「神々の気紛れ」

●章目次

第19話

第20話

第21話

第22話

第23話

第24話

第25話

第26話

+1

◆第19話◆

 朝から何度もくりかえした言葉を、アルゥサは口の中でつぶやいた。
(つまんない。もうやだよぉ)
 アルゥサは、見張りの立っている倉庫の出入り口をぼーっと見つめた。
「こんなにずっと暗いところに居たら、目が変になっちゃう!」
 声に出して言ってみる。
 誰も聞いてないのか、みんな聞こえないふりをしているのか、何の反応もない。
(サファルに会いたいよぉ。お外に出たいよう!)
 アルゥサは床に横になって、足をばたばたと動かした。
 
 夕方になって、大人たちは出かける準備や夕食の支度を始めた。みんな忙しそうに動き回っている。
(だれも、こっちを見てないみたい)
 アルゥサは上体を起こすと、出入り口を見つめた。
 見張りの男も横を向いている。おまけに、小柄でやせた体格だ。
(押しのけて通れるかも!)
 アルゥサは急に立ち上がると、出入り口に向かって突進した。
(ごめんなさい)
 心の中で見張りの男に謝りながら、アルゥサは体あたりをしようとした。
 その時。
 アルゥサは誰かに腕を掴まれた。
「あっ!」
 恐る恐る振り返ると、無表情の筋肉質な男と、怖い顔をした「番人」が立っていた。
「そこで反省しなさい」
「おとなしくしているんだぞ!」
 涙目のアルゥサが見つめる中、出入り口は厚い布でふさがれた。
 アルゥサが閉じ込められたのは、「大きな人」が倉庫の床に置きっ放しにしている、横に穴の開いた籠の中だった。
「あ〜あ」
 アルゥサはぺたりと座り込んだ。編み目のでこぼこが痛い。
 首を大きく後ろに倒して、上を見る。
 ぐるりと囲む籠の縁と、暗闇が見えた。
(あそこに届けば、きっと籠から出られる!)
 アルゥサは縁に向かって手を伸ばした。届かない。
 飛び上がっても届かない。踏み台になるようなものもない。
 アルゥサは籠の壁に足がかりになりそうな場所を探した。
(これ、登れるかなぁ)
 どこも同じように細かく編んである。
 アルゥサは編み目に手をかけた。指先に力を入れようとしても、取っ掛かりが小さくて力が入らない。
「はあ。だめかぁ」
 アルゥサは足を投げ出して、床に座り込んだ。
 指をくわえて呟く。
「…おなか空いた」
 アルゥサはうらめしそうに、籠の出入り口を見つめた。
(きっと、みんなパンとか食べてるんだろうなぁ)
 しばらくして、数人の声が籠の外から聞こえてきた。
「ええ。最初は暴れてたようですが、今は静かですよ」
「寝ているのか?」
「さあ。どうでしょうか」
(だぁれ? 出してくれるの?)
 アルゥサはじっと出入り口を見つめた。
「アルゥサ?」
「お母さん!」
 アルゥサは出入り口の前に近づいた。
「もう絶対にしないって、約束しなさい!」
「なにを?」
 そう言って、アルゥサは首を傾げた。
「何じゃないでしょ! 自分が何をしようとしたのか判ってないの?」
 呆れたような母親の声が聞こえる。
「まだ、反省していないようだな。もうしばらく入っていてもらおうか」
 番人の声だ。低く響く声に、アルゥサは身をすくませた。
「おかあさん、お腹空いた」
 そのアルゥサの声は辺りにうつろに響いた。

「気まぐれ、気まぐれ」
 低い呼び声に、アルゥサは目を覚ました。
(まだ眠い…)
 アルゥサはゆっくりと起き上がった。目をこすりながら辺りを見回す。
(あれ、ここは?)
 暗い中で目が慣れてくると、周りをぐるりと囲んでいる籠の壁が見えた。
(…そっか、籠の中なんだった)
「気まぐれ、静かにしていろよ」
 出入り口の厚布の向こうから、ひそひそ声が聞こえた。
 布のこすれる音も聞こえてくる。
「何で? 何してるの?」
 アルゥサは出入り口に近づきながら首を傾げた。
「静かに! 今、出してやるからな」
「え?」
 アルゥサは目を大きく見開いて、厚布で覆われた出入り口を見つめた。

◆第20話◆

 アルゥサは、出入り口を塞ぐ厚布が、張ったりゆるんだりするのを見つめていた。
 荒い息づかいと、こするような音が聞こえてくる。
「だいじょうぶ? なんか手伝うことある?」
 声をひそめてアルゥサが言う。
 すると、厚布の裾をめくってバフルが顔をのぞかせた。
「静かに。早くこのすきまから出て」
 バフルに急かされて、アルゥサは腹ばいになると、籠と布の間をくぐりぬけた。
 辺りには人影もなく、みんな寝静まっているようだ。
「こっちだ」
 バフルに手を引かれるまま、アルゥサは倉庫の出入り口が見える場所にたどり着いた。
(あれ? 見張りがいない)
 アルゥサが辺りをきょろきょろと見回していると、バフルが耳打ちした。
「早くあそこから出ろよ」
「どうして?」
「お前が閉じ込められたから、みんな油断してるんだ」
「そうじゃなくて、どうして助けてくれたの?」
「それは…」
 バフルは少し言いよどんだ後、打ち消すように言葉を続けた。
「とにかく、早く行かないと誰かが起きてきちゃうぞ!」
 バフルに背中を押されて、アルゥサは小さくうなずいた。
「うん。…ありがとね」
 アルゥサは足音を立てないように気をつけながら、出入り口に向かっていった。

 外はまだ薄暗く、静まり返っていた。通りを歩く人影もなく、動物の姿もない。
 アルゥサは大きく息を吸い込んだ。冷たく乾いた空気がのどの奥を刺激する。
(外のにおいだ)
 アルゥサは微笑むと満足げにうなずいた。
(やった! やっと外に出られた)
 白みはじめた空の下、アルゥサは駆けていった。
 
