チヨコレート探偵 第1話「薔薇の名前」

(四)

 遼太郎の出て行った扉をしばらく睨んだ後、勢い良く水を出しながらシャツを乱暴に洗いはじめた。
「シワを伸ばしすぎるなとか、糊が落ちるまで洗えだとか、変なことばっかり」
 口に出して言いながら、シャツを絞る。水気を切って広げてみると、糊は落ちたけれど襟も袖口もよれよれだ。
「十一枚目!」
 呟きながら、シャツを桶に投げ入れる。
 次の新しいシャツを広げると、勢い良く石鹸を泡立てた。
「だいたい、お金持ちなんだから、糊付けしないシャツが良けりゃそれを注文すればいいじゃないか」
   ぶつぶつと文句を言いながら、手を動かし続ける。
 全部洗い終えると、桶を抱えて再び脱衣所へ戻った。残りのシャツを無理やり桶に入れて洗面所へ戻る。
 石鹸を泡立てながらシャツを取ると、鏡面に派手に飛び散った。
「あ〜あ、後で拭かなけりゃ」
 ため息をつきながら、洗い続ける。
「十八枚目」
 手を止めて、冷え切った手を火照った頬に当てた。
 ずっと屈みっぱなしで背中が痛い。けれど、まだまだシャツはいっぱいだ。
 冷たい水に手を入れて、再び洗いはじめる。
 絞ったシャツを手に、首を傾げながら呟いた。
「何枚目だかわからなくなってから一枚目」


