老いぼれバッカスとディアナ

1 気まぐれな女神の微笑

 歩いても、歩いても、代わり映えのしない、単調で退屈な光景だ。
 オレか? オレはしがない荷運び人だ。相棒の灰色ロバ「バッカス」の背に荷物を載せて、麓の町バッサから城壁に囲まれた町アルタまで運んでいる。
 バッカスの他には何も持たない根なし草がオレだ。
 オレは歩きながら後ろを向いた。
 荷物を括りつけたロバの背に、黒服の美女が乗っている。石壁側に背を向けて横に座り、揃えた両足を道からはみ出させて。
 整った顔に落ち着いた表情を浮かべて、谷川を隔てた下方の町バッサを見下ろしている。
 大の男でも怖がる道だってのに、揺れるロバの上で大した度胸だ。
 オレは帽子を軽く持ち上げると、前を向いた。
 石畳の狭い坂道が、だらだらと続いている。
 道幅は狭い。荷物を脇に括りつけたロバがぎりぎり通れるくらいの幅しかない。
 右手側はオレの背丈よりも高い石積みの壁。壁の上は、まばらに生えた木々と草に覆われた山肌だ。
 そして反対側は、谷だ。谷底の川へ向かって、草の生えた下りの急斜面が続いている。足を踏み外しでもしたら、谷底へまっ逆さまだ。
 だから、この道を初めて歩く奴は大抵怖がる。気の小さい奴なんか、石壁にぴったりと身体を寄せちまう。
 オレは再び、後ろを振り返った。
 黒服の美女は、裕福な商家の未亡人だという。年は二十代後半だろうか。
 若い娘の持つ健康的な色気と違って、濃厚でしっとりとした色香がにじみ出ている。
 オレはうっとりと美女を見つめた。ああ、こんな美女がオレの恋人だったらいいんだがな。
 いつまでも見つめていたい気持ちを抑えて、オレは前を向いた。
 道は谷川に沿って緩やかに右へ曲がり、バッサの町が視界から消えた。代わりに、谷川の向こう一帯に広がる灰緑色の果樹園が見える。
 やがて、道幅が卵形に膨らんでいる場所に来た。二つの町の間にある「休憩所」だ。
 実際には、半日もかからない道の途中で休憩する奴はなかなかいない。オレたち荷運び人はここを「ロバの社交場」と呼んで、ロバをすれ違わせる場所として利用している。
 オレは振り向いて、美女に声をかけた。
「疲れたんじゃないかい? ここいらで休憩にしようか」
 美女はオレのほうをちらりと見て、ふっくらとした紅い唇を開く。
「そうね。ちょうど退屈していたところよ」
 退屈……?
 オレは美女を頭のてっぺんからつま先までを見回した。
 細く引き締まった胴が、豊かに膨らんだ胸と形のいい丸い尻を強調している。
 レースの黒いヴェールの下から、褐色の瞳が悪戯っぽくオレを見つめている。ほくろのある口元がやけに色っぽい。
 オレは生唾を飲みこんで、ひき綱を強く握った。バッカスがぴたりと足を止める。
 オレは汗ばんだ掌をごしごしと上着にこすって、手を差し伸べた。美女は軽く微笑んでオレの手を掴む。冷たい華奢な手だ。
 美女はひらりとスカートを翻して、バッカスの背から飛び降りた。翼があるみたいな軽い身のこなしだ。
 美女はオレの手をやんわりと振り払うと、小鳥のような仕草で首を傾げて辺りを見回す。
 オレは急いでバッカスのひき綱を樹の幹に結びつけると、そっと美女の様子をうかがった。
 美女はオレの方に背を向けて、道の先を見つめている。
 黒いヴェールがふわりと風を含んで翻り、結い上げた艶やかな黒髪と、細いうなじが覗く。
 なんと声をかけようか。
 オレが悩んでいると、美女はくるりと振り向いて唇を開いた。
「アルタまではあとどれくらい?」
「そうだな。あと一刻ほど。昼前には着くだろう」
 オレの返事に、美女は満足げに頷く。美女の視線をまともに受けて、俺はあわてて言った。
「小腹が空かないか? 干しイチジクはどうだい」
 我ながら、色気の無さ過ぎる台詞だ。オレは焦って首をひねった。が、気の利いた台詞一つ思い浮かばない。
「いらないわ」
 美女はそっけなく言うと、囁くような小声で続けた。
「それより、ねぇ。わたしって、運が強いのよ。試してみない?」
 甘ったるい口調が、なんだかくすぐったい。
「何を試すだって?」
 平静を装いつつ出したオレの声は、妙に裏返った。
 美女は笑いながら言う。
「退屈なときにするものよ。決まっているじゃない」
「な、何だろう。思いつかないな」
 オレはしどろもどろに応えながら、美女の顔を魅入られたように見つめた。
 長いまつげに縁取られた大きな眼の中で、褐色の瞳がキラキラと輝いている。見つめているうちに吸いこまれちまいそうだ。
「決まっているでしょ。賭けをするのよ。コインがいいかしら?」
 美女が微笑みながら言う。
 オレは急いで腰の袋に手をつっこむと、口を開いた。
「コインよりなら、こいつの方が面白くなると思うぜ」
 オレが差し出した二つのサイコロを見て、美女は目を細めた。
「そうね。それじゃあ、私がサイコロを振るわ。揃いの目が出たら、私の勝ち。それ以外なら、貴方の勝ちでいいわ。どう?」
 美女は歌うように言う。
 揃いの目だって? オレのほうが分がいいじゃないか。
 オレは軽く帽子を持ち上げると、訊ねた。
「それでいいぜ。だが、何を賭ける?」
 美女は流し目をしながら応える。
「私が勝ったら、荷運び賃は半額にしてね。貴方が勝ったら、荷運び賃の他にキスを差し上げるわ。どう?」
   オレの目は、美女の艶っぽい唇に釘付けになった。
 自分の方から言い出すなんて、ひょっとしたら、オレに気があるのかもしれない。
 よし、試してやろう。
 オレは唾を飲みこんで口を開いた。
「賭けるのは賃料にしようぜ。オレが負けたら荷運び賃は無しでいい。その代わり、勝っても負けてもキスはもらう」
「ええ。それでいいわ。始めるわよ」
 美女はあっさり言うと、サイコロを乗せた右手に左手を被せた。合わせた両手を勢いよく上下に振りはじめる。腕の動きに合わせて、豊かな胸が上下する。
 いい眺めだ。上手くいけば触る機会くらいあるかもしれない。
 オレはうっとりと、美女の胸を見つめていた。
「このくらいでいいかしら?」
 美女の声に、オレは目線を上げた。美女は目を細めて言う。
「強運なのは私か、貴方か、どちらかしら?」
「オレの運は強いぜ。なんたって、あんたみたいなべっぴんさんと知り合えたんだからな」
 力強くオレが言うと、美女は笑いながら左手をずらした。
 ほっそりとした右手の上のサイコロの目は、どちらも二。
「ま、まさか!」
 驚く俺の前で、美女は嬉しそうに笑いながら言う。
「私の運の方が強かったわね。私の勝ちよ」
 オレは呆然と美女の手の中の、サイコロを見つめた。
 美女はオレに向かってサイコロを差し出しながら言う。
「私にはねぇ、フォルトゥナがついているのよ」
 オレは首をかきながら言った。
「フォルトゥナ……。賭博の守護女神か」
「ええ。運命と偶然を司る女神よ」
 美女は上機嫌で応じる。
「それじゃあ、あんたに敵うはずがないな」
 オレは美女の紅い唇を見つめながら呟いた。でも、まあ、いいか。あの柔らかそうな唇にキスしてもらえるわけだからな。
「そろそろ行きましょう」
 美女はさっさとバッカスの側へ歩み寄る。オレは彼女をバッカスの背に乗せてやると、ひき綱を持って歩き出した。


