チヨコレート探偵 第1話「薔薇の名前」

(序)

 ――床を彩るレエスのドレス。胸を飾る百合の花――
 ――眩く煌めくシャンデリア。ダイヤの指輪に金時計――

 天気のいい風の爽やかな日には、母は決まって縁側に腰を下ろして南条のお屋敷での生活を話した。
 幼いわたしに向かって、呪文のように繰り返し何度も語るのだ。


 ――薔薇の花咲く緑の庭。ピカピカに磨かれた黒い自動車――
 ――アール・ヌーボーのステンドグラス。小花柄のビロウドカーテン――


 わたしはいつもまばゆいお天道様ときらめく海に目を細めながら、母の話をぼんやりと聞いていた。
 何度も聞かされる話は少しも目新しくなかったし、ぽかぽかと暖かい縁側にいると決まって眠くなってしまうから。
 わたしが眠ってしまってからも、母は子守唄のように話し続けた。


 ――甘いドロップにビスケット。冷たいアイスクリンにソーダ水――
 ――木陰に佇むハイカラ姿。眼鏡の奥の静かな微笑――


 お屋敷の話をしているときの母は、どこか遠くを見ているような、夢見るような目をしていた。
 病で蒼白くなりすぎた肌もほんのりと色づいて、やつれていながらとてもキレイだった。

(一)

 空を縦横に走る電線。赤い路面電車が、人を飲みこんで走り出す。
「さすがに都会は、ハイカラなもんだなー」
 わたしは思わず立ち止まって呟いた。
 ローマ字の看板に、洒落たカフェー。人の間を縫うように走る自転車の学生。
 雨も降っていないのに蝙蝠傘をさして歩く女性に、ステッキを振り回しながら歩く赤髪碧眼の西洋人。
 見たことのないものばかりで、目が回りそうだ。
 コンクリート造りの銀行前を、煙を吐きながら走っていくのは自動車だ。
 感動しながら自動車を見送るわたしの周りを、大勢の人々が追い越していく。
 自動車が物珍しいのは、わたしだけなんだ。
 わたしはごくりと唾を呑みこんだ。
 周りを歩く人々が、みんなハイカラで眩しく見える。
 わたしみたいな田舎娘が、この街でやっていけるんだろうか。南条のお屋敷で雇ってもらえるだろうか。
 わたしはぶるぶるっと頭を振った。
「成せばなる、成さねばならぬ何事も。大丈夫だ。少年も少女も大志を抱けの精神だ」
 わたしは呪文のようにぶつぶつと唱えた。尋常小学校の先生が良く口にしていた言葉だ。
 よし。頑張るぞ。
 気合を入れたわたしは、小さな風呂敷包みをしっかり抱えて大股で歩き出した。
「海は右手に港まで。坂を上ったらレンガ塀。芝生の庭の西洋館」
 母から繰り返し聞いたお屋敷までの道順を、歌うように口ずさむ。
 建物の間から覗く青い海を確認しながら、わたしは電車通りを歩いて行った。
 装飾電灯が眩い写真館。香ばしい匂いが漂う洋食屋。 
 洒落た店の並ぶ中に、大勢の女が外まで群がっている店がある。
 わたしは首を傾げた。
 一体何の店だろう?
 好奇心に駆られたわたしは、小走りに近づいて、店の中を覗きこんだ。
 ショーウィンドゥを覗きこむと、鮮やかな布の上に、洋風の髪飾りや香水瓶が並んでいる。洋品小間物屋のようだ。
 キレイなものがいっぱいだ。
 わたしは女達でごった返している狭い店の中へ、身体を滑りこませた。
 他の女達に挟まれながら、ぐるりと見回す。けれど、背の低いわたしには、壁に飾られた夢二の画と棚に並んだ絵封筒しか見えない。
 入り口近くに固まった女達の一団が、すっかり通路を塞いでいる。
 邪魔な女達だな。
 わたしは女達の後ろを無理やり通り抜けて、店の隅へ行った。
 すぐ傍の籐椅子に、熊の縫いぐるみが座っている。
 わたしは振り向いて、女達が集まっていた場所を見つめた。
 女達の中心に、まるで夢二の絵から抜け出たみたいな柳腰の女店主が立っている。曖昧な微笑を浮かべて、ピカピカに輝く様々な色のリボンを広げて見せていた。
 店内にこもっている熱気と鮮やかな色彩に、なんだか頭がくらくらしてくる。
 ぼうっとリボンを見ていたわたしは、耳に飛びこんで来た「南条」という言葉に振り向いた。
 店の片隅で三人の若い女たちが、三つ編みを垂らした女を取り囲んで話している。
 南条っていったら、あのお屋敷のことだろうか。
 わたしは固唾を呑んで、耳をそばだてた。
「お給金だって悪くなかったんでしょうに、本当に辞めてしまったの?」
「そうよ。女中部屋だって広いって言っていたわよね?」
「一昨日に会ったときには、雇い主が美男子だって自慢していたじゃない」
 三人の女たちは口々に責めている。
 わたしは首をひねった。
 お屋敷の雇い主といったら、きっと南条宗一郎のことだ。
 美男子なんて話は一度も聞いたことがないけれど……?
 わたしは、話の中心になっている三つ編みの女を見つめた。日本人形のように整った顔に、どことなく不釣合いなふっくらとした唇が印象的だ。
 三つ編みの女は、目を伏せてため息混じりに言った。
「辛くなって昨日辞めたのよ。急に辞めたから、南条のお屋敷では、あわてて次の女中を探していると思うわ」
 三人は顔を見合わせて、心配そうに言う。
「大丈夫? 何かあったの?」
「そういえば、今日は元気がないわね」
 わたしはそこまで聞くと、あわてて店を飛び出した。
 あのお屋敷の女中が辞めたばかりだったなんて!
 上手く行けば、代わりに雇ってもらえるかもしれない。
 わたしは勢い良く駆け出した。


