僕が始めて執筆したこの旅のエッセイ集は1999年1月7日から2月25日まで産経新聞(近畿版)の木曜日夕刊に連載されたものです
海外公演のエピソードなどをパソコンでコピー張り付け削除を繰り返して作りました
何分にも始めてのエッセイという事で拙い文章をお許し下さいませ
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なお2月11日は祭日のためお休みでございました



 

 





初めての海外旅行での失敗(1月7日掲載)

 僕の生まれて初めての海外旅行は、1988年9月、文楽のアメリカ公演に参加したときです。
 飛行機が最初の公演地のロサンゼルス空港に到着すると、まず入国審査。審査官の大柄な黒人女性が僕のパスポートを見ながら何か英語で聞いてくるのですが、何を言っているのかさっぱりわからない。そこで、「アイアムシンガー、ビジネス」と答えると、彼女は突然、僕の大切なパスポートを持ってどこかへ消えて行ってしまったのです。
 「エッ、文楽のアメリカ公演に来たのだから、すぐ通してくれるんじゃないの?」。ようやく戻ってきた彼女がまた何か尋ねてくるので、今度はすでに審査を終えた他のメンバーを指さしながら「ミーツー」と繰り返してみると、彼女は隣の審査官と何か話し始めました。
 しばらくして彼女はようやくスタンプを押してくれたのですが、どうやらシンガーとかビジネスとか言ったことがまずかったのかもしれない。
 それから空港内の手荷物引き取り所で、次々と流れ出てくる荷物を皆で手分けして一カ所に集めるのですが、手荷物といっても、文楽の荷物は半端な大きさや数ではない。大夫(たゆう)が義太夫節を語るときに本を置く漆塗りの見台(けんだい)、文楽の大きな三味線や撥、人形や衣装などを入れたボテという大きな行李(こうり)、小道具や自分達の生活必需品などなど、それはそれは手荷物の想像を遥かに超えている。
 ちょっと風変わりで山のような荷物。ふと気がつくと、他の乗客たちの目線が注がれている。まるで「あの重さでよく飛行できたものだ」と、改めて自分たちの無事を喜んでいるようです。
 初めての海外旅行に興奮して昨夜は一睡も出来ず、昼と夜とが逆転して極度の時差ぼけ状態だというのに、なぜか僕の頭はさえきって、目に入るものすべてが真新しい。やがてバスがフリーウェーを走り出すと、目は車窓の景色にくぎ付け。
 ようやく公演会場の日米劇場に近づいたとき、昔懐かしい風景が目に飛び込んできました。「アメリカに二宮金次郎がいる!」。なんとロスの交差点に、薪を背負い本を読みながら歩いている、あの懐かしい二宮金次郎の銅像が堂々と建っているではないか。僕の頭の中で、アメリカの交差点と日本の昔の小学校校庭とが交差して、また極度の時差ぼけが始まっていた。

 

 


緊張と感激と米公演初日(1月14日掲載)

 初めて僕が参加した文楽の海外公演。バスがロサンゼルスの日米劇場に到着するや、さっそく楽屋づくりが始まる。
 当然、畳はないから、まず正座出来るように床に上敷きを敷く。分解こん包されていた見台を組み立て、裃(かみしも)などの衣装を取り出す。それから、大夫が下腹を締め上げるための腹帯をていねいに巻き、オトシという懐に入れる砂袋を取り出し、足を爪立てるためにお尻の下に敷くシリヒキを組み立てる。
 これらはすべて腹の底から声を出すための道具ですが、これを使ったからといってすぐに声が出るというわけではありません。入門17年目の僕が本当に腹の底から声を出せるようになるには、まだ何十年かかるかわからないという気の遠くなるような世界だ。
 ようやく楽屋の準備も終わり、その夜はホテルで主催者による歓迎会を催していただいた。
 数百人が出席するディナーパーティー。数メートルはある巨大な氷像が飾られ、日本の鏡割りまで行われ、予想以上の熱烈な歓迎ぶりに、一同身が引き締まる思いでした。
 翌日の昼に行われたリハーサルも無事終わり、夜にはいよいよ文楽アメリカ公演の初日が開く。初日というのは国内でも特に緊張しますが、それが海外公演ともなるとなおさら。
 ロサンゼルス公演5日間の切符はすでに売り切れ。そのお客さまの大半が日本語のわからないアメリカ人ですから、「簡単なあらすじを書いた英語のパンフレットだけで、本当に理解していただけるのだろうか」。でも、われわれの心配をよそに、ぎっしり詰まった観客席の空気は研ぎ澄まされていました。
 「はるばる日本からやってきた文楽を理解しよう」、「何かを吸収しよう」という意気込みのようなものが、こちら義太夫節を演奏する床(ゆか)という右手の一段高くなった舞台の上にまで、ひしひしと伝わってきます。
 やがて僕の出演する「曾根崎心中」最後の場面の道行、天神の森の段が始まった。「この世の名残り世も名残り」。あの近松門左衛門の有名な文章の合奏が、美しい旋律にのせて進んでゆく。ラストシーンの、愛し合うお初と徳兵衛が一緒に死んでゆく場面にくると、千人近い観客が身を乗り出して、舞台に吸い寄せられるように息をつめじっと魅入っている。
 語り終えた僕は、すばらしい観客に、感激のあまり舞台で涙してしまった。幕が降りても鳴りやまない拍手と歓声。用意されていたカーテンコールも何度繰り返されたか覚えていない。「文楽ってスゴイ!」。そのとき僕は改めて実感しました。