 人影のない中庭を駆け抜けて、アルゥサはサファルの部屋にたどり着いた。
 低い唱え声がもれ聞こえてくる。
(サファル?)
 そっと入り口から中をのぞき見る。と、部屋の中央にうずくまっている人物が見えた。
(お祈りしているんだ)
 静かに部屋の中に入ったアルゥサは、邪魔をしないように部屋の隅に座り込んだ。
 サファルが一連の動作を終えて立ち上がるのを見て、アルゥサはサファルの前に出て行った。
「アルゥサ!?」
 サファルは目を丸くし、アルゥサを見つめている。
(なんか、久しぶりすぎて、どんな顔をしていいのかわかんない)
「えへへへへ」
 アルゥサは笑いながら両手を振った。
「こんなに早い時間にめずらしいね」
 そう言いながら、サファルはクッションに座り込んだ。
「うん」
 アルゥサがおずおずと近づくと、サファルは首を傾げた。
「どうしたの? こっちにおいでよ。ほら、干ナツメヤシもあるよ」
 サファルが取り出した陶器の入れ物には、干ナツメヤシが山積になっていた。
「ああっ!」
 思わず大きな声を出したアルゥサは、あわてて口を押えた。
「来ないから、何かあったのかと思って、心配してたんだよ」
 サファルが指で干ナツメヤシを摘み上げながら言う。
 アルゥサは鼻いっぱいに干ナツメヤシの匂いを吸い込んだ。
(いい匂い)
 なんだか頭がくらくらする。
(そっか。そういえば昨日の夜、なんにも食べてないんだった…)
 アルゥサはその場にばったりと倒れた。

◆第21話◆

「あのね、モゴモゴ、ひょれでバフルが…布の、モゴモゴ」
「アルゥサ。喋るか食べるか、どっちかにしたらどう?」
 呆れたようなサファルの言葉に、アルゥサは黙り込んだ。両手に干ナツメヤシのかけらを持って、口を一生懸命動かしている。
 サファルは甘いミントのお茶を飲みながら、アルゥサの様子を見つめていた。
 ナツメヤシを飲み込み終わったアルゥサは、口を開いた。
「結び目をね、外側からといてくれたの。それで、やっと外に出れたの」
「結び目って、アルゥサの閉じ込められたっていう籠のこと?」
 そう、サファルが言うと、アルゥサはかじりかけていたナツメヤシをあわてて口から離した。
「いいよ。先に食べなよ」
 アルゥサは黙って頷くと、残りのかけらを口の中に放り込んだ。
 サファルがお茶を飲み終わった頃、ようやくアルゥサが口を開いた。
「その。出口を塞いでいた布がね、籠の外で結んであったの」
「…なるほどね。それで、ナツメヤシがあるのに、2日間も来なかったわけだ」
 サファルの言葉に、アルゥサは首を左右に振った。
「1日目は籠の中じゃなくて、見張りがいて外に出れなかったの」
「ああ、暴れて閉じ込められたんだっけか」
「暴れてなんかいないもん!」
 アルゥサは頬を膨らませた。
「それにしても、あの倉庫にそんなにジンがいるとはね」
 サファルの言葉に、アルゥサはあわてて口を両手で塞いだ。
(えと、えっと。そうだ、言っちゃ駄目なんだった…)
 アルゥサは上目遣いにサファルの顔をうかがった。何か考え事をしているみたいだ。
「あのね…、そんな大勢じゃなくって、その。う〜ん」
 アルゥサは首をひねった。
(どうしよう。食べながらだったから、ついつい、聞かれるままに仲間のことを話しちゃった…)
「こっそり逃げてきたんなら、もう倉庫に帰れないんじゃないの?」
 サファルの言葉に、アルゥサは肩を落とした。
「そっか、どうしよう。帰ったら怒られるし、もう絶対にお外に出してもらえないよう」
「それじゃあ、ここに居るといいよ」
 あっさりと言われて、アルゥサは動きを止めた。
「え?」
「ここに居ればいいって言ったんだよ」
 アルゥサは目を丸くした。
「ほんとう? ほんとにいいの?」
「ああ」
 サファルの言葉に、アルゥサはじたじたと足をばたつかせた。
「よかったぁ! ありがとう、サファル!」

 柔らかい薄紅色の布に包まれて、アルゥサは横になっていた。
 ほのかに甘い香りが辺りに漂い、時折、擦れるような音が聞こえてくる。サファルが紙をめくる音だ。
 アルゥサはごろりと寝返りをして、部屋の入口の方を向いた。
 中庭を誰かが歩いているのだろう。時折、影がよぎる。
 けれども、アルゥサの居る棚の上は、陰になって薄暗いので、安心していられた。
 アルゥサはあくびをした。
(何かないかなぁ…。サファルはお勉強中だし、つまんない)
「サファル」
 アルゥサはそっと呼んでみた。
「なあに? おなかでも空いた?」
 サファルの返事に、アルゥサは顔を赤らめた。
「そんなにいっつも、おなかを空かせてなんかないもん!」
「そう?」
 サファルは本から顔を上げると、ゆっくりと立ちあがった。
 物に掴まりながら、ぎこちない足取りで近づいてくるのを見て、アルゥサはあわてた。
(どうしよう。呼ばなきゃ良かった…)
 サファルはアルゥサの前に手を伸ばした。
「あ、えっと」
 おずおずとアルゥサが指を掴むと、サファルは微笑んだ。
「中庭に出ようか? 本を読むのも飽きちゃったし」
「うん!」
 アルゥサは元気良く返事をすると、サファルの腕によじ登った。
 