 アルタの町に着くと、美女はバッカスの背から降りた。
 美女に指示されるまま、オレはバッカスを引いて城璧沿いの道を歩いて行く。
 すれ違った幾人かの男たちが、振り返って美女をうっとりと見つめている。
 オレは優越感に浸りながら、周りの男たちを見回した。
 いい女だろう? オレは、もうすぐ彼女にキスしてもらえるんだぜ。
 やがて、広場の裏通りで美女は立ち止まった。石造りのこじんまりとした家を指しながら言う。
「ここが私の家よ」
 柱や窓には細かな飾りが施されていて、小さいながら豪華だ。
「使用人たちが先に来ているはずなんだけど……」
 美女が言い終わらないうちに、家の中からどやどやと五人の男たちが現れた。
 年配の髭面男に、ひょろりと背の高い痩せ男。にきび面の若造に、首の短い筋肉男、のっそりとした大男だ。
 男たちは一列に並ぶと、野太い声をそろえて言った。
「奥様。お待ちしていました」
 美女はバッカスを示しながら鷹揚に言う。
「荷物は、そこよ」
 男たちはバッカスに群がった。驚いて鳴き声を上げるバッカスに構わずに、次々と荷物を解いていく。
「お頭。これはどこへ運びやしょう?」
 大男が重い布袋を抱えながら訊く。美女はじろりと睨んだ。
 髭面男があわてて駆けつけると、大男の背中をどやしつけた。
 オレは困ったことになったと思いながら、遠巻きに見ていた。
 こんな男たちがいるなんて、全く計算外だ。いつ、キスのことを言えばいいだろうか。
 男たちが荷物を全部運び終えると、美女はようやくオレの方を振り向いた。ふっくらとした唇を開いて言う。
「これで全部済んだわ。どうもありがとう」
 男たちは押し黙ったまま、オレのほうを見ている。突き刺さるような嫌な目つきだ。
 美女はまるで女神のような微笑を浮かべて続ける。
「何かあったら、またお願いするわね。さよなら」
 美女はふわりとスカートを翻して、オレに背を向けた。
「な? 待ってくれ!」
 オレがあわてて追いかけようとすると、男たちがオレを取り囲んだ。
 髭面が一歩前へ出て訊く。
「奥様に何の用だ?」
「報酬だ。オレはまだ、今回の荷運び賃を貰っていないぜ!」
 オレが叫ぶと、美女は戸口で立ち止まった。ゆっくりと振り向いて、首を傾げながら言う。
「荷運び賃は無しでいい約束でしょう?」
 オレは後ろから押さえつけようとする大男の腕を振り払った。その途端に帽子が落っこちる。オレは構わずに叫んだ。
「違う。あんたは賭けの時、オレの条件を呑んだだろう?」
 美女はオレを見て眩しそうに目を細めると、すぐに目を逸らした。男たちを見回して、口を開く。
「誰か、この方にキスをして差し上げなさい」
 オレは自分の耳が信じられなくて、訊き返した。
「何だって?」
 美女は笑顔で応じる。
「私は確かにキスを差し上げると言ったわ。でも、私のキスを、とは言っていないの。さあ、誰でもいいから、キスをしなさい」
 命じられた男たちは顔を見合わせて、互いに相手を突き出そうと押し合いを始める。
 こいつらのキスなんて冗談じゃない。オレはぞっとすると、美女を睨みながら訊いた。
「騙したのか?」
 美女は眉根を寄せて口を開く。
「違うわ。あの坂道にいたときは、キスしてもいいと思ったの。本当よ。でも、ここは狭い町の中だもの。そんな気分になれないの」
 オレは改めて、辺りを見回した。
 通りに面した窓に人影がある。通りの向こうで立ち話をしている連中も、こちらを盗み見しているようだ。
 オレは仕方がなく言った。
「わかった。それじゃあ、次に荷物を運ぶときにでも、約束を果たしてもらうぜ」
「ええ、いいわよ。また会いましょう」
 美女は妖艶な微笑を浮かべて言う。
 オレは帽子を拾いあげて頭に載せると、バッカスのひき綱を持って、とぼとぼとアルタの町を出た。


「いい女だよな」
 オレはバッサへの道を下りながら、相棒のバッカスへ話しかけた。
「近くに行くと、いい匂いがするんだぜ」
 バッカスは聞いているのかいないのか、ぴんと伸びた大きな耳を小刻みに動かしている。
「そういや、お前は背中に乗せたんだっけ。羨ましい奴だな!」
 オレはそう言って、バッカスの首を軽く叩いた。バッカスは困ったようないつもの顔で、オレの方をちらりと見る。
「なんだよ、その目つきは。オレに文句があるってのか、バッカス。あるだろうな。何せ、ただ働きだからな」
 オレはため息をつくと、バッカスの黒いたてがみを撫でながら続けた。
「もしかしたら、いや、やっぱり上手いこと丸めこまれちまったかな。次に荷物を運ぶときったって、オレを雇うとは限らないし」
 バッカスは合いの手を入れるように、うるさい鳴き声を上げる。
「わかってるって、相棒。大丈夫だぜ。銀貨ならまだある。オレもお前もまだ喰うのにゃ困らない」
 オレはバッカスの背を撫でながら喋り続けた。
「女には優しくしなけりゃな。相手が美人だったらなおのこと。これが男のさがってもんだ。なあ、いくら老いぼれだって、お前も雄だからわかるだろ?」
 バッカスはちらりとオレを見ると、馬鹿にしたように口をあけて笑う。オレは右手に見えるバッサの町を見下ろしながら、呟いた。
「お前の言いたいことはわかってるぜ。あの女は、高嶺の花さ。オレには手が届かねぇ」
 オレはバッカスの背を軽く叩くと、バッサの町での出来事を思い浮かべた。


