チヨコレート探偵 第1話「薔薇の名前」

(五)

 冷たい水に手を浸して、布巾を固く絞る。
 洗濯に続いて、午後は各部屋の水拭き掃除。控の間に応接室、ここ書斎で三つ目の部屋だ。
 ずっと水仕事ばっかりで、手がすっかりふやけてしまった。
 わたしは濡れた手をエプロンにこすり付けると、布巾を広げながら室内を見回した。
 北側の壁一面は、背の高い作り付けの書棚。窓の前にはこげ茶色の大きな机。濃い色が多い中、生成り色に青い小花模様の絨毯が目立っている。
 南側の壁には濃い色合いの大理石製の暖炉。暖炉の両脇には飾り棚。
 わたしは飾り棚に近づくと、無造作に花瓶を持ち上げた。
 強く握っただけで壊れてしまいそうな、華奢な形の花瓶だ。キレイだけれど、どの部屋にも高価そうな飾り物がいっぱい並んでいるから、もう見慣れてしまった。
 花瓶の両側に付いた取っ手のような形の飾りをていねいに拭いているうちに、午前中に見た女の顔が頭に思い浮かんだ。
 日本人形のような整った顔に、二本の三つ編み。あの顔、どこかで見たような気がする。
 でも、一体どこで見たんだろう?
 南条家へ来るまでの間に見たんだろうか。それとも、一緒の汽車にでも乗っていたんだろうか。
 拭き終わった花瓶を戻しながら、わたしは首を傾げた。
 昨日は、南条家の女中になるために精一杯で、周りの人を気をつけて観察する余裕なんてなかったはずだけど……?
「ええい。考えても分からないことは、もう終わり」
 わたしは自分に言い聞かせるように呟くと、布巾を水に浸した。
 じゃぶじゃぶと洗いながら、ぶつぶつと続ける。
「もしも女中になりに来た女だったら雇えばいいんだ。こんなに広いお屋敷なんだから、仕事はいくらでもあるじゃないか」
 布巾を絞って、棚をごしごしと力任せに拭いていく。
 茶色と黒の混ざったような色合いの暖炉を拭きながら、ふと、顔を上げると花の絵が見えた。小さな木製の額縁に入った淡い桃色の花の絵だ。
 あれ?
 わたしは手を止めて、まじまじと絵を見つめた。
 牡丹みたいに花びらが重なった桃色の花が三つ、茎から垂れ下がって咲いている。花の脇には、丸い蕾とギザギザの葉が添えられている。
 変だな。
 なんだか、見たことがあるような気がする。そんなはずないのに。
 背景は、紙の色そのまま。花びらや葉の輪郭は濃い色で縁取り、葉や花びらの筋までくっきり描いてある。
 そうだ。この絵を見たことがあるのではなくて、この絵とそっくりな絵を知っているんだ。
 目を閉じると、ぼんやりと絵が頭に思い浮かぶ。
 花と葉の形はそのままで、花の色だけが違う。
 そうだ。確か、菖蒲色の花だったはずだ。
 でも、どこで見たんだろう……?
 考えても、唸っても、ぜんぜん思い出せない。
「ええい。考えても思い出せないことは、もう終わり!」
 やけになって叫ぶと、布巾を裏返した。
 暖炉と机を手早く拭くと、汚れた水の入った桶を持って、書斎を後にした。
 洗面所で水を汲みなおすと、廊下の隅に桶を置いて大広間の前まで行ってみた。
 書斎の隣りは大広間だ。
 おハナさんが「今は使われていない」と説明していたとおり、鍵がかかっていて扉が開かない。
 せっかくここの女中になったんだから、いつか絶対に中を覗いてみよう。
 わたしは心に誓うと、桶を持って廊下を戻った。
 居間と食堂の掃除を済ませて、使用人用の階段を上っていく。今度は、二階の部屋の掃除だ。
 困ったぞ。
 おハナさんが説明したのは一階の部屋だけだったから、二階にどんな部屋があるのか、何部屋あるのかも良くわからない。
