虹の冠  第1話(02.Jun.2001 UP)

Next →     

 磨きあげられた大理石の床を、白髪頭の老人が走っていた。
 息を切らせながら、枯れ木のような細長い右腕を前に伸ばして。
 その、手のすぐ前を、光沢のある青色のドレスに身を包んだ少女が走っていた。足首まで覆う長さのスカートを、邪魔そうに足にまとわりつかせながら。
 軽くうねる金色の髪は背中で左右に大きく揺れて、ウエストの背中側で結んでいる大きなリボンが見え隠れしている。
 二人の間はどんどんと離れていき、老人はあえぎながら叫んだ。
「ひ、姫様、どこへ行かれるのですか!」
 少女は立ち止まって振り向いた。
 透きとおるような白い肌の中で、深い湖のような青緑色の瞳が輝いている。
 形のよい高い鼻。頬は上気して紅く色づいている。
 少女は、近づいてきた老人をにらむように見あげて、ふっくらとした唇をひらいた。
「爺。先生たちには、お腹が痛いから、お勉強できないって伝えといて」
 そのまま前を向いて立ち去ろうとする少女に、老人は叫んだ。
「姫様! お加減がすぐれないなら、すぐに侍医を呼びますから。お待ちになってくだされ」
 少女は踵をかえすと、黙って走りはじめた。いくつもの扉の前を抜けて、陽光の射しこむ突き当りを右に曲がる。と、中庭に面した柱廊へ出た。
「姫様。アティナル様!」
 うしろで老人が、悲鳴のような声をあげている。
「もう、うるさいなぁ。お医者なんかいらないから!」
 アティナルはそう叫ぶと、柱の間にある手すりを飛び越えた。
 スカートのすそが風をふくんで翻り、中の真っ白なペチコートがちらりとのぞく。
「きゃっ。姫様!」
 通りかかった女官が、小さく悲鳴をあげた。
 アティナルは中庭にすっと降り立って、上を一べつするとそのまま走っていった。

 中庭を覆うように茂っている大木には、ラッパ型の真っ赤な花がいくつも垂れ下がり、甘酸っぱい香りを漂わせている。
 アティナルは、柱廊から陰になる太い樹の横に座った。
「お勉強なんて、つまんないもの!」
 そう、つぶやきながら、両腕を横に広げて仰向けに寝転がる。

 雲ひとつない青空。悠々と飛んでいる大きな鳥はコンドルだろうか。
 横を向くと、勢い良く水をふきあげている噴水があった。
 水しぶきがキラキラと輝き、小さな虹が見える。
 アティナルは、噴水に近づいていった。
 大理石の水盤の横に、水色のかわいらしい小さな花が咲いている。
「あの部屋から、ここは見えないはずよね」
 アティナルは首をかしげて言うと、小さな花をひとつ手折った。

