チヨコレート探偵 第1話「薔薇の名前」

(二)

 なんか、まぶしい。
 ゆっくりとまぶたを開くと、強い陽射しが顔にあたっていた。
 目を細めて、光を遮るように手をかざす。そのままごろりと寝返りをすると、花模様が目に入った。
 薄い桃色の壁一面に、エンジ色の小花模様が散っている。
 わたしは目を見開くと、まばたきを繰り返した。
 ここは?
 分厚いカーテンの隙間から明るい光が射しこんで部屋を照らしている。
 小さなテーブルに背もたれのない丸椅子。磨かれた板敷きの床に、脱ぎっぱなしの草鞋。
 わたしはあわてて飛び起きた。
 ここは南条のお屋敷だ。
 裸足のまま窓に駆け寄り勢い良くカーテンを開けると、既に陽が高く昇っていた。
 大変、寝坊した!
 わたしはあわててもつれた髪を撫で付けると、足袋を履いてキモノを着た。
 急いで草鞋を履き、勢い良く部屋を飛び出す。
 廊下を突っ切って、転げるように使用人専用の階段を降りた。
 どうしよう。初日から大失敗だ!
 とにかく、あやまらなきゃ。
 勢い良く台所の扉を開けると、大声で言った。
「すみませんです。寝坊したです!」
 返事はない。台所の中をぐるりと見たけれど、誰も居ないようだ。
 台所から通じる配膳室の扉を押しながら叫んだ。
「すみませんでしたです。寝坊しましたです!」
 配膳室の中に足を踏み入れて見回しても、誰も居ない。
 みんなどこに居るんだろう? 食事中なんだろうか。
 食堂の扉を引っぱりながら、声を張り上げた。
「すみませんでございます。寝坊しましてございますです!」
 木製の大きな楕円形のテーブルの隅に、人が居た。
 ねずみ色のよれよれのキモノを着て、革製の椅子にだらしなく寄りかかっている。分厚い本を開いたまま、顎までの長さの黒髪を白い指でかきあげて、彫の深い整った顔を上げた。
 遼太郎だ。
 テーブルの上に陶器のカップが載っている。食堂の中にいるのは、遼太郎だけのようだ。
 遼太郎はテーブルに片肘をついて頬を載せ、わたしを睨むように見上げながら言う。
「何だ?」
 わたしは後ろ手で扉を閉めながら食堂の中へ入った。部屋の中を見回しながら訊く。
「他の使用人はどこに居るんだ?」
「おハナなら、たぶん外にいるだろう」
 遼太郎はそう言って、カップに口をつけた。
「他の人は?」
 わたしが重ねて訊くと、遼太郎は眉を寄せた。カップをテーブルに置いて、顔をしかめて言う。
「他にはお前と私だけだが?」
 わたしは目をまたたいた。
 何のことだ?
 遼太郎は質問が終わりだと思ったのだろう。再び本を読みはじめた。
 横から見ると、高い鼻と長いまつ毛が目立つ。じっと本を読んでいる様は、白い肌と相まって人形めいて見える。
 わたしは自分のゴワゴワの髪を撫で付けた。
 肌は褐色だし、髪は赤茶けているし、鼻は低いし、まつ毛は短いし、わたしはちっとも遼太郎に似ていない。
 遼太郎は本当に、わたしの正体に気づいているんだろうか。
 わたしは遼太郎の傍に近づいた。
 本には、見たことのない横文字が並んでいる。遼太郎はどこかつまらなそうな表情で、文字を追っている。
 じっと見ていると、遼太郎はページをめくる拍子に顔を上げた。わたしを見て、あからさまに表情を曇らせて口を開く。
「なんだ、まだ居たのか?」
 わたしは最初の質問を繰り返した。
「他の使用人はどこに居るんだ?」
 遼太郎はため息をつくと、本を閉じた。不機嫌に鼻を鳴らして言う。
「使用人はお前とおハナだけだ。昨日も言ったと思ったがな」
「それは住み込みの使用人の話だろ? 通いの使用人はまだ来てないのか?」
「通いの使用人など、一人も居らん」
 遼太郎がぴしゃりと言った。
「まさか。こんなに広いお屋敷なのに、二人だけなのか?」
 わたしが叫ぶと、遼太郎は鼻で笑って言う。
「そうだ。なかなか働き甲斐のある仕事場だろう?」
 わたしはテーブルに手をついて、遼太郎を睨みながら叫んだ。
「そんなの、聞いてないぞ!」
「お前が勝手に勘違いしただけだろう」
 遼太郎はそう言って立ち上がると、わたしを見下ろしながら厭味ったらしく続けた。
「それより、お前が寝坊した分の仕事が溜まっている。給金の分はしっかり働いてもらうからな」
「いちいち言わなくったって、そんなの判ってる!」
 私は遼太郎を睨みながら言うと、食堂を駆け出した。

