のアインシュタインは立て続けに3篇の論文を発表
します。3月には光電効果について、5月にはブラウン運動について、そして6月に
特殊相対性理論についてと、スパースターに相応しいデビューでした。
アインシュタインは1921年にノーベル賞を受賞しますが、相対論に対してではなく、
2篇目の光電効果についての研究に対してでした。

3編目の論文「運動する物体の電気力学について」で、アインシュタインが特殊相対
性理論を打出しましたが、特殊相対論は彗星のごとく現れたと言うものではなかった
ようです。特殊相対論を生んだその当時の背景について少し調べてみました。

古典力学は、17世紀末1687年に刊行されたニュートンの「プリンキピア」で理論的に
完成し、その成果として1758年にはハレーの計算とおりハレー彗星が再来し、1846年
には海王星の存在が予測・発見されています。
その古典力学にも相対論があり、相対的に等速運動をする慣性系では同じ力学法則が
成立ち、ガリレイ変換により相互の座標変換が可能であるというものです。簡単に言
えば、相互に等速運動をする観測者同士は対等で、絶対的な観測者や絶対座標は存在
しない、と言うことです。

一方、マックスウェルは19世紀半ば1856〜1864年に発表した3篇の論文で電磁場の
基本方程式を導き、1873年刊行の「電磁気学」で研究成果を集大成しています。彼は
電磁波(電波)の存在を予測し、光も電磁波であると予測していたと言われますが、
電磁波の実証は1887年ヘルツによりなされています。
ともかく、ニュートン力学とマックスウェル電磁気学により、古典物理学は完成し
自然界の基本法則は美しい数学的表現を得たと考えられていたようです。

光の実体については、ニュートン以来粒子説と波動説が論戦を繰広げていましたが、
1850年フーコーにより水中の光速測定が行われ、屈折率と符合したことから、波動説
に軍配が上がりました。
光が電磁波であることを誰が立証したかは定かではありませんが、マックスウェルの
方程式から導かれる電磁波の伝播速度が、フーコー達の測定した光速と一致したこと
から、多分確証したのでしょう。
光の波動説を唱えていたホイヘンス等は、波動の媒体として仮想物質エーテルの存在
を仮定していました。エーテルは宇宙に充満しているが、光の波動を伝えるだけで、
それ以外は物理的影響を及ぼさないものと考えられていました。

ところが、マックスウェル方程式から導かれる光速は慣性系に関わらず一定となって
しまいます。そこで、光の媒体であるエーテルは宇宙の何処かにある絶対座標に対し
静止していて、その絶対座標系に対してマックスウェル方程式が成立つのだと、考え
ざるを得ませんでした。即ち、エーテルは絶対座標に対して静止していて、地球の自
転により偏西風と同様、地表ではエーテルの風が吹いている筈で、地球上で観測する
光速は南北方向と東西方向で異なる筈だ、と考えられていました。

光速の正確な測定を続けていたマイケルソンは、モーリーと共同で1885年からエーテ
ルの風を測定する実験を行いましたが、結局エーテルの風は実証できませんでした。
このことは、マックスウェル方程式を立証しましたが、光が古典力学では捕らえられ
ないものであることを、示したことでもありました。この矛盾を整合するため、多く
の研究者が様々な理論を展開したようです。エーテル支持者の何人かは、エーテルの
風で総ての物質が収縮したため、エーテルの風が測定できなかったと考えました。

ローレンツもその一人で、この発想の基づき、アインシュタインの相対論発表の1年
前、1904年にエーテルの風によるガリレイ変換の修正変換式としてローレンツ変換を
発表しました。
アインシュタインはこのローレンツの論文を読んで、彼の特殊相対性理論を発表しま
したが、アインシュタインがローレンツと異なったのは、エーテル仮説とガリレイ
変換を捨てて、光速不変を基本にローレンツ変換を慣性系の相互変換式と据えたこと
でした。