 屋台から売り子の呼び声が響いている。市の行われている広場は、大勢の人々や荷車でごった返していた。
 オレは美女の見守る中、広場の片隅でバッカスの背に荷物を括りつけていた。
「これで最後の荷物よ」
 美女が、大きな革袋を示す。オレは重い袋を持ち上げた。
「待ってくれ」
 いきなり一人の赤い巻き毛の男が、オレと美女の間に割って入った。
 間延びした面長な顔で、がっしりとした身体を上等な洒落た服に包んだ若者だ。荷運び人とは思えない服装なのに、茶色の若いロバを連れている。
 若者はうっとりと美女の顔を見つめながら言う。
「俺はミケーレだ。どうか、そんな老いぼれな奴に頼まずに、俺に貴女を送り届ける役目をさせてくれ」
 若者を見たオレは、ひと目でロバを扱い慣れていない奴だと見抜いた。
 思った通り、若いロバは勝手な方向へぐいぐいと手綱を引っぱりはじめた。あんな状態で荷運びが勤まるはずも無い。
 オレは若者を無視して、最後の袋をバッカスの背に乗せた。縄をかけながら呟く。
「老いぼれだってよ、バッカス。お前は充分元気だし、まだまだ走れるよなぁ」
 美女は良く通る声で言った。
「見ての通り、もう荷物は積み終えてしまったわ」
「貴女のためにわざわざロバを用意したのに、残念だ」
 若者はそう言って、肩を落とした。
 美女は若者を一瞥すると、何も言わずにオレとバッカスの側へ歩み寄る。
「待ってくれ」
 若者はそう言って、自分のロバの荷物から何かを素早く取り出した。美女の元へ駆け寄ると、中世の騎士のようにひざまずく。
「美しいご婦人。これをどうぞ」
 すっと差し出した若者の手には、淡い紅色の薔薇の花束が握られていた。
 ずいぶんと用意がいい。オレが呆れながらも感心していると、美女は白いほっそりとした手を伸ばして、花束を受け取った。
 形のいい眉を寄せて、紅い唇を開く。
「私が一番好きな物は、宝石よ。キラキラと光輝くものにしか興味がないわ。だから……」
 美女は花束を高く掲げると、若者の頭に向かって叩きつけながら言った。
「だから、こんなものはいらないの」
 淡い紅色の花びらが散って、はらはらと舞い落ちる。
 花びらの薔薇の束を持ち、舞い落ちる花びらを見下ろしながら、美女は妖艶な微笑を浮かべていた。


「あの女の気を引くには、宝石が必要なんだよな」
 オレが呟くと、バッカスが長い鳴き声を上げた。
「宝石があったってどうなるかわかんねぇって? お前、オレのことを見くびってんだろ」
 バッカスはそ知らぬ顔で、足元を見ている。オレはバッカスの首を軽く叩いた。
「なんだよ。聞いてんだかなんだかわかんねぇ奴だな。でもまあ。確かにあの女は気まぐれだ」
 バッカスの蹄の音が鳴り響く。
「そういや、フォルトゥナは気まぐれな女神って呼ばれているっけな」
 オレは首をひねって、喋り続けた。
「きっと、あの女はフォルトゥナの化身に違いないぜ」
 バッカスは迷惑そうな表情で、いつものとおりに単調に、歩き続けた。


2 満月と涙の秘密

 バッサの町は白い朝もやに包まれていた。
 東門を通って、近くの畑や農場から野菜や果物を積んだロバや荷馬車が集まってくる。
 オレは欠伸をかみ殺すと、バッカスをひいて路地を歩いていった。
 石工たちが道具を担いでぞろぞろと西の町外れへと向かって行く。
 バッサは新しい町だ。街道に近い場所から街区が出来上がり、西へ向かって拡張中だ。西の街区へ行くと、造りかけの教会に大通り、建築中の家が幾つもある。
 朝もやが晴れて、大勢の人々が広場へと出てきた。威勢のいい売り子の呼び声が響き渡る。
 オレは仕事を求めて、バッカスをひきながら広場の中を歩き回った。
 今日はどうも駄目だ。人出は多いが、同業者も多すぎる。
 オレは早々に諦めると、広場を出た。街道に出れば、少しは仕事があるかもしれない。
 大勢の人と荷物が行き来する通りを避けて細い路地に入る。角を幾つも曲がって近道をしながら、オレは腹ごしらえに干しイチジクを取り出した。
 かじりつきながら、東門に近い目抜き通りに出る。と、その途端に、誰か小さな奴がオレに体当たりを食らわした。
 オレの口からかじりかけのイチジクが転がり落ちる。
 畜生!
 オレは怒鳴りつけようと思って、相手の肩をつかんだ。
 やけに華奢な肩。
 それもそのはず、まだ子供だ。くりくりの金髪に、フリルのついた上等な服を着た幼い少女だ。
 おまけに、少女は顔を真っ赤にして、ぽろぽろと涙を流している。
 オレは手の力を抜くと、まじまじと少女を見つめた。
 灰色の大きな瞳が涙に濡れている。まだ幼いが、将来は美女になること間違いなし、の美少女だ。
 参ったな。オレは美人にも弱いが、泣いている女にゃもっと弱い。
 オレはため息をつくと、しゃがんで少女の頭を撫でた。
「痛かったか? ごめんな。でも、走ったりしたら危ないぜ」
 少女は泣きながら、首を左右に振った。
「なんだ、違うのか。それじゃあ、何で泣いているんだい?」
 オレの言葉に、少女は可愛らしい口を開いた。しゃくりあげながら言う。
「ディアナ……、いなくなっちゃった」
 オレは少女の頭を撫でながら訊いた。
「そうか、そうか。で、ディアナってのは、どこの誰なんだい?」
 少女は顔をあげると、真剣な目でオレを見ながら言う。
「だいじなお友だちなの。いっしょにお家にいたの。ねるときも、あそぶときも、いっつも!」
 なるほど。遊び相手として雇われた者か、女中か。或いは、このくらいの年頃の子が好む人形の類だろうか。
 少女は小首を傾げて言う。
「きれいな声をしているの。ことばはわからないけど、ディアナとわたしはとってもなかよしだったの」
 どこか他所の国から連れてこられた者か。近ごろの金持ちは、そういった者を雇いたがるらしいからな。
「ディアナはね、まっ白でふわふわの毛をしていて、きれいなエメラルドグリーンの目なの」
 少女はいつの間にか泣きやんで、瞳を生き生きと輝かせながら言う。
「しっぽなんて、ながくてふさふさなの」
「尻尾だってぇ?」
 オレは思わず叫んでいた。声が裏返っている。
 少女はきょとんとした顔で、オレを見ながら言う。
「やわらかいのよ」
「そ、そいつは一体、何なんだ?」
 オレの言葉に、少女は目を瞬いて言った。
「ディアナ? ディアナは、ねこよ。でも、ただのねこじゃないの。とおいところからきてて、めずらしいんだって」
 オレはため息をついた。少女の頭をぐりぐりと撫でてやりながら言う。
「猫って奴は、勝手にあちこち歩きたがるもんだからな。そのうち戻ってくるぜ、きっと」
 少女は不満そうに眉根を寄せて、口を尖らせた。
「でも、ディアナはいちども、お外にでたことがないのに?」
「ずっと家ん中にいたら、外に出てみたくもなるんだろう」
 オレは諭すように言った。少女は眉を寄せて言う。
「みんなそんなこというの。おかねあげるっていったら、さがしてくれるものなの?」
「いや。お金の問題じゃないな。みんな、探さなくても帰ってくると思っているんだぜ、きっと」
 オレが首をひねりながら言うと、少女は目をこすった。
「だれも……さがしてくれない。……ディアナ」
 少女の瞳がきらりと光り、ぽろりと涙がこぼれる。
 オレはあわてて、口を開いた。
「わかった。オレが探してやるぜ。だから、泣くな。頼むから」
 少女は目を見開いて、顔を輝かせた。真っ直ぐにオレを見つめながら訊く。
「ほんとうに? ほんとうにさがしてくれるの?」
「ああ、探してやるぜ。だから、もう泣くな」
 オレは少女から猫の特徴と居なくなったときの様子を聞きだすと、夕方に報告に行くことを約束して別れた。