 サファルは、杖をつきながらゆっくりと歩いていった。アルゥサはサファルの服の中にいる。
 昨日、サファルが使用人に頼んで服にくっつけてもらった、丈夫な布でできたポケットの中だ。
「居心地はどう?」
 サファルが小声で言う。
「うん。楽だよ」
 アルゥサはひそひそ声で答えた。
「サファル、話がある」
 低い声が聞こえて、アルゥサは体を強張らせた。サファルの動悸が聞こえてくる。
(動かないようにしなくっちゃ)
「何ですか?」
 サファルが答えると、すぐに低い声が応じた。
「明日、マアムーン・オマルが到着するそうだ」
「マアムーン叔父さんが!」
「そうだ。そして、2日後には『平和の都』へ出発する」
 サファルの息を飲む音が、アルゥサにも聞こえた。
「…それはまた、遠くへ。それにずいぶんとあわただしい」
「お前のためだ。サファル」
「えっ?」
 サファルが裏返った声を上げると、落ち着いた低い声が答えた。
「すぐに旅の支度をしなさい。お前も一緒に行くのだから」

◆第22話◆

 アルゥサは棚の縁に腰掛けて、ぶら下げた足を振りながら言った。
「ねえねえ、さっき中庭で話した人って、サファルのお父さん?」
「ああ」
 サファルの沈んだ声に気づかずに、アルゥサは続けた。
「見てみたかったなあ。…サファルに顔、似てるのかな?」
 返事がない。
 アルゥサはようやく、サファルが頭を抱えていることに気がついた。
 足の動きを止めて、立ち上がる。
「サファル? 頭がいたいの?」
「…いいや」
 ぼそりとサファルが答えた。
(どうしよう。苦しいみたい…。こういう時はどうするんだっけ?)
 アルゥサはうろうろと棚の上を歩き回った。
(えーと、えーと。干ナツメヤシじゃないし…)
「はぁ」
 サファルが大きく息を吐き出した。
「サファル、大丈夫? 具合悪い?」
「いや。…さっきの話を考えていただけ」
「さっきの話?」
「そう。いつか、旅に出ろって言われるんじゃないかって、ずっとずっと思ってた」
 そこで、サファルは言葉を切った。
「サファル?」
 アルゥサが声をかけると、サファルは口を開いた。
「足が悪いから、父さんのようにはなれない。…だから、学問するしかないんだ」
 そう、自分に言い聞かせるように。
(…どうしたのかな、サファル)
 アルゥサが見守っていると、サファルは握りこぶしを作って叫んだ。
「だけど、急だ。それに、どうしてあんな遠くまで!」
 アルゥサはあっけに取られてサファルの顔を見た。
(サファルも叫んだりするんだ…)
「そんなに遠いの?」
 アルゥサが思い切って声をかけると、サファルは唸るように答えた。
「ああ、ずっと東のほうだ」
「東のほう…。あれ?」
 アルゥサは首を傾げた。
(なんだっけ? 確か、東のほうにも仲間が住んでるところがあるって…)
「近くの町でだって学べるのに、どうして」
 サファルがぽつりと言う。
 アルゥサはサファルの顔をじっと見つめた。眉間にしわが寄って、額にこげ茶色の髪が張り付いている。
(なんだか、いつものサファルじゃないみたい…)
「あの、さ、サファル。お父さんに聞いてみたほうがいいんじゃない?」
 アルゥサは小声で提案してみた。
「そんなの、むりだよ。父さんのすることは、間違いないよ。それなのに、理由が判らないなんて言ったら、失望されてしまう」
 そう言って、サファルは深いため息をついた。
(サファルのお父さんって、すごい人なのかな)
 アルゥサは腕を組んだ。
「お父さんの仕事ってなあに?」
「隊商の指導者だよ。沙漠越えの」
「さばく」
 アルゥサは口の中で繰り返した。
(さばくって、水が少なくて、草木が生えてなくて? なんだか、想像つかない)
 アルゥサが考え込んでいると、サファルはぶつぶつと何かを呟いている。
 アルゥサは聞き耳を立てた。
「…『平和の都』まで行けば、いい教師がいるってことか? いいや。学問だったら、西の大モスクでも盛んなのに…」
 アルゥサは首を傾げた。
(そういえば、西にも大きな町があるんだっけか)
「それに、マアムーン叔父さんとずっと一緒の旅なんて」
 サファルがため息混じりで言う。
「怖い人なの?」
「判らないよ。あまり話したことがないんだ」
 そう言って、サファルは黙り込んだ。
「サファル。嫌なんだったら、やっぱりお父さんとお話ししたほうがいいよ」
「いや。そんな…。だめだよ、きっと」
「何で?」
 アルゥサは語気を強めた。
「その、…どう話しかけたらいいのか判らないし」
 そのサファルの言葉に、アルゥサは頬を膨らませた。
(なんか、イライラする)
「サファルの意気地なし!」
 
 夕食が過ぎて、サファルが切り分けた干ナツメヤシを差し出しても、アルゥサはまだ頬を膨らませていた。
 無言でナツメヤシを受け取り、サファルに背中を向けて口に入れる。
「アルゥサ」
 サファルの声を無視して、アルゥサはそっぽを向いたままだ。
「アルゥサ。判ったよ」
 ため息混じりの声。
「父さんの部屋へ行ってみるから」
 そのサファルの言葉に、アルゥサは振り向いた。
「本当?」
「ああ。だから、ついておいで」
 差し出されたサファルの手に、アルゥサはよじ登った。

