pax hermetica(化学の平穏)‐奇人たちの平和な日常‐

Liber RAShVN  1−1  

●章目次

1-1

1-2

1-3

1-4

1-5

1-6

1-7

 1-1

「タマゴー!」
 少女は元気良く叫びながら、勢い良く木戸を押した。戸がきしみながら壁にぶつかって大きな音をたてる。
 タマゴの入った籐カゴを振りながら、少女は弾むように部屋の中へ入った。肩の上で切りそろえた栗色の髪が、少女の動きにあわせて元気良くはねる。
「タマゴ、タマゴ、タマゴだよっ」
 少女は歌うように言いながら、よく動く深緑色の大きな瞳で部屋の中を見回した。
 中央に置いてある、レンガの土台に板を載せただけのテーブル。木製の丸椅子が二つ。小さな食器棚が一つ。
 漆喰塗りの壁に埋めこまれた小さなかまど。水の入った素焼きの大きな瓶。薄茶色の紙切れがいくつも貼ってある壁には、鍋や木の大きなスプーンが吊るしてある。
 少女は卵の入ったカゴを、テーブルの上へそっと置いた。誰もいない部屋の中を突っ切って、寝室へ通じる戸口へ向かう。
「フォアンお兄ちゃん、まだ寝てるの!?」
 少女は大きな声で言いながら、戸口に下がった藍色の布をめくり上げた。
 薄暗い部屋の中で、ゆらりと影が動く。
「お兄ちゃん?」
 少女が眉を寄せて見つめていると、小さくきしむ音と共に木製の窓が押し開けられた。
 眩しい朝の光が、部屋の中へ射しこむ。
 窓の横にある寝台で、痩せた男が上半身を起こして座っていた。クセのあるこげ茶色の髪は、寝グセでぼさぼさ。眩しいのか眠いのか、目を細くあけたりつむったりを繰りかえしている。
 少女は男の様子に小さく笑い声をもらすと、首を傾げて言った。
「おはよう、フォアンおにいちゃん」
 フォアンは目を細めて、戸口に立っている少女を見つめた。
 少女の顔、そして髪の長さを確認すると、フォアンは一呼吸置いてから口を開いた。
「おはよう。トリニダード」
 名前を呼ばれたトゥリニは、にっこりと微笑んだ。腰に手をあてて得意げに、
「いつもの作ってあげるね!」
 と、元気よく言うと、トゥリニはいそいそと台所へ引っこんだ。
 フォアンたちの暮らす町「グラン・ビブリオテカ」、通称リブロでは、栄養の偏りがちな学者や学生のために、無料で卵を配付している。配付を担当しているのは、リブロに住む八歳から十一歳までの元気な子供たちだ。
 九歳のトゥリニは、双子の妹のチャロと日替わりで、フォアンの住む区画の家々へ毎朝卵を届けている。
 フォアンの住んでいる部屋は、路地の一番奥にある集合住宅の、中庭から階段を上った二階だ。そのために、トゥリニたちはいつも、フォアンの部屋へ最後に卵を届けていた。
 そして、フォアンが日数の経った古い卵を生で食べるところを目撃した日から、トゥリニたちは、食事に無頓着で自分で調理をしないフォアンのために、卵を料理することにしたのだ。
 トゥリニは爪先立ちをして、壁に吊るしてある小さな鍋を取った。かまどに火をおこして鍋を置く。
 しばらくして、トゥリニは温まった鍋に黄緑色の油を垂らした。さわやかなオリーヴの匂いが香り立つ。
 トゥリニはテーブルの上から卵を持ってくると、鍋へ直接割り入れた。
「あ!」
 トゥリニの口から、小さな叫び声がもれた。
 鍋の中に、大きな卵の殻が入っている。
 トゥリニはあわてて木のスプーンを差し入れた。が、黄身がつぶれて広がり殻は細かく砕けるばかり。
 そっと振り返ってフォアンが見ていないのを確認したトゥリニは、鍋の中身をスプーンで勢いよくかき回した。
 見る見る間に、黄身と白身と細かな殻が混ざっていく。やがて、卵の焼けた芳ばしい香りが漂いはじめた。
 トゥリニが卵を焼いている間、フォアンは何度か台所と寝室を行き来して、顔を洗い、髪をなでつけ、服を着替えて身じたくを整えた。
 フォアンが椅子に座ると、ちょうどトゥリニは出来たてのいり卵を小皿に盛ったところだった。
「できたよー」
 トゥリニはいそいそと小皿を運んで、テーブルの上へ置く。
「あ、忘れてた」
 トゥリニは小さく言うと、調理に使っていた木のスプーンを持って駆け戻ってきた。
「はいっ」
 勢いよくスプーンを差し出されて、フォアンは受け取りながら微笑んだ。
「ありがとう」
 フォアンはいり卵をスプーンですくって食べはじめた。
 トゥリニはフォアンの向かい側の椅子へよじ登った。テーブルに頬杖をついて、足をぶらぶらさせながら、フォアンの食べる様子を見つめる。
 フォアンは痛いほどの視線も気にせずに、黙々といり卵の山を減らしていく。と、フォアンの歯が、小さなきしみ音を出した。
 トゥリニは大きな目を更に見開いて、フォアンの口元を見つめた。
「ガリッ。ガリッ」
 殻を噛み砕く音が部屋の中へ響き渡る。
 フォアンは殻に気がついているのかいないのか、前と変わらないペースで平然と食べ続けた。
 やがて、皿を空にしたフォアンは、スプーンを置いた。
「美味しかったよ」
 その言葉を聞いて、トゥリニは満面に笑顔を浮かべて答えた。
「どういたしまして」
 二人が部屋を出ると、階段の踊り場に真っ白な猫が寝そべっていた。緑と黄色の瞳で二人を見つめながら、ゆっくりと身体を起こす。
「ブランカだ!」
 トゥリニが大きな声で叫ぶと、猫はちらりと少女を見て前足をなめはじめた。
 フォアンは屈むと、ブランカの背中をゆっくりとなでた。続いて、首をなではじめると、ブランカは目を細めた。
「ここ、日当たりいいもんね。ブランカ、日向ぼっこしてるんだねぇ」
 トゥリニが何度も頷きながら言う。
「そうだな」
 フォアンはブランカをなでながら、小さく答えた。ブランカは自分の前足の付け根をぺろぺろとなめはじめた。
 そわそわと階段の下を覗きこんでいたトゥリニは、じれったそうに言った。
「ねぇ。もう、行かなきゃ。パンを食べる時間ないよ」
 フォアンはようやく、ブランカをなでている手を止めて、立ち上がった。
「先に行くよ」
 トゥリニは空のカゴを勢い良く振りながら、どんどんと階段を下りていく。続いてフォアンが階段を下りはじめると、ブランカが名残惜しそうな声で鳴いた。
「もう、ブランカ。ミアウミアウ鳴いたって駄目なんだからね!」
 階段の下で、トゥリニが叫んだ。
 フォアンは小さく笑い声をもらして、階段を下りた。
 トゥリニが先になって、土がむき出しの殺風景な中庭を通って行く。他の部屋の住人たちはさきに出かけたのだろう。物音一つ聞こえない。
 アーチ型の暗い通路を通り抜けて、二人は路地に出た。
 人がようやく二人並んで歩ける広さの狭い道だ。両側には二階建ての集合住宅が壁を接して並び、隙間なく白壁が続いている。
 高台にあるリブロの町の周囲は塔と城壁が囲んでおり、東南の塔門がただ一つ町の外へと開かれていた。
 東側には、露店の並ぶ広場や商店の集まる通りが。住宅地を挟んだ反対側には、大学や大図書館、緑豊かな中庭を持つ宮殿跡などがある。
 フォアンはトゥリニと別れて、広場へやってきた。広場を取り囲むように、屋台や露店が店を出している。
 香ばしい油の匂いを嗅ぎつけて、フォアンは一つの屋台へ近づいた。赤ら顔の男が、油の中から次々と揚げたてのパンを取り出している。
 フォアンは細長い揚げパンを買って、かじりながら職場の大図書館へと歩いていった。
 大図書館には、アラビア語をはじめとした様々な文書が各地から集められている。それを翻訳するのが、フォアンの仕事だった。