 広場に戻ったオレは、荷運び仲間に聞いて回った。が、収穫無しだ。
「なぁ、バッカス。お前も他のロバに訊いてみろよ」
 オレは樹につながれた若いロバの前で、バッカスの首を叩いた。
 バッカスは聞いているのかいないのか、ロバの前を通り過ぎようとする。オレは綱をひいて、強引にバッカスの顔を若いロバの方へ向けた。
「ほら、訊いてみろ。白い雌猫を見なかったかって」
 オレの言葉に、バッカスは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「なんだ、バッカス。その態度は。『けっ。こんな若造がモノを知っているはずがねえ』って言いたいのか?」
 オレの言葉に、バッカスはそっぽを向く。若いロバは、嫌そうにバッカスを見ている。
「お前がそんな態度だから『老いぼれ』って馬鹿にされるんだぞ」
 オレはそう言いながら、バッカスを連れてその場を離れた。
 幾つもの路地をうろつき、遊んでいる子供たちやお喋りに興じている女たちに訊き回る。
 みんな最初は興味を持つが、探しているのが猫だとわかったとたんに、素っ気ない態度になる。
 そりゃあそうだろう。猫ならどこにでもいるからな。
 オレは階段路地を上って、新しく造られた住宅街へ向かった。
 家へ続く石段へ、やぶ睨みの目をした縞模様の猫が座っている。
 オレは猫に近づいて、口を開いた。
「お前は、この辺りのボスか? なぁ、白い毛にエメラルドグリーンの目のべっぴんな猫を知らないか?」
 猫は金色の目でオレを一瞥すると、鼻にしわを寄せて立ち上がった。貫禄のある顔立ちに雄だと思ったが、雌だったようだ。
 長い尾を揺らしながら、家のテラスに飛び移る。
「いや、お前もなかなかのべっぴんだよ」
 オレの声が聞こえているのかいないのか、猫はするりと窓枠を押し開けて家の中へ消えた。
「ふられちまったな」
 オレは鼻の頭をかくと、バッカスを連れて再び路地を歩き回った。
 探し回るうちに、オレとバッカスは西側の街区に来ていた。
 石工たちが忙しく動き回り、白い石粉が舞い上がる。
「こんなところまで来るもんかな」
 オレは半分疑問に思いながらも、若い石工に話しかけた。
「白くて毛の長い雌猫を知らないか?」
「白いだって? どんな猫だってここに来れば、白くなるさ」
 男はそう言って、石粉をかぶって白くなった自分の頭を撫でた。
 オレはしばらく西の街区をうろついた後、再び広場へと戻った。
 今度は、品物の殆どを売り終わり、店じまいを始めた売り子たちに聞いて歩く。
「毛の長い白猫が居なくなっちまって探しているんだ。エメラルドグリーンの目をしている雌猫なんだが知らないか?」
「そんなに猫を側においときたいなら、ロバみたいに繋いでおけばいいじゃないか」
「猫がいないだって? 最近物騒だからね。おや、知らないのかい。最近街道のあたりに盗賊が出るって話しだよ」
「ネズミが増えて困っているのかい。うちの猫を貸してやろうか?」
「知らない。白猫なら、その辺にいくらでもいるじゃない」
 そんな中で、オリーヴ売りの老婆が膝に乗せた黒白模様の猫を撫でながら言った。
「あんたの探しているのは雌猫かい? それなら、あまり遠くへは行かないはずだけど、おかしいねぇ」
 オレは老婆へ礼を言うと、少女の住む家へと急いだ。


 東門に近い目抜き通りの一番大きな門構えの家。ここが、あの少女の家だ。
 オレは少女の家の周りを中心に探し始めた。
 樹の上を見上げて、地面の穴を覗いて。ディアナの名前を呼びながら柱の周りをぐるぐると回って、壁の隙間を棒で突っついて。
 よっぽど怪しく見えるのか、道ゆく人々がじろじろと見ながら行きすぎる。
 だんだん頭がくらくらしてきて、足がだるくなってきた。
 オレは階段状になった路地に座りこむと、空を見あげた。空がうっすらと赤く色づいている。そろそろ陽が沈む。
 オレはため息をついて立ち上がると、少女と約束した路地へと急いだ。
 薄暗い路地に、少女の姿はない。
 もしかして、猫が独りで家に戻ったんじゃないだろうな。
 オレは少女の家の方を見つめた。
 やがてすっかり陽が沈み、辺りは闇に包まれた。
 オレは懐からチーズのかたまりを取り出すと、一口かじった。ワインでも欲しいところだが、金がないから仕方がない。
 少女はまだ来ない。
 約束を破るような子には見えなかったんだが。丸一日、無駄にしちまったか。
 オレはため息をついて立ち上がった。
 石畳に小さな足音が響く。
 金色の髪が、月明かりにほの白く浮かび上がる。
 あの美少女だ。
 オレは立ち上がって、手を振った。
 駆けてきた少女は、荒い息を吐きながら訊く。
「ディアナは?」
「見つからなかったぜ。その様子じゃあ、家にも戻っていないようだな」
「うん」
 少女は小さく返事をすると、敷石に座りこんだ。オレは少女の隣に座って、町中を探し回ったことを説明した。
「しってる。わたし、いえのまわりをさがしているとこ、見たもの」
 少女は真剣な目でオレを見ながら言う。
 オレは驚いて、少女を見つめた。目の周りがまだ赤い。ずっと泣いていたのかもしれない。
 少女は不意に落ち着きなく辺りを見回すと、オレの耳元に顔を近づけた。
「あのね。ひみつがあるの」
「秘密?」
 オレが聞き返すと、少女は大きく頷いた。
「ディアナといっしょに、ママの宝石であそんでいたの。きらきらした石のついたブレスレットが、ディアナの首にぴったりだったから」
 少女はそこで言葉を切ると、更に声をひそめて言う。
「ディアナの首につけてあげたの。そうしたら、ディアナが外にとびだしちゃったの」
「なんてことだ。それじゃあ、首に宝石……」
 オレが思わず言いかけると、少女は小さな手でオレの口を塞いだ。
 大きな瞳でオレを見つめながら、少女が言う。
「ひみつなの。だれにもいわないで」
 オレは大きく頷いて、それでも言わずにはいられなかった。
「なんで、最初に教えてくれなかったんだ?」
 少女は困ったように眉を寄せると、口を開いた。
「はじめてあった人だから、しんじていいかどうかわかんなかったの」
「そりゃそうだな」
 オレは納得すると、少女の頭を撫でた。
 さすが豪商の娘だ。なかなか用心深いじゃないか。
「しかし、そういうことなら話は別だ。誰かが首の品に気づいて、捕まえたのかもしれない」
 オレの言葉に、少女は息を呑んだ。オレはぽりぽりと頭をかいて、口を開く。
「もしかしたら、お嬢ちゃんの親父さんに頼んだほうがいいかもしれないぜ」
 一度売りに出た品を買い戻すには、それがたとえ盗品であっても、金が要る。
 オレは少女の蒼白な顔に気づくと、あわてて言った。
「首の品のほうはわからないが、ディアナは無事だぜ、きっと。ただ、バッサの町にはいないかもな」
 少女の目にじわりと涙が浮かぶ。オレは思わず宣言していた。
「大丈夫だ。オレが必ず見つけ出してやるぜ」