 

 


シェークスピアの生家で(1月21日掲載)

 1991年秋、僕にとって2度目の文楽海外公演はイギリスだった。成田を飛び立って数時間もすると、窓の下には見渡す限り寒々と雪に埋もれたシベリアの山々が広がる。ソビエトの上空を飛行できるとは以前では考えられない事だったが、世界の国々が少しずつ近づいていることを実感する。
 13時間の飛行の末、小雨に煙るヒースロー空港に無事到着。ロンドンではウォータールーブリッジの辺にあるエリザベスホールで5日間の公演が行われ、連日超満員の大成功となった。
 そのオフの時間を利用して、僕は幸運にも文豪シェークスピアの生誕地ストラトフォード・アポン・エイボンを訪れることができた。この地名は「エイボン川の上流にあるストラトフォードという名の町」という意味だそうで、実に明解な地名だ。
 ロンドンを車で出発して二時間余り。道の両側には美しい緑の小高い丘が続き、そこに牧草をはむ白い羊の群れと真っ青な空とが組み合わされ、まるで絵に描いたような美しい風景が展開される。
 しだいに道路の照明灯の高さが低くなってくるが、これは第二次世界大戦当時、戦闘機の離着陸の邪魔にならないように低くしたものだそうで、その当時の物を今でも大切に使い続けている事に驚く。
 やがて車がストラトフォードの町中に入ってくると、まず目につくのが、白壁に黒の木組が鮮やかなチューダー王朝時代の築300年以上という家々。まるでタイムスリップしたように当時の面影が残されている。
 そして目抜き通りでは、学生たちがシェークスピア時代の衣装を身につけ、太鼓やラッパを演奏しながら旗を自由に操り、にぎやかなパレードを繰り広げている。シェークスピアを愛する世界各国からの旅行者たちと地元の文化を守る人々が一体となって、町全体が一つの家族的な雰囲気で満たされている。
 そもそも僕が演劇を志すようになったのは、高校時代にハムレットを観劇したからだ。その運命を変えたシェークスピアの生家の中に入り、彼が生まれた二階の西側の部屋に上がってみると、そこでかつて生活していた彼の「気」というか、不思議なパワーが感じ取れ、遠い存在だった彼に、ごく近い隣のおじさんのような親しみを覚えることができた。
 数百年に渡り世界の人々を魅了し続ける偉大な彼と一緒に、午後の紅茶でも飲んでいるような、そんな気にさえなってくる。ふと僕の頭を彼の戯曲の一節がよぎった。
 「この世は舞台で人間は役者だ」。そして「世界は一つの舞台だ」。

 

 


爆弾テロで危機一髪(1月28日掲載)