 配膳室から廊下へ出て、青灰色の絨毯を踏みしめて走っていく。
 階段を回りこみ、食堂の扉と居間の扉の前を横切り、大広間前の廊下にずらりと飾られた絵画の前を駆け抜ける。
 書斎の前を通り、応接室と控の間の前を過ぎて、ようやく玄関ホールだ。
 立ち止まると、肩で息をしながら振り返った。幅の広い廊下が、曲がりながら続いている。
 こんなに広いのに、二階にだって同じくらいの数の部屋があるってのに、使用人はおハナさんとわたしだけ!
 しかも、夕べ聞かされた話によると、おハナさんの担当は炊事と買い物と庭の手入れ。
 他に通いの女中がいないということは、この広いお屋敷を掃除するのはわたしだけってことだ。
 考えただけで、めまいがする。
 頭を両手で押さえて、息を吐き出した。
 まだやってみてもいないうちに、悩んだってしょうがない。
「ええい。負けないぞ!」
 そう叫んだとたんに、玄関の扉が開いておハナさんが現れた。
 黒地に白と藤色の縞模様のキモノに、赤と薄墨の亀甲模様の帯を締めて、鮮やかな若草色の半襟を合わせている。
 思わず見とれていると、おハナさんは首を鳩のように傾げて訊く。
「あやめさん、何か言いました?」
 あわてて首を左右に振りながら答えた。
「いや、あの。独り言でございますです!」
「そう。何か聞こえたような気がしたものだから」
 おハナさんは柔らかに微笑みながら言うと、扉を閉めながら屋敷の中へ入って来る。わたしはすかさず、頭を深々と下げながら言った。
「すみませんでございましたです。寝坊をしましてございますでます」
「顔を上げて。そんなにかしこまらなくていいのよ。私も使用人なんだから」
 おハナさんに言われて、わたしは顔を上げた。おハナさんは瞳をキラキラと輝かせて、わたしを見ながら続ける。
「あやめさん、夕べはよく眠れました?」
「は、はいっ」
 勢い良く返事をしてから、わたしはあわてて打ち消した。
「あ、逆だ。なかなか眠れなかったでございます」
「疲れすぎると、返って眠れなくなるものよね。さあ、お腹が空いたでしょう。朝食にしましょうか」
 おハナさんはそう言って、先に立って歩いていく。
 わたしは後ろを追いながら急いで言った。
「お仕事が溜まってしまわれると大変でございますので、食べなくても大丈夫ですます」
 おハナさんは足を止めると、くるりと振り向いた。首を傾げて、笑顔で言う。
「あやめさん。そんなに堅苦しい言い方をしなくても大丈夫よ。夕べ遼太郎さまと自然に会話していたでしょう。私にも、普通に話して頂戴ね」
 わたしは夕べのことを思い出して、顔を赤らめた。
 遼太郎が相手だと、ついつい祖父と話していたときのような口調で話してしまう。
 乱暴な口調に驚いているおハナさんに、遼太郎は肩をすくめて、「田舎育ちで口が悪い娘だが、仕方がない」と言っていたのだ。
「わたし、おハナさんみたいにキレイな言葉使いができまするようになりたいんでございますです」
 おハナさんは首を傾げて、やんわりと言う。
「そうだったの。でも、急には無理よ。少しずつ慣れていけばいいのだから、今は普通に話して頂戴ね」
「はい。わかった!」
 わたしが思い切って言うと、おハナさんは目を細めた。
「元気がよろしいわね。では、行きましょうか」