即ち、数学的には両者は殆ど同じ物で、論理の立て方が異なるだけに過ぎません。
コロンブスの卵か、コペルニクス的転換と言うべきものです。
ローレンツの他にも、数学者でもあったポアンカレは、光速不変からローレンツ変換
を数学的導き、エレガントな数学を作り上げていたようです。ところが、アインシュ
タインはポアンカレの研究も知らず、マイケルソン=モーリーの実験結果もローレン
ツの論文を通して知ったというのが、定説のようです。

独自に発想したアインシュタインは天才であったと言えますが、時代背景を考えれば
殊相対性理論は彼の出現を待つまでもなく生まれていたのではないかと思います。

最初に書いたようにアインシュタインは1905年の3月に「光の発生と変化に関する1
つの発見的視点について」と言う光電効果に関する論文(この研究に対して1927年ノ
ーベル賞が授与されました)を、5月には「熱の分子運動論から要求される静止液体
中に懸濁する粒子の運動について」と言うブラウン運動に関する論文を、さらに6月
には上記に紹介した特殊相対性理論の論文を発表するという、超人的研究活動を行っ
ていました。

最初の論文は、ノーベル賞の対象となったように、量子論にとっては画期的なもので
した。それを簡単に言えば、波動と考えられていた光も粒子的性質を持つ、即ち量子
であると考えれば、光電効果を説明できることを示したもので、1900年に発表された
空洞放射に対するプランクの量子仮説と、1887年にヘルツ(ハルヴァックスとの説も
ある)が発見した(1900年にレナルトが、放出される荷電粒子を電子であると確認し
た)光電効果の研究成果を合せたものです。

空洞放射とは、坩堝のような高温の空洞内面から輻射され、空洞に充満する光のこと
で、空洞放射のスペクトルと内面温度の関係を、熱力学的に解明しようと、レーリー
とジーンズやウィーンが2つの理論式を提案していましたが、実測と部分的にしか整
合していませんでした。プランクはこの2つの式を統合し、実測値と整合する内挿式
を見出しましたが、この式か正しいとすると空洞放射のエネルギー値は、光の振動数
にプランク定数を乗じた値の整数倍しかとれないことになってしまいます。即ち、恰
もエネルギーhνを持つ粒子が放射されていると考えざるを得ませんでした。これを
エネルギー量子説と呼びましたが、プランク自身は、波動である筈の光が粒子として
振舞うことを確信していた訳ではありませんでした。

一方、ある種の金属に光を当てると電子が放出される光電効果について、レナルトは
詳細に研究した結果、放出される電子数は光の強さに比例し、放出される電子のエネ
ルギーは光の振動数に比例する(したがって、光の振動数には閾値があり、ある振動
数以下の光では幾ら強くても電子は放出されない)ことを見出し、1902年に発表しま
した。光の持つエネルギーを古典力学的な波動のエネルギーと考えていては、この実
験結果を巧く説明できません。

アインシュタインは、プランクの光量子仮説を用いて、エネルギーhνの光の量子が
金属原子の電子を弾き飛ばすと考えると、光電効果を巧く説明出来ることを発見しま
した。その後1916年、ミリカンの更に詳細な実験によりアインシュタインの仮説が正
しいことが証明され、1923年にはコンプトンによりコンプトン散乱と呼ばれる現象が
光量子により説明されるに至り、光量子仮説が一般に受入れられるようになります。
因みに、アインシュタインはナチ党員のレナルトに迫害されると言う皮肉なことにな
ったようです。

相対性理論と量子論は20世紀の現代物理学の基礎となる理論ですが、それは天才ア
インシュタインが一から創り上げたものではなく、既にその材料は多くの人々の研究
によりお膳立てされていました。ただ、古典物理の既成概念に取り憑かれた人々には
現象に潜む原理が見えていませんでした。寧ろ劣等生とも言われたアインシュタイン
だったからこそ、コペルニクス的転換の閃きで見事に新たな理論を見出せたのでしょ
う。その閃を一般性相対論にまで創り上げたのは、勿論、天才と言うべきことです。
   

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