 洒落た鉄柵に囲まれた領事館。和風の門構えの中に立つ洋風の館。
 純和風のお屋敷に、開放的な庭に囲まれた教会。
 やがて、レンガの塀が姿を現した。
 木立の向こうで、白い壁が眩く輝いている。
 あれが、南条のお屋敷!
 わたしは塀の前を駆け足で進むと、開け放たれた門を通って敷地内へ入った。
 砂利の道の両側に、芝生が植えられている。風に揺れるカエデに、紫色の花でいっぱいのハナズオウ。
 キレイだなぁ。
 しばらく花に見とれた後、わたしはきょろきょろと庭を見回した。
 母が大好きだった薔薇はどこにあるんだろう?
 見回すけれど、それらしい花は見えない。まだ咲かないんだろうか。
 塀際の花壇には、赤や黄色のチューリップが並んでいる。
 広々とした庭には自動車も人影もなく、ひっそりと静まり返っている。
 わたしは立ち止まって、二階建ての洋館を見つめた。
 円柱に支えられて大きく張り出した車寄せ。車寄せの上のサンルーム。
 ずらりと並んだ窓はアーチ型。尖った屋根からは、エントツと小さな窓が突き出している。
 わたしは息を呑んだ。
 母が話してくれたとおりだ。
 本当にここで、母が暮していたんだ!
 今にもアーチ型の窓が開いて、若い頃の母が顔を出しそうな気がする。
 わたしはしばらく建物を見つめた後、砂利を踏みしめて車寄せへ向かった。
 大理石の円柱の横を通って、玄関前にたつ。背の高い洋扉は、漆塗りのように艶々と光っている。
 わたしは思いっきり息を吸い込むと、声を張り上げた。
「ごめんください」
 しばらく待ってみても、返事がない。誰かが出てくる気配もない。
 せっかく急いで来たのに、誰も居ないのか?
 わたしは眉を寄せると、玄関脇の窓に近づいた。
 つま先立ちをして、厚いガラス越しにそっと中を覗いてみる。
 ビロードの青い小花柄のカーテンの間から、花模様の絨毯と布張りの華奢なソファが見える。
 わたしは思わず俯いて、自分の足元を見つめた。
 汚れて黒ずんだ足袋に、磨り減った草鞋。
 こんな立派な洋館で、わたしみたいなみすぼらしい娘を雇ってくれるものだろうか。
 わたしは急に不安になって、辺りを見回した。
 出直そうにも、どこにも行く当てがない。
 田舎から持ってきた僅かなお金は、汽車賃に消えてしまった。
 どうしよう。
 窓の開く音が聞こえて、わたしは顔を上げた。
 二階の窓から誰かが顔を覗かせている。
 秀でた額に形のいいはっきりとした眉。西洋人のように高い鼻梁と落ち窪んだ目元。
 ミルクのような白い肌の中で、二重の大きな瞳がやけに目立つ。
 男……?
 わたしは首を傾げた。
 女としか思えない顔立ちなのに、頭は断髪だ。卵形の輪郭を、耳を隠す長さの黒髪が縁取っている。
 大きな黒い瞳が、射抜くようにわたしを見下ろした。
「お前は何だ?」
 良く通る男の声だ。
 わたしは息を呑んで、男を見つめた。
 一体、何者だろう?
 男が着ているのは、立派な洋館には不似合いなよれよれの着物だ。使用人だろうか。
 わたしが黙っていると、男は唇を歪めて不機嫌に続けた。
「怪しい奴だ。お前には口がないのか? 返事をしたらどうだ」
 わたしは思わず眉を寄せると、叫んでいた。
「わたしはあやめ。怪しい奴だなんて、失礼だぞ!」
 男は面食らったように目を瞬かせて、ぼそりと言う。
「何の用だ?」
「あんたに用なんてない!」
 わたしが反射的に叫ぶと、男は眉を寄せた。
「用がないなら、なぜそこに居る?」
 わたしは首を傾げて、辺りを見回した。
 男は焦れたように続ける。
「何をしに来たのかと、訊いているんだがな?」
 わたしはようやく、この男がお屋敷の御用聞き係かもしれないことに思い当たった。
 渋面でわたしを見下ろしている男に、わたしは精一杯の愛想笑いを浮かべて口を開く。
「わたしは、ここの家で女中を探していると聞いて、参上しました」
 男は鼻を鳴らすと、居丈高に言い捨てた。
「ならば、初めからそう言え!」
 男の姿は、すぐに窓辺から消えた。
 どうやら、怒らせてしまったようだ。あの男、南条宗一郎にわたしのことを悪く言うかもしれない。
 わたしはうな垂れると、とぼとぼと玄関前へ戻った。
 これからどうしようか。やっぱり、どうにかして出直したほうがいいだろうか。
 扉の開く音が響いて、小柄な婦人が洋扉の前に現れた。