 1-2

  其は永遠に横たわる死者にはあらず
  測り知れぬ永劫のもと、死すら絶えるものなり

 フォアンは羽根ペンを動かすのを止めて、低く唸った。
「うーん」
 羽根ペンを置き、頬づえをついて軽く目を閉じる。フォアンが考えこむときの、いつもの姿勢だ。
 フォアンは他の翻訳者たちとともに、大図書館の天井まで吹き抜けになっているホールのような大部屋にいた。
 部屋を覆う天蓋はドーム型で、二階に相当する高さにぐるりと二連窓が連なっていた。射しこむ明かりが幾つもの光の筋となって空中で交差して、部屋の中を照らし出している。
 中央にずらりと並んだ、木製の大きな長机と二人掛けの長椅子。煤けた背表紙の本が並んだ、壁一面の書棚。床に平積みされてた木製の大きくて重い本。彩色された豪華な装丁の本から、壊れやすいパピルス製の細く巻いた書物まで、机と机の間に積み重ねられて山になっている。
 翻訳家たちは、机に取りつけられた頑丈な木台に本を立て掛けて、長椅子を一人で使って作業をしていた。
 椅子の空いている部分にまで辞書や資料を置いている者もいれば、長机に本と資料を並べて、座る位置を横に移動しながら作業している者もいる。
 その机や本の山の間を縫うようにして、中年の小柄な男が歩き回っていた。
 翻訳者たちの手元を覗きこみ、何事か呟いたり頷いたりしている。
 男はフォアンの前にやってくると、咳払いをしてから言った。
「作業は進んでおるかね」
 すぐにフォアンは目を開けて、答えた。
「考えていたのです」
 男は眉尻を下げて、泣き笑いのような表情を浮かべて言った。
「まさか君まで、駄目だと言ったりしないだろうね。君だけが頼りなんだよ」
 フォアンは眉を寄せて、自分の目の前に立て掛けている本を見つめた。金色の縁取りの中を、のた打ち回る蛇のようなアラビア文字が埋め尽くしている。
 フォアンは文字の一部を指し示して言った。
「ここの他にもアザトートという言葉が出てくるのですが、これはアゾートの誤記ではないかと……」
「ふぅむ」
 男は瞬きを繰り返すと、やがて口を開いた。
「いや、いい。元のままで書いてくれ」
「わかりました」
 フォアンは羽ペンを持ちながら淡々と言うと、細かな文字でびっちりの紙にアザトートと書き加えた。
「とにかく、よろしく頼むよ」
 そう念を押すように言い残して、男は立ち去っていった。
 フォアンが今翻訳しているのは、モーロ人の血を引く同僚ですら「こんな本は読めない!」と、さじを投げた本だ。
 装丁はとても豪華で、手に吸い付くような柔らかな革に、青や赤、金色の細かな模様が描かれ、金具で止めてある。中の紙はしっかりとした張りがあって、少し厚い。
 だが、中に書かれている文章は、凝った奇妙な言い回しが多く、何を伝えたいのかよく判らない代物だ。
 フォアンは表紙の革を手でさすりながら、小さく息を吐いた。
 正午を知らせる教会の鐘の音が、低く空気を震わせるように響いた。
 途端に本を閉じる音や椅子を引きずる音が響く。待ち構えていたように立ち上がった数人の男たちが、どやどやと部屋を出て行った。
 陽射しの強いリブロでは、昼食後の午睡を習慣としているために昼休みの時間はたっぷりとある。
 フォアンは上着を肩へかけると、翻訳中の本を抱えてゆっくりと部屋を出た。
 嵌木細工の天井の長い廊下。続いて、白大理石の列柱が並ぶ小部屋。
 フォアンはちらりと、図書館長の席を見つめた。ぴかぴかに磨かれた象嵌細工の楕円形のテーブルの上には、積み重ねられた本の山。背もたれつきの長椅子には、派手な色彩のアラベスク模様のクッションが並んでいる。
 昼食を摂りに出かけたのか、図書館長の姿はない。
 床に映りこんでいる小窓の形の光を踏んで、フォアンはアーチ型の戸口を潜った。


 雲ひとつない青空。
 フォアンは目を細めて、大図書館を仰ぎ見た。
 細かなアラベスク模様とアラビア文字で飾られた外壁は、陽光を反射して眩しいほど白く輝いている。
 大図書館の他、リブロにある多くの建物は、昔この地を支配していたモーロ人が造ったものだ。現在は大学や教会として使われている建物、邸宅や美しい中庭も彼らが残したものだという。
 土ぼこりで汚れた服を着た数人の男たちが、フォアンの横を通り過ぎた。
 大声で、どこの屋台の揚げ物が美味しいのかを言い合っている。恐らく、屋台や露店の並ぶ広場まで行くのだろう。
 フォアンは、男たちとは逆方向へ歩き出した。
 左手に見える煉瓦造りの真四角の建物は、最近建てられた資料庫だ。既に翻訳し終えた書物が納められている。
 最新の建築法で建てられた資料庫も、モーロ人の建物が並ぶ中では、やけに無骨に見えている。
 フォアンは右に曲がって、狭い路地に入った。この辺りは、公開されているモーロ人の建物の中で一番奥まっているためか、いつも静かで人気がない。
 フォアンはアーチ型の入り口を潜った。
 暗く、ひんやりとした通路。仄かに甘い香りが漂っている。
「咲きはじめたか」
 フォアンは小さく呟くと、足早に通路を通り抜けた。
 通路の突き当りを曲がると、急に視界が開けて眩い光が目に飛び飛びこんできた。光踊る中庭だ。
 椰子の木を模したという、立ち並ぶ細い柱。その向こうでさざめく緑の波は、床よりも掘り下げられた場所に植えられたオレンジの木だ。
 濃い緑色の中に、小さな白い蕾とほころびはじめた真っ白な花が散りばめられている。
 中庭の中央にある大きな大理石の水盤は、まるで緑の海に浮かんでいるようだ。
 水盤の中心から水が高く噴きだして、輝く真珠のようなしぶきを散らしている。
 オレンジの葉の間から見え隠れしている、水盤を支える十二頭の獅子像。かつて、その口から交代で水が噴出し、時を知らせていたという。
 フォアンは大理石の床に足を投げ出すようにして座りこみ、壁に寄りかかった。外套をはおり、床に置いた本の表紙に触りながら目を閉じる。
 心地よい水音。滑らかな手触り。肌の上を通り抜けていく爽やかな風。
 フォアンは長い昼休み時間を、食事も摂らずにここ「オレンジの庭」で過ごすのが日課だった。

 1-3

 晩課の鐘が鳴り響く中、フォアンは羽根ペンを置いた。
 仕事の終了時刻だ。
 フォアンは本と翻訳した分の紙を持って、小部屋へ向かった。
 図書館長のもとには、既に先客があるようだ。話し声が聞こえる。
 フォアンが小部屋に入ると、フォアンの同僚が顔を赤らめて立っていた。
 長椅子のクッションに、寝そべるようにもたれかかっている中年男が図書館長だ。
「それで、次の本はこれなんだが」
 図書館長は申し訳程度に生えた口ひげをいじりながら、張りついたような笑みを浮かべて古びた本を差し出した。
 男は、信じられないというように、自分の顔をごつごつした両手で覆って叫んだ。
「また、モサイカ第6の書ですか!」
「そう。また異本があったのでね」
 図書館長はさらりと言って、本を前へ押し出した。
「なんてことだ」
 男は呟きながら手を離すと、顔を赤らめて叫んだ。
「これで、もう、五度目ですよ! この書はもういいじゃないですか」
「いやいや、これはフランス語のものだからね」
 図書館長は本を押しつけるようにテーブルの端に置いて、再びクッションに寄りかかった。
 男は青ざめると、大げさに手を振りまわして、後退った。
「そんなこと言ったって、どれも同じじゃないですか!」
「いや。どこか文章が違うかもしれないから、とにかく訳してくれたまえ」
 その図書館長の言葉を聞いて、男は頭を抱えてぼやいた。
「そんな。この間のなんか、たった1語しか違わなかったのに……」
 図書館長は、ゆったりと寄りかかったまま平然と言った。
「とにかく、明日からはこの本だから。よろしく」
「はぁ」
 男はフォアンの方を見もせずにとぼとぼと小部屋を出て行った。
 フォアンはがっくりと肩を落とした男の背中を見送って、図書館長の前へ進み出た。
「やあ、フォアン君。待たせてしまったね」
 図書館長は軽い調子で言うと、フォアンの差し出した翻訳文を受けとった。ざっと目をとおして、笑みを浮かべて訊く。
「なかなか調子がよさそうだ。あと三日くらいかね」
「はい。そのくらいで終わるかと」
 フォアンが淡々と応じると、図書館長は頷いて言った。
「それじゃあ、次の本を考えておこう」
「はい。お願いします」
 フォアンはそのまま小部屋を出て、大図書館を後にした。


 雪を抱いた南東の山々が、夕日の照り返しで紅く染まっている。
 山から吹き降ろす風は、春だというのに冷たい。外套を大図書館に忘れたフォアンは、風が吹きこまないように襟元を手で抑えながら歩いた。
 大図書館より一段低い場所にある大学は、モーロ人の礼拝所(メスキタ)だった建物だ。
 正面の入り口は東南側にあり、反対側に当たる大図書館側は、何の飾りもない壁が続いている。
 フォアンが大学の横を歩いて行くと、前方に二人の少女が立っていた。釉彩タイルで飾られた出入り口の前で、学生らしい若い男に何やら必死に訴えている。
「だって、タマゴが二個も残ってたんだよ!」
 聞き覚えのある声に、フォアンは急ぎ足で近づいていった。
「他の人だったらちっとも変じゃないけど、だって、ホセだよ!」
 身振り手振りを交えながら大きな声で説明しているのは、トゥリニだ。肩までの長さの栗色の髪が、身振りをするたびに前後に大きく跳ねる。
 そのすぐ側に、半ば隠れるようにして立っているトゥリニとそっくりな顔の少女がチャロ。背中まで伸びた栗色の髪が、風になびいている。
 チャロはちらりとフォアンの方を見ると、トゥリニの腕を引っぱった。
 くるりと振り向いたトゥリニは、ぱっと顔を輝かせて叫んだ。
「あ、フォアンお兄ちゃん!」