 サファルはゆっくりとした足取りで、中庭を横切っていった。
 辺りは暗く、静まり返っている。
(そうだ。このままここにいたら、また、サファルのお父さんの顔が見えないや)
 アルゥサは抜け出そうとして、ポケットの中で手足をばたつかせた。
「アルゥサ、どうしたの?」
 サファルの囁き声が聞こえてくる。
「外に出たいの!」
 そのアルゥサの声が聞こえないのか、返事がない。
(どうしよう。大きな声は出せないし)
 アルゥサはますます大きく手足を振り回した。
「アルゥサ、何やってるの?」
 焦ったようなサファルの声が響いてくる。
「あっ」
 サファルは小さな声を上げると、体を屈めた。
 アルゥサのいるポケットが傾いた。
(これで外に出られる)
 アルゥサは片手を伸ばして端を掴んだ。反動で、体がひっくり返る。
(あれ?)
 端を掴んでいた手が緩んで、アルゥサの体はサファルの服の間から滑り落ちた。
「あ、アルゥサ!」
 サファルは杖を離すと、両手をアルゥサに伸ばした。
 転がった杖が壁に当たり、高い音を鳴らせた。

◆第23話◆

「何が起こったの?」
 アルゥサはあわてて辺りを見回した。
 体を包んでいる暖かいものは、サファルの手のようだ。
「サファル?」
 そっと呼んでみたけれど、返事がない。
 アルゥサは指の間から、周りをうかがった。
「何事だ!?」
 灯りを掲げている誰かの姿が見える。
(サファルのお父さん?)
 もっと良く見ようと、アルゥサは指の間に顔を押し付けた。
(土が近い…。サファル、転んじゃったのかも)
「サファルか? どうしたんだ」
 体格のいい男が駆け寄ってくる。
 その途端に、アルゥサを掴む指に力がこもった。
(サファル?)
 アルゥサは持ち上げられて、服の間に落とされた。
(ああ! もうちょっとで顔が判りそうだったのに)
 アルゥサに見えるのは目の前の布。サファルの動悸だけが聞こえてくる。
「サファル、怪我はないか」
(怪我? そっか、落っこちそうになった私を助けようとして…)
 アルゥサは目を瞑った。
(どうしよう。どうしよう)
「大丈夫です、父さん。ちょっと、杖が滑って」
 サファルの声が聞こえて、アルゥサはほっと胸をなでおろした。
「1人で立てます」
 サファルの体が傾いて、アルゥサはあわてて目の前の布を掴んだ。
 土を払う音が聞こえてくる。
「こんな時間に外に出て、どうしたんだ?」
 父親の言葉に、サファルは弱々しい声を出した。
「お聞きしたいことがあって」
「判った。部屋に入りなさい」
 サファルは父親に支えてもらいながら、部屋の中へ入っていった。

 部屋の中に入ってから、しばらくの間二人は無言だった。
(サファル、大丈夫かなぁ。なんか、緊張する)
 アルゥサは手を握りしめた。
「聞きたいこととは何だい?」
 父親が先に口を開いた。
「…なぜ『平和の都』まで、行かなければならないのですか」
 その言葉に、父親は深くため息をついた。
 サファルの鼓動が早くなっていく。アルゥサはそっと、サファルの体に手の平を押し当てた。
(がんばって、サファル!)
 そう、心の中で応援する。
「…確かな話ではないので、お前には黙っているつもりだったが」
 サファルとアルゥサは、父親の次の言葉を待った。
 父親は水差しを持ち上げると、カップに注いだ。水を一口飲んで、口を開いた。
「『平和の都』には、一年程前から高名な医者が移り住んでいるらしい。歩けない者も走り回れるようになったという話だ」
「高名な医者…」
 サファルは小さく呟いた。
「噂話でしかない」
 その父親の言葉に、サファルは口の中で呟いた。
「…治るかもしれない…」
 アルゥサは飛び跳ねたくなるのを必死でこらえていた。
(サファルの足が、治るの? すごい。すごい!)
「長い旅になる。よく休んでおきなさい」
「はい。お休みなさい」
 サファルはゆっくりと、父親の部屋から出た。

 アルゥサはそっと、サファルの服の間から持ち上げられた。
「大丈夫だった?」
「うん。すごいね。ね、サファル! 治るんだね。良かったね!」
 アルゥサはサファルの手の上で、足をばたつかせた。
「危ないよ、アルゥサ。じっとしてなきゃ」
 棚の上に降り立ったアルゥサは、もじもじと手をこすり合わせた。
「あ、あのね。先に謝ろうと思ったんだけど。その…。ごめんなさい!」
(…サファルのお父さんの顔を見ようと思って暴れたから、サファルが危ない目に…)
「何が」
 サファルに聞き返されて、アルゥサは目を大きく見開いた。
「え、その。落っこちちゃいそうになって…」
「ああ、あの時。アルゥサが無事でよかったよ。手が滑って杖が落ちたから、あわてて拾おうとしてしまって」
「え?」
 アルゥサはますます目を丸くした。
(そっか。あの時、サファルが屈んだから、ポケットから出られたんだっけ)
「それより、ありがとう。アルゥサの言う通り、聞きに行ってみて良かったよ」
 そう言って、サファルは微笑んだ。
(…いつものサファルだ!)
 アルゥサは満面に笑顔を浮かべた。

 アルゥサはサファルの手から布袋の中へ滑り降りた。
「ごめんね。使用人に見つからないようにするには、この中が一番だから」
 アルゥサは袋の口から覗いているサファルの顔を見上げた。
「平気。もう、慣れたもん!」
「じゃあ、閉めるよ。お休み」
 サファルの顔が遠ざかって、袋の口が紐で締まった。
「お休みなさい!」
 アルゥサの目には、布袋の生成り色しか見えなくなった。
(今日は色んなことがあったなぁ…)
 アルゥサは仰向けになった。
「まだ、起きてる?」
 小声で呼びかけられて、アルゥサはサファルの寝ているほうを向いた。
「なあに?」
 小さく返事をする。
「アルゥサはどうする?」
 不意に言われて、アルゥサは目を瞬いた。
「なにを?」
「…俺が旅に出た後、どうする?」
「あ、考えてなかった」
 アルゥサはおでこに手を当てた。
(そうだ。どうしよう。倉庫に帰ったら、もう、お外に出してもらえないだろうし)
 番人の怖い顔が目に浮かんだ。
「一緒に行こうか」
 思いがけない言葉に、アルゥサは起き上がった。
「えぇ?」
 言ってしまってからあわてて口を押える。
(大きな声を出しちゃった…)
「旅の話が好きなのは、旅に出たいからだと思っていたけど?」
 サファルの言葉に、アルゥサは大きくうなずいた。
「うん。行ってみたい。それにね、東のほうにも仲間がいて、確か、『大きな人』と仲良く暮らしてるんだって! だから、そこに行ってみたい」
「へぇー。東か。そこが『平和の都』だといいね」
「うん!」
 アルゥサは元気よく返事をすると、再び横になった。
(とっても楽しみ。楽しみ!…『大きな人』と、みんなで仲良く……)
 アルゥサはいつの間にか眠り込んでいた。