 四十歳くらいだろうか。結い上げた髪にべっ甲のかんざしを挿し、縞模様の粋な着物を着ている。
   わたしと目が合うと、婦人は上品に微笑んで、口を開いた。
「あなたがあやめさん? どうぞ、お入りになって」
 柔らかい声だ。
「は、はい!」
 わたしはあわてて返事をすると、婦人の側へ駆け寄った。婦人は目を細めて、弾んだ声で言う。
「あなた、元気がよろしいのね。とても頼もしいわ」
 わたしは思わず、婦人の顔をまじまじと見つめていた。この人が、南条宗一郎の夫人だろうか。
 婦人はわたしの視線に気づくと、相貌を崩して恥ずかしそうに笑いながら言う。
「あらいやだ。私、名乗り忘れていましたわ。私、こちらで働いている女中頭のハナです。みなさんに『おハナ』と呼ばれていますの」
「わたしは、あやめです。おハナさん、よろしくお願いします」
 わたしが勢い良く言うと、おハナさんは軽く微笑んで言う。
「よろしくね、あやめさん。それでは、こちらへどうぞ」
 おハナさんはわたしを玄関へ招き入れると、先に立って歩き出した。
 あわてて草鞋を脱いだわたしは、首を傾げた。
 あれ?
 どこに草鞋を置いたらいいんだろう?
 おハナさんは草履をはいたまま、ずんずん中へ行ってしまう。
 草鞋を持って困っていると、おハナさんが振り向いた。
「あら。履いたままでいいのよ」
 にっこりと微笑んで、諭すように言う。
 ああ、そっか。
 洋館って、そのままで入るんだ。
 わたしは赤面すると、あわてて草鞋を履いた。
 玄関を入ると、真っ直ぐに赤い絨毯が続いている。
 踏むたびにふわりと足が沈みこんで、草鞋の先が引っかかる。まるで、雲の上でも歩いているみたいだ。
 わたしはきょろきょろと辺りを見回した。
 大理石の大きな暖炉に、彫刻が施された大理石の円柱。
 壁からスズラン型の電灯が下がり、壁に飾られた西洋画を照らしだしている。
 立派なもんだなぁ……。
 わたしは落ち着きなく辺りを見回しながら、おハナさんの後をついていった。
 おハナさんは左の扉を押し開けた。
 窓から覗いたときに見えた、花模様の絨毯の部屋だ。
「あやめさん。こちらに座って、待っていてくださいね」
 おハナさんはそう言って布張りの長椅子を示すと、わたしに微笑みかけて部屋を出て行った。
 わたしは長椅子に座るのがなんだか気が引けて、立ったまま部屋の中を見回した。
 華奢な長椅子に、丸テーブルと布張りの椅子が一つ。大理石の花台に、ハナズオウの一枝を挿した青磁の花瓶。
 天井から電灯が釣り下がり、暖炉の上には大きな鏡が飾られている。
 ハイカラなもんだなぁ。
 わたしは柔らかい絨毯に足をとられそうになりながら、鏡の前へ立った。
 日焼けした褐色の肌。広い額にはっきりとした形の眉。まん丸のどんぐり眼。丸く膨らんだ頬に片えくぼ。
 鏡に向かって笑ってみても、すましてみても、美人には程遠い。
 わたしは顔をしかめると、煤で汚れている鼻と頬を手ぬぐいで拭いた。
 もうすぐ、南条家の誰かがこの部屋に来るだろう。女中を雇う役目なのは、南条宗一郎か、南条夫人だろうか。
 わたしはじっとしていられなくなった。
 鏡の前を離れて、絨毯を踏みしめながらぐるぐると部屋の中を歩き回る。
 大丈夫。大丈夫だ。
 わたしは、うりざね顔の美人だった母に全然似ていない。だから、たぶん、素性がばれることはないだろう。
 雇って貰いさえすればいい。後はじっと好機を待っていればいいのだ。
 考えているうちに興奮してきて、わたしは両掌を握り締めていた。
 歩きながらちらりと鏡を見ると、頬が上気して真っ赤だ。
 わたしは汗ばむ掌を開いて、火照る頬に押し当てた。こんな赤い顔をしていたら、変だと思われてしまう。
「さっきから何をしている? 一人芝居か?」
 聞き覚えのある不機嫌な声に、わたしは頭から冷や水をかけられたように青くなった。
 この声はさっきの男!
 振り向くと、やはり先ほどの男が戸口に立っていた。
 開け放した扉の枠に背中を押し当てて、腕を組んでわたしを見ている。
 よれよれの着物に、くたびれた袴。どう見ても一昔前の貧乏書生風の格好なのに、新品みたいなピカピカの洋靴を履いている。
 わたしは男に近づくと、顔一つ分上背が高い相手を睨み上げながら問いただした。
「いつから見ていたんだ?」
「そうだな……」
 男はわたしを冷ややかに見下ろすと、鼻で笑いながら続ける。
