天国・天国・天国

 いつの間にか、絶え間なく聞こえていた猿の鳴き声が止んだ。
 静まり返った密林の中、先頭を行くタクパヤの枝を払う音だけが甲高く響いている。
 タクパヤはキリスト教化された先住民族の男だ。リオで働いていたこともあるが、都市生活が合わなくてアマゾンに戻って来たという。
 ガイドを仕事にしているというのに寡黙で、たまに口にする言葉は、スペイン語混じりのポルトガル語で聞き取りにくい。
 長い苔に覆われたつるを薙ぎ払うと、タクパヤは立ち止まった。僕らのほうを振り返って、何かを指し示しながら口を開く。
「アレを見ろ」
 タクパヤの示す先には、カフェオレ色の泥水の溜まった池があった。
 水の色からすると、ソリモンエス川の氾濫期に取り残された水だろうか。もしそうだとすると、ここは僕が想像しているよりも川沿いなのかもしれない。
「何かあったのか?」
 後方からイライラした声で訊くのは、今回の旅を企画したフリーライターの林。格闘でもやりそうながっちりした体つきで、まばらな無精ひげを生やしている。
 アマゾンの奥地に「国立インディオ保護財団」がまだ接触も確認もしていない謎の先住民族がいるという噂に飛びついて、「新発見! 地球最後の秘境に暮す謎の裸族」なんていう企画をうって、無理やり出版社から旅費を手に入れたらしい。
「あ、カメラ必要?」
 沢木は素っ頓狂な声で言うと、僕の返事も聞かずにバックパックをごそごそとかき回した。
 こいつは今回の旅に僕を巻きこんだ張本人にして、大学のOB。在学中にずっとアイドルの追っかけなんかをやっていた、肌も白くて最もアマゾンの似合わない男だ。
 次々と色々なバイトを渡り歩いているフリーターで、「追っかけ」のために買った一眼レフとデジタルビデオカメラを持って来ている。
「また泥水の中を通るみたいですよ」
 僕の言葉に、二人とも顔をしかめた。
「またか。またワニや蛭が居るんじゃないだろうな」
 吐き捨てるように林が言う。
 僕は肩を竦めて、前方を見た。
 熱帯雨林の中に居たら、ワニも蛭も当たり前だ。だいたい、ワニは夜にしか活動しないって言ってるってのに、この男はデカイ図体しているのに怖がって何度も訊いてくる。
 タクパヤが再び言った。
「アレを見ろ」
 彼が示したいのは、単なる池じゃなさそうだ。でも、樹上の猿が見分けられる彼には判っても、僕の視力では見えないかもしれない。
 僕は池の上に身を乗り出して訊いた。
「どれだ?」
「アレだ。誰かが殺した。ハホネロの土地が近い」
 タクパヤは相変わらず泥水を湛えた池を示している。よく見ると、泥水に白いモノが浮いている。
 沢木はすかさずカメラを構えて、シャッターを切った。
「何なんだ?」
 ただ一人ポルトガル語のわからない林が、眉間にシワを寄せて泥水を睨んでいる。
「オオナマズじゃないかな」
 沢木はファインダー越しに覗きながら呟いた。林はますます眉間のシワを深くして、沢木を睨みながら言う。
「それが何だ? フィルムの無駄使いはするな」
 沢木は縮み上がると、あわててカメラを仕舞いこむ。
「ハホネロ族が殺したってタクパヤが言っています。居住地が近いんじゃないかって話です」
 僕が説明すると、林は鼻を鳴らした。
「今度こそ、本当だろうな? 昨日も一昨日も、単なる折れた枝を見せられて、同じ話を聞いたぞ」
「まあまあ、そう簡単に謎の一族が見つかったりしたら、ドラマになりませんよ」
 沢木が滴る汗を拭きながら言う。
 アマゾンに来てから三週間。蚊やダニや蛭の洗礼を受け、泥水を飲んで汗を流しているのに、沢木はだんだん肥えてきたみたいだ。
 僕はというと、タクパヤが獲って料理してくれる猿やアリクイがどうしても食べられなくて、すっかり痩せてしまった。
 タクパヤは僕らに声もかけずに、濁った泥水の中に入っていく。
 僕はあわてて、タクパヤに続いた。足が深く泥に埋まり、水は膝上まで上がってくる。
 靴の中にすぐに水が浸入してきた。やけに生暖かくてぬるぬるしている。まとわりつく感触に、肌があわだつ。
「あのガイド、本当に先住民族の居場所を知っているのか? 戻れないような奥地へ連れて行って荷物を奪う気じゃないだろうな」
 林が後ろでぶつぶつと言いながら、派手に水音を立てて歩いている。
「大丈夫ですよ。その気ならとっくに襲われていますって」
 沢木がやけに楽天的な調子で返事をした。
 確かに、タクパヤが全て信用できるとは思わないけれど、適当に連れまわしているとは思えない。彼の歩みには、確実に誰かのところへ連れて行くという使命感のようなモノが感じられる気がする。
 ぽっかりと浮かんでいるナマズは、体長一メートルほどの大きさで、既に腐り始めていた。水面が泡立ち、辺りに腐臭が漂っている。
 ナマズを見ている間に、足が深く泥にはまっていた。このまま歩くのを止めたら、ゆっくりと泥の中に沈んでいってしまいそうだ。
「そういえば、オオナマズの腹の中から人が出てくる話がありましたよね」
 沢木がどこか嬉しそうに言う。
「五メートルある大蛇から出てきたんじゃなかったか?」
 林がせかせかと水を漕ぎながら応じた。
 蛇やナマズの話で二人が盛り上がっている間、僕はなぜだか講義で聞かされた話を思い出していた。
 次々と熱帯特有の疫病に倒れて行った開拓者たちの話だ。入植した日本人がどんなに苦労したのかを、非常勤講師がやけに熱心に語っていた。
 あの時には遠い昔の話のように感じていたけれど、今ならわかる気がする。
 水から上がると、踝まで泥がこびり付いていた。
 林が大騒ぎをしながら泥を樹の幹にこすり付けて落としている。
 タクパヤがさっと振り向いて、後方を睨んだ。
 僕は緊張して、タクパヤの視線を追った。遠くで誰かが藪を漕いでいるような、葉ずれの音が響いている。
「先住民族か?」
 林が声をひそめて訊いた。
 誰も答えない。タクパヤは答えを知っているかもしれないけれど、僕も沢木も通訳しようとしなかったから、答るはずがない。
 音が聞こえなくなると、タクパヤは前を向いて、何ごともなかったかのように歩き始めた。