◆第24話◆

 淡い紅色。薄黄色。青やオリーヴ色の柔らかい布に埋もれるように、アルゥサは座っていた。
「これを敷いたら、どうかな」
 サファルが白い厚布を広げた。
「うん。柔らかくてあったかい布だね」
 アルゥサは手で撫でながら、笑顔を見せる。
 二人は、アルゥサがずっと座っていても疲れない場所を作ろうと、布や紐を寝台の上に広げていた。
 サファルは、アルゥサが横になれる大きさの籠の中に厚布を敷いた。その上に、柔らかい薄紅色の布を敷く。
「この上に乗ってみて」
 アルゥサは恐る恐る籠の中に入った。座り込んで、ぐいぐいと布を押してみる。
「どう?」
 サファルに問われて、アルゥサは微笑んだ。
「ちょうどいいみたい」
「じゃあ、これに入れてみるよ」
 サファルは粗い生地でできた丈夫な袋を手に取った。
 アルゥサが乗ったままの籠を、袋の中にそっと入れる。
「あ、布の間から外が見えるよ!」
 アルゥサが歓声を上げた。
 サファルの服のポケットでアルゥサが唯一不満だったのは、外が見えないことだったのだ。
「じゃあ、持ち上げてみるから」
 サファルは袋の口を閉じると、静かに持ち上げた。
「居心地はどう?」
「うん。楽だよ」
 アルゥサは揺れる布袋の中で、ごろりと横になった。
 顔を薄紅色の布に押し付ける。
「ふかふかでふわっふわ!」
 アルゥサは歓声をあげた。
 
 薄暗い部屋の中で、アルゥサはぼんやりと座っていた。
 サファルは寝台に腰掛けて、荷物をまとめている。
(なんだか、眠くなってきちゃった)
 戸口を振り返ると、中庭が暗くなってきていた。
(もうすぐ夕食かな)
 小さく欠伸をする。
 すると、戸口に大きな影が現れて、アルゥサはあわてて近くの布の中にもぐり込んだ。
「サファル。久しぶりだなぁ!」
 轟くような大声と共に、男はずかずかと部屋の中に入ってきた。
(びっくりした! おっきい声)
 アルゥサは耳を塞ぎながら、そっと布の間から様子を盗み見た。
 首に派手な柄の青布を巻きつけ、髭を生やした背の高い男が見える。
「マ、マアムーン叔父さん…」
 サファルはあわてて立ち上がろうとした。
「いいよ、いいよ。そのまま座っていろよ!」
 叔父はサファルのそばまでやってくると、どっかりとサファルの横に腰掛けた。
 おもむろに大きな手を伸ばす。
 逃げ腰のサファルの頭をぐいと掴んで、髪の毛をぐしゃぐしゃに逆撫でる。
「あ、お、叔父さん」
 困り果てたサファルを覗き込むようにして、叔父は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「んん? なかなか元気そうじゃないか。なあ」
 サファルは無言で、口に入りそうになっている髪の毛を払った。
「初めての旅は大変だ。特に、乗りなれていないとラクダは辛いぞ」
 叔父が脅すように言う。
「…ラクダに、乗るんですか」
 サファルがぼそりと言うと、叔父はニヤニヤと笑いながら答えた。
「ラクダかロバか、ちょっと迷っているんだが。まあ、俺がついているんだから悪いようにはしないさ。安心してていいぞ」
 サファルは眉を寄せたまま、叔父を見据えた。
「…お世話に、なります」
「よしよし。さて、そろそろ夕食だな。一緒に行こうか!」
「は、はい…」
 サファルは消え入りそうな声で返事をした。
 
 アルゥサは二人が部屋を出るのを見送ってから、布の間から這い出した。
「あー、びっくりした」
 小声で呟きながら、布の上へ腰をおろす。
(…叔父さんとお父さんって、顔が似てるのかな?)
 アルゥサは首をひねった。
(目の色は判らなかったし…。うーん、「大きな人」の顔って、やっぱりよく判んない)
 アルゥサは伸びをして、薄暗い部屋の中を見回した。
 寝台の上に、サファルが広げた荷物が並んでいる。
 小さな皮袋。束ねられた丈夫な紐。弧を描く小刀。畳まれた服。
(服…そうだ。新しい服!)
 アルゥサはポンと両手を叩いた。
(お母さんが、新しい服を作ってくれるって…)
「あ〜あ」
 小さく声に出しながら、アルゥサはその場に仰向けに寝転がった。
(新しい服…。きっとあの集めた葉っぱで綺麗な色に染まったよね)
「あ〜あ」
 アルゥサはもう一度繰り返すと、じたじたと両手を振り回した。