 花を片手にしっかりとにぎりしめて、アティナルは中庭の隅に向かう。胸の高さにある窓を、三回叩いた。
 中から青白い大きな手がのびて、窓が外に向かって開いた。
「アティナル?」
 囁くような若い男のかすれ声。
「入るわよ」
 アティナルは短く言うと、窓の縁に足をかけた。
 窓に面した大きなベッドの上に、靴をはいたままアティナルは倒れこんだ。
「痛たた」
 花をかばって、おでこをシーツにこすってしまったようだ。
「そんなところから入ってくるから」
 ベッドの上で、クッションにもたれかかるように座っている男は呆れたように言った。
 大きい手足、青白い顔色。切れ長な青い瞳に、金茶色の髪をしている。
 急いで起き上がったアティナルは、ぶつけたおでこをさすりながら答えた。
「だってぇ、近道だもの」
(それに、廊下から来たら、誰かに見とがめられちゃう)
「ベッドに乗っていたいなら、靴を脱いで。そうでないなら、足だけでも下ろしなさい」
 強い口調で言われて、アティナルは渋々と靴を脱いだ。
 靴をベッド脇に放り投げて、握っていた手を男の眼前に差し出す。
「はい。兄さまから見えないところに、お花が咲いてたのよ」
 兄のレクトルは、花を受け取りながらつぶやいた。
「…しおれてる」
「え?」
 アティナルはあわてて、レクトルの手元をのぞきこんだ。
 強く握りすぎていたのだろうか。花の茎がつぶれかかっている。
 アティナルはベッドから飛び降りた。靴もはかずに、うろうろと部屋の中を歩き回る。
「えっとぉ、花瓶、花瓶。それから、そう、お水も!」
 アティナルが呟くと、レクトルは口を開いた。
「水ならここの水差しの中にある。それから、花瓶は。ちょっと待って」
 ベッドに手をついて、レクトルはゆっくりと床に立ちあがった。
 アティナルは兄に駆け寄った。
「兄さま。休んでいてよ」
「大丈夫。今日はだいぶ気分がいいから」
 レクトルは首を回して、白い歯を見せて笑った。
 アティナルの四歳年上のレクトルは、五年前にかかった病気で無理のできない身体だ。いつもこの部屋、それもベッドの上で一日の大半をすごしている。独りの方が気楽だと言って、お付きの者も傍においていない。
「だめ。私がやるから」
 兄ををベッドに押し戻し、アティナルはきょろきょろと部屋を見回した。
 言われるまま壁際へ行き、棚をのぞきこむ。大きさも形も違う花瓶がいくつも並んでいた。
 四足動物のリャマとアルパカが金色で描かれた、白い陶器の花瓶を選ぶと、アティナルはベッドの傍へ運んだ。
 木製のテーブルに置き、ガラス製の水差しを持ち上げて、花瓶に注ぎ入れる。
「ところで、アティナル。今日の勉強はもう、済んだのか?」
 レクトルの言葉に、アティナルは思わず水差しの水をこぼしそうになった。
「えっと。その……」
 水差しをテーブルに置いて、アティナルは首を左右に振った。
「…やっぱりな」
 レクトルがうなずきながら言う。
 青い花を花瓶に入れると、アティナルは兄の横に座った。
「勉強なんて必要ないじゃない。だって、兄さまが王になるんだから」
 アティナルの言葉に、レクトルは首を左右に振った。
「私は王になれないよ。だから、大変だと思うけど、アティナル……」
「やだ! 病気は必ず治るよ。私は女王になんて、ぜったいならないんだから」
 アティナルは、力いっぱい叫んだ。
 山岳地方が国土の半分を占めるコロナデリスは、万年雪を抱く聖なる山「トナカテペク」を信仰していた。王位はトナカテペクから授けられるものであり、王位を継承するには、五日間かけて行う儀式が必要だ。侍医や周囲の者たちは口を揃えて、レクトルには登山も儀式も無理だと言う。
「でも、王になるかどうかに関係なく、教養は必要だろう?」
 兄の言葉に、アティナルは黙りこんだ。下を向いて、スカートについたレース飾りをもてあそぶ。
 レクトルは静かに言った。
「…違うかい?」
 アティナルは黙ったまま、首を左右に振った。
(兄さまの言うとおりだとは思うけど……)
「なんだか、不満げだなぁ」
「だってぇ!」
 アティナルは目を大きく見開いて、兄を見つめた。
「だって、わからないし、ちっとも頭に入らないんだもの」
 レクトルは苦笑して、枕元に積み重ねた本を探った。
「確か、アティナルでも楽しめそうな、地理の本があったと思ったけど……」
「ホントに? いつもの地理のお勉強なんて、ぜんっぜん面白くないよ」
 アティナルの言葉に笑いながら、レクトルはベッドの足元にある書棚へ腕を伸ばした。積み重ねた本を取り出しながら、目的の本を探していく。
 アティナルはベッドの縁に座りなおすと、頬づえをついて、目の前にずらりと並んだ背表紙を見つめた。
 難しそうな題名が並ぶ中、コンドルの描かれている背表紙が目にとまった。
「世界の不思議?」
 アティナルは立ち上がって、大判の本を手に取った。
 彩色された表紙には、泉の絵が描かれている。

 アティナルは、小首を傾げた。
中を開いてみると、大きな文字で書かれた文のほかに、表紙と同じタッチの挿絵が描いてある。
「へえぇ、これなら読みやすそう!」
 アティナルが大きな声で言うと、本探しに熱中していたレクトルが顔をあげた。
「え? それ、子供向けの絵本だよ」
 兄の言葉に、アティナルはムッとして言った。
「なによ。別にいいじゃない。兄さまこそ、この本があるってことは、子供向けのを読んでる証拠じゃないの!」
「いや。それは、だいぶ昔に……。まあ、アティナルが自分で読む気になったんだから、持っていっていいよ。読んでごらん」
 アティナルは本を抱えると、来たときと同じように中庭を通って戻っていった。