 トゥリニはフォアンに駆け寄って、足にまとわりついた。すぐにチャロが、姉の真似をする。
「ホセが何か?」

 フォアンが眉を寄せて訊くと、トゥリニは早口でまくし立てた。
「ちょうど良かった。あのね、昨日も今日もホセが居なかったの。それから、タマゴを二つも! 残してるの」
 トゥリニの言葉に、真剣な顔をしたチャロが何度も頷いた。
「う〜ん」
 フォアンは軽く唸って、腕を組んだ。
 ホセは、フォアンと同じ集合住宅に住んでいる変わり者のアルケミストだ。ちょうどフォアンの真下の部屋と、その下の地下室を使っている。
 学生は小さく咳払いをすると、口を開いた。
「確かに、彼はずっと大学には来ていませんよ。でも、珍しいことじゃないですし。騒ぐことはないでしょう」
「だって……」

 トゥリニとチャロは眉を寄せて顔を見合わせると、同時に叫んだ。
「タマゴを残したことなんて、今まで一度もなかったんもん!」
 チャロの声は、トゥリニの大声にかき消されてしまったようだ。
 学生は困ったように、頭をかいた。双子は互いに手を取り合って、困ったような顔で学生を睨んでいる。
 フォアンは首をひねった。
 確かに、ホセは食べるのが好きで、太めの体つきをしている。
 実験中に生じる水銀の虹色の金属光沢が好きで、ついたあだ名が「トルナソル」。その光沢を見ていないと、食欲もわかないのだという。
「……星辰の配置は……」
「いや、それは違う」
 大学の中から、何事か言い争う声が聞こえてきた。
 フォアンたちは、出入り口を見つめた。
「ですから、水星の角度はこうでしょう」
 柔らかい調子の男の声。
「いいや、君は間違っとる!」
 唾を飛ばしながら話しているような、大きな声。
 学生は声の主を目にすると、あわてて出入り口から避けた。
 最初に現れたのは、金茶色の髪をした三十歳くらいの男だ。額が広く、つやつやとした血色のいい肌をしている。
「ミゲルさんだ!」
 トゥリニが叫んだ。
「おや、お嬢さんたち。ここで会うなんて、珍しいね」
 ミゲルはにっこりと微笑んで、トゥリニとチャロを交互に見つめた。
「こんにちは。ミゲルさん」
 チャロが消え入りそうな声であいさつをする。
「んん、出入り口に集まって、何をやっておる。何かあったのか?」
 次いで出てきたのは、四十歳代のがっちりとした体つきの男だ。焦げ茶色の髪はやや薄く、骨ばった四角い顔をしている。
「いえ。アルケミストが一人、家に帰らないとかで。テ、テオ、テオフラストゥス先生をわずらわすような問題じゃありませんから」
 学生は、緊張した面持ちで答えた。
「ん? アルケミストとな。まさか、トルナソルではあるまいな」
 テオフラストゥスはずずっと学生に近づきながら訊く。
「いえ。その。二日居ないだけですし。たいした問題では……」
 学生は大学の中へ後退りながら、もごもごと口を動かした。
 テオフラストゥスの片眉がぴくりと動いた。
「なんだ? はっきりと言いたまえ!」
 学生が泣きそうな表情になったのを見て、フォアンが答えた。
「トルナソルですよ。アルケミストの、ホセです」
「なんと、ホセとな! 私は、奴に返してもらわねばならん物があるぞ!」
 テオフラストゥスは辺りに響き渡る大声で叫んだ。
「それでは、家に戻っているかもしれませんから行ってみますか?」
 フォアンが提案すると、双子は何度も頷いた。
 テオフラストゥスは腕を組んで言った。
「それがいい。そういえば、君は誰かな。私は、テオフラストゥス・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム。医学者だ」
 テオフラストゥスは、教授として大学に招かれた北方出身の医者だ。大学に程近い、かつてモーロ人の有力者が住んでいた館で暮らしている。
「テオフラストゥス先生ですね。噂はかねがね伺っています。私はフォアン。ホセの部屋の上に住んでいます」
 フォアンの答えに、ミゲルは指を鳴らした。
「ああ、翻訳家の方ですね。私はミッシェルです。ミッシェル・ド・ノートルダム」
 三人が名乗りあっている間、トゥリニとチャロはぶつぶつと繰り返していた。
「テオ、テオ……?」
「テオフ……ス?」
 その双子の様子に気づいたテオフラストゥスは、口を開いた。
「ん? 発音が難しいかな。それじゃあ、パラアヴィセンナと呼んでくれたまえ」
 トゥリニとチャロは揃って首を傾げた。
「パラ、パラア……?」
「パラ……センナ」
「うむ」
 テオフラストゥスが頷く。
「パラセンナ先生!」
 双子が同時に叫ぶと、テオフラストゥスはいかつい顔を和らげて、満足げに頷いた。
「うむうむ」

 1-4

「ほら、タマゴが二個あるよ!」
 ホセの部屋へ入るなり、トゥリニが叫んだ。
 フォアンがランプを高く掲げると、テーブルの上に並んだ卵が二つ、白く浮かび上がる。
 用があるというミゲルと途中で別れて、フォアンたちはホセの部屋へ来ていた。外は既に薄暗く、室内はフォアンが自室から持ってきたランプで照らし出されていた。
 テオフラストゥスことパラセンナは、ずかずかと部屋の奥へと入っていく。トゥリニとチャロは薄闇が怖いのか、手をつないでテーブルの前に立っていた。
 フォアンはランプを高く掲げて、壁を照らし出した。白い漆喰塗りの壁に散った染みが、はっきりと見えている。
 壁のランプ掛けにホセのランプがないのを確認して、フォアンは自分のランプを掛けた。
   木製のテーブルの上に皿が三枚、無造作に並んでいる。皿には油が残っており、使ったまま出しておいたようだ。
 トゥリニはぐるりと部屋の中を見回して、口を開いた。
「どこも変わってないよ」
 チャロが小声で付け足す。
「朝に見たときのまま」
「う〜む」
 パラセンナは、唸り声を上げて部屋の中を見回すと、棚にずいっと顔を近づけて何かを探している。
「テオフラストゥス先生、何かお探しですか?」
 フォアンの言葉に、パラセンナは振り向いた。
「うむ。ホセに貸した物が、どこにあるかと思ってな」
「何を貸したのです?」
「メルクリアリスだよ」
「……それはまた、珍しい植物を」
 フォアンの答えに、パラセンナは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「うむ。ホセの奴は、ホムンクルスを創るのに使う、と言っておったぞ」
「まさか!」
 驚くフォアンの様子に、パラセンナは満足げにうなずいた。
「いいや、創れるぞ。なにせ、ホムンクルスならわしも創っておる!」
「ご冗談を。『生命の水(アクア・ヴィタエ)』でしょう」
 フォアンの言葉に、パラセンナは目を細めた。
「むむ、なかなか博識だな。わしが言えば、みんな素直に信じるんだが、お前さんは騙されんかったか」
 その言葉に、フォアンは苦笑いを浮かべた。
「ねー、こっちにもいないみたいだよ」
 トゥリニとチャロが、暗い寝室を覗きこんでいる。
 フォアンは壁のランプを外して、戸口に張り付いている双子の間を通って寝室へ入った。パラセンナが後ろからついてくる。
 寝室の中は、シーツなのか毛布なのか、しわくちゃになった布が散らかっていた。
 双子の言ったとおり、ホセは居ない。
 壁に引っかけた皮製の外套が、黒い染みのように見えている。
「地下室も見てみようか」
 フォアンが言うと、双子は黙ったままこっくりとうなずいた。
 フォアンはランプを持ち、先に階段を下りていく。そのすぐ後ろをトゥリニとチャロが、最後にパラセンナが続く。
 階段を半ばまで下りると、地下室の中がぼんやりとランプで映し出された。
 乱雑におかれた実験器具が鈍く光る。部屋の隅々は、果てのない暗闇のように見えた。
 フォアンはランプで壁を照らして、ホセのランプが掛かっていないのを確認した。
「ランプを持って、どこかに出かけたままのようですね」
   フォアンの言葉に、パラセンナはうなずいた。
「昨日、いいや、一昨日かな。夜のうちに、どこかへ出かけたんだろう」
「でも、でもっ。変だよ」
 トゥリニは口を尖らせた。
「んん、どこが変なのかな」
 パラセンナが屈みこんでトゥリニをじっと見る。トゥリニはフォアンの身体の陰に隠れるようにして、口を開いた。
「お皿が出てるから変なんだもん」
「お皿が出てる?」
 フォアンが首を傾げると、チャロが慌てて答えた。
「あの。ホセは、いつも食べたお皿を洗い場に持っていって洗うの」
「フォアンお兄ちゃんと違って、自分でね!」
 そう、トゥリニが付け加える。
「いや……洗おうとは思っているんだけど」
 フォアンはしどろもどろに言って、顔を赤らめた。パラセンナは地下室中に響くような大声で笑いはじめた。
 チャロが困ったように、小声で言う。
「あの。私は、フォアンお兄ちゃんを責めるつもりはなくって……」
 ホセは他の場所は散らかしておくのに、台所だけはいつもきれいに片付けていた。自分で料理もするし、水銀の金属光沢を見ながらだと、周りが呆れるほどよく食べる。
 パラセンナは、ゆっくりと確認するように言った。
「つまりだ。ホセはちょっと出かけるつもりが、まだ帰ってきていないということだな」
 双子は何度もうなずいた。
「そうですね……」
 フォアンは目をつむり、考えこんだ。
 ホセは本当に、自分で外に出たのだろうか。外套も羽織らずに、ランプを持って?
「フォアンお兄ちゃん、寝てるの?」
 すぐにフォアンが目を開けると、トゥリニが下から顔を覗きこむようにして、見上げていた。
「いいや、考えていたんだよ」
「ふ〜ん?」
 トゥリニが首をかしげて、不思議そうに見つめている。
 フォアンは咳払いをしてから言った。
「今日はもう遅いから、二人とも家まで送って行くよ」
「うむ。では私も明日、また来てみることにしよう」
 パラセンナはそう言って、先にたって地下室を後にした。