3 美しい女神は爪を研ぐ

 翌朝。オレはバッカスを連れて東門を出て、街道の分かれ道に来ていた。
「ディアナはどこにいるんだろうな。なあ、バッカス?」
 バッカスはそ知らぬ顔で、道端の草を食んでいる。
 少女には必ず見つけてやると言ったが、あてがあるわけじゃない。
 取りあえず人の流れに沿って街道に出てみたのはいいが、この方向で本当に良かったんだろうか?
 オレは腰の革袋に手を突っこむと、サイコロを一つ取り出した。こういうときには、気まぐれな女神に任せるに限る。
 一なら真っ直ぐに東の街道へ。二なら南街道へ。三なら東南に広がる農場へ。四から六なら、一度バッサへ戻るか。
 そうだな。四ならバッサの西に広がる荒地へ。五なら北西に広がる果樹園地帯へ。六なら北のアルタへ行こうか。
 オレはアルタにいる美女の姿を思い浮かべながらサイコロを振った。
 出た目は、六。アルタ行きだ。
 美女に会えるかもしれないと思うと、自然と頬が緩む。そうだ、猫探しを口実に、訪ねて行ってもいいかもな。
 オレはバッカスを連れて街道を引き返すと、橋を渡りアルタへと向かった。
 通りなれた狭い坂道をのぼりきると、道が二手に分かれる。右がアルタへの道。左は古い遺跡のある丘だ。
 ディアナはどっちにいるだろう? 盗んだ奴が猫を放り出すならどこだ?
 オレがどうしようかと悩んでいるうちに、バッカスがぐいぐいと手綱を引いて丘の方へ行こうとする。
「なんだ、バッカス。そういや、お前はあそこの丘の草が好きだっけか」
 昨日はろくに干草をやらなかったからな。
 オレはため息をつくと、バッカスの先導するまま丘へと向かった。
 草の生い茂る中に、崩れかけた壁と白い柱が並んでいる。昔は神殿だか何かだったらしい。
 横倒しになった柱や斜めに傾いた柱もある。
 バッカスはさっそく近くの草に鼻を埋めて、おいしそうに食べ始めた。
 オレは手綱を持ったまま、途中で折れた柱にもたれかかった。
 雲ひとつ無い青空。いい陽気だ。
 不意に影が動いた。誰かが居る。オレは柱の陰からそっと覗きこんだ。
 柱に囲まれた四角い石製の台上に、女が一人立っている。
 黒い服に包まれた、色っぽい体つき。そして、整った横顔。あの美女だ。
 何でこんな場所に独りでいるんだ? オレは胸の高鳴りを覚えながら、美女の様子を窺った。
「ミケーレさん? こんなところに呼び出して、何の用かしら?」
 美女の凛とした声が響き渡る。
 崩れかけた壁の陰から、一人の男が歩み出た。面長な冴えない顔に、赤毛の髪。なかなか上等な服に身を包んだ、体格のいい若い男だ。
 どこかで見たことのある奴だな。オレは首をひねって、考えこんだ。
「貴女に似合いの宝石を持ってきたんだ。ぜひ、受け取って欲しい」
 ミケーレは熱っぽい目つきで、うっとりと美女を見つめながら言う。宝石と聞いて、美女の顔がぱっと輝いた。
 ああ、そうだ。バッサの町で、花を贈って振られていた奴だ。金のある奴はいいよな。
 オレはため息をつくと、二人の様子を見守った。
 ミケーレは壁の後ろから、大きな袋を引っ張り出した。袋の形が様々に変わる。中で何か暴れているようだ。
「何なの?」
 美女が眉をひそめる。ミケーレは得意げな顔で、袋の中へ手を突っこむと一匹の白猫を取り出した。自信たっぷりに猫を差し出しながら言う。
「この絹のような毛並みに、美しいエメラルドのような瞳。あなたにこそ相応しい」
 オレは暴れる白猫をじっと見つめた。
 小さめの頭に大きな耳。すらりとした四肢に柔らかそうな長い毛。ふさふさの長い尻尾。キラキラと輝くエメラルドグリーンの瞳。
 少女が言っていたとおりの姿だ。ディアナだ!
 こいつはすげぇ。サイコロどおりだ。
 オレは腰の皮袋に手を入れて、サイコロを握りしめた。
 きっと女神フォルトゥナがオレのサイコロに乗り移っているに違いない。
 オレは興奮しながら、どうやってディアナを救出するか、作戦を練りはじめた。
 何か役に立ちそうな道具でも持ってくれば良かったぜ。
 オレが持っているものといえば、短刀にサイコロ。あとは、バッカスの背に荷物を括りつける縄くらいのものだ。
「なあに、その猫。貴方になついていないみたいね」
 美女は眉を寄せたまま言う。ミケーレは勇んで言った。
「昨日手に入れたばかりなんだ。貴女にぴったりだと思って、頼みこんで手に入れたんだ」
 ディアナは嫌がって、男の手の中で暴れている。美女はうんざりしたように言い捨てた。
「私が好きなのは本物の宝石。そんな猫なんかには、ぜんぜん興味ないわ」
 ミケーレは肩を落とすと、うな垂れた。
 機会をうかがっていたオレは、数人の気配を感じ取った。オレと同じように、美女とミケーレの様子をうかがっているようだ。
 ディアナはじたばたと暴れ続けている。美女の大きな目が、ディアナに釘付けになった。
「それは何?」
 ミケーレは目を瞬いて、ディアナと美女を見比べた。
 オレはディアナの首で光るモノに気づいた。
 まずい。ブレスレットだ。気づかれちまった。
「綺麗な宝石ね。こんな風にさりげなく渡そうとするなんて、凝った演出だわ」
 美女は感心しながら、ディアナの首に手を伸ばす。
 ミケーレはようやく、美女が何のことを言っているかに気づいたようだ。ブレスレットを外そうと、ディアナの身体から手を離す。
 落ちそうになるディアナを見て、美女はあわてて尻尾を掴んだ。
 ディアナは毛を逆立てて、鋭い鳴き声を上げる。驚いた美女は手を離した。
 自由になったディアナは一度地面にふわりと着地すると、全身の毛を逆立てて美女の顔を目がけて飛びかかる。
 ミケーレが押さえる間もなく、ディアナの爪が閃く。美女の頬に一筋の紅い線が走った。じわりと血がにじむ。
