虹の冠  第27話(08.Oct.2002 UP)

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 息が詰まりそうなほど濃厚な緑の息吹。
 アティナルは身じろぎをすると、ゆっくりと目蓋を開けた。眩い光に、思わず両手で目を覆う。アティナルの動きにあわせてハンモックが揺れて、結わえた二本の柱がぎしぎしと鳴った。
 高床と草葺の屋根だけで出来ているモラド族の仮小屋は、風も光も素通りだ。柱も床板もまだ新しく、生木の匂いを放っている。
 アティナルは、レフィコが夕べ言っていたことを思い出した。
「この小屋を建てていた連中は、おそらく呪術師に率いられてどこかへ逃げたのだろう」
 モラド族は、氏族単位で森の中を移動し、狩をして暮らしている。狩場を移すたびに、新しい土地に仮小屋を建てて、数週間から数ヶ月の間暮らすのだ。
 アティナルはごくりと唾を飲みこんだ。
 妖術師の大男の話では、モラド族の聖なる泉で既に「神のかけら」が使われている。その上、モラド族の人々が逃げ出さなければならないほど、危険で大変なことが起こっている、とレフィコが言っていた。
 「彷徨う街」を出てから、今日で五日目。聖なる泉はすぐ近くだ。
 アティナルは身体を震わせると、自分に言い聞かせるように心の中で繰りかえした。
(大丈夫。怖くない。大丈夫)
 水の滴る小さな音に、アティナルは顔をしかめた。
(雨? そういえば、ずっと水の匂いがしていたような気がする)
 アティナルは顔を覆っていた両手を離して、外を見つめる。屋根の縁の草茎に真珠のように輝く今にも零れ落ちそうな雫が一つぶら下がっていた。
(やっぱり、また雨が降ったのね。屋根があって良かった)
 アティナルはほっとして、大きく息を吐いた。
 森へ入ってから、夜毎に雨が降っている。眠る前には星が見えていても、夜半をすぎると決まって雨が降り出すのだ。
「アティ様ぁ。夕べは良く眠れましたかぁ?」
 エレナはてきぱきとハンモック用の布を畳みながら、のんびりと言った。エレナは夕べ、アティナルの隣りにハンモックを吊るして眠っていたのだ。
「お早う。エレナ」
 アティナルはハンモックから身を乗り出すようにして、一気に床へ滑り降りた。
「あらぁ、そんなにあわてなくてもよろしいですのにぃ」
 エレナはそう言って、アティナルのまくれあがったスカートを引っぱり下ろした。
「おう、嬢ちゃん。夕べは虫が降ってこなかったか?」
 ラスカが笑いながら、からかうような調子で言った。
「虫!?」
(水と一緒に落ちてきて、ムニョって……)
 アティナルはぶるぶると頭を震わせた。
 モラド族の古い朽ちかけた仮小屋で眠った二日前の晩、雨漏りの雫と一緒にぽとりと落ちてきたのは、緑色の小さな芋虫だった。
「もう。嫌なこと思い出させないでよ。虫なんか、降ってこないわよ!」
 アティナルはラスカをにらんで叫んだ。
「だからさ、新しい小屋があって良かったよな」
 ラスカはぽりぽりと頭をかきながら言った。アティナルは首を傾げた。
「あれ? もしかして、ラスカも虫が嫌いなの?」
 アティナルは、ラスカの顔を上目遣いに見あげて訊く。
「まさか。嫌いなわけないだろ。平気だぜ、ほら」
 ラスカは顔をしかめて言うと、床にいた大きな蟻を手に乗せて見せた。アティナルは腰に手をあてると、顎を突き出すようにして言った。
「蟻くらいなら、私だって平気だもの。うねうねもくねくねもしてないし、ぬるぬるもぷよぷよもしてないもの」
 ラスカはハッとして急に真顔になると、ぶるぶると身震いをした。顔を蒼ざめさせて傍らのアルパを引き寄せると、ひっくり返して裏や底を確かめる。
 ほっとした表情を浮かべたラスカは、アルパをなで回してから傍らに置いた。
「うねうねに、ぷよぷよ……」
 アティナルは眉間にしわを寄せて、口を押さえた。