「鏡に向かって百面相していたところから」
 わたしは顔を赤らめながら叫んだ。
「ひとが悪い。黙って見ていないで声をかければいいじゃないか!」
 男は真っ直ぐにわたしの顔を見つめながら、笑いを含んだ声で言う。
「なにやら忙しそうだったのでね。だが、いつまでも終わりそうにないから、仕方がなく声をかけた訳だ」
 わたしはますます頭に血が上って、男を睨みながら訊いた。
「何の用だ? わたしをからかっているつもりか?」
 男は腕組みを解くと、じろじろとわたしを見ながら応じる。
「用があって来たのはお前の方だろう。ここの女中になりたいのだと思ったが?」
「そうだ。だが、わたしを雇うかどうか決めるのは南条宗一郎氏や奥方だろう。あんたは一体何なんだ?」
 わたしの問いに、男は大げさに首をひねった。ため息混じりに口を開く。
「ただの口の悪い娘じゃないようだな」
 わたしは思わず赤面した。
 口が悪いだって?
 そりゃあ、母の言葉使いはキレイだったけれど、離れて暮していたんだからしょうがない。
 わたしの口調は、漁師だった祖父譲りだ。
 これでも丁寧に話しているってのに!
「まあ、いい。そこに座れ。詳しい話を聴こう」
 そう言って、男は長椅子を示した。
 わたしは男に促されるまま、渋々と長椅子に座った。
 座面が柔らかく沈みこんで、足が床から浮き上がる。ふわふわと浮いているような、不安な気持ちになる。
 男は対面の布張り椅子に腰をかけると、袴姿なのに洋服を着た人がするように足を組んだ。大きな瞳でわたしを見据えながら、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「なぜ女中になろうと思った?」
「女中を募集していることをどこで知った?」
「学歴は?」
「出身はどこだ?」
「苗字は何という?」
「家族は?」
 母も親代わりの祖父も死んだことを答えると、男は暫く黙りこんだ。
 身じろぎ一つせずに、じっとテーブルを見つめている姿は、整った容貌と相まって人形のように見える。
 やがて、男は顔を上げて、わたしを見つめながら訊ねた。
「歳は幾つだ?」
「十四歳」
 わたしがぽつりと答えると、男は大きく頷いて呟く。
「なるほど。そういうことか」
 男の納得した物言いに、わたしは急に不安になった。
 訊かれるまま出身や苗字を名乗ってしまったが、まさか、この男はわたしの母を知っているのだろうか?
「何が『そういうこと』なんだ?」
 わたしの問いに、男はちらりとわたしを見て言う。
「こちらの話だ。それより、本題に入ろうか」
 わたしはごくりと唾を飲みこんで、問い返した。
「本題?」
 男は大きく頷いて口を開く。
「そう。お前は、給金や条件が分からないまま働くつもりか?」
「なんだ、仕事の話か」
 わたしはそう呟いてから、思わず立ち上がった。男を見下ろしながら叫ぶ。
「あんたは一体何者だ? 女中を雇うのは、南条宗一郎やその夫人じゃないのか?」
「またその話か」
 男はそう呟くと、鼻で笑って続けた。
「南条宗一郎も、夫人も、ここには居ない」
 わたしは呆気にとられて、男を見つめた。
「嘘だ!」
 そんな話、知らない。
「二人とも五年も前から帝都に住んでいる」
 男が面白がっているような口調で言う。わたしは頭が真っ白になって、暫く立ち尽くした。
 帝都なんて遠すぎる。どうやって行ったらいいんだ?
 男はちらりとわたしを見て、口を開く。
「お前はどうやら、ただ女中になりたいだけじゃないようだな。どうやら、どうしても南条家の女中になりたい理由があるらしい」
「理由なんてない。ただ……」
 わたしはそこで、言葉を切った。この男の正体がわからないまま、本当のことを言うわけにはいかない。
 どう答えたらいいだろうか。口からでまかせを言うのは苦手だ。
「ただ、何だ?」
 男は意地悪い口調で訊ねる。わたしはうな垂れて、じっとテーブルを見つめた。
 何かが妙だ。
 だいたい、ここは南条宗一郎のお屋敷じゃなかったのか。
 そうだ。あの小間物屋で、確かに「南条のお屋敷」と言っていたじゃないか。
 わたしはキッと男を見据えて、叫んだ。
「あんたは誰なんだ? さっきから答えてくれないのは、卑怯だぞ」
「私は南条遼太郎。南条宗一郎の次男だ」
 男はそう言って、口元に不敵な笑みを浮かべた。