◆第25話◆

 サファルの寝息が聞こえてくる中、アルゥサは眠れずにいた。
(…新しい服…)
 目を瞑ったまま、ごろりと寝返りをうつ。
「…アルゥサ」
 微かに聞こえたような気がして、アルゥサは暗闇の中目を開けた。
 辺りを見回して首を傾げる。
(何も見えない…? そうだ。袋の中で寝てたんだった)
 上体を起こして耳を澄ませる。
(気のせいかな?)
 アルゥサが再び横になろうとしたとき。
「アルゥサ!」
 確かに聞こえた。
 アルゥサは声の聞こえたほうを向いた。
 誰かが呼んでいる。
「アルゥサ、アルゥサ!」
 反対側から声が聞こえた。
「アルゥサ。怒ってないから帰っておいで」
 今度は近くで聞こえる。
(今の、お父さんの声だ)
「どこなの? アルゥサちゃん、声をお父さんに聞かせてやって!」
 横のほうから女性の声がする。
(…みんなが、探しに来たんだ)
 アルゥサは火照る頬を押えた。
(どうしよう。どうしよう。旅に出るって言ったほうがいいのかな)
「アルゥサ、アルゥサ」
 部屋中を探し回っているのか、声が近くなったり遠くなったりする。
 アルゥサは息を吸うと、思い切って声を出した。
「お父さん」
 返事はない。別な部屋へ探しに行ったのだろうか。
 アルゥサは涙目で上を向いた。
 布袋の口は外からサファルが結んでいるので、中からは開けられない。
「お父さーん!」
 アルゥサはもう一度、先ほどよりも大きな声を出した。
 返事はない。辺りは静まり返っている。
 アルゥサはため息をつくと、手で顔を覆って横になった。

「アルゥサ! ほら」
 サファルは昨日、二人で準備した袋を寝台の上に乗せた。
「見てごらん。背負えるようにしたんだよ。揺れを押えるために、胴に括りつける紐も」
 縫い付け部分が見えるように、袋をひっくり返したり広げたりしながら、サファルが説明する。
 アルゥサはぼんやりと、目の前で動くサファルの手を見つめていた。
(…あたまが重い…)
「これなら、俺がラクダやロバに乗っている間も、アルゥサは安全だし外が見えるだろ」
 アルゥサはゆっくりと顔を上げて、じーっとこちらを見ているサファルの視線に気づいた。
(…えーと、何の話だっけ?)
「どうかな…。昨日のままの方が良かった?」
 眉を寄せるサファルを見て、アルゥサは急いで口を開いた。
「うううん。それでいいと思うよ」
「それじゃあ、昨日みたいに試してみる?」
「うん!」
 そう、元気よく返事をして、アルゥサはゆっくりと歩きはじめた。
(昨日。昨日は、布をいっぱい広げて、それから…何だっけ)
「間違えないようにね、アルゥサ。同じ位の大きさだけど、それは籠じゃないよ」
「え、籠?」
 アルゥサはぴたりと足を止めた。
 目の前にあるのは、サファルの靴だ。革の匂いが鼻を刺激する。昨夜、サファルの父親が届けた新品だ。
(そうだ。籠を袋に入れて試すんだった)
 アルゥサはあわてて辺りを見回した。靴の向こうに籠が見える。
「間違えないもん!」
 そう叫んでごまかすと、アルゥサは籠に向かって走っていった。
 縁に手をかけて、籠の中へ飛び乗る。柔らかい布に座り込むと、サファルがゆっくりと持ち上げた。
(もう、我慢できない…)
 アルゥサはばたりと仰向けに転がると、目を瞑った。

「う〜ん」
 腕を伸ばしたアルゥサは、何かに手をぶつけて目を覚ました。
(あれ?)
 あごを上げて頭の先を見ると、籠の縁が見えた。
(…そっか。寝ちゃったんだ)
 上体を起こして、薄暗い室内を見回す。
 座っているサファルの背中が見える。
「サファル?」
 小声で呼びかけると、すぐにサファルは振り向いた。
「アルゥサ。大丈夫?」
「うん。眠かっただけ」
「そう? 様子が変だったから心配したよ」
 身をかがめて覗き込むようにしながらサファルが言う。
「夕べ、あまり眠れなかったの」
 アルゥサの言葉に、サファルは表情を曇らせた。
「寝心地が悪かった?」
「うううん。あのね、夜中に仲間…」
 アルゥサはあわてて口を押えた。
(…みんながここに来ていたこと、サファルに言わないほうがいいよね。きっと)
「仲間?」
 サファルに聞き返されて、アルゥサはあわてた。
「あ、うん。その。そうだ、仲間のこと思い出したの」
「夜中に?」
「うん。えっと、ほら。遠くに行くから、『旅にでる』って、知らせに帰ったほうがいいかなって思って」
「また、閉じ込められちゃうんじゃないの?」
 サファルの言葉に、アルゥサは両手を振り回した。
「こっそり行って、すぐに戻ってくるから大丈夫だよ」
(…怒らないって言ってたし)
 サファルは腕を組んだ。
「大丈夫かな…。それに、もう夕方だ。早く帰ってこないと間に合わないよ」
「だって、出発は明日でしょう?」
「そう。でも、夜明け前に出発だから、もう、あまり時間がない」
 サファルの言葉に、アルゥサは弾かれたように走り出した。
「じゃあ、急いで行って来る!」
「あ、アルゥサ!?」
 サファルの声を背中に、アルゥサは寝台を滑り降りると、一気に駆けて行った。

◆第26話◆

 倉庫の壁が朱色に輝いている。
 アルゥサは立ち止まって、空を仰ぎ見た。
 太陽は空を紅く染めながら、遠くの山陰に沈もうとしている。
(急がないと…)
 アルゥサはざらざらとしたレンガに手をかけて、急いで壁を登っていった。
 