 最後の一枚を絞ると、洗い終わったシャツの山に載せながら声高に叫んだ。
「終わり!」
 肩も腕も痛くてへとへとに疲れたけれど、一仕事やり遂げた達成感でいっぱいだ。
 途中で数が分からなくなったけれど、シャツは三十枚以上あったと思う。後は、外に干せば洗濯は終わり。
「よし。頑張るぞ!」
 わたしは握りこぶしを振り上げて気合を入れると、濡れたシャツが入った桶に手をかけた。桶は重くて、びくともしない。
 洗い桶にシャツの半分くらいを移してみても、まだ重い。
「よっこいしょ」
 かけ声をかけながらなんとか持ち上げて、よろめきながら廊下に出た。
 顔が熱い。汗で手が滑りそうだ。
 肩を壁に押し当てながら、休み休み廊下を進んで行く。台所の横を通ると、洋食屋さんの前を通ったときみたいな美味しそうな匂いが漂ってきた。
 きっとおハナさんが、洋風料理を作っているに違いない。
 台所の横を通り過ぎて、やっとのことで裏口にたどり着くと、背中で戸を押し開けながら外に出た。
 爽やかな風が吹きつける。大きく息を吸うと、清々しい若葉の匂いが全身に広がった。
 身体の火照りが静まっていく。
 壁に寄りかかって辺りを見回すと、左手側に物干し場が見えた。
 樹木の枝と枝に竹竿が二本渡してある。ちょうど台所の南西側だ。
 わたしは物干し場へ近づくと、草の上へ桶を置いた。ずっと曲げていた背中を伸ばしながら、空を見あげる。
 目に映るのは、若緑色の葉っぱの裏と真っ青な空。家の中で過ごすのがもったいない、いい陽気だ。
 絞ったシャツを一つ取って顔をあげると、ツタの絡まったレンガ塀に人の顔が見えた。
 顔?
 よく見ると、レンガ塀に大きな穴がある。穴……じゃない、門だ。
 ツタに覆われていて目立たないけれど、人が一人通れる位の錆びた門扉が見える。
 きっと、母の話に出てきた通用門だ。
 ツタに隠れるようにしながら顔を覗かせているのは、整った顔をした女。白粉をはたいて紅を塗っているのに、耳の下に女学生のようなおさげを垂らしている。
 こちらに右側の横顔を見せたまま、身じろぎもしない。
 何を見ているんだろう?
 伸び上がってみたけれど、建物の角が邪魔で見えない。
 わたしはシャツを持ったまま、木の枝に隠れるようにしながら塀に近づいた。
 塀の女は、熱心に車寄せの方を見つめている。
 何があるんだろう?
 わたしはそっと塀に近づいて、木の幹の影から車寄せを見た。
 玄関の扉も、窓も閉じたまま。大理石の柱もサンルームも、洋館の多いこの街ではちっとも珍しくない。
 いつまでも熱心に見つめるようなものなんて何にも……。
 わたしは身体を乗り出して、車寄せを見つめた。
 大理石の柱の陰で、何かがひらひらと揺れている。ねずみ色のキモノだ。
 柱に寄りかかるように座って、本を読んでいる。
 遼太郎!
 声をあげそうになって、あわてて口を押さえた。その拍子に、手に持ったままのシャツがぽろりと落ちた。
 あわてて手を伸ばした拍子に、枝が音を立てて折れる。
 塀を見ると、驚いたように目を見開いた女と目が合った。すぐに女の顔が、塀から消える。
「あ!」
 わたしは急いで塀に駆け寄った。通用門のツタの間に顔を突っ込んで、外を見回す。
 道路を駆けて行くお下げの女の後姿が見えた。
「何をやっている?」
 不機嫌そうな遼太郎の声に、わたしは振り向いた。
 すぐ後ろに遼太郎が立っていた。右手に分厚い本を、左手には、小枝や枯葉のくっついたシャツを持っている。
 わたしは遼太郎の手からシャツをひったくりながら呟いた。
「せっかく洗ったのに」
「お前が落としたんだろう。それより、何かあるのか?」
 遼太郎はそう言いながら、素早く腕を伸ばした。わたしの身体ごと抱え込むように、通用門をつかむ。
 わたしは身動きできずに、緊張したまま息を殺した。
 遼太郎は右の肘でツタを掻き分けて、外を見回しながら呟く。
「特に変わったモノはなさそうだが、何かあったのか?」
「さっき、女がここから覗きこんでいた」
 わたしがぼそりと言うと、遼太郎はようやく門から手を離した。玄関の方を見ながら、口を開く。
「なるほど。女中募集の広告を見て、様子を見に来たのかもしれんな」
「広告?」
 駅に貼っている薬やみやげ物の広告を思い浮かべていると、まるで心を読んだかのように遼太郎が言った。
「新聞広告だ」
「へぇ。広告なんてあるのか」
 わたしの返事に、頷きながら遼太郎が口を開く。
「そうだ。高額の給金を謳う虚偽の新聞広告に騙されて上京する田舎娘も多いらしいな。もっとも、新聞を読まないお前には関係のない話か」
 難しい言葉を聞き流して、わたしは首をひねった。
 女中募集の広告を見てきた女だったんだろうか。
 それなら、何であんなに熱心に遼太郎を見つめていたんだろう? 遼太郎は雇い主というより書生にしか見えないのに。
 わたしは眉を寄せて、口を開いた。
「でも、それなら、こんなところから覗いていないで、正面から入ってくればいいだろ」
 遼太郎は馬鹿にしたように鼻を鳴らして言う。
「お前みたいに行き当たりばったりに行動せずに、用心深く様子を見ていたんだろう」
 わたしはムッとして、遼太郎を睨んだ。
 遼太郎は物干し場へ向かって歩き出しながら口を開く。
「早く干さないと、昼になるぞ」
「わかってる」
 わたしは急ぎ足で物干し場へ戻ると、シャツを広げはじめた。
 襟と袖口の形を整えて、シワを叩いて伸ばしていく。と、その手を遼太郎がつかんだ。
「そのくらいでいい。シワを伸ばしすぎるなと言ったはずだ」
「いちいち細かい奴」
 口の中で呟いて、シャツをそのまま竿に干す。
「何か言ったか?」
 遼太郎が聞き咎めた。
「いいえ、何にも言っていないでございますです」
 返事をしながら、次のシャツを広げる。
 遼太郎は何か言いたそうにわたしを見ていたけれど、そのうちどこかへ立ち去った。

続く

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