 ロンドンを飛び立って一時間少々、文楽一行を乗せた小型ジェット機が、北アイルランドのベルファスト空港への着陸態勢に入ると、眼下にウシたちが昼寝をするのどかな牧場が広がる。
 あのタイタニック号が造船されたこのベルファストは、大小百数十もの古い教会が点在する歴史ある町で、こんなに美しくのんびりした田舎町が、まさかテロ事件の多い場所とは信じられない。が、その考えはすぐにくつがえされた。
 というのも、空港から乗ったバスがホテルに到着する寸前に急停車。ガイドの指示に従って下りると、目の前に兵士が三人、こちらに向かって自動小銃を構えている。「撃たれる!」。ホテルの周りにはロープが張り巡らされ、非常警戒がとられている。まるで戦争映画の一場面のような光景だ。
 やがて全員ホテル内の会議室のような所に集められ、しばらくすると突然、「ジリリーン」という非常ベルが響き渡った。どうやらこのホテルに爆破予告があったらしく、昨日もこの真ん前のビルが爆破されていたらしい。
 爆弾テロなどという、僕にとっては別世界のように思えた事が、いま現実に目の前で繰り広げられている。
 極度に青ざめた顔の一行は、別のホテルに移動し、そこのロビーでただただじっと待ち続けた。夜の九時を回ろうとしたころ、やっと弁当が支給された。そういえば皆、朝から何も食べていなかったのだ。
 この町には日本食がないので、遠くの町からわざわざトンカツ弁当を運んできてくれたのだという。日本ならどこの街角でも簡単に手に入るパック入り弁当だが、そのおいしかったことといったら、生涯忘れられないだろう。
 夜の十二時近くになって、今度は遠くのホテルに移動するよう指示があった。町の灯が遠く小さくなっていっても、バスは深夜の闇の中をどんどん進んで行く。一時間ほどして山小屋のような所の前で停車した。辺りは真っ暗。とにかく疲れ切ってしまって、部屋に入るとそのまま眠ってしまった。
 窓から射し込む陽の光とともに不安の一夜が明け、外を見てびっくり。目の前に、朝日に照らし出された美しい緑の山と、そして鳥のさえずり。僕の泊まった所は、上高地も顔負けのリゾートホテルだったのだ。
 夜の闇の中で不安に思えたあの景色が、こんな美しいものだったとは・・・。昨日の騒ぎが今朝はまるで嘘のようで、高く青い空に向かって僕は思いっきり深呼吸をした。

 

 


ニューヨークの荘厳と雑踏(2月4日掲載)

 1992年、文楽ニューヨーク公演に参加したときのこと、クリスチャンの先輩にマンハッタンにある立派な教会へ日曜礼拝に連れて行ってもらいました。
 ニューヨークの雑踏からひとたび教会の中に入ると、パイプオルガンの音が心地よい荘厳な世界がそこにはありました。老若男女たくさんのニューヨーカーたちが全員正装し、正面の祭壇に向かい厳粛にお祈りをささげています。毎週日曜日の朝には必ず礼拝に行くという、その折り目正しい生活、そこに僕はもう一つのアメリカを見た思いがしました。
 礼拝堂の両脇の柱に記された三けたの数字を見て、「円の換算レートかな?」と勘違いした自分自身が心底恥ずかしく思われました。それは今日これからここで演奏される賛美歌の番号でした。
 そんな中、神父さまは僕たちセーター姿の旅行者二人を温かく迎え入れてくださり、パンとぶどう酒で聖餐(せいさん)にあずかることができました。身も心も清められ教会を出ると、そこにはまたニューヨークの雑踏がありました。
 そして公演の前日にはブロードウェイに、地元で今最も人気が高く、ロングランを続けているというトミーチューン氏プロデュースの「ウィルロジャースフォリーズ」というミュージカルを見に行くことができました。 初めてのブロードウェイは「洗練されたおしゃれな劇場街」といった雰囲気で活気にあふれていて、散歩しているだけでウキウキし、これから見るミュージカルのことを考えると、それがワクワクに変わり、開演直前にはドキドキになっていました。
 アメリカでかつて人気を博した投げ縄一座のスター、ウィルロジャースという人の生涯を描いた作品で、幕が開くとまず舞台装置のすばらしさに度肝を抜かれ、日本とはお金のかけ方が一けたは違うなと思いました。そして歌と踊りと芝居、それぞれの完成度の高さに驚き敬服し、それがいつしか感動に変わり、最後には涙がとめどなく流れ出てきました。こんな感激は生まれて初めてのことです。幕が下りても鳴りやまぬ拍手の中、気が付くと僕も負けじと手をたたき続けていました。
 その感動と興奮のさめやらぬまま初日の舞台に臨んだ僕の「文楽がはたしてこのブロードウェイで通用するのだろうか」という不安は、繰り返されるカーテンコールの雷鳴のような拍手喝さいによっていっぺんに吹き飛んでしまいました。文楽の伝統の重みとその力を改めて実感することができました。

 

 


オーストラリアで自然を堪能(2月18日掲載)