 

 南条宗一郎の次男だって?
「まさか……」
 わたしは思わず呟くと、目の前の遼太郎と名乗った男をまじまじと見つめた。
 はっきりとした眉の下の大きな瞳がじっとわたしを見つめ返している。どこか面白がっているような、笑いを含んだ目つきだ。
 ……嘘だ。
 わたしはじっとりと汗ばんだ手を握りしめた。
 とても信じられない。
 この女みたいにキレイな顔の男が、この一昔前の貧乏書生みたいな格好の男が、南条宗一郎の子供だっていうのか?
 わたしはごくりと唾を呑みこんだ。顔が火照って、全身から嫌な汗がふきだす。
 遼太郎は鼻で笑って言った。
「一人芝居の続きか?」
 わたしはキッと遼太郎を睨んだ。
 とても信じられない。信じたくない。
 この、人を馬鹿にしたような態度をとる男が、わたしの兄だなんて……。
 息が詰まって、頭がくらくらする。頭の中が真っ白だ。何も考えられない。
 肩を軽く叩かれて、わたしはびくっと身体を震わせた。
 いつの間にか遼太郎が立ち上がって、わたしの肩に手を置いている。
 大きな瞳でわたしを覗きこむように見下ろしながら、遼太郎は静かな声で言った。
「落ち着け」
 わたしは遼太郎に肩を押されるまま、長椅子に腰を下ろした。
 素性がばれているんだろうか?
 年齢を聞いて納得していたようだったけれど、母のことを知っているんだろうか。
 目的がばれているんだろうか。
 頭の中を疑問がぐるぐると 巡って、目が回りそうだ。
 遼太郎はわたしの対面に座ると、背もたれに寄りかかって腕を組んだ。
 わたしを真っ直ぐに見つめながら口を開く。
「さて。ここはいわば別宅だ。ここの女中になることは南条家の女中になるのと同じことだが、どうする?」
 わたしはこみ上げてきた唾をごくりと飲みこんだ。
 どうしよう。
 ここには南条宗一郎も夫人もいない。二人とも帝都にいる。
 困ったぞ。
 帝都まで行くお金はないし、行ったって雇ってもらえるかどうか判らない。
 待てよ。ここだって南条のお屋敷じゃないか。
 わたしは口を開いた。喉がカラカラに渇いていて、かすれ声が飛び出した。
「帝都にいる南条家の人が、来ることはあるのか?」
「来る者もいるし、来ない者もいるな。誰か、会ってみたい者でもいるのか?」
 遼太郎はそう言って、大きな目でわたしを見た。
「いや。別に……」
 わたしはあわてて打ち消した。
 そうだ。
 もしも来なくても、給金を貯めて帝都に行けばいいんだ。
 他に当てはないんだから、雇ってくれそうなここで働くしかない。
 わたしは顔を上げると、急いで言った。
「ここで働きたい。よろしく頼む」
 遼太郎はふっと表情を崩して笑った。目尻が下がって、口が横に伸びて、ちょっとだけ猿みたいだ。
「わかった。では、仕事の内容の話をはじめよう」
 遼太郎は真面目な顔に戻って言うと、給金や仕事の内容を話しはじめた。
 わたしはようやくホッとすると、ずっと握りしめていた手を広げた。掌には、すっかり爪の痕が残っていた。