 息を整えて、手に付いた砂を払う。
(誰も見ていませんように)
 そう、口の中で唱えながら、中へ体を滑り込ませようとした。
 瞬間。
「これは、この色はコードバンじゃないか!」
 大きな声が轟いて、アルゥサはしりもちをついた。
(「大きな人」が来てる…!?)
 アルゥサは入り口の横で体を伏せると、聞き耳を立てた。
「素晴らしい! 東へ持っていけばいい値段になる」
「ええ。これはどうでしょう?」
「綿織物か…。これは、西方の品か」
 アルゥサは首を傾げた。
(この声、どこかで聞いたことが…)
「判りました。運び出しましょう」
 掛け声と、大きな足音が聞こえてくる。
「特にこっちの革は厳重にな。『平和の都』まで、持っていくのだから」
(「平和の都」?)
 アルゥサは弾かれたように立ち上がった。
(もしかして、中にいるのはマアムーン叔父さん?)
「大変な旅になりますね。特にサファル様はそのまま…」
(サファル?)
 アルゥサは壁に耳を押し当てた。けれど、「大きな人」たちの足音以外、何も聞こえなかった。
 「大きな人」たちが荷物を外へ運び出すのと入れ違いに、アルゥサは倉庫の中へ忍び込んだ。
 薄暗くてよく見えない中、アルゥサはそろそろと歩いていった。
「あっ!」
 何かに突き当たったと思ったら、耳元で突然。
「ギャーッ!」
(え? え? 何?)
 何かが足に当たって、床に散らばった。
「何するんじゃ、あんた! 年寄りを突き飛ばして」
「…えっと。ごめんなさい」
 とりあえず謝ったアルゥサの目に、ようやく辺りの様子が見えはじめた。
 老婆が座り込んで、大きな布包みに何かを拾い集めている。
(どうしよう。こっそり中に入りたかったのに)
 アルゥサがため息をつくと、老婆がいきなり足を掴んできた。
「あんた何をしとる。ほれ、さっさと拾いなされ!」
 言われるままアルゥサはしゃがみ込み、近くに落ちている布切れを拾った。
「急いでここを逃げ出さにゃならんというに」
 ぶつぶつと老婆が呟いている。
「逃げ出す?」
 アルゥサが聞き返すと、老婆はしわだらけの顔を近づけてきた。
「あんたも急いで準備しなされ」
 そう、しわがれ声で告げる。
 怖くなったアルゥサが後ずさると、何かに背中がぶつかった。
(なに?)
 振り向くと、厳しい表情の番人が立っていた。
 鋭い目で見下ろされて、アルゥサは唾を飲み込んだ。
「…怒らないって、言った…よね」
 消え入るような声で呟く。
「よく戻ったな、アルゥサ」
 と、番人。
「え?」
「何とっ!」
 アルゥサと老婆は同時に叫んでいた。
 アルゥサは恐る恐る番人を見上げた。が、番人は難しい顔つきのままだ。
(今の、…聞き間違い?)
「あんたが! あの…『大きな人』らと」
 老婆がアルゥサを指差しながら、口を開けたり閉じたりしている。
 アルゥサは首をかしげて老婆の方を見た。
 老婆は節くれだった指をアルゥサに向けたまま、わめいた。
「あんたが、原因じゃ!」
「え、え?」
(私のこと?)
「大丈夫ですよ、逃げ出さなくても」
 声のほうを向くと、いつの間にか大人たちが集まってきていた。ぐるりと周りを取り囲んでいる。
「この子が何を話していたとしても、あの少年がここから居なくなってしまえば問題ない」
「遠くへ行くみたいですからねぇ」
 大人たちが意見を言い合っている間、アルゥサはきょろきょろと周りを見ていた。両親は近くに居ないようだ。
(早く見つけないと…)
 アルゥサは口の両側に手を当てて大声で叫んだ。
「お父さん! お母さん!」
 大人たちが呆気に取られている間に、人垣が割れて2人がやってきた。
 母親は無言で、アルゥサを引き寄せると抱きしめた。
「よしよし。アルゥサ、よく帰って来たね」
 父親が頭を撫でながら言う。
(…怒らないって、本当だった)
 アルゥサは母親の腕を逃れ立ち上がると、両手を振り回しながら早口で告げた。
「あのね、私、サファルと一緒に旅に出るの!」
「えっ?」
「何だって!」
 唖然としている両親の周りから声が上がる。
「だからね、お別れ言いに来たの」
 そのアルゥサの言葉は、静まり返った室内に響き渡った。
 番人がゆっくりと口を開いた。
「…今、何と言ったのかな。アルゥサ」
「一緒に旅に出るの。だから、お別れ言いに…」
 アルゥサの言葉に、辺りは騒然となった。
 