 見あげると、濃い葉影の向こうが赤く染まっていた。今日もまた、夜が来る。
「もう野宿は嫌だぞ。屋根のないところで寝られるもんか!」
 林が誰に言うでもなく叫んだ。
 川沿いの狩猟小屋に泊まったのを最後に、ずっと野宿が続いている。炎や灯りをめがけて襲ってくるという蛇が居るため、夜に火を焚くこともできない。
 タクパヤが振り向いて、前方を示した。
 腐葉土の上に、くっきりと踏み跡がついている。踏み跡は曲がりくねりながら、先に続いている。
「ハホネロ族の道か?」
 沢木がポルトガル語で訊いた。タクパヤが短く応える。
「そうだ。すぐだ」
 それを林に伝えると、急に元気が出てきたらしい。僕の前に進み出ると、タクパヤのすぐ後について歩き始めた。
「俺が隊長だからな。おい、ビデオもあるんだろ。ちゃんと用意しろよ」
 言われた沢木が、急いで小型のデジタルビデオカメラを取り出す。
 本当かよ。
 高揚感と不安が同時に僕に襲いかかる。
 謎の先住民族だなんていって、凶暴だったらどうするんだ。
「最後に探検隊は食べられてしまいました」そんな、一昔前の秘境モノみたいなフレーズが思い浮かんで、僕は頭を抱えた。
 人喰い人種なんてもう居ないはずだ。たぶん。
 それよりも、もし僕らが病原菌を持っていたら、風邪でもひいていたら、ハホネロ族がみんな死んでしまうかもしれない。そうだ、そっちの方がずっと問題だ。
 帰ろう。
 喉まででかかった僕の言葉を、林の大声が打ち消した。
「ハホネロ族だ。早く!」
 沢木が体型に似合わない素早さで駆けて行く。
 タクパヤが先住民族の言葉らしいもので長々と話している。
 もう、戻れない。
 どの方角に川や町があるのか判らないのに、独りで帰りつけるわけがない。
 とにかく、初めての接触だ。彼らの生活が、初めて明かされるんだ。
 僕は奇妙な興奮に包まれながら、ハホネロ族の集落に近づいて行った。