 翌日の朝。
 ドアを叩く小さな音に、フォアンは浅い眠りから覚めた。急いで毛布をはねのけて、寝グセのついた頭を手でなでつけながら扉へ向かう。
 フォアンがゆっくりと木戸を開くと、長い栗色の髪の美少女が立っていた。
「おはよう、フォアンお兄ちゃん」
 少女は卵の入ったカゴをしっかりと両手で抱え持って、緑色の大きな瞳でフォアンを見上げている。
「おはよう、ロサリオ」
 フォアンが少女の名を正式に呼ぶと、チャロはにっこりと明るい笑顔を浮かべた。
 少女は調理台の前へ立つと、はっとしたように息を呑んで、くるりと振り向いた。
「フォアンお兄ちゃん、お皿、洗ったの?」
「そう。汚しておくのもなんだしね」
 フォアンは頭をかきながら言った。チャロは眉を寄せて首を傾げると、口を開いた。
「でも、夕べはもう暗かったのに……。あの後で、洗い場に?」
 フォアンは黙ったまま頷いた。
 夕べ、少女たちを家へ送った後に、フォアンは汚れた皿を持って共同の泉亭へ行った。
 かつて、モーロ人が礼拝の前に手を清めるために使っていたという泉亭は、給水口がモザイクタイルで飾られ、白大理石の水盤がある立派なつくりだ。
 フォアンは真っ暗な中、給水口の上にランプを置いて、手元を照らしながら皿を洗ったのだった。
「昨日のことなら、ぜんっぜん気にしなくってもいいのに」
 チャロはそう言って、クスクスと笑い声を漏らした。
 フォアンは咳払いをすると、口を開いた。
「ホセは戻っていた?」
 チャロは首を左右に振ると、眉を寄せて答えた。
「テーブルの上も、昨日見たまま」
「そうか」
 フォアンは、ため息混じりに言った。
「ホセ、どうしたのかなぁ?」
 チャロが不安そうに言う。フォアンは、明るい調子で言った。
「大丈夫だよ。午後から休みを貰って、探してみるから」
「うん」
 チャロは小さく返事をすると、かまどに向かった。
 瓶から水を汲んで鍋に入れ、細長い葉をちぎってスープを作っている。
 フォアンはその間に、身支度を済ませた。
「はい。煮タマゴの香草風」
 チャロは木製の深皿を差し出した。小さな鶏肉と香草の入ったスープに、白い卵が一つ浮かんでいる。
「ありがとう」
 フォアンは皿を受け取ると、スプーンですくって食べはじめた。卵にスプーンを入れると、とろりと黄身が流れ出た。
 母親から料理を教わりはじめたチャロは、いつも家から食材を持ってきて、覚えたてのタマゴ料理を作る。そうして、トゥリニと同じように、椅子に座ってじっとフォアンの食べている様子を見つめるのだった。
「美味しかったよ、ありがとう」
 フォアンの言葉に、チャロは照れたように頬を赤らめた。


 フォアンはいつものように途中で買ったパンをかじって、大図書館へ出勤した。
 図書館長は長椅子に座って足を組み、テーブルに肘をついて組んだ両手の上へ顎をのせて、翻訳者たちの出勤する様子を見ていた。
「おはようございます」
 フォアンがあいさつをすると、図書館長は姿勢を変えずに、淡々と言った。
「ああ、おはようフォアン。午後からあの先生の手伝いだって?」
「え?」
 フォアンは思わず問い返した。図書館長はじろりとフォアンを見あげて、答えた。
「さっきね、あの先生がわざわざここへ来て行ったよ」
 フォアンはごくりと唾を飲みこんだ。
「あの先生って、テオフラストゥス先生ですか?」
「そうだ」
 図書館長はそこで足を組み変えると、口を歪めて続けた。
「君、ずいぶんと気に入られたみたいだねぇ」
 フォアンは無言で翻訳中の本を受けとると、自分の席へ向かった。

 1-5

 正午の鐘の音が鳴り響く中、フォアンは急ぎ足で家へ戻った。
 ホセが帰って来ていないのを確認してから、自室へと階段を昇っていく。
「フォアン!」
 呼び声に驚いて中庭を見下ろすと、一陣の風が吹きこんで、土けむりが舞いあがった。
 フォアンはあわてて目を閉じた。髪が逆立ち、頬や額に砂塵が当たる。風が止んで目を開けると、路地から中庭へ通じるアーチの下に、パラセンナとミゲルが立っていた。
「ここに何か植えたらどうかな?」
 パラセンナは殺風景な中庭を見回しながら続けた。
「薬草なんてどうだね。種をわけようか」
「ええ、何か植えたほうがいいですよ。風が吹くたびに、これではね」
 ミゲルは中庭に出てくると、服についた砂を払った。
 フォアンは階段を降りながら、口を開いた。
「前はこの辺りに雑草が生えていたんですよ」
 中庭に降り立ったフォアンは、階段の下にある、ホセの部屋の入り口を示した。
「ホセが住みはじめたら、すぐに変色して枯れましたけど」
「枯れた?」
「変色?」
 パラセンナとミゲルは、首を傾げながらフォアンの側に来た。
「時折、ここから妙な臭いが漂うのです」
 フォアンは入り口脇の、地面近くにある小窓を指差した。鉄柱のはめこまれた小窓が、横に二つ並んでいる。
 パラセンナは覗きこむように、身を屈めた。
「ほほう。地下室の通風孔か」
「何か薬でも作ってたんでしょうかねぇ」
 ミゲルはパラセンナと同じように、小窓を覗きこんだ。
 再び突風が吹いて、衣の裾をはためかせた。
「これは、たまらん」
 パラセンナはすぐに、ホセの部屋の入り口に駆けこんで身を寄せた。
 ホセの部屋の入り口は、二階に上がる階段の幅の分だけ窪んでいる。木戸は窪みの奥に、部屋の中へ押し開く形でついていた。
 ミゲルが腕で顔を隠しながら、窪みに飛びこむ。
「早く、中へ入りましょう」
 フォアンの声に、パラセンナが木戸を押した。
 吹きこむ砂塵と共に、三人は部屋の中へ入った。

 
 部屋の中央部にあるテーブルには、夕べ見たとおりに汚れた皿が並んでいた。違いは、布巾の上に置かれたタマゴが、二つから三つに増えているだけだ。
「今朝一番で、塔門へ行って来たんですよ」
 ミゲルは、ややクセのある金髪を、何度もかきあげながら言った。パラセンナがすかさず言う。
「トルナソルは通らなかったと言っておったぞ」
「先生が無理やり台帳を奪って見ていましたから、間違いないです」
 ミゲルが付け加えると、パラセンナは眉を寄せた。
「ん? 奪ってなどいないぞ」
 右手で胸を叩いて、続ける。
「私が見たほうが早いだろうと、彼らが渡してくれたのだよ」
「まぁ、そういうことにしておきましょうか」
 ミゲルが笑いながら応じた。フォアンは腕を組んで考えこんだ。
「では、ホセはこの町のどこかに?」
「うむ。奴の体型では、城壁越えは無理だろうし、そうする理由もないだろうな」
 パラセンナの言葉に、フォアンは頷いた。
 ここは小高い丘の上に作られた町だ。城壁を乗り越えて急斜面を降りるとなると、身軽な者でも難しいだろう。
「ここへ来る途中にいくつかの露店で尋ねたんですが。みなさん、ここ二、三日の間にトルナソルを見ていないと言ってました」
 ミゲルが言うと、パラセンナが先になって階段に足をかけながら言った。
「うむ。とにかく、何か手がかりがあるかもしれんから、地下の研究室でも見てみようか」


