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何日君再来・・・

 忘れられない あの面影よ、ともしびゆれる この霧の中・・・という歌詞で始まる日本語の「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」を初めて耳にしたのは一体いつ頃だったのか、あれは渡辺はま子だったのか、李香蘭(山口淑子)だったのか、覚えてはいないけれど、それが実は長田恒雄氏の訳詩であり、もともとは深く哀愁を帯びた美しい中国語の歌詞を持つ中国の曲であることを知ったのは、おそらくテレサ・テンの歌を聞いてからだったように思う。
 そして、この曲を初めて歌ったのが「シュウ・セン」(Zhou Xuan : 中国語の発音でチョウ・シュァン)という歌手であり、この曲が持つ数奇な運命を知ったのは随分後になってからだったように思う。
・・・「何日君再来」の歌詞へ 
            (歌詞の1番から4番まで掲載しました。1999.1.1.)

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 1985年の私の誕生日に友人がプレゼントしてくれた「上海摩登(モダン)」という本でシュウ・センの事を少しは知ったのだが、そのゴールデン・ヴォイスと称された歌声を聞いたのはそれから暫く経ってからだったように記憶している。

 誰でもそうなのかもしれないが、私は何かに興味を持ち始めると、それにもっと深く関わるチャンスがいつも巡って来るようで、1988年になると上海での合弁事業への参加の話しが持ち上がり、それ以後私と上海との長い付き合いが始まり、いつの間にか「上海と言えば・・・」とお声がかかるようになってしまった訳である。

 1988年の初めての訪中の頃まで、私は日本で会社勤めをしながら合弁のスタートを模索していたのだが、1987年11月にTBSテレビでシュウ・センと何日君再来を扱った「中国のリリー・マルレーン」というドキュメンタリーがあり、たまたま深夜帰宅した私はその後半30分だけを見て悔しがり、その全編のビデオを手に入れるのに実に5年以上も待たなければならなかった。
「何日君再来物語」
   中薗英助:著
  
1988.河出書房新社

 そして、その翌々年1989年にこの「中国のリリー・マルレーン」の基になった1冊の本「何日君再来物語」(中薗英助:著)と出会い、初めてこの曲の持つ 数奇な運命とそれにまつわる不思議な物語を知ることになる訳である。

 その詳しい内容については、既に文庫にもなっており、是非この「何日君再来物語」を購読していただきたいのだが、日中戦争の最中、日本人、中国人に関わらず愛されたこの曲は、日中双方(日本軍と国民党政府)から「敵の戦意を喪失させるための謀略の曲である」と禁止され、いつの間にかこの曲の生い立ちに関する様々なストーリーが流布された。
「何日君再来」の「君」の発音「チュン」が「軍」と同じであることから「何日軍再来」・・・いつの日、国民党軍は帰って来るのだろう?という意味が隠されている、という噂も生まれ、これも日本側の禁止の原因の一つとなったようだった。
 そして、日中戦争終結後の国民党と共産党の内戦時にも、同じく「君」の発音が問題とされ、1949年の中華人民共和国建国以後、今日に至ってもこの曲を大衆の前で演ずる事は禁止されており、その作詞者、作曲者もずっと匿名であったのだが、著者はその真実を突き止めるとともに、その背後に見え隠れする、ある黒い影の存在を知ることとなる。それは・・・。
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 さて、ここで簡単にシュウ・センの人生について書いておきたい。
 彼女は1918年(大正7年)江蘇省の極貧の家に生まれる。
兄弟姉妹が多く、上海の周家の養女となる。8歳の頃アヘン中毒の養父に娼妓
として売られそうになるが、義母の妹の助力で小さな歌舞団に入り歌を学ぶ。
1930年聯華歌舞班へ、翌年秋には黎錦暉(「夜来香」の作曲者である黎錦光
の兄)の明月歌舞団(明月社)へ移りピアノと北京官話(いわゆる標準語)を
学ぶ。明月社の先輩には後に結婚することとなる、名曲「月圓花好」の作曲者
・厳華がいた。
 1932年の「一・二八事変(第一次上海事変)」の少し前、愛国歌「民族之
光」を歌い好評を得ていたが、その歌詞に「与敵人周旋干沙場之上(戦場で敵
を手玉にとろう)」があり、黎錦暉が「周旋」の名を与えたという。後に映画
界に入ってから旋に「玉」へんを付け加えることになった(・・・美しい玉の
意)。
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映画「馬路天使」(1937)より
 1934年厳華の助けで新華歌劇社に入り、上海の「十大歌星」の一人に数えられるようになり、以後「ゴールデン・ヴォイス」と称されることになる。
 1937年、明星公司の映画「馬路天使」に出演、大スターとなる。この映画の挿入歌「四季歌」「天涯歌女」(どちらも田漢作詞、賀緑汀作曲)は彼女の代表作となった。
 そして同年、芸華公司映画「三星伴月」にも出演。この映画の挿入歌が「何日君再来」である。
 1937年、第二次上海事変。そして1938年には厳華と結婚するが、過労による流産、嫉妬深い厳華との衝突などでついには自殺騒ぎまで引き起こし、1941年離婚。その後も映画出演を続けるが、45年頃より神経衰弱が進む。46年以後も上海、香港で映画出演を続け、香港の絹布商人であった妻子ある朱懐徳と親しくなり同棲、妊娠。50年二人で上海に戻るがうまくいかず「上海報」に二人の関係解消を発表。そして男子、周民を出産。先輩の大俳優・趙丹が養子として育てることになる。
 精神的に大きなダメージを受けた彼女は50年「和平鴿」撮影中に発病、精神に異常をきたし入院。・・・一説によると、この治療中に「和平鴿」のポスター画家に無理やり犯され52年に次男、周偉
を出産、これもまた趙丹が育てたという。
 1957年(昭和32年)、急性脳炎(日本脳炎)を発病し、9月22日上海・華山医院で39才の生涯を閉じた。

 
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(カセット・テープ 1985年 上海製)
1990年、上海にて
シュウ・センの
   テープを
    手に入れる
 うれしかった
(カセット・テープ 1985年 上海製)
この1985年上海製のテープには当然の
ことながら「何日君再来」は入っていな
かった。
 1989年6月4日の天安門事件の影響で外資系企業の撤退が相次ぐ逆風の中、上海市西部の上海空港と市街地の中間点にある古北新区開発のインフラを行う合弁会社「上海古北興隆発展有限公司」をスタートさせることとなり、私も日本側の役員として参加。ただし、まだまだ不透明感があり、出張ベースで度々上海を訪れる生活が続くこととなった。そしてシュウ・セン好きの私のために合弁会社の上海人スタッフがプレゼントしてくれたのがこの2本のテープだった。

 当時、上海にいた日本人は200人程度で(現在は1万人とも言われている)、不動産事業に参加していた日系企業は私たちと、古北新区の向かいの虹橋開発区のオフィス、マンションビル・太陽広場を建設していた孫氏企業有限公司だけであった。その総経理である大友志郎氏とはそれ以来の長いつきあいで、今でこそ沢山のビルが建ち並び、日本人をはじめ多くの外人が集まる地域となっているのだが(私の合弁会社-「上海古北興隆発展有限公司」-は終了)、彼は当時の何もない原っぱだったその周辺の変化を知り、現在でも上海で活躍している数少ない日本人の一人で、新たに上海にやって来た日本人たちの良き相談相手になっている。
         ・・・いやあ、大友さん。あの頃は何もなくて不便でしたよねぇ・・・。
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