 台所の隅で朝食を摂った後、わたしはおハナさんに連れられて洗面所へ行った。
 わたしの髪を梳きながら、おハナさんが口を開く。
「あらあら、櫛が引っかかるわ。ずいぶん痛んでいるのね」
 わたしは鏡に映る自分の顔に、眉を寄せた。陽に焼けた肌に、赤茶けた髪はぼさぼさだ。
 おハナさんは椿油を塗りながら、もつれて絡まっている髪をどうにかして梳かそうとしている。
 やがておハナさんはため息をついて、わたしに訊いた。
「風が強いところに住んでいたの?」
「海の近くだったから、潮風が酷くって大変だったんだ」
「そうね。結い上げるのは難しいわ。絡まってしまっているところを切って、伸びるのを待ったほうがいいかもしれないわ」
 おハナさんはそう言って、わたしの髪を軽く引っぱった。
「切るのか?」
 わたしは目を見開いて、おハナさんを見つめた。おハナさんは瞳をキラキラと輝かせながら言う。
「断髪にするのも、モダンで素敵ですよ。もちろん、あやめさんが切っても良ければ、ですけれど」
 わたしはおハナさんの手を振り払うように、頭を振って言った。
「嫌だ。男みたいになっちまう」
「そうですか? この辺りには、断髪の女性も居ますよ。お洒落ですし、もつれたままにするより、ずっと可愛らしくなると思いますよ」
 おハナさんはにっこりと微笑んだ。
 優しそうな、あたたかい微笑。こういう顔をされると、何だか逆らえない。
「本当に、女でも断髪にするのか?」
 念を押すように訊くと、おハナさんは大きく頷いた。
「ええ、もちろん。遼太郎さまのお姉さまも、断髪にされていますよ。あやめさんも、切ってみますか?」
 わたしは思わず、頷いていた。
 おハナさんが大きな裁ちバサミでわたしの髪を切っていく。髪の毛の塊が、次々とタイルの床に落ちていく。
「さあ、できました。とても可愛らしいですよ」
 鏡を覗くと、前髪が眉の上で切られて、後ろは耳が隠れる長さに切りそろえられていた。
 モダンだとかお洒落とかいうよりも、なんだか、まるっきり子供みたいだ。
 わたしの不満げな顔に気づいたのか、おハナさんがあわてたように言う。
「お召し物も着替えましょうか。モダンな柄のキモノにすれば、きっと素敵ですよ」
 わたしはおハナさんに引きずられるようにして、二階のタンス部屋へ行った。
 壁面にぐるりとタンスが並び、窓の下には長持が積み重ねられている。
「そうね。あやめさんの背丈なら……」
 おハナさんはちらりとわたしを見て、呟くように言いながら長持の一つに近づいた。蓋を開けて、中からたとう紙に包んだキモノを取り出していく。
 おハナさんは部屋の中央に風呂敷を広げると、その上に次々とキモノを次々と広げた。
 葡萄色地に金茶色の矢絣模様。紫地に鹿の子模様の小紋。エンジ色に金茶と桃色の菊模様。緑と黄色の幅広縞に撫子模様。
「遼太郎のお姉さまが着ていらしたキモノもあるのよ。どれがいいかしら」
 おハナさんはそう言って、矢絣模様のキモノをわたしにの肩にあわせた。
「これは、少し袖が長いわね。こちらのほうがいいかしら」
 続いておハナさんは、撫子模様のキモノをあわせた。
「あら、ぴったり。それに、鮮やかな色合いが、元気なあやめさんに良く似合うわね」
 続いておハナさんは、別の長持から帯を取り出した。薄墨色に朱色と紫色の牡丹模様の帯をキモノに合わせて首をひねる。
「少しうるさいかしらね」
 次に、藤紫地に麻の葉模様の帯を取り出した。
「こっちのほうがぴったりですよ。さあ、着替えてみましょう」
 おハナさんは手早くわたしのボロボロの木綿の着物を脱がせて、撫子の着物を着せた。
 最後にフリルで縁取られた白いエプロンを取り出すと、おハナさんは軽く微笑んで口を開く。
「これで、最後の仕上げですよ。南条家の女中は、このエプロンを着けるきまりですから」
 ずっとされるがままになっていたわたしは、頬を引きつらせながら叫んだ。
「でも、おハナさんは着けていないじゃないか!」
「ええ。わたしは女中頭ですから、着けなくてもいいんですよ」
 おハナさんは、満面に笑みを湛えて言う。わたしは仕方がなく、エプロンを着けた。

続く

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