 通風孔から放射状に射しこむ光で、地下室の中がぼんやりと照らされていた。
 土の床や壁に、様々な道具が散らかっている。室内は、一階の台所部分よりも広いようだ。
 フォアンたちは、床に落ちている道具を踏まないように気をつけながら、中央にある大きなテーブルへ近づいた。
 赤茶色の粉の入った乳鉢と乳棒。漏斗のさしこまれたガラス瓶には、なにやら液体がたまっている。
 無造作にちぎられた粘土の塊。淡黄色の結晶が凝結した、瓢箪型蒸留瓶。
「へぇ。これは何でしょうかねぇ」
 ミゲルはもの珍しそうに、蒸留瓶に付着した結晶を観察している。
「おお! 『塩』を取り入れているとは」
 パラセンナは感嘆の声を上げて、大きな白い石のような塊の前へ近寄った。
「私の教えを守っておるようだな。うむ、うむ」
 パラセンナは腰に手をあてて、何度も頷く。
「岩塩ですか?」
 ミゲルは大きな塩の塊を見て、首を傾げた。
「そう。従来のアルケミーにおける最大の欠点は、『塩』を重視しなかったことなんだよ」
 なおも頷いているパラセンナの横で、ミゲルは鮮血を散らしたような赤い石に手を伸ばした。
「これは、なんて禍々しい色だ。……う、重い」
 ミゲルは右手で持ちきれずに、あわてて左手を添えた。
「ああ、それはシナブリオです。水銀を抽出する石ですよ」
 フォアンが言うと、ミゲルは叫んだ。
「水銀? こんな赤い石が?」
 ミゲルは目を見開いて、まじまじと両手に抱えた石を見つめた。
「ええ。確か、硫黄と混合しているはずです」
 フォアンが答えると、パラセンナはずずっとフォアンへ顔を近づけた。
「昨晩も思ったんだがな、もしや、お前さんもアルケミストかな」
 フォアンはあわてて後退りながら、両手を左右に振った。
「いえ。以前翻訳した書の中にありましたので」
「ほう。いい記憶力だ。土星の加護が強いようだな」
 パラセンナはじっとフォアンを見ながら言った。
 石を元の場所へ戻したミゲルは、手についた石の粉を叩き落とした。ふと、壁できらりと光るものに気づいたミゲルは、壁のくぼみを利用した棚へ駆け寄った。
「おお、これは!」
 ミゲルは大声で叫ぶと、小型の炉の上に載っている、冷却装置〈モーロ人の頭〉のついた蒸留器をまじまじと見つめた。
「ふ〜む。なかなか立派な蒸留装置ですねぇ。これは、最新式ですよ」
 ミゲルは誰に言うともなしに呟きながら、ガラス製の収集瓶を覗きこむ。
「なんだ、何も入ってませんねぇ」
 ミゲルは大げさに肩をすくめて、がっかりしたように言った。
 パラセンナは、部屋の中を大股でのしのしと歩いていた。倒れて転がっている木椅子の横を通って、大きな水がめに近づく。
 水がめを覗きこんだパラセンナは、顔をしかめて懐から蝋燭を取り出した。火をつけて、水瓶の陰に灯りを近づける。
「んん? これは!!」
 パラセンナの大きな声に、フォアンとミゲルは大急ぎで駆けつけた。
「どうしました?」
「何かありましたか?」
 パラセンナは、水がめの陰から、広げたままの汚れた書物を拾いあげた。開いたページに小さな染みが出来ている。
 パラセンナは蝋燭に息を吹きかけて消した。
「それは何の本です?」
 ミゲルが眉を寄せて訊くと、パラセンナは答えた。
「ビールーニーの写本だよ」
 ミゲルは両手を打ち鳴らして、言った。
「あぁ。天球儀を改良した人ですね」
「そうです。天文学の他にも、鉱物学など、いろいろな著作があります」
 フォアンが淡々と言うと、パラセンナは本の背表紙をミゲルへ見せた。
「あぁ、『ジャマーヒル』ですか。確か、鉱物学の書ですね」
「うむ。金鉱石についてのページが開いてあったぞ。だが、落ちていたことを考えると、あまり活用してなかったのだろうな」


 しばらく研究室を探しまわった三人は、階段の側へ集まった。
「手がかりはなしか」
 パラセンナが遠くを見据えるような表情で言った。
「ええ。ここにあるのは、アルケミーらしい道具ばかりですね。手がかりになりそうなものもない」
 ミゲルがため息を吐きながら言う。
 以前に研究室へ入ったことのあるフォアンが、頷きながら言った。
「荒らされた様子もないですね」
「一瞬にして夜露のように消え失せたか、はたまた、翼を生やして飛んで行き失せたのか……」
 ミゲルは詠うように呟きながら、通風孔を見上げた。
 視線を落としたフォアンは、階段の横に丸いものがいくつも転がっているのに気づいた。よく見ようとして、屈みこむ。
「何かありますか?」
 ミゲルが首を傾げて訊いた。
「いいえ。ただ、ここはまだ、調べていなかったと思って……」
 フォアンの答えに、ミゲルは頷いてフォアンの横へ並んだ。
「そうでしたね。あぁ、この臭い。タマネギかな」
 ミゲルはそう言いながら、鼻を覆うように手をあてた。
 光の届かないこの場所を、ホセはタマネギ置き場に使っているようだ。
「んん? 何だ?」
 パラセンナは、蝋燭に再び火を灯して覗きこんだ。
 床に転がっている薄茶色のタマネギが浮かび上がる。その奥に、黒々とした穴がぽっかりと開いていた。
「何だ、あれは?」
 フォアンはそろそろと穴に近づいて、言った。
「けっこう大きな穴ですね」
 大人一人が楽に通れるほどの大きさの穴だ。穴の縁から、朽ちかけた板が覗いている。板の上に、土が被せてあったようだ。
「ホセの奴、落ちたのかもしれんな」
 パラセンナが唸るように言う。
「他に考えられませんからねぇ。アルケミスト氏は土中へと消え失せたとか?」
 ミゲルが頷いて言う。
 フォアンはパラセンナから蝋燭を受け取ると、床に手をついて穴を覗きこんだ。床が嫌な音を立ててきしみ、縁の土が崩れてぱらぱらと落下する。下はかなり深いようだが、蝋燭の灯りでははっきりしない。
 フォアンは、ランプを取りに部屋へ戻った。