 リズミカルな太鼓の音が深い森に消えていく。
 暗闇の中、広場の中央に焚かれたかがり火の明るさが目に眩しい。
 湿り気を帯びた生ぬるい風が、様々な匂いを運んでくる。
 焦げた獣脂の匂いに薬草の匂い。発酵した飲み物の鼻を突く臭いに、湿った土の臭い。
 僕は歓迎の宴の真っ只中で、どこか冷めた気分で炎を見ていた。
 林は発酵した飲み物で顔が真っ赤だ。言葉なんて判らないくせに、タクパヤと酋長に挟まれて、すっかり上機嫌だ。
 沢木はデジタルビデオカメラで一通り宴会の様子を撮ると、片っ端からご馳走を腹に詰めている。
 得体の知れない獣の肉に、木の葉に包んで焼いた芋虫。植物の根を焼いて作った粥に、虫の巣入りのスープ。
 とてもじゃないけれど、食う気になれない。
 僕は空きっ腹を押さえて、ため息をついた。
 ハポネロは裸族ではない。
 男は樹皮を柔らかく加工して作ったふんどしのようなものを身につけているし、女は樹皮を編んで布状にしたものを身体に巻きつけている。
 そして、恐らくキリスト教の影響を受けている。接触を受けたのは、僕らが初めてではないのだ。


 集落に入りこんだ僕らは、毒矢を持った男たちに取り囲まれた。
 草葺の家に逃げこんだ女子供たちが、息を殺して見守っている。
「何かしたほうがいい。敵意がないことを示すことを」
 タクパヤがぽつりと言う。
 僕らは急いで、ポケットの中のモノを差し出した。
 沢木が持っていたのは、カラフルな包み紙のキャンディーに、袋入りの氷砂糖。僕が持っていたのは、フィルムケースに入れた木の実と、小さな手鏡。
 林は懐中電灯と万能ナイフを取り出して、ハポネロ族の前へ並べた。
 本当になんでもないガラクタみたいなものだったのに、ハポネロ族は喜んだ。
 僕らに突きつけていた矢を下げると、笑顔で口々に言う。
 タクパヤがホッとした顔で、彼らの言葉を訳した。
「あなた方はいい人。贈り物をくれた。いい人は幸せになる」
 男たちの様子を見て、隠れていた女や子供たちがはにかみながら出てきた。
「あなた方はいい人。いい人は天国へ行く。天国へ行くことはとても幸せ」
 僕は天国という言葉に引っかかって、沢木に耳打ちした。
「ここの人たちって、もしかしてキリスト教の影響を受けてませんか?」
「あー。『天国』って言葉だろ。ちょっと変だと思ったな。でもまあ、あの人は初めての接触で新発見だと思っているわけだし」
 そう言って、沢木はちらりと林を見ながら続ける。
「まあ、『国立インディオ保護財団』がまだ接触していないのは確認済みなんだから、別にいいんじゃないの?」
 こいつは、いつもこんな調子だ。
「一度接触しながらキリスト教化されなかったってのは、結構珍しいケースかも……」
 僕の言葉を遮って、沢木が大声を出した。
「あ、あの娘かわいいなぁ。写真取らせてもらおっ」
 カメラを手に、女の子たちの集団へ駆けつける。僕は呆れかえって、沢木を見つめた。
 女の子たちはカメラを知っているのか、恥ずかしそうな笑顔を浮かべてポーズを取っていた。