 大人たちは隅のほうに集まって、小さな輪を作った。
 小声で何事か話し合っている。
 話し合いに加わっていない両親は、アルゥサの前に立った。
 母親は、アルゥサを下から覗き込むようにして口を開いた。
「…本気なの?」
「うん。一緒に行くの」
「どうして?」
 母親が震える声で言う。
「だって、旅に出てみたい。東の方の仲間にだって会ってみたいし。それに、サファルと約束したんだもん」
「約束だって?」
 誰かがアルゥサの言葉を聞き咎めた。
「そうだよ。約束したよ」
「…それじゃあ、アルゥサが行かなかったら、ここへ『大きな人』が探しに来るのか?」
 父親が目を丸くして叫んだ。
(…探しに来てくれるのかなぁ…)
 アルゥサは首をかしげつつ、頷いた。
 番人はこちらに顔を向けると、ゆっくりと口を開いた。
「アルゥサには、旅に出てもらうしかないな…」
 周りの者たちは顔を見合わせて、何度も頷いた。
「あんたってほんとにばかねぇ」
 アルゥサの姉が、布袋に小物を詰めながら呟いた。
「なんでっ」
 アルゥサが頬を膨らませる。
「『平和の都』って、どんなに遠いか判ってんの?」
「判ってるもん!」
 そう、返事をすると、姉は手を止めてアルゥサに詰め寄った。
「判ってないわよ! あんたがひと月かけて走ったって帰って来れないんだからっ」
「…平気だもん」
「ちょいと、あんた」
 背中を突つかれて、アルゥサは頬を膨らませたまま振り向いた。
 老婆が両手で木の実製のカップを持って立っている。先ほどアルゥサがぶつかった老婆だ。
「これ、持ってけ」
 ずいっとカップを差し出されて、アルゥサは首を傾げた。
「引っ越したら使おうと思って新調したんじゃが、もう必要ないでの」
 そう言って、老婆は微笑んだ。
「ありがとう」
 アルゥサはカップを受け取った。
 その後も、次々と仲間がやってきて、それぞれが「旅に必要」だと主張する小物をアルゥサの元へ置いていった。
 手製の塗り薬。貝殻で作ったナイフ。お守りだという干した葉。などなど。
 見る間に、姉の持つ布袋は物でいっぱいになった。
「出来たわよ!」
 そう、叫びながら、数人の女性が駆けてきた。
「ほら。新しいお洋服」
 目の前に広げられたのは、母親が染めた新しい服。アルゥサに着せてみてから仕上げようと、母親が作業を途中で止めていたのを、数人がかりで大急ぎで仕上げたのだ。
「わぁ!」
 アルゥサは目を輝かせて、新しい洋服を手に取った。
 淡い黄色で、スカートの部分に大きなポケットのついた服だ。
「…まるで、今日のために用意したみたいで…」
 そう言って、母親は黙り込んだ。
(お母さん…)
 アルゥサが顔を覗き込もうとすると、母親はくるりと背中を向けた。
 ゆっくりと近づいてきた父親が、アルゥサの肩に布を巻いた。
「お父さん?」
「…いつか、こんな日が来るような気がしていたよ。お前が、目を輝かせて『大きな人』の話を聞いていたときから」
 そう言って、父親はため息をついた。
「ほら、アルゥサ。その服を貸しなさい。袋に入れるから!」
 姉はアルゥサの手から新しい服を奪い取った。
「『気紛れ』、元気でね」
 子供たちが近くに集まって来て、口々にお別れの言葉を言いながら手を振る。
「忘れないでね」
(まるで、帰って来れない所へ行くみたい…)
 アルゥサはが黙って突っ立っていると、姉がはちきれそうに物の詰まった袋を持ち上げた。
「はい。なくさないようにね」
 アルゥサは手伝ってもらいながら背負った。ずっしりと背中に重みがかかる。
(こんなにいっぱい…。みんな大げさなんだから)
「無茶をしないようにな」
 父親が目を細めて言う。
「…行ってらっしゃい」
 微笑む母親の目は赤く腫れている。
「行ってきます」
 アルゥサは大きな声で言い放つと、出入り口に向かって歩いていった。
「き、『気紛れ』!」
 呼ばれてアルゥサは立ち止まった。
 顔を真っ赤にしたバフルが駆け寄る。
「これ、俺の宝物。お前に!」
 バフルが差し出した宝物を見て、アルゥサは首を振った。
「だって…。いいよ」
「お前にやるよ」
 バフルはアルゥサの手に押し付けると、背中を向けて走り去った。

 暗い夜道をアルゥサは駆けて行った。
 「大きな人」が1人、道を歩いていただけで、辺りは静まり返っている。
(急がなくっちゃ。遅くなっちゃった)
 アルゥサは中庭を一気に駆け抜けて、サファルの部屋へ飛び込んだ。
(寝てるのかな)
 そっと寝台に近づいていく。いつもの寝息が聞こえない。
 布を伝って寝台へ登る。
(サファルがいない!)
 アルゥサはあわてて辺りを見回した。
(どうして? どこ?)
 杖もない。いつも枕もとに置いてある、サファルの本もない。
(…まさか、もう、出発しちゃった?)
 アルゥサは急いで寝台を滑り降りると、中庭に出た。
(どうしよう。どうしよう)
 アルゥサは目に涙をためて、サファルの家を出た。
 倉庫の近くまで戻ると、先ほどすれ違った「大きな人」が、まだ道を歩いていた。
 重そうな荷物を首から下げて、杖をついてゆっくりと。
(…杖?)
 アルゥサは首を傾げた。
(まさか、サファル?)
 アルゥサは鼻を鳴らせて匂いを嗅いでみた。
 油の燃える匂いと、染料のような強い匂いが混じり合っている。
 灯りの陰になって、顔も良く見えない。
(…サファルがこんなところまで一人で…?)
 アルゥサは「大きな人」を見上げながら、そろそろと前へ回り込むように歩いていった。
 「大きな人」は、倉庫の前で立ち止まった。
 屈んで地面に灯りを置く。首から下げた革袋に手を伸ばして口を開く。
「この倉庫にジンが…」
 聞きなれた声に、アルゥサは駆け出した。
「サファルー!」
「アルゥサ!?」
 アルゥサはサファルの腕の中に勢いよく飛び込んだ。

◆エピローグ◆

「サファル、なんか臭いよ」
 アルゥサはサファルの腕の中で鼻をつまんだ。
「ああ、ごめんごめん」
 サファルは一度アルゥサを地面に下ろすと、首から下げていた革袋を取り外した。
「ほら。ジンが嫌いだって言われている道具をいろいろ持ってきたんだよ。岩塩とタールに鉄製のナイフ。それから…」
 言いながら中身が見えるように袋の口を開ける。
「そんなにいっぱい?」
「そう。ジンが大勢いる中に乗り込まなきゃならないかと思って」
 そう言って、サファルは微笑んだ。

-end- 

<主な参考文献>
・「世界の歴史8 イスラム世界」 前嶋信次 著 河出書房新社
・「イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界」 宮崎正勝 著 講談社
・「イスラーム辞典」 黒田壽郎 編 東京堂出版
・「イスラム技術の歴史」 アフマド・Y・アルハサン+ドナルド・ヒル 著 平凡社

 

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