 1-6

 蝋燭を持ったパラセンナは、先に立って穴へ降りていった。
 フォアンがランプを持って駆けつけたときには、既にミゲルも床の下にいた。
「何かみつかりましたか?」
 フォアンが声をかけると、くぐもったパラセンナの声が下から響いた。
「降りてきたまえ! 通路になっておるぞ」
 土壁に階段状についた足跡をたどって、フォアンは壁をつたいながら降りていった。
 背の高いフォアンの頭すれすれの高さに、土を固めた天井がある。
 ランプで右を照らすと、緩やかに上っていく土の道が見えた。左側は下っているようだ。
 フォアンが辺りを見まわしていると、ミゲルは鼻にしわを寄せてうなった。
「う〜ん。地下室の更に下に、こんなところがあるなんてねぇ」
「ええ、驚きました」
 フォアンが応じると、ミゲルは腕を組んだ。
「もしかして、モーロ人が作った王族用の脱出用通路かもしれないねぇ」
 通路の一方へ行っていたパラセンナが、短くなった蝋燭で顔を照らし出しながら戻ってきた。
「向こうは行き止まりだったぞ。土砂がすっかり塞いでおった」
「すっかり塞がっているんですか?」
 ミゲルが眉根を寄せて言う。
「そう。向こうは上り坂になっておるから、崩れる前は地上に通じていたのかもしれんな」
 パラセンナの言葉に、ミゲルは首を傾げた。
「こんな所から地上に通じていたのなら、王族用じゃないですねぇ。城壁の外につながっていないと意味がないですし」
「ん、こんな所で考えていても無駄だぞ。向こうへ行ってみようではないか」
 パラセンナは顎で、少しずつ下っていく通路を示した。
 先になって歩いていくパラセンナの後を、ミゲルとフォアンは並んでついていった。
 どこからか水の流れる音が聞こえてくる。
 通路に沿って緩やかに左へ曲がると、水音が前方から大きく響いてきた。
 パラセンナは急に駆け出した。
「テオフラストゥス先生!」
 フォアンとミゲルは、同時に叫んだ。
 パラセンナはどんどん走っていく。と、急に立ち止まって、身をかがめて蝋燭を下げた。
 きらめきを放つ水面が、ぼんやりと炎の色に照らし出される。
「ほう。冷たい水だ!」
 パラセンナは右手を振って、しぶきを飛ばした。ふと、パラセンナの姿が闇の中に消えた。
「先生!?」
 ミゲルとフォアンは、あわてて駆け出した。
 ランプの灯りに、パラセンナのがっちりした背中が浮かびあがる。フォアンはほっとして、ランプを掲げて辺りを照らした。
「悪戯はやめてくださいよ、心臓に悪い」
 ミゲルの言葉に、パラセンナが淡々と言う。
「何もやっておらんぞ。蝋燭が燃え尽きただけだ」
 ホセの部屋から続いていた土の通路は、三人の目の前で石造りの通路に突きあたっていた。土の通路よりも一段低く、澄んだ水が流れている。
 ミゲルはパラセンナの横にしゃがんで、水に指を突っこんだ。
「雪融け水ですかねぇ」
 ため息混じりに言って、ミゲルは懐から取り出した花柄刺繍で縁取られた布で、濡れた指をぬぐう。
 フォアンは土の通路の端に、何やら光を反射するものを見つけて近づいた。炎の消えたランプが一つ。芯は黒ずみ、油は残っていないようだ。
 フォアンは首を傾げて呟いた。
「ホセのランプ?」
 フォアンは壁に立てかけてあるものに気づいて、灯りを近づけた。
 粘土で蓋をしたフラスコだ。中で、何かが流動してきらめく。
「こ、これは!?」
 思わず、フォアンは叫んでいた。
「何だ?」
 パラセンナはさっと立ち上がって近づくと、フォアンのランプを奪ってフラスコを照らした。中で水銀が、飴色に反射する。
「これは、トルナソルのか!」
 パラセンナは叫びながら、フラスコを拾いあげた。鼻にしわを寄せて、唸り声を出す。
「う〜む。これが落ちているとなると、事件だな」
「事件ですか?」
 ミゲルが目を瞬いて訊く。フォアンは頷いて、口を開いた。
「ホセは、どこへ行くにも、いつも水銀を持ち歩いていたのです」
「つまり、だ」
 パラセンナが大声で引き継いだ。
「これがあるとなると、奴が自分の意志でどこかへ行ったのではあるまいて」
 ミゲルは不安げに、後ろを振り返って言った。
「誰かを呼んできた方が良くありませんか?」
「いやいや。この通路がどこへ通じておるのか、確かめねばいかん」
 パラセンナは、目を輝かせて言う。ミゲルは、大きな動作で水の流れる通路を見つめると、口を開いた。
「でも、確かめるには水に入らなければならないでしょう? かなり冷たいですよ」
「その通り。では、行こうか」
 パラセンナはランプを持ったまま、ひょいと水に片足を入れた。
「せ、先生、今確かめるのですか」
 ミゲルが弱々しい声で言う。
「当然だ」
 パラセンナは膝下まで水につかると、ランプを持ったままどんどんと下流へ向けて水を漕いでいった。
 フォアンはすぐに、パラセンナを追って水に入った。
「待ってくださいよ!」
 置いていかれそうになったミゲルは、あわてて水に入った。
 少なめの水量なのに、床の傾斜のためか流れは速い。水の勢いに押されるようにして、三人はどんどんと進んでいった。
 脚はすっかりずぶ濡れ。歩くたびに跳ねる飛沫で、腰の周りまでびしょ濡れだ。
 水は靴の中にまで入り込み、歩くたびに中で嫌な音を立てて跳ねる。
「新調したばかりの靴だったのに、乾いたらきっと縮んでしまいますよ」
 ミゲルは足元を見つめながら、大げさに肩を落としてぼやいた。
 時おり後ろを振り返って、周囲に気を配りながら歩いていたフォアンは、気になっていたことを口にした。
「テオフラストゥス先生。下流に向かっているのは、何か思いあたることでもおありですか?」
 パラセンナは立ち止まると、下からフォアンを睨み上げた。
「決まっておろう。水の流れに逆らわんほうが楽だからだ」
「楽って……」
 ミゲルは立ち止まって、目を瞬いた。ホセの体型を思い浮かべたフォアンは、大きく頷いて言った。
「そうですね……。ホセを運ぶのは大変でしょうからね」
「その通り」
 パラセンナが、力強く言う。
 気を取り直したミゲルは、闇に包まれた上流を振り返って言った。
「でも、向こうに連れて行かれたのかもしれないですよね」
「その時はその時だよ。それよりも、ここが何のために造られたか気にならんか?」
 パラセンナは壁に近づいて、ランプを掲げた。
 石壁に彫られた、蔓の絡まったような連続模様が浮かび上がる。
「これはすごい。遺跡だったのか!」
 ミゲルは水を跳ね上げながら壁へ近寄ると、手を伸ばしてそっと模様へ触れた。
 パラセンナは模様に沿って、ゆっくりとランプを動かしていく。
 鹿、豚、鳥、人の顔。
 ミゲルはため息混じりに言った。
「私の生れ故郷の近くにも、ローマの遺跡があります。でも、これは違うようですね」
 フォアンはゆっくりと壁に近づいて、手でなぞった。ざらざらとした石肌は、少し湿り気がある。
 手を上へ滑らせて行くと、フォアンの頭ほどの高さに凹凸があった。
「何かあるかな?」
 パラセンナはランプを掲げて、壁の上方を照らした。
 いくつもの渦巻き模様が、通路に沿って帯状に続いている。
 フォアンの長い指先が触れていたのは、細かな渦巻き状の髪と髭を持つ人物の浮き彫りだった。
「この模様は!」
 フォアンは息を呑んだ。
「うむ、これで確信した。これは、ガリア人のものだ」
 パラセンナは大きく頷きながら言った。ミゲルが模様を見回しながら叫ぶ。
「あの、蛮族の!?」
「そう。イングランドを放浪していた時にな、辺境でガリアの遺跡を探索したことがあるのだよ」
 パラセンナの言葉に、ミゲルは目を見開いて、感嘆の声をあげた。
「おお。イングランドですか!」
 パラセンナは、重々しく頷いた。フォアンは、大きな鍋のような模様をなでながら口を開いた。
「彼らが、こんな南方にまで住んでいたとは、知りませんでした」
 ミゲルは遠い目をして、うっとりと言った。
「ここはかつて、水路ではなくて通路だったんでしょうねぇ。大発見ですよ」
「うむ。お? ここに、いいものがあるぞ。これが判るかな」
 パラセンナはいかつい顔をほころばせて、浮き彫りの一つを指差した。座っている人物の頭に、二本の鹿の角が生えている。
「それは、ケルヌンノスですね」
 フォアンが即答した。
「ん、なぜ知っとるのかな?」
 パラセンナはずいっとフォアンに近づいた。
「秘密です」
 フォアンが眉を寄せて言う。
「ほほう。秘密か。それはいい」
 パラセンナは大きな声で笑いだした。
 こだました笑い声は、やがて小さくなって水の流れる音にかき消された。


 ランプを受け取ったミゲルを先頭に、フォアンたちは水を漕いで歩いていった。
 通路が遺跡だとわかってから、ミゲルは急に元気になったようだ。何かが思い浮かぶのか、しきりに頷いたり、壁をランプで照らしたりしながら歩いていく。
 路はところどころで折れ曲がりながら、続いている。
 しばらく進むと、先に角を曲がったミゲルが叫び声をあげた。
 フォアンとパラセンナは急いで角を曲がる。と、前方に三人の男たちが立っていた。
 ランプを持った若い男を先頭に、顎ひげを生やした黒髪の男と腰の曲がった中年男だ。
 フォアンたちが丸腰なのを見て、黒髪の男と中年男がずいっと前へ進み出た。二人とも腰の剣に手を伸ばしながら、同時に叫ぶ。
「お前ら、上の町の奴らかっ」
「上の町に住む奴らだな!」
「むむ。私に任せなさいっ!」
 パラセンナはすっと腰へ手を伸ばした。
 黒髪の男は、剣を抜きながら馬鹿にしたように口を歪めて言った。
「じじいが何を」
 すらりと抜かれた刀身が、ギラリと光を放つ。
 ミゲルはランプを持ったまま、靴を後ろへ滑らせるようにして後退った。男たちは、ミゲルの動きにあわせるようにじりじりと間合いを詰めてくる。
 パラセンナは素早く小袋を取り出すと、威嚇するように振り上げた。
「二人とも下がっておれ!」
 そう叫びながら、袋を放り投げる。
 袋は見事に、黒髪の男の肩へ命中した。粉が舞い上がり、辺り一面に降り注ぐ。
「うわっ。なんだ、なんだ」
 男たちは涙を流しながら、咳やクシャミをはじめた。
 まともに粉を浴びた男は、剣を取り落として目や喉を押え苦しみだした。
 やがて、頬の筋肉をゆるめてだらしない表情を浮かべると、手足を震わせてその場に倒れた。
 大きく水が跳ね上がり、残りの男たちに跳ねかかる。
「くそっ!」
 倒れた男を見て、若い男はランプを持ったまま剣を抜いた。
 中年男は目を片手で押え、苦しげな呼吸音を漏らしている。と、急にとろけるような表情を浮かべて後ろへひっくり返った。
「うむ。配合がうまくいったようだな」
 パラセンナは腰に手を当てて、満足げに呟いた。
 若い男は真っ赤な目をして、震える手で剣を構えたまま突っ立っている。
「配合の違う薬しかないが……」
 パラセンナはそう呟きながら、再び腰に手を伸ばした。
 すると若い男はいきなり、前のめりに倒れた。大きな音を立ててランプが水中に落ち、炎が掻き消える。
「なんだ、つまらん」
 パラセンナは取り出しかけていた袋を腰へ戻した。
 ミゲルは、最初に倒れた黒髪の男を覗きこみながら訊いた。
「これは、催眠薬ですか?」
「そのとおり」
 パラセンナはそこで言葉を切ると、続けて言った。
「少なければ催眠効果があるが、多ければ死ぬ。他に、刺激性の薬も混ぜておるぞ」
「……いつも持ち歩いているのですか?」
 ミゲルが青ざめながら訊く。
「うむ。いつ、実践の機会があるか判らぬからな」
 そう言って、パラセンナは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 1-7