 美女は甲高い悲鳴を上げた。それを聞きつけて、隠れていた男たちが飛びだす。
「奥様になにしやがるんだ!」
 五人のいかつい男たちは、呆然と立ち尽くすミケーレにつかみかかった。美女が使用人だと言っていた男たちだ。
「お、おれはべつに。何も」
「お前が悪いだろうが。こいつめ!」
 にきび面の若造がミケーレを殴り倒した。そのままミケーレに馬乗りになろうとする。
 ミケーレはごろごろと転がって攻撃を避けると、にきび面の足をつかんで引きずり倒した。にきび面が背中を打って、悪態をつく。
 他の男たちは、一斉にミケーレに飛びかかる。
 美女は頬の傷を押さえながら、男たちを見下ろしていた。ディアナは、美女のスカートに爪を立ててぼろぼろに引き裂いている。
 今だ。
 オレはバッカスのひき綱を放り出すと、ディアナを捕まえようと飛び出した。
「よくも、よくも、傷をつけたわね。それも、私の顔に!」
 美女がいきなり叫んだ。顔が怒りで真っ赤に染まっている。
「絶対に許さないわ。その猫を捕まえて!」
 その声を訊くと、ディアナは美女のスカートから離れた。一目散にオレの方へ駆け出す。
 男たちの目が、一斉にオレの方を見つめる。しまった。
「何だ、お前は」
 大男が訝しげに訊く。
 ディアナは手近な障害物とばかりに、オレの足の陰に回りこんだ。頭は隠れているが、長い尻尾が丸見えだ。
 髭面の男が、いつの間にか用意していた拳銃をオレの方へ向けた。
「その猫をこっちへ寄こせ!」
 銃口がオレの胸を狙っている。畜生。飛び道具が相手じゃ勝ち目はない。
 オレは両手を上げながら、口を開いた。
「いや。オレは何も……」
 ディアナは危険を察知したのか、オレを盾にしながら素早く後方へ駆け出す。
 髭面の男はあわてて、ディアナに狙いを定めようとする。オレは銃口を避けてじりじりと後ろに下がった。
 あんなものをぶっ放されたら、後ろにいるバッカスが危ない。
 逃げろよ、バッカス。不穏な様子に気づいてんだろ。それとも、まだ草を食ってんのか?
「あんたのヘボじゃ当たんないわよ。その猫の首には宝石があるんだから、傷つけたら承知しないからね!」
 美女が甲高い声で叫ぶ。髭面の男が銃を下げたのを見て、オレは急いで回れ右をして駆け出した。
 バッカスの奴、やっぱりのんびりと草を食んでいやがる。
 駆けていたディアナは、高く飛び上がってバッカスの背に乗った。
 驚いたバッカスは、手綱を引きずりながら走り始める。
「待ちなさい!」
 美女が金切り声で叫ぶ。
「待てー!」
 男たちが必死の形相で、どやどやと迫ってくる。
 あ、あれ? この状況だとやっぱり、オレも逃げなきゃいけないか?
 オレはバッカスの後ろを走り出した。
 ひょろりと背の高い痩せ男が、オレの後ろに迫った。俊足自慢のようだ。
 畜生。近づいてきたら、殴ってやろう。
 オレは背後に神経を集中すると、機会をうかがった。が、痩せ男はオレを追い越し、更にバッカスまで追い越して走って行く。
 なんだ、あいつ? オレの気迫に気圧されたのか?
 オレは首をひねりながら、バッカスを追った。
 あと少しで追いつくというところで、分かれ道に差しかかった。バッカスは迷わずに、アルタへ向かって駆けていく。
「おい、バッカス! 逆だ。逆!」
 オレの叫び声も虚しく、バッカスはどんどんと走っていく。背中のディアナは、鞍の上に座りこんですっかりくつろいでいる。
 オレは仕方がなく、やおら斜面を駆け上って、近道をすることにした。


 アルタの門前で、オレはバッカスを待ち構えた。手には、途中で木の枝を切って作った、急ごしらえの長い棒を握りしめている。
 ディアナを背に乗せたバッカスが駆けてきた。
 道ゆく人々は、ロバの背に猫が乗っている様子を見て目を丸くしている。
 バッカスはオレに気づくと、足を止めた。ディアナは背から降りることもなく、エメラルドの瞳を半開きにして用心深く辺りを見回している。
 オレは素早くバッカスに近づくと、腹に括りつけている縄を手に取った。巻き取って腰に結びつけながら、道を見つめる。
「なんだ、あいつら。追ってきていないのか?」
 オレは男たちの姿を探した。変だな。どこかで待ち構えているのか?
 ディアナが高く澄んだ声で鋭く鳴いた。
 捕獲網を用意した男たちが、町の中から駆けてくる。あいつら、先回りして網を用意していたようだ。
「行け、バッカス。バッサの町を目指せ」
 オレはバッカスの尻を叩いた。バッカスはディアナを背に乗せたまま、黙々と走り始める。オレは門の陰に身を潜めて、近づいてきた奴を一人でも倒そうと待ち構えた。
「何をもたもたしているのよ。逃げちゃうじゃないの。早く捕まえなさいよ!」
 美女が金切り声を上げる。
 髭面の男が、拳銃を構えた。
「ロバに当てても意味がないのよ。驚いた猫に逃げられでもしてごらん。あんたに捕まえられるのかい?」
 美女が呆れたように叱り飛ばす。網を持った男たちは、あわててバッカスを追って走り出した。
 オレは棒を出して、男たちの足を引っかけようとした。が、失敗だ。男たちはみんな門を抜けていく。
 畜生。一人でも減らしておきたいってのに。
 美女は傷をつけられた頬を押さえながら叫んだ。
「あんたたちは、あの忌々しい猫を必ず、生きたまま私のところへ連れてくるのよ。私がこの手でずたずたにしてやるんだから」
 目が怒りと執念に燃えている。オレはぞっとして、美女の横顔を見つめた。美しいのに、怖い女だな。
 男たちの中で、痩せ男が一人ぴたりと立ち止まった。振り向いて恐る恐る訊く。
「奥様はどちらに?」
「決まっているでしょ。家に帰って怪我の治療よ」
 美女はそういい捨てて、肩を怒らせて家へ向かって行った。
 
 
4 最後に笑うのは誰だ?