(言ってて、気持ち悪くなっちゃった)


 高い樹冠に遮られた森の中は、薄暗くひんやりとしていた。厚い苔に覆われた地面は、踏みしめるたびに水がにじみ出る。
 樹の幹には赤や紫色の葉のつる植物が絡みつき、樹の根元にはふりるのようにひらひらとした白い茸が顔を出していた。
 アティナルはきょろきょろと辺りを見回しながら、レフィコの後ろを歩いていった。
 木の葉の隙間から降り注ぐ光は、白い筋のように見える。突然現れた尾の長いオレンジ色の鳥は、鋭い鳴き声をあげながら光の筋をよぎった。
 アティナルは首を竦めて鳥の飛んでいったほうを見つめた。
「すごい鳴き声」
 アティナルが呟くと、レフィコがくるりと振り向いて口を開いた。
「また、使い鳥が現れた」
「え?」
 アティナルは目を大きく見開いて、レフィコを見つめた。
「我々に警告している」
 レフィコは鳥の飛び去ったほうを見つめながら、淡々と言った。
「また?」
 アティナルが首を傾げて訊くと、レフィコはちらりとアティナルを見つめた。山高帽の下から、淡い紫色の瞳が覗いている。
「最初は、この森へ足を踏み入れたときに現れた」
 レフィコはそこで言葉を切ると、油断なく辺りを見回しながら続けた。
「森へ入るなと告げていた」
 アティナルは眉を寄せて、レフィコと同じように辺りを見回した。
「ではぁ、泉はもうすぐですかぁ?」
 アティナルの後ろのエレナが、緊張感のかけらもない調子で訊く。
「もうそろそろ着くはずだ」
 レフィコは淡々と言って、前を向いた。
 やがて陽が高く昇り、森の中は蒸し暑くなってきた。
「やれやれ、今日も暑いなぁ」
 一番しんがりを歩くラスカが、額の汗をぬぐいながらぼやく。
 アティナルは黄色い縮れた茸に覆われた倒木を飛び越えると、二本に結ったおさげを振りながら後ろを向いた。
「雨が降ったら、涼しくなるわよ」
「勘弁してくれよ。雨ばかり降ったら、アルパが本当に腐っちまう」
 ラスカが頭をかきながら言う。さっと前を向いたアティナルは、おさげを跳ね上げて跳び退った。
「きゃっ」
「アティ様ぁ、大丈夫ですかぁ?」
 アティナルのすぐ後ろを歩いていたエレナが、素早くアティナルの背中を支えた。
「あ、あ、あれが、ぴょんって、跳んだの!」
 アティナルは茂ったシダの陰を指し示した。
「あらぁ、カエルですわねぇ」
 エレナがのんびりと言う。振り向いたレフィコが、鋭く言った。
「毒はない。気にするな」 
 ぬめぬめと光る黄色いカエルは、再び高く飛びあがると、藪の中へ入っていった。
 ぶら下がるつたを掻き分けて、細枝を踏む音を立てながら一行は進んでいった。アティナルは跳ね返る細枝に腕を打たれたり、苔に足を滑らせたりしながらも歩いていった。
 レフィコは急に立ち止まると、ぼそりと言った。
「妙だ」
「何が? 泉は見えた?」
 荒い息を吐きながら、アティナルが訊く。
「いや」
 レフィコは山高帽を軽く持ち上げて天を仰ぐと、言葉を続けた。
「精霊の声が聞こえない。それに……」
 レフィコはすっと腕を持ち上げて、前方を指し示した。
「あっ」
 アティナルは思わず息を呑んだ。
 苔の生えた樹木のしな垂れた枝の向こうに、高床の仮小屋が見えている。白木の床は射しこむ光を反射して眩く輝いていた。
「あらぁ? もしかしてぇ、夕べ泊まった小屋ですかぁ?」
 エレナが首を傾げて、ゆっくりと訊いた。
「なんだって? まさか!」
 ラスカは立ち止まっている三人を押しのけて、仮小屋へと駆け寄った。小屋の前に残っている調理用の焚き木痕を見つけると、うめき声を上げた。
「何てことだ。戻ってきちまったのか」
 三人はラスカに続いて、小屋へ近づいた。
「モラド族の仮小屋、ですねぇ」
 エレナが頷きながら言う。アティナルは眉を寄せて、レフィコに訊ねた。
「精霊の声が聞こえないって、どういうことなの?」
 レフィコは目を細めて、辺りを見回しながらぼそりと答えた。