 くぐもったうめき声が、もれ聞こえた。
 フォアンは、倒れている若い男に近寄ると、髪の毛を掴んで水から顔をあげさせた。
 男は咳きこんで、口から水を吐きだす。
「んん? 『秘薬(アルカヌム)』が効かんかったか。まあ、いい。トルナソルのことでも訊くか」
 パラセンナは目を細めて、フォアンが体を押さえている男に近づいた。
 男はパラセンナの顔を見ると、がたがたと震えだした。顔は蒼白で、目は真っ赤に充血している。
「この連中はどうします?」
 ミゲルは、倒れている二人の男を見比べた。
 パラセンナはくるりと振り向いて、無表情に言う。
「水から顔を出してやらんと、死ぬだろうな」
「た、助けてくれ。お、俺たちはまだ、何もやっちゃいない」
 若い男は、震え声をだした。
「まあ、このままにしておくのも、寝覚めが悪いですし」
 ミゲルはランプをパラセンナに渡して、水の中から黒髪の男を引きあげた。上体を曲げて、壁にもたれ掛けさせる。もう一人も同様に、壁に寄りかからせた。
 黙ったままミゲルの作業を見ていたパラセンナは、ぎょろっと男を睨んで問いただした。
「さあ、お前たちはどこから来た? この水路はどこに出るのだ?」
 若い男は苦しそうに、息を漏らしながら答えた。
「こ、ここからそう遠くないところの、脇道から来た。水路の先は、知らない。行ったことがない」
「その脇道は、どこに出るのです?」
 ミゲルが訊くと、男は落ち着かなく目を泳がせながら答えた。
「山の……ふもとだ」
「そこから、町は見えるか?」
 フォアンが訊くと、男は薄目をあけて答えた。
「ヌエボなら近くだ。リブロの城壁も見える」
 リブロの南方に新しく造られた町の名が、ヌエボだ。
「ふむ。で、ホセの奴を知らぬか?」
 パラセンナは目を細めて、男の顔にランプを近づけた。
 男は眩しいのか、目を瞑って首を横に振る。それを見て、フォアンは口を開いた。
「知らないはずがないだろう? それとも、ここは大勢の人が行き来する道なのか」
「な、名前なんて、知らないんだ。本当だ。ただ、あ、アルケミストが一人……」
「それだ。そのアルケミストはどこにおる!?」
 パラセンナは男の耳元で大声を出した。
 男は赤い目を見開いて、体を震わせながら答えた。
「山の、小屋だ。脇道をでて、すぐ近くだ」
「ほほう。で、お前たちは何だ? ここの見廻りでもやっておったのか」
「い、いいや。その、アルケミストの道具を取りに……」
「道具!?」
 パラセンナは眉間に深いしわを寄せた。
「おおかた、金でも創らせようとしていたんでしょう」
 フォアンの言葉に、ミゲルも大きく頷く。
「むむ。だが、どうして奴がアルケミストだと判ったのだ?」
 パラセンナが訊くと、男は早口でまくし立てた。
「ひと月くらい前からだ。上から色々な物が流れてきたんだ。泥や、油みたいなのや、臭い色水だ。だから、俺たちは調べに行って、そしたら、怪しい奴をみつけた。そいつは、瓶の中身を水に流していやがったんだ」
 三人は顔を見合わせた。
 ミゲルがぽつりと呟く。
「いったい何を流していたのでしょうねぇ」
「ふむ。失敗作か何かであろうな」
 パラセンナが頷きながら言う。
「普段からそうやってここに来て、お前たちは何をやっていたんだ?」
 フォアンの言葉に、男は顔色を失った。
「ん? なんだ、言えぬようなことかね」
 パラセンナは目を大きく見開いて、男を睨んだ。
「い、いえ。その」
「ほほう。そんなに私の『秘薬(アルカヌム)』を試したいかっ」
 パラセンナは大声で言って、腰に手を伸ばした。
「や、やめてくれ。言う。言うから」
 男は大粒の涙をこぼしながら頼んだ。
「ほう? では、何だ」
「お、俺たちは、水路を見つけてから、リブロに出られないかと思って、ずっと調べてたんだ」
「なぜだ?」
 フォアンが間髪をいれずに訊く。
「そ、それは。城壁の中に忍びこめれば、簡単にお宝が盗める、と思って」
「ほほう。それで、何を盗んだのだね」
 パラセンナが訊くと、男はおびえて震えだした。
「何も、何も盗んじゃいない。本当だよ。あ、アルケミストを見つけたから、盗むよりもずっと儲かるからって」
 パラセンナは重々しく頷きながら、口を開いた。
「さて、必要なことは判ったから、あとは楽しい夢でも見ていてもらおうか」


 しばらく水路を進むと、男の言っていた通りの脇道があった。
 ホセの地下室の下にあった道のように、土でできており、急な上りの斜面になっている。
 三人は息を切らせながら道を登っていった。
 やがて、フォアンたちは、ごつごつとした岩の転がる、石切場のような場所にでた。眼下に広がる灰緑に霞むオリーヴ畑の向こうで、漆喰塗りの真っ白な壁が眩しく光っている。新しく造られたばかりの家々や教会の壁だ。
 フォアンはランプの炎を消すと、目を細めて辺りを見回した。
「こんな所にでるとは、驚きました」
「ええ。地下を歩いているうちに、方角が判らなくなりましたからねぇ」
 そう言ってミゲルは、小さなクシャミをした。自分の肩をさすりながら、ミゲルは続けた。
「ああ。すっかり体が冷えてしまいましたよ。ここは風通しが良すぎです」
「うむ。早くトルナソルを助けて、風呂にでも入らねばならんな」
 パラセンナは、丘を取り囲むようにめぐっているリブロの城壁を見上げながら言った。
 ミゲルは屈んで、濡れたままの靴を布で丁寧に拭いた。忌々しそうに、脚にまとわりつく半乾きの服の裾を指でつまむ。
「向こうに小屋がありますよ」
 フォアンは斜面の上方を示した。
 まばらに生えている低木の中に小屋が見えている。
「うむ。早く行こう」
 パラセンナの言葉に、ミゲルが先頭になって歩きはじめた。
 三人は、所々に石が突き出ているなだらかな斜面を登っていった。
 やがて、小屋がはっきりと見えてきた。
 灰褐色の石を積んだ簡素な造りで、草葺きの屋根の下に明かりとりの小窓が三つ並んでいる。
 フォアンは入り口を探して、身を低くしながら小屋の側面にまわった。
 崩れかけた石壁の中央に、古びた木戸が一つ。

 
「ずい分と遅いな」
 赤ら顔の中年男は、木戸を見すえながら言った。
「そうですよねぇ。困るなぁ、早く戻ってもらわないと」
 黒髪の太った男は、腹を押えながらつぶやいた。
「なんだぁ? 腹でも痛いのか?」
 縮れ髪の若者が言うと、太った男は弱々しく手を振って答えた。
「もう、駄目ですよ。おなかが空いて空いて、クラクラする」
「お前なあ、目の前に置いてやってるってのに、なんで食わねぇんだよ。パンだって、つくりたてのに取り替えてやったじゃねぇか」
 若者は大声でわめいた。
「だから、水銀がないと食べられないんですよ。あれを見ていないと口に入れても喉を通らなくて……」
 その答えに、若者は怒鳴った。
「なんだって?『金』を創るのに水銀が必要だって言うから、わざわざ取りに行ってんだぞ。どういうことだよ!」
 太った男は、きょとんとした顔で答えた。
「え、そんなこと言ってませんよ。ただ、私には水銀が必要だって言っただけで」
「お前なぁ!」
 握りこぶしをつくった若者を制して、年配の男が言った。
「水銀がなくてもいいなら、さっそく取りかかってもらおう」
「何をです?」
 太った男は首をかしげた。
「『金』に決まってるだろ。お前、ホントにアルケミストかよっ!」
 若者が怒鳴る。太った男は目を見開いて、弱々しく叫んだ。
「ええっ。『金』は創れませんよ。なにせ、私の研究しているのは『銀』ですから」
 年配の男が、諦めたような顔で言う。
「いい。『銀』でもいいから、早く創ってくれ」
「わかりました。それじゃあ、『金』を用意してください」
 二人の男は耳を疑って、お互いの顔を見合わせた。
「はぁあ?」
 太った男は、とうとうと語りはじめた。
「私はアルケミーを究めるために、物質の劣化について研究しているんですよ。つまり、簡単に言うと、『金』から『銀』を創ってるわけです。そして、それはいずれアルケミーの……」
「いい。判ったから。能書きはもう、いい」
 年配の男は、太った男の言葉をさえぎって言うと、言葉を続けた。
「それで、『1オンスの金』から、『銀』はどのくらいできるんだ?」
「そうですねぇ。だいたい、『10オンスの金』から、『1オンスの銀』かな。まあ、成功すればですけど」
 男たちは目を見開いて、アルケミストを見つめた。
 やがて、若者はつばを飲みこむと、掠れ声で訊いた。
「『10オンスの金』から、何だって?」
「『1オンスの銀』です」
 太った男が嬉しそうに言う。
「な、なんで、そんなに減る……」
 年配の男は蒼ざめて、口を開いたり閉じたりを繰り返した。
「そ、それって、やる意味あんのか? アルケミストって、何やってんだよ!」
 若者が叫んだ。
 その時、勢い良く扉が開いた。
「水銀!?」
 太った男は期待のこもった眼差しで、扉を見つめた。
 黄色い何かが、辺り一体に降り注ぐ。ふわりと降ってくる粉のようなものを、男たちはぼんやりと見あげていた。
 太った男は、ぼやけていく視界の中で、戸口に立った三人の影を見た。