 オレはアルタの門を出ると、そのまま石壁の外を伝って山中へと向かった。
 アルタからバッサの間の山中には、地元の奴しか知らない道がいくつかある。足場の悪い獣道だが、滑り降りてしまえば問題ない。
 オレは藪を抜けて、下草を掻き分けながら草の生えた斜面に出た。下に道があるはずだが、ここから見えるのは深い谷底だけだ。
 オレはごくりと唾を飲みこむと、草の生えた斜面を滑り降りた。
 石積みの上に一旦座ると、すぐ下に道が見える。バッカスの姿も、人影も見えない。
 これで、だいぶ先回りになったはずだ。
 さて、どうするか。
 先に来るのはバッカスだろうか。それとも……?
 オレはアルタ側の道を見た。まだ、誰も降りてくる気配がない。
 もう、バッカスの足を止めてディアナを捕まえちまったんだろうか?
 いいや、後ろから近づいたって、バッカスに蹴り上げられるのがオチだ。ひき綱をつかまない限り、馴れない奴が後ろから足を止めるのは難しい。
 あいつらが馬鹿じゃなければ、バッカスの前へ出て網を張ろうとするはずだ。
 オレは革袋からサイコロを取り出すと、首をひねった。そうだな、五か六ならバッカスが先。それ以外なら、男たちが先でいいだろう。
 今日は女神フォルトゥナがサイコロに宿っているからな。
 俺はサイコロを振った。出た目は三。よし。
 ここで決着をつけてやろう。
 オレは縄を取り出すと、罠にぴったりの場所を探して辺りを歩いた。
 縄が目立たないように日陰の場所で、縄を木の幹に結びつけてぴんと張る。
 縄を二度引っぱって、結び目が解けないのを確認すると、オレは頷いた。
 これでよし。
 次に、罠の場所から道を下って、よじ登れる場所を探す。
 足をかけれそうな窪みがあるのを見つけると、オレは石壁をよじ登った。石積みの上を歩き、罠をかけた場所の上へ向かう。
 奴らはまだ来ていないようだ。
 オレは斜面に生えた低木の陰に身体を伏せて、男たちが来るのを待った。
 足音が聞こえてくる。バッカスの蹄の音ではない。
 サイコロ通りだ。
 オレは顔を上げた。一人の男の頭が見える。
 ひょろりと背の高い痩せ男だ。
 痩せ男は罠の手前でアルタの方を振り向くと、抱えていた網を広げ始めた。
 畜生。あと少しで縄に引っかかるってのに!
 オレはじりじりと石壁の上まで這い進んだ。
 石積みから外れそうな大きな石を見つけて両手で持ち上げる。オレはやけになって、痩せ男に向かって石を投げた。
 落ちてくる石の影に気づいた痩せ男は、避けようとして反射的に谷底側へ上半身を乗り出した。そのまま体勢を崩して道から外れると、谷底へ向かってまっ逆さまに滑り落ちていく。
「助けて〜〜」
 男の情けない悲鳴が谷に響き渡る。
 あの落ち方じゃあ、助からねぇな。
 オレは落ちていく男を見つめながら、頷いた。
 よし。まずは一人、片付いたぜ。
 次に道の先に現れたのは大男だ。悲鳴に気をとられたまま駆けてきて、勢い良く縄に引っかかる。
 獣のような咆え声をあげながらつんのめると、勢いついたままごろごろと道を転がって行く。男は頭を庇うように更に身体を丸めた。
 そのまま道を転がり続ければバッサまで降りれるかもしれない。が、道は緩やかに曲がっている。
 男は斜めに道を横切って、道から落ちた。そのまま斜面を勢いを増しながら転がって行く。
 よーし。これで二人。
 続いてやってきたのは、にきび面の若造。斜面の下を覗きこみながら叫ぶ。
「兄貴〜!」
 オレに背中を向けるなんて、無防備な奴だ。
 オレは再び石壁まで這い出ると、投げられそうな石を探した。
 と、若造がくるりと振り向いた。オレに気づくと、威嚇するように歯をむき出して石壁に飛びついた。
 石のデコボコに足をかけて、ムキになって壁を登ろうとする。
 馬鹿な奴だな。
 オレは呆れながらも、若造の手を蹴った。
 若造は鋭い叫び声を上げながら、道へ転がり落ちる。が、素早く立ち上がると、恨みのこもった目でオレを見あげた。
 道の端まで下がると、勢いをつけて壁を駆け上がろうとする。
 オレは冷静に、向かってくる若造の頭を殴った。男は頭を抱えると、今度は勢い良く転がり落ちる。そのまま道の端まで転がって、斜面へと落ちて行った。
 これで、三人目。
 オレは再び低木の陰に潜んで、残りの二人を待った。
 やってきたのは、二人組。筋肉質な男と、髭面男だ。
 髭面男は縄の手前でぴたりと立ち止まった。
 見つけられちまったか。
 オレは気取られないように、息を殺して男たちを見つめた。
 髭面男は、取り出した山刀で縄を切りながら訊く。
「これは、あいつらが張った罠だと思うか?」
 筋肉男が応じる。
「いんや。奴らは縄じゃなくて、網を持ってたはずだ」
 髭面男は首をひねると、歩き始めながら言う。
「どっちにしろ、こんな道幅の狭い場所でロバを引っかけても仕方がない。へたすると、猫が谷底へまっ逆さまだ」
 筋肉男が頷いて応える。
「そんだ。そんなことになっちまったら、お頭に怒られちまう」
「おい。奥様と呼べと言われているだろうが」
 髭面男の諌めに、筋肉男は頭をかきながら頷いた。
 オレは二人の男が立ち去るのを見送ってから、立ち上がった。
 あの二人はなかなかやりやがる。特に髭面の奴。あいつは油断できない。
 さて、どうするか……。
 オレは、二人が道の狭さを話題にしていたことを思い出した。
 そうだ。道幅が広い場所なら、休憩所がある。奴らが待ち構えるなら、きっとあそこだ。
 急いで先回りしなけりゃいけない。
 オレは石積みの上を走ると、斜面を駆け上った。
 目指すは、休憩所の上の斜面にある大岩だ。
 オレは藪をこいで、山中を全速力で走った。途中で帽子を落としてしまったが、戻って拾う余裕は無い。
 奴らがあの調子でのんびり歩いているなら、間に合うはずだ。
 オレは草を掻き分けて大岩に続く斜面に出た。斜面を降りようとしたオレは、岩の上に人影を見つけた。
 背中に陽光を受けて男が立っている。身につけている上等な服と赤毛に見覚えがあった。
 こいつは確か、美女の元へディアナを連れて行った、ミケーレとかいう若者だ。
 自分を殴った男たちに仕返しをしようとしているのか、それとも、ディアナを捕まえて手柄にしようとしているんだろうか。
 オレは首をひねった。
 こいつがディアナを捕まえるつもりなら、阻止しなければいけない。
 オレは静かに斜面を下りていった。奴はすっかり道の方に気をとられていて、後ろを見ようともしない。
 オレは息を殺して、慎重に岩の上を進んでミケーレに近づいた。
 道のほうから足音が聞こえてくる。
 ミケーレは腰の袋からガラス瓶を取り出した。瓶の中には、真っ赤な怪しい物体が入っている。
 聞こえてくる足音は、バッカスの蹄と違う。オレにはすぐわかった。
 が、ミケーレはわからないのか、身体を乗り出すようにして下を覗きこんでいる。
 話し声も聞こえてくる。きっとあの二人組だろう。
 ミケーレはため息をつくと、いきなり振り返った。俺の顔を見て、不思議と目を細める。
 男たちを見て諦めたってことは、こいつはやっぱりディアナを捕まえるつもりなんだろう。仕方がない。
 オレはミケーレの胸をドンと押した。
 ミケーレは目を見開いて、叫び声を上げながら落ちていく。オレは斜面から身を乗り出して、下の道を覗きこんだ。
 網を張ろうとしていた二人の男の上に、ガラス瓶を持ったままのミケーレが背中から落ちていく。
 事態に気づいた筋肉男は、網の端を持ったまま逃げ出そうとした。髭面男は、網に足をとられてつんのめる。
 その上へ、丁度良くミケーレが落っこちた。
 瓶が地面に落ちて、派手な音を立てて割れる。と、真っ赤な粉が舞い上がった。
 逃げ出そうとしていた筋肉男は、粉をまともに吸いこんで咳きこむ。
 ミケーレと髭面男は折り重なって仲良く伸びている。その横で、筋肉男は体を丸めて、涙を流して苦しみ始めた。
 上手いこといったぜ。まさか、下の奴にちょうど良くぶつかるとはな。
 おまけに、あいつの持っていた物騒な瓶の中身。バッカスの足を止めるのに使うつもりだったんだろうが、丁度良かったぜ。
 蹄の音が聞こえてくる。バッカスだ。
 ディアナを乗せたバッカスは、横たわっている男たちの横を悠々と通り過ぎる。
「ま、待て!」
 筋肉男は必死で立ち上がった。が、前が良くみえないのか、よろよろと道の端へ寄っていく。そのまま道から足を踏み外して、谷底へと落ちて行った。
 こんなに上手くいくなんてな。
 たまには、こういう偶然に身を任せるのもいいかもしれない。  オレはサイコロを取り出すと、女神フォルトゥナに感謝の祈りを捧げた。


