「唄」

「きこえる…」
 つぶやくテュリスの小さな手を、強く握りしめる。
「大丈夫だよ。怖くない」
 そう、言い聞かせているのに、祖母が大げさな身振りをしながら口をはさんだ。
「今日も死者が森を彷徨って歌っているのさ。あの森は、夜になると、あの世との出入り口になっちまうからね」
「…おにいちゃん」
 テュリスが不安げな顔をあげた。
「大丈夫だよ。それにね、あの世の出入り口なんてないんだ。だから、森には死者なんていない」
 死者が本当にこの世に出てくるなら、母さんは僕らに会いに来るはずだから…。
「お前はティンガネィンだから、そんなことを言うのさ。お前の呪われ…」
「今日はもう寝るから!」
 祖母の言葉をさえぎるように言って、テュリスの手をひいて、部屋を出た。
 どこからか吹きこむ風が頬をなでる。
 目をあけて暗い部屋の中を見まわすと、戸が開いているのが見えた。
 すぐ隣りで寝ていたはずのテュリスの姿が見えない。
 廊下に出る。と、壁にかかっていたランプがなくなっていることに気づいた。
 急いで隣の部屋を覗く。低い唸り声のような祖母の寝息が聞こえた。
 台所にもいない。木製の扉がわずかに開いている。テュリスは外へ出たのだ。
「テュリス!」
 叫びながら外へ飛び出す。
 弱い星明りの中、あの音色だけがあたりに響いている。
 物悲しい歌のような、長く響く悲鳴のような音。
「テュリス!」
 どこに行ったんだろう。あんなにあの音を怖がっていたのに。
 どこかで怖くて泣いていたりしないだろうか。
 あまり使いたくないけれど、仕方がない。
 大きく深呼吸をし、両腕を天にかかげた。
 ティンガネィンとしての、この忌まわしい力で、テュリスの居場所はすぐに判る。
 指先がしびれたように、感覚がなくなる。毛髪の一本一本の先に、ぴりぴりとした刺激が走る。
 周辺のあらゆる生命の息吹が、混ざり合いながら押し寄せてくる。
 テュリスは、いない。
 諸々の混濁した感覚の中で、はっきりとした色を捕らえた。
 黄色い光。意識を集中していくと、急に視界が開けた。
 周囲には木々の高枝。下方に黄色い光の染み。奥へと続く森の道。
「テュリス!」
 そう、叫んだ途端、あたりの光景が変化して、もとの森の入り口に変わった。
 さっきのは、フクロウが見た記憶の中の光景だろうか。
 力を使った後にいつも感じる脱力感を味わいながら、森の奥へと駆けこんだ。
「テュリス!」
 何度か呼びかけたとき、微かに声が聞こえた。
「どこだ?」
 声を頼りに藪をかきわける。と、弱い黄色の光を投げかけているランプの横に、膝を抱えて震えているテュリスがいた。
「テュリス!」
 声をかけると、泣きながら飛びついてきた。
「おにいちゃん!」
「どうしたんだよ。なんで森の中なんかに」
「だって、だって、おかあさんが…でてきてるかもしれないって思って…」
「死者なんか出てきてないって言っただろ!」
 そう、強い調子で言うと、テュリスは目を伏せて口を開いた。
「だって、さっき見たんだもん。白っぽいのがうごいてたの」
 ため息をつくと、なおもテュリスはくいさがった。
「ホントだもん。ホントに見えたんだよ!」
 今、何を言っても、テュリスは納得しないんだろう。
「分かったよ。気がすむまでつき合ってやるから、もう一人で出歩いたりするなよ」
「うん」

 聞こえてくる悲しげな音に向かって歩いている。もう、だいぶ家を離れている。道もない。朝までには帰れないかもしれない。
 次第に、手を握るテュリスの力が強まるのがわかる。
 音はよりいっそう大きく響いている。
 風が鳴っているだけとは思えない。死者がいるなんて、とても信じられないけれど、きっと音を出している何かがあるんだろう。
 急に音が鳴り止んだ。
 不思議に思って立ち止まると、地面を揺るがすような轟音と共に突風が顔や身体に突き当たり、叫び声のような大きな音が鳴り響いた。
 とっさにテュリスをかばって、その場にうずくまる。とても立っていられない。
「こわいよー」
 腕の中でテュリスが泣いている。
 ランプの炎が消えて、あたりは暗闇に閉ざされた。絶え間なく吹いてくる風で何も見えない。
 立ちあがることもできずに、ただ腕の中の温もりだけを感じていた。
 やがて、あたりが明るくなってきた。激しい風も徐々に弱まり、顔をあげられるようになった。
 夜明け前の青い世界の中で、ぼんやりと黒い影が見えた。
 恐る恐る近づいてみると、指のような形の、ごつごつとした岩が何本もそびえていた。
「おにいちゃん?」
 泣き疲れて眠っていたテュリスが目を覚ましたようだ。
「見てごらん。手みたいな岩があるよ」
 そう言いながら、岩を見ていると、一本一本の指の付け根にあたる部分に、大きさの違う穴が空いているのが見えた。
「誰かが掘った穴なのかな」
「あな?」
 テュリスが近づいてきた。
 もしかして、この岩に風が吹きあたるときに、音が出ていたんじゃないだろうか。指の間と、穴を吹きぬけるときに。
「きっと、これが、死者の歌の正体だ」
 テュリスは信じられないというように首を振って、穴を覗きこんでいる。
 その小さな背中を見ながら、ふと、懐かしいような気持ちに襲われた。
 この光景をずっと前に見たことがある。
 そう思った途端に、幼い頃に力で偶然に見た、母さんの中の記憶が目の前に浮かんで消えた。
 岩を覗きこんでいる小さな背中。ああ、あれは母さんが見た僕だ。
 穴を見つけて喜んでいると、母さんが来て言ったんだ。この岩が、僕らを守ってくれるって。
 あれは、ティンガネィンだとばれて、村を追われていたときだ。テュリスはまだ赤ちゃんで、母さんに背負われていた。迷信深い村人を撒くために、死者の森と呼ばれていたここを通ったんだ。
「今夜も森は騒がしいねえ。死者たちが合唱してるんじゃないかえ」
 祖母がいつものように、脅かすように言う。
 けれど。
 テュリスは晴れやかな笑みを浮かべている。
 そう。
 もう、怖くない。
 あの岩の音色は、僕らを守る母さんの子守唄なのだから。

-end- 

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