
DATE | 建国した人 | 高祖 李淵(在位:618〜626) |
| 首都 | 長安 | |
| 年代 | 西暦618〜907年 ※ | |
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隋王朝(584〜618)の恭帝から禅譲を受けた形で成立した中国の統一王朝。李淵(りえん)を初代皇帝として一時武則天(則天武后)による簒奪を受けたが(周:684〜705 但し、国号を「周」に改めたのは690年9月から)、基本的には李氏20代、約300年続いた。特に2代太宗の治世を「貞観の治」、6代玄宗の治世前半を「開元の治」といい、唐の最盛期を築いた。
皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えたが、外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰えた。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡した。
法制度
唐代には大きく律・令・格・式の4つの法典がある。「唐六典」に「およそ、律をもって刑を正し罪を定め、令をもって範を定め制を立て、格をもって違を禁じ邪を止め、式をもって物を軌し、事を程す」とある。非常に大雑把に言ってしまうと、律が刑罰などを定めた法則、令が政治を運営する上での法則であり、格と式が事務規定のようなものである。
唐の法令の根幹になったのがこの律と令で、律では人を良民(上)と賤民(下)に分け、同じ犯罪でも上が下に対して犯した場合は同級間より罪が軽く、下が上に対して犯した場合は罪が重くなるように定め、また家の中でも尊卑、長幼の区別をつけ、上下の秩序を刑罰によって制していた。
官制
およそ隋の制度を踏襲し、整備してある。名称が変更されたこともあったが、基本的には中書・門下・尚書の三省を政治の中心として、秘書・殿中・内侍をあわせて六省とした。中書・門下省は詔勅の記録や審査を行い、尚書省は下に吏(官吏の任免等を担当)・戸(民事・戸籍・租税を担当)・礼(宮中の祭祀や外交などを担当)・兵(軍事関係担当)・刑(刑罰・司法担当)・工(宮中の用度の管理や土木関係を担当)の六部を置いた。更に御史台を置き、官吏の風紀取り締まりを行った。
他、太常・藁禄・衛尉・宗正・太僕・大理・鴻臚(こうろ)・司農・太府の九寺、国子・少府・将作・軍器・都水の五監があり、軍部として十六衛などがあった。
また、地方支配は国内を十の道に分け、道の下に州・郡を置き、その下に県を置いて統括した。
兵制
当初の兵制は兵農一致の徴兵制度で、21〜59歳の男子である丁男を折衝府の府兵として徴集し、軍務に当たらせた。
玄宗の開元11年(723)に職業兵を雇う「募兵制」が施かれ、こちらは節度使が統率した。
都護符・藩鎮
唐は辺境の征服地を管理するために都督府を置き、その上に六都護府を置いた。当初、都督府の長などには征服地の王族や、部族の長等を当てたが、しばし唐に離反したので、対抗策として藩鎮を導入した。
藩鎮は節度使・都防禦使・都団練使・経略使のことをいい、管内の治安維持にあたる軍事職であったが、州の刺史(長官)も兼ね、やがて地方の民事・兵事・財政の3つを掌握する強力な勢力となり、やがて自立して中央と対立するものまで生んだ。この藩鎮勢力が唐の滅亡の一因にもなった。
文化
唐は中原の文化と周辺諸国の文化が融合し、首都長安を中心として華々しく花開いた時代であった。
詩文では律詩、絶句といったいわゆる近体詩の形式が確立し、杜甫、李白、白居易など日本でも広く親しまれる詩人が登場した。散文でも「枕中記」や「杜子春」のような伝奇小説が多く書かれている。
宗教は仏教界で宮廷や貴族の保護で天台・真言・禅宗などの中国仏教が成立し、また玄奘や義浄のような求法僧が登場した。仏教の寺院は法要や花見物などで人々が集い、見世物小屋が立ったりして娯楽の場としても賑わっていた。また、様々な民族が入り乱れていた長安にはゾロアスター教や景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院も建立された。更に七世紀に成立したイスラム教も入ってきている。