 階段室を出て、ぐるりと周りを見回した。
 右手はすぐ大きな窓で、正面の扉は、この間着替えたタンス部屋。左手に続く長い廊下は、両側に扉が並んでいる。
 わたしは左手に向かって歩き出した。
 タンス部屋の隣の扉に近づいて、ノブをひねってみる。押しても引いても開かない。鍵がかかっているようだ。
 階段室の隣はトイレ。その隣は洗面所。次は、わたしに充てられた使用人部屋だ。 
 ここで廊下は二手に分かれて、中央の曲階段をぐるりと取り囲むように続いている。
 階段を横に見ながら、空の桶を持って次々と扉のノブに取り付いた。
 開かない。開かない。びくともしない。
 わたしは半ばやけになって、次々とノブをひねった。
 開かない。開かない。鍵がかかっている。
 このままだと、ぐるりと回って、わたしの部屋の前へ戻ってしまいそうだ。
 きっと開かないだろうと思って押した扉が、勢い良く開いた。
「あれ?」
 ノブに体重をかけていたわたしは、前へつんのめった。あわてて、扉にすがりつく。
 その拍子に桶が落ちて、絨毯の上へ転がった。
 足元に、平積みされた本の山がある。すぐ横にも、棚の上にも、本が積んである。
 わたしは立ち上がると、ぐるりと部屋を見回した。
 二面に窓があり、残りの壁は全部本棚だ。
 床のあちこちに本が乱雑に積み重なって、本に埋もれるようにベッドと机がある。
「本置き場?」
 呟いてから、よれよれのキモノ姿に気づいた。
 遼太郎だ。
 窓の前で椅子に座り、積み上げた本の上に靴を履いたままの足を載せている。
 本に没頭しているのか、わたしが部屋に入ったのに気づいていないようだ。
 どうしよう。こんなに本が散らかっていたら、どこをどう掃除すればいいのか、わからない。
 わたしが困って転がっている桶を見つめていると、遼太郎の良く通る声が響いた。
「何か用か?」
 顔を上げると、遼太郎は本に目を落としたままだ。
 独り言かもしれないと思って黙っていると、遼太郎はこちらを見もせずに、苛々したような声で促す。
「用があるなら、早く言え」
 わたしは桶を拾いながら言った。
「掃除をしに来たんだ」
 そこで初めて、遼太郎は顔をあげた。ちらりとわたしの方を見て、小馬鹿にしたように鼻を鳴らして言う。
「桶で掃除するのか?」
 わたしは桶の中を見て、あわてて足元を見回した。
 布巾がない。どこかで落としたみたいだ。
「いや。どこにどんな部屋があるか判らないから、とりあえず片っ端から扉を開けてみていただけだ」
 遼太郎は黙ったまま、不意に窓の方を見た。
 わたしは思わず釣られて、窓を見つめた。遠くに青灰色の海が見えている。
「洗濯物は、取り入れたのか?」
 遼太郎がぽつりと訊いた。
「あ、まだだ!」
 思わず大声で叫ぶと、遼太郎が呆れたように言う。
「早く行け」
 わたしは急いで、遼太郎の部屋を飛び出した。
 途中に落ちていた布巾を拾って、桶を抱えたまま廊下を駆けて行く。キモノの裾が乱れるけれど、気にしてなんかいられない。
 使用人階段を転がるように降りて、洗面所に桶を置くと、外へと飛び出した。
 台所の壁が、赤く染まっている。見あげると、見事な夕焼けが広がっていた。
 急いでシャツを取り込んでいく。
 ふと手を止めて、レンガ塀の通用門を見つめた。
 また、あの三つ編みの女が覗いているんじゃないかと思ったけれど、絡まったツタが見えるだけで誰の姿もなかった。

続く

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