 「どうした、浮かない顔して」
 顔をあげると、沢木が覗きこんでいた。手に、木の葉に包んだ料理を持っている。
「よく食べれますね」
 僕が呆れ気味に言うと、沢木が木の葉を広げながら口を開く。
「これ、美味いから喰ってみろよ」
 木の葉の中から出てきたのは、白い体の芋虫だ。
「冗談でしょ」
 僕の言葉に、沢木は首をひねりながら言う。
「まあ、見た目はアレだけど、喰うと美味いんだ。ほら、ええと、あれだ。クリームコロッケだよ」
「まさか!」
 思わず大きな声をあげると、林が横から口を出す。
「味は、塩気がないチーズクリームだな。この、プチっていう食感がまた、やみつきになるぞ」
 聞いている内に、気分が悪くなってくる。
 太鼓の音が変わって、仮面を被った人々が現れた。
 木を彫って木の皮を髪の毛のように貼り付けた仮面は、顔の二倍くらいの大きさだ。
 笑っているように見える弓形の細い目に、大きく開けた口。口の中には、歯みたいに見える模様が刻んである。
 酋長の言葉を、タクパヤが伝える。
「歓迎の踊り。幸せになる」
 にぎやかな太鼓の音が始まった。
「ビデオ、ビデオだ!」
 林が手を叩きながら叫ぶ。
 沢木はデジタルビデオカメラを構えて、一番前に陣取った。
 仮面の踊り手たちは首を振って、髪のような長い木の皮を振り乱しながら踊る。まるで、獅子舞の動きのようだ。
 周りを囲んでいるハポネロの人々は、手を叩いてリズムを取っている。タクパヤもすっかり、ハポネロの一員みたいな顔をして手を叩いている。
 踊りが終わる前に、沢木が沈んだ顔をして戻ってきた。
「バッテリー切れだよ。こんなところに電池があるわけないし、困った」
「カメラは使えるんだろ」
 僕の言葉に、項垂れて言う。
「暗いから今日は何も撮れない。ビデオは、町に戻るまで無理だ」
 ひと際けたたましい音が鳴って、仮面の踊りが終わった。
 興奮した林が、手を叩きながら意味のない言葉を叫んでいる。
 酋長が立ち上がって、口を開いた。すかさず、タクパヤが言う。
「客人に、特別な飲み物があります」
 髪の毛に白い花を飾った少女が、お盆のような板に飲み物の入った椀を載せて運んできた。
「幸せの飲み物です。あなた方のようないい人だけが、飲むことができます」
 タクパヤが酋長の言葉を伝える。
 僕らの手に、椀が渡された。木の実をくりぬいて作った椀には、白濁した液体が入っている。
 ハポネロの人たちの目が、一斉に僕らを見詰めている。どこか期待のこもった、熱い眼差しだ。
「いただきます」
 林は大声で言うと、何の躊躇もせずに一気に飲み干した。ハポネロの間から大きな歓声があがる。
 僕は沢木と一緒に口元へ運んで、顔をしかめた。
 甘い味の中に、何だか少し舌を刺す痛みがある。それに、絵の具を溶かしたみたいな匂いだ。
 こんなのとても飲めない。
 僕は沢木の背に顔を隠しながら、口の中の液体を吐き出した。椀の中身も一緒に地面に捨てる。
 見られただろうか。
 恐る恐る顔をあげたけれど、大丈夫なようだ。ハポネロは手を叩いて喜んでいる。沢木は飲み干したようだ。
 再び太鼓の音が響き始めた。
 ハポネロの人々は、身体を奇妙にくねらせながら踊っている。
 仮面を被った者たちも、再び踊り始めたみたいだ。
 影絵みたいにゆらゆら揺れ動いて見える。
 仮面の顔が目の前にドアップになって、ズームアウトするみたいに視界から消えた。
 弓形に目を細めて、威嚇するみたいに大きな口から歯を覗かせている仮面。
 ずっと笑顔だと思っていたけれど、本当は笑っていない顔なのかもしれない。
 太鼓の音が続いている。
 タクパヤの声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「いい人は幸せ……幸せ……幸せ」