「精霊の声は聞こえないが、精霊の力は満ちている」
「よ、妖術師かぁ?」
 ラスカは素っ頓狂な声をあげて、きょろきょろと周りを見回した。エレナはさりげなくアティナルの前へ回ると、用心深く辺りを見回した。
「いや。妖術師も呪術師もいない」
 レフィコが淡々と言う。
「精霊の声が聞こえないと、どうなっちゃうの?」
 アティナルは眉根を寄せて首を傾げながら訊く。レフィコは山高帽の縁を引き下げると、ぼそりと答えた。
「聖なる泉の場所がはっきりしない」
「困りましたわぁ」
 エレナがあまり困っていないような声でのんびりと言う。
「だが、大体の方角なら、判っている」
 レフィコはそう言って、再び先にたって歩き始めた。
 垂れる枝を潜り、倒木を飛び越えて、滑りやすい苔の道を進んでいく。先ほどとは打って変わって、一行は黙りこくったまま歩いていた。
 水溜りの横を歩いて、大きく葉を広げたシダの前を通って行く。
 レフィコはぴたりと立ち止まると、首をひねった。
「妙だな」
 荒い息を吐きながら、アティナルは訊いた。
「何が? 道が判らなくなったの?」
「いや」
 レフィコはちらりと横を見ると、山高帽の縁に手をかけながら口を開いた。
「また同じ場所に出てしまった」
「同じ場所?」
 辺りを見回したアティナルは、息を呑んだ。先ほど飛び越えたのと同じ、黄色い茸の生えた倒木が横たわっていた。
「あらぁ、ここにはぁ見覚えがあるような気がしますぅ」
 エレナが頷いて言う。
「またか」
 ラスカはがっくりと肩を落とした。
 どの方角を見ても、同じような藪ばかり。相当気を払わないと、自分たちの通ってきた痕跡でさえ見失ってしまいそうだ。
「もしかしたら……」
 レフィコは顔をあげて辺りを見回すと、ぼそりと続けた。
「いつのまにか『神のかけら』の影響下に入ってしまったのかもしれない」
「『神のかけら』の影響下!?」
 アティナルは声をひそめて繰りかえすと、森の中を振り仰いだ。
「どういうことだ? 今まで通ってきた森と、どこも変わりなく見えるぜ」
 ラスカは、見えないものを見ようとするように、周りを見回した。
 その時とつぜん、突風と共にどこか物悲しいこもったような大きな音が響いた。葉がこすれあって大きな音を立てて、服の間に入りこんで大きく膨らませ、髪の毛を乱して逆立てた。
「何の音ですぅ?」
 エレナは乱れた髪の間から用心深く辺りを見回して、腰の剣に手を伸ばした。
「あっ」
 アティナルはハッとして、顔をあげた。脳裏に、老呪術師の静かに微笑んでいる顔が思い浮かんだ。
 アティナルは、冷たい風に晒されながら温もりに包まれているような気持ちになって、弾んだ声で言った。
「あの、『ほら貝』の音よ!」
「ほら貝? 貝ってのはこんないい音を出すのか」
 ラスカが感心したように言う。レフィコは口の中でもごもごとなにやら唱えた。
 長く響いたほら貝の音色が終わると同時に風がぴたりと止んだ。
 周りに見えていた森の光景が、じわじわと歪みはじめた。樹木も地面も一緒くたになって混じりあい、濁った緑色の壁に変化する。
 アティナルたちは寄り添って、声も出せずに自分たちを取り巻く壁を凝視していた。
 緑の壁は、蝋が融けるように垂れ下がってゆっくりと崩れて地面に吸い込まれていく。
 やがて、壁の消えた後に、薄闇に包まれた森が現れた。
「いったい、どうなってんだ?」
 ラスカは乱れた髪をかきあげて、空を見上げた。
「夜になっちゃったみたい」
 アティナルは怖々と、辺りを見回した。
「我々を惑わせていた精霊は去った。ここは、誰かの見ている夢の中だ。まず、夢見主を探さなければならない」
 レフィコは淡々と言うと、先にたって歩きはじめた。

 (続)   

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