 夕映え空の下、フォアンとミゲル、パラセンナは、中庭にいた。
 パラセンナはゆっくりと歩きながら、陶器製の壺を傾けて、こぼれ落ちる水で地面を湿らせている。
 フォアンとミゲルは、ホセの部屋からテーブルの天板を運びだした。中庭の中央に積み上げたレンガの上へ置き、簡易テーブルをつくる。
 今度は、フォアンの部屋とホセの部屋から、椅子を持ち出して並べた。
「やれやれ、せっかくハマムに行ってさっぱりしたのに、汗ばんでしまいましたよ」
 ミゲルは火照った顔を冷ますように、手で仰いだ。
 ホセを小屋から運び出した後、フォアンたちはヌエボの町で、モーロ式蒸気風呂に入ってきたのだ。
「んん? 中庭で乾杯しようと提案したのは君ではなかったかな」
 パラセンナは、目を細めながらミゲルを見つめた。
「いえ。私が言ったのは、先生の邸宅の中庭のことだったんですよ。なにせ、ここは何も生えてなくて、庭とは呼べないでしょう」
ミゲルは眉尻を下げて、身振りを交えながら言った。
 フォアンは会話している二人をよそに、屋台で買ってきた煮豆料理を深皿へ盛り付ける作業をしていた。
 その時。
「持って来たよー!」
「持って来ました!」
 元気な声が二重にだぶって、中庭に響いた。
 両手にカゴを抱えたトゥリニとチャロが、ゆっくりとアーチ型の通路から中庭へ進み出る。
「ほらぁ」
 トゥリニはカゴの中がよく見えるように、傾けて見せた。中には、揚げパンや堅パンがたくさん入っている。
「おお。待っておったぞ」
 パラセンナは大声で言うと、ずいっと手を伸ばした。
 トゥリニは黙ってカゴをパラセンナへ渡すと、すぐさまフォアンの側へ駆け寄った。フォアンの服をつかみ、陰に隠れるようにしてじっとパラセンナの様子をうかがう。
「先生、お嬢さんたちに怖がられていますよ」
 ミゲルが笑いながら言う。
「ん、そんなことないぞ。なあ」
 パラセンナはパンの入ったカゴをテーブルへ置くと、チャロをじっと見つめた。
 チャロは顔をこわばらせると、ぎこちない動きでテーブルの側まで近寄った。持ち上げたカゴには、パイや葉で包んだ鳥料理が入っている。
 チャロは大きく息を吸うと、目を大きく見開いてパラセンナを見ながら口を開いた。
「パラセンナ先生、これ。はい」
 やや低いけれど、はっきりとした声が響く。
 パラセンナは目尻にしわを寄せて微笑むと、カゴを受け取ってチャロの頭をなでた。
「よし、よし。ありがとうな」
 チャロは困ったような、照れたような顔をして、パラセンナを見ていた。
 扉が勢い良く開いて、中庭じゅうに響く音を立てた。
 全員が音の方を見つめると、戸口からのっそりと太い男――ホセが現れた。
 ぼさぼさの頭に、ぼろぼろの服。片手にフラスコをしっかりと握りしめて、眠そうな目であたりを見回す。
「う〜ん。なんだか、いい匂いがしますねぇ!」
 ホセは鼻をひくつかせて臭いを嗅ぐと、テーブルに載ったカゴを見つけてらんらんと目を輝かせた。辺りのものが何も目に入らないのか、真っ直ぐにテーブルに向かって突進していく。
「ほほう。おぬし、こんなに早く起き上がるとは驚いたぞ。薬になれておるのか?」
 パラセンナの言葉に、ホセは立ち止まった。
「あれ、先生。どうして、ここに?」
 そう言いながら、ホセは目を大きく見開いて、パラセンナを見つめる。
「私とフォアン、そしてテオフラストゥス先生の三人で、トルナソル君、あなたを助けたのですよ」
 ミゲルの言葉に、ホセは落着き無く辺りを見まわして言った。
「あ、ありがとうございます。それで、えーと、もう食べてもいいでしょうか」
「よほど腹が空いておるようだな。うむ。詳しい話は後にするか」
 パラセンナが言うと、ミゲルはやれやれというように両手を振った。
 ホセは手近な椅子にどっかりと座りこんだ。テーブルにそっとフラスコを置き、左手で動かないように押さえる。
 ホセはうっとりと水銀入りのフラスコを見つめながら、パンにかじりついた。一気に噛み砕いて飲みこむと、すぐに次の皿に手を伸ばす。
 ミゲルは、次々とパンを口へ詰めこむホセを見て眉をしかめた。自宅から持ってきた葡萄酒をグラスに注ぎ、優雅に口へ運ぶ。
 パラセンナはゆっくりと鶏肉や豆を食べ、葡萄酒をのどへ流しこんだ。
 フォアンは双子を手伝って、肉を皿へ盛り付け、ナイフで切り分けた。やがて、フォアンもやっと席についた。
 双子もめいめい椅子によじ登って、揚げパンを分け合って食べはじめる。
 と、ホセの肉付きのいい腕が、テーブルの上へ伸びた。夢見ているような顔でフラスコを見つめたまま、むっちりとした右手でテーブルを叩いて、手探りで皿を探している。
 ホセは手が皿にぶつかると、引き寄せて料理が載っていないかを次々と確かめる。が、既に、ホセの近くの皿は空だ。
 ホセは身を乗り出して思いきり腕を伸ばし、フォアンの前にある皿をとった。
「あっ!」
 フォアンが叫んだ時にはもう、ホセは切り分ける前の丸いパイにかじりついていた。口いっぱいに頬張って、満足げに表情をほころばせる。
「うん、旨い、旨い」
 丸ごとのパイをかじっているホセを見て、チャロが悲鳴をあげた。
 トゥリニは椅子から飛び降りると、ホセの側へ行った。
「ちょっとぉ! それ、切り分けようと思ってたんだから、返してよっ」
 そう言いながら、トゥリニはパイを取り返そうとしてつかむ。
「んん?」
 ホセはかじりついた痕を残して、パイから口を離した。
「あ〜あ。歯型がついちゃった」
 トゥリニは、ホセから取り返したパイを見て、がっかりしたように言った。
 ホセはごくりと喉を鳴らせて口の中身を飲みこみ、トゥリニがつかんでいるパイの丸い縁にかみつく。
 二つ目のホセの歯型がくっきりとパイに刻まれ、パイに詰まっていた肉がテーブルにこぼれ落ちた。
「いやー!」
 見守っていたチャロが、悲鳴をあげる。
「あぁっ、ひどい。食べかた、きたなーい!」
 トゥリニは歯型のついたパイを皿へ投げ出して、ドンドンとホセの肩を叩いた。
「ホセのばか! ばか。ばかホセ」
「ああ、もう、しょうがないよ」
 フォアンは立ち上がって、トゥリニを慰めた。ホセは周りの様子が目に入っていないのか、皿へ手を伸ばす。残りのパイを片手でつかみ、もう片方の手でテーブルに落ちた肉を全部わしづかみにして、両方をむりやり口へ詰めこんだ。
「いやだっ。もう〜!」
 頬を膨らませたトゥリニは、ようやく諦めて自分の席へ戻った。
 パラセンナはパンを手に持って、ミゲルの前に並んだ皿を横目に言った。
「んん? なんだ、料理が減っておらんようだな」
 ミゲルはグラスから視線を離すと、ちらりとホセを見た。
「なんだか、彼を見ていると食欲がなくなるのですよ」
 その、ミゲルの言葉を聞いたホセは、嬉しそうに叫んだ。
「食欲がないんですよね? だったらこれ、片づけちゃいますよ!」
 ミゲルの返事も聞かずに、ホセは次々と皿を自分の前へ動かした。
「もう〜。自分に都合のいいことしか、聞こえないんだから!」
 トゥリニは頬を膨らませて叫ぶ。
 ホセは手づかみで骨付き肉を二つつかむと、一気に口へ放りこんだ。
「あっ」
 チャロも目を丸くして、ホセを見つめる。
 呆然とホセを見ているミゲルや双子の前で、パラセンナは目を細めた。
「さすが、トルナソルよな!」
 パラセンナの大きな笑い声が中庭に響き渡った。

第一の書 -end- 

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