 眠らなきゃ。
 慣れない旅で疲れているはずなのに、何だか眠れない。
 わたしは薄闇の中、ため息をつきながら寝返りをした。
 備え付けのベッドが小さな軋み音をたてて、身体が柔らかな布団に沈む。
 南条家のお屋敷は、全部の部屋が洋室だ。女中部屋ももちろん洋室。四畳半の広さの洋室に、一畳分の押入れ代わりの収納つき。
 ベッドには分厚い柔らかな布団。綿入りの枕に、フランネルの毛布まである。
 せんべい布団でしか寝たことがないから、なんだか落ち着かない。
 眠らなきゃ……。
 そう思えば思うほど、色々な考えが頭に浮かんで眠れない。
 わたしは再び寝返りをすると、枕に顔を押し付けてため息をついた。
 よくよく考えて見ると、変なことだらけだ。
 何で遼太郎はわたしの素性に勘付いたんだ?
 わたしの素性に気づいたのなら、何で雇ったんだ?
 何で遼太郎だけ、この屋敷で暮しているんだ?
 わたしは深くため息をつくと、ごろりと横になって枕を抱えた。
 押しかけて無理やりにでも入りこもうと思って田舎を出てきたのに、気負っていた分だけ何だか拍子抜けだ。
 とにかく、明日から新しい生活がはじまる。
 かつて母の暮したお屋敷で、母と同じ女中の生活が……。
 まぶたが重くなって、わたしは抱えた枕に顔を埋めた。


 久しぶりに母の夢を見た。
 夢の中の母は、縁側に座って話し続けた。
 夢見るような笑顔を浮かべて、いつものように南条家のことを、南条宗一郎のことを話し続けた。

続く

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