 部屋へ戻ったアティナルは、青いドレスを脱ぎ捨てた。
 エメラルドの首飾りも外して、ペチコートとキャミソール一枚の下着姿になる。
 靴も靴下も脱いで、ソファに身を沈めると、足をテーブルに投げ出した。
 膝の上に本を広げて、読みはじめる。
 軽くうねる金色の髪が一束、はらりと落ちて、アティナルの胸元を隠した。
 すぐに、アティナルは物語に没頭した。
 小さなノックが二回。
 白いレース襟のついた濃紺色の半そでワンピースに、生成り色のエプロン姿の侍女が、部屋の中に入ってきた。
 肩に届く長さの、サラサラのこげ茶色の髪。良く動く、黒目がちの大きな茶色の瞳。やや上向きの鼻には、うっすらとそばかすがある。
「まあぁ、姫様。熱心にご本を読むなんて、何かあったんですかぁ?」
 侍女はテーブルに飲み物を置くと、かがむようにして、アティナルの読んでいる本をのぞきこんだ。
「な、なによ。エレナ。のぞかないでよねっ」
 アティナルはあわてて本を閉じると、自分と同じ年齢のエレナを上目づかいでにらむ。
 エレナは大きな瞳を輝かせて、嬉しそうに言った。
「わあ。『世界の不思議』ですかぁ。知っていますよ、これぇ」
「え、ホントに?」
 アティナルが驚いて首をかしげると、エレナは微笑んで言った。
「えぇ。子供の頃に、よく読み聞かされましたもの」
「ふ〜ん」
 再び読みはじめようとすると、エレナが口を開いた。
「姫様ったら、そんなだらしない格好していたらダメですよお。これでも着てください」
いつの間に取り出したのか、エレナは濃紺色の部屋着を差し出した。
「やだ、それ。エレナのと同じ色じゃないの」
「色だけじゃないですよお。まったく同じデザインなんです」
 エレナは軽くかがんで、両手を広げてポーズをとった。
 それから、濃紺のスカートの裾をつかんで、その場でくるりと回って見せた。
 生成り色のエプロンが、紺の上でふわりとひるがえる。
「わかった、わかった。あんたの好きないつもの格好でしょ。でも、いつの間に、おそろいの服なんて作ってたのよ」
「姫様ったら、いっつも『動きやすい服がいい』って、おっしゃっていたじゃありませんかぁ。この服装って、とぉっても動きやすいんですよお」
「な…。何言ってんの! わたしがいつも言ってる、動きやすいってのは……」
 そのアティナルの言葉をさえぎって、エレナが言った。
「もちろん、姫様のは、最高級の手織り絹を使っていますから。ご心配なくぅ」
 アティナルはため息をついた。
 エレナののんびりとした喋り方を聞いていると、なんだか力が抜ける。
「はい。姫様!」
 エレナはニコニコと笑いながら、アティナルの頭の上から服をかぶせた。
「なに? いきなり!」
「はぁい。暴れないで、腕を伸ばしてぇ」
 エレナは声をかけながら、あっという間にアティナルに服を着せてしまった。
「はい。出来上がりですぅ。とっても良くお似合いですよ、姫様!」
 満足げな笑顔を浮かべているエレナを見て、アティナルは再びため息をついた。

〈雨の神は水晶でできた宮殿に住み、赤い斑点のあるピューマを臣下に従える。
 聖なる山に住むコンドルは、四枚の翼を持ち、霧を吐き、雹を降らせる。
 天の蛇にコカの葉とラマを捧げよ。その翼から雨を滴らせるであろう。〉

(「世界の不思議」っていうから、どんな内容かと思ったのに。子供の頃から聞かされている神話と変わりないじゃないの)
 アティナルは頬をくすぐる金茶色の髪をかきあげた。
(でも、絵はきれいねぇ)
 挿絵だけを追いながら、パラパラとページをめくっていく。
 アティナルは手を止めた。
 森の泉が描かれている横に、「神のかけら」と記してある。
「神のかけら?」
 アティナルは青緑色の目を大きく開いて、文章を見つめた。

〈世の中には、「神のかけら」と呼ばれるものが、幾つかあるという。
 それには、魔法のような不思議な力があり、使いこなすことができればどんな願いも叶うであろう。〉

 アティナルは、目を伏せてふっと息を吐きだした。
「こんなの、子供だましよね。…でも」
(もし、みつけることができれば、兄さまの病気だって治せる)
 描かれている泉は、「神のかけら」が眠る場所だという。
「決めた!」
 アティナルは本を閉じると、勢い良く立ちあがった。

 (続)    

TOP         Next