 オレの先導するバッカスの背に、ディアナは気品溢れる姿で乗っている。白い毛並みを輝かせて、ふさふさの尻尾を風になびかせながら。
 首で宝石つきのブレスレットが、長い毛に半ば埋もれながらキラキラと輝いている。
 橋を渡ってバッサの町へ入っていくと、人々はみんな足を止めてディアナを見つめた。
 口々にディアナの毛並みを褒め称え、大人しく背に乗せているバッカスを不思議そうに見つめる。
 オレは得意になって、目抜き通りを歩いて行った。
 少女の家が近づくと、ディアナがそわそわし始めた。
 噂を聞きつけたのか、少女が家の前で待っている。
「ディアナ!」
 少女が目を輝かせて呼ぶと、ディアナは高い甘えた鳴き声を上げた。
 オレはバッカスのひき綱を引いて、足を止めた。
 ディアナはバッカスの背から飛び降りると、一目散に少女へ向かって走っていく。
「ディアナ、よかった!」
 少女は顔を上気させてディアナを抱き上げた。ディアナは少女の腕の中で、目を細めてご満悦だ。
「良かったな」
 オレが声をかけると、少女は満面に笑顔をたたえてオレを見あげた。
「どうもありがとう」
 少女の笑顔を見て、オレは疲れが一気に吹き飛んだ気がした。
「おれいを……」
 少女が続けて言うと、側に控えていた付き添いの中年女が前へ進み出る。女は膨らんだ革袋を取り出した。
 中で硬貨がぶつかり合って、鈍い音を立てる。
 オレはごくりと喉を鳴らした。
 金は欲しい。が、オレは金の為にやったんじゃない。
 泣いて欲しくなかったから、笑って欲しかったからやったんだ。
 それに、人を動かすのは金だけではないということを、この幼い少女に知っていてもらいたいじゃないか。
 オレは報酬の入った革袋を見ないようにしながら口を開いた。
「いいや、金なら要らないぜ。オレはあまり大したことをやっていないからな」
 オレの強がりに、少女は目を見開いた。ディアナを撫でながら、女に言う。
「わたししってる。きのうもさがしてくれたの」
 女は革袋をそのまま差し出そうとした。オレは受け取っちまいたい誘惑をがまんして、顔を引きつらせながら言った。
「いや、これは受け取れないぜ」
「でも……」
 少女は眉を寄せて、真剣な瞳でオレを見つめる。と、ディアナを抱えたままオレに近づくと、つま先立ちをしてオレの耳に口を寄せた。
 オレが屈んでやると、小声で言う。
「ディアナだけじゃなくて、ママのブレスレットもぶじだったもの。おれいをさせて」
 オレは屈んだまま口を開いた。
「そういうことなら……そうだな。お嬢ちゃんのキスでももらえれば、それで充分だぜ」
 少女は首を傾げてオレを見つめると、にっこり微笑んだ。オレの頬に、柔らかい唇がそっと押し当てられる。
「お嬢様、いけません!」
 女が咎めて叫ぶ。少女は女を無視して、オレの頬から唇を離すと、はにかんだように微笑んで言った。
「おじいさま、ほんとうにありがとう!」
 オレは禿げ上がった自分の頭を軽く叩いて、おどけて口を開いた。
「いやいや。この老体、可愛らしいお嬢ちゃんの役に立てて光栄だぜ」
 バッカスが馬鹿にしたようにいななく。
「なんだよ、バッカス。せっかくのいいところなのに、邪魔をするなよ」
 オレはそう言いながら、バッカスの背を叩いた。少女はそっと手を伸ばして、小さな手でバッカスの首を撫でながら言う。
「ロバさんもありがとう」
 バッカスは口を開けて嬉しそうに笑った。

-end-

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