   うるさいなぁ。
 何か話しかけているみたいなのに、少しも言葉がわからない。
 目を開けてみると、真っ暗闇だ。
 まだ夜だ。それなのに、何を騒いでいるんだ?
 何だか頭が重い。
 首を回すと、星が見えた。満天の星空が、見下ろしている。
 あれ?
 ハポネロ族の所に来たはずなのに、何で外で寝ているんだ?
 あわてて上体を起こそうとしたら、頭がずきずきと痛んだ。
 どうなっているんだ?
 痛む頭を抱えて、辺りを見回す。すぐ横に、誰かが寝ている。
 覗きこむと、沢木だ。仰向けで、口をあけて、幸せそうな笑顔を浮かべて寝ている。
 きっとアイドルの夢でも見ているんだろう。
 僕は呆れて、沢木の向こうを見た。そこにも誰かが寝ている。
 林だ。細く目を開けて、軽く開いた口から歯を覗かせて、まるでハポネロ族の仮面の顔みたいな笑顔を浮かべている。
 そういえば、あの飲み物を飲んだのはこの二人だけだったな。
 麻薬みたいな物質でも入っていたのか?
 僕は少し呆れて、沢木を覗きこんだ。口元に手を当てて、息を呑む。
 こいつ、息をしていない?
 あわてて胸に耳を当ててみた。
 何も聞こえない。
 まさか、林も……?
 気配を感じて顔をあげると、仮面を被ったハポネロの人々が僕たちを取り囲んでいた。
 誰も何も言わない。
 僕が寝ていたときには騒がしかったはずなのに、奇妙な静けさが辺りを包んでいる。
「何をしたんだ?」
 訊ねても、誰も答えない。
「二人に毒を飲ませたのか? 一体何のために?」
 彼らは何も答えない。
 ああそうだ、日本語で言っても、通じるはずがないんだ。
 僕は辺りを見回して、タクパヤの姿を探した。仮面を被った男達がいるばかりで、どこにも姿はない。
 タクパヤもどこかで殺されてしまったのだろうか。それとも、怖くなって逃げ出したのだろうか。
 誰かが甲高い声で何ごとか告げた。
 すると、仮面の一人がポルトガル語で言う。
「彼らは天国に行った」
 タクパヤの声だ。
「何だって?」
「彼らは幸せだ。天国には永遠の幸せがある」
「何を言っているんだ? 殺したのか?」
「いい人は天国へ行く。天国は幸せなところだ」
 タクパヤが繰り返す。
「おい、お前はタクパヤだろう。どうしたんだ。ハポネロの仲間になったのか?」
 僕の問いに答えずに、タクパヤが言う。
「彼らもお前もいい人だ。いい人は天国へ行く」
 仮面の男達の輪が、一気に縮んで僕を取り囲んだ。
「よせ。来るな。人殺し!」
 一人の男が、無表情な仮面を被ったまま毒矢を突き出す。
 刺される!
「止めろ。僕は、僕はいい人じゃない。悪い奴なんだ!」
 やけになって叫ぶと、毒矢を持った男の動きが止まった。
「僕は、いい人じゃない。だから、天国へは行けない」
 誰かが淡々と何ごとか言う。タクパヤが訳して告げる。
「悪い奴は地獄へ行く。殺せば、いい人かどうかわかる」
 冷たい汗が噴出した。
 いい人だろうと、悪い人だろうと、殺す気なのか。
 畜生、どうすればいい?
 再び、男が毒矢を振りかぶった。後ろにいる男たちが僕の身体を逃げられないように後ろから押さえつける。
「なぜだ? 天国へ行くことが幸せなら、何でお前たちは死なないんだ?」
 半ばやけくそになって叫ぶと、男たちの輪が崩れた。
 奥から、仮面を被った小柄な男が近づいてくる。男の仮面は他のとは異なり、日本のお面の翁を思わせるような顔立ちだ。
「いい質問だ」
 男の低い声は、奇妙に頭にすっと染みこんだ。
「我々は生まれつき悪い。白い人々と違い、悪い習慣を持って生まれた。良い行いをしなければ、天国へ行けない」
「良い行いだって?」
「そうだ。人を幸せにすることは良い行いだ。良い行いをしないと、我々は幸せになれない。それが、神の教えだ」
「良い行いってのが、人を殺すことだって言うのか? そんなのは間違っている!」
 僕がありったけの声で叫ぶと、ハポネロの人々は興奮し始めた。
 タクパヤが僕の言葉を通訳したみたいだ。僕は続けて叫んだ。
「人を殺すことは悪いことだ。人殺しが天国にいけるものか!」
 タクパヤが次々と言葉を訳す。
「なぜ、人を殺すのが悪いことだ?」 「私たちを呪う気か?」
「お前は悪い人か?」
 仮面の男たちが掴みかかってきた。
 太鼓の音が鳴り響いて、男たちは動きを止めた。
 先ほどの翁が何ごとか告げる。と、男たちは僕を引っぱり上げて立たせると、どんと背中を突いた。
 突き飛ばされて、よろよろと歩き出す。
「行け!」
 タクパヤが叫んだ。
 僕は何がどうなっているか判らないまま、闇雲に走り出した。
 頭がずきずきと痛む。枝の切っ先に引っかかり、切り傷が出来る。
 ハポネロの人々が追ってくる気配はない。
 どこに向かっているのかも判らないまま、ただひたすら走り続ける。
 獣の甲高い鳴き声が響き渡る。闇の中に紅く光る目玉が二つ。
 立ち止まるわけにはいかない。立ち止まれば、待っているのは死だ。
 走れ。走れ。
 水溜りを漕いで足が泥にとられて、顔面から地面に突っ伏した。大きく水が跳ねて、辺りに飛び散る。
 幸い、顔の場所に水は溜まっていないようだ。湿り気のある腐葉土の匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。
 このままここに寝ていられたら、どんなに楽だろうか。
 脳裏に、水溜りで死んでいたオオナマズが思い浮かんだ。あんな風に腐りたくない。
 這うようにして、水溜りから抜け出す。
 このままここにいたら、待っているのは死だ。
 いいや、どっちみち荷物も何も持っていない。密林で生き延びられるはずがないじゃないか。
 柔らかな腐葉土に横たわって目を閉じると、すぐ傍で声が聞こえてきた。
「お前は仲間だから殺さない」
 僕は立ち上がって、辺りを見回した。
 誰かが傍にいるはずもない。
 走れ。走れ。
 何かに突き動かされるように、僕は再び駆け出した。
「悪い者は、良い行いをしなければ天国にいけない」
「天国に行くことは幸せだ」
 頭の中で声が、いつまでも響いていた。