 F1で有名なオーストラリアのアデレードという町では、偶数年に芸術祭が開催されますが、1994年には文楽も参加しました。
 南オーストラリア州の首都であるこの町は、きっちりと碁盤の目のような道路が走り、至る所に緑が多くがあり、中央をゆったりと流れるトレンズ川には手漕ぎボートが浮かんで、まるで町全体が公園のような美しい所でした。
 オフの日に、クリーランド自然公園という所に出かけました。そこは動物が自然の中で実際に生活をしていて、その中に人間が入っていくという形で、カンガルーに触ったり、エミューというダチョウのような大きな鳥に口移しでえさをやったり、たくさんの珍しい動物たちと身近に触れ合うことが出来ます。
 僕はコアラを抱いて記念撮影をさせてもらいました。愛らしく見えるコアラも、実際に抱いてみるとどっしり重く、つめが長く、毛は短く、体温も思ったより冷たく、見ていた方がかわいいと感じました。その時、僕のことをうっとうしく感じていたにちがいないコアラは、カメラに向かってただ黙々とおいししそうにユーカリの葉を食べていました。
 日本ではオリの向こうで遠くからしか見ることのできない珍しい動物たちと、ここでは実際に触れ合う事ができ、自然の中での自分の存在を改めて感じることができました。
 またこの公演には先月、四十八歳という若さで他界された竹本緑大夫兄さんも参加されていましたが、その兄さんが夜空に南十字星を見つけて喜んでいました。そこで僕も何とか見ようと目をこらすのですが、満天の星の中にそれを見つけだすのは容易なことではありません。
 兄さんが「久(キュー)ちゃんよう見てみ、あそこや!」とていねいに指し示してくれる指の先を見つめると、「あった!」。そこには南十字星がはっきりと十字架の形にきらめいていました。
 ひとたび分かると、後は何度でもすぐに発見でき、オーストラリア滞在中、夜になると、空を見上げ南十字星を見つけることが日課になってしまいました。見上げた先に南十字星があると、なぜかほっとし、安心できたのです。
 アデレードでの文楽公演も大成功に打ち上げ、帰りの飛行機から見た眼下には、コバルトブルーに染まる海の中に、エメラルドグリーンに輝くグレートバリアリーフの巨大な珊瑚礁が光っていました。自然の美しさ、不思議さ、大切さを十分に堪能できたオーストラリア公演でした。

 


ハワイで見た子供の純真さ(2月25日掲載)

 ホノルル空港に到着し外気に触れるやいなや、熱帯温室の中に入ったときのようなムッとするほどの湿気を感じる。が、それはすぐにレイの甘い花の香りといっしょになって、心地よい香水のシャワーに変わる。これが僕の初めてのハワイでした。
 1992年の文楽ハワイ公演は、ハワイ大学の中にあるケネディ劇場での「曾根崎心中」の公演や同演劇科でのワークショップ、各高等学校でのレクチャー、そしてビショップミュージアムでの子供向け文楽などが行われました。
 この子供向け文楽は「ひょうたん池の大ナマズ」という題名で、文楽には子供向けの作品が少ないという理由で人形部の吉田簑太郎兄さんが文章を書き、三味線の鶴澤清介兄さんが作曲をされた二十分少々の短い作品です。
 権兵衛が大ナマズを釣り逃がすという簡単な筋で、日本国内ではあちこちの幼稚園や小学校で公演していますが、海外での上演はこれが初めてでした。
 劇場の前には開演前からすでに長い行列が出来ていて、そのほとんどがアメリカ人の親子連れ。子供は三歳から十歳くらいで、日本の子供たちと同じようにウキウキと楽しそう。
 「今日はポカポカ良い天気」という口語体で語り始めると、子供たちは無心に目を輝かせ、大ナマズの登場でシッポがほんの少し見えただけで大声で喜んだり、権兵衛と大ナマズとの格闘場面になると立ち上がって応援したり、大笑いしたり、それはそれは舞台から客席を見ていた方が面白いくらい。きっと子供たちはこの日のことを大人になっても覚えていてくれるにちがいないと僕は確信しました。
 その公演の帰りの車窓から山間に、大きく美しい虹(にじ)がはっきりと見えました。ハワイでは車のナンバープレートに虹の絵柄が入っているくらい虹がしょっちゅう現れます。そして、その時僕はふと子供のころのことを思いだしました。
 僕がまだ三重県の三瀬谷という山奥の小さな町の幼稚園児だったころのある日、山の向こうに大きな虹がはっきりと見えたのです。そのあまりの美しさに見とれ、僕はどうしてもその虹のふもとまで行ってみたくてしようがありませんでした。
 「虹の中はいったいどうなっているのだろう?」と疑問を抱き、僕は今にも走り出そうとしましたが、それを止めたのが母。「虹は見えるだけで、あそこに行っても何もありません」と。
 自分が見た物をそのまま信じられる子供のころの純真な心を、ハワイで虹を見ながら思いだしていました。