   目を覚ますと、青い瞳が覗きこんでいた。
 あわてて飛び起きると、覗きこんでいた男の顔が笑顔に変わった。
 僕が寝ていたのは、白い壁の立派な建物の中の一室だ。
 アマゾンの研究者たちが利用している「国立インディオ保護財団」の建物だという。
 どうやら僕は森の中に倒れていたらしい。怪我は掠り傷ばかりだが、脱水症状を起こしており、何ごとかずっとうなされていたという。
 しかも妙なことに、僕の荷物としてバックパックが部屋の片隅に置いてあった。ハポネロの集落に置いてきてしまったはずなのに。
「どこで何をしていたのかね?」
 男に訊ねられて、僕はハポネロのことを思い出した。どう考えても、悪い夢を見ていたとしか思えない。
 曖昧な記憶を手繰り寄せて、僕はタバチンガから川沿いに出発したことと、タクパヤという男の案内で森に入っていたことを告げた。
 話を聞いた男たちは、一様に顔を見合わせて肩を竦める。
 僕は、勝手に先住民族に接触しようとしたことを怒られやしないかと思いながらも、必死に説明した。
「ハポネロなんて、聞いたことがないね」
「ああ。君が入ったという辺りの森なら、既に調査済みだが、そんな村落はなかったよ」
「だいたい、君はそこからどうやってここまで来たと言うんだね? ここはリオブランコ。タバチンガから何百キロ離れていると思っている?」
 男の言葉に、僕は息を呑んだ。
 リオブランコだって? 何だってそんなに南方に居るんだ?
 三日後、一人の研究者が新聞を見せてくれた。
「君は、まさか、ここに居たって言うんじゃないだろうね?」
 新聞に載っていたのは、タバチンガ北西部の森の中で日本人二人の遺体が発見されたという三日前の記事だった。
 死因は中毒死と書かれている。
「君は眠っている間に、このニュースを聞いたんじゃないか? そして、無意識のうちに自分がそこに居たものだと思いこんでしまったんじゃないのかな」


 誰にも信じてもらえない。何の証拠も残っていない。
 幻覚を見たのだろうといわれ、気が変になったのだと噂されている。
 確かに、みんなが言う通りなのかもしれない。
 あの仮面のような笑顔が見えるから。
 林や沢木が浮かべていたような笑顔が、みんなの顔に重なって見えるから。
 あちこちに見えるあの笑顔は、みんな同じように囁く。
 お前は悪い者だ。
 悪い者は良い行いをしなければ幸せになれない。
 闇の中で焔がちろちろと蛇のような舌を覗かせる。
 人を幸せにすることは良い行いだ。人は天国に行くことが幸せだ。
 仮面をつけた虚ろな影が、そこかしこで躍っている。
 天国に行けるのは、良き者だけだ。
 湿った土の臭いが漂う。
 よきものを幸せにしろ。そうすれば、お前も天国へ行くことが出来る。
 タクパヤの声が囁く。

 良い者を天国へ送り届けるがいい。

 翁顔の仮面が告げる。

 お前は仲間だ。

 天国。天国。天国。

 一人でも多く天国へ送り届けろ。

―end―

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