虹の冠  第30話(04.Nov.2002 UP)

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 アティナルはぺたりと地面に座りこんで、じっとレクトルの入っていった木々の間を見つめていた。
 転んだ拍子に擦りむいた、手の平と右膝がじくじくと痛い。なのに、アティナルは頭の芯が痺れたみたいにじーんとして、何も 考えられなかった。
 エレナは人形のように身じろぎ一つしないアティナルの手を掴んで、赤く血が滲んだ手の平に軟膏をたっぷりと塗りつけていく 。
「次は、これを貼っておくといい」
 レフィコは腰の袋から細長い木の葉を三枚取り出すと、軽く揉んでエレナへ手渡した。
「へぇ、薬草か。いつの間に採ったんだい?」
 ラスカが、覗きこむようにエレナの手元を見ながら訊いた。レフィコが淡々という。
「今朝だ。森の中には、様々な『力ある植物』が生えている」
「ずれないようにぃ、布で押さえておきましょうかぁ」
 エレナは布切れを取り出して、アティナルの手に巻きつけていった。右手を仕上げて、続いて左手に同じように軟膏を塗ってい く。
「さっきから気になってたんだが」
 ラスカはそう前置きをすると、頭をかきながら訊いた。
「なあ、さっき起き上がった男が、夢見主だったのか?」
「そうだ」
 レフィコが、なんでもないことのようにさらりと言う。
 アティナルはごくりと唾を飲みこんだ。
(兄さまが、夢見主? それじゃあ、さっき元気に歩いていたのは「神のかけら」の力なの?)
 エレナは左手も布を巻いて結ぶと、こんどはアティナルのクリーム色のスカートとレースのペチコートを膝までめくり上げた。
 露になった膝丈のドロワースのレース裾に、血がうっすらと染みている。
 エレナはドロワースの裾を折り返すと、赤紫色の膝に軟膏を塗りつけた。
(……兄さまは「世界の不思議」を子供の本だって言って馬鹿にしていたのに。どうして?)
 エレナは膝に布を巻きつけて結ぶと、アティナルの顔を覗きこむようにして言った。
「アティ様ぁ。これでぇ、おしまいですぅ」
「え?」
 アティナルは布の巻かれた自分の膝を見て、それから両手を見つめた。
(いつのまに、こんなにぐるぐる巻きにされていたのかしら)
 アティナルは眉を寄せて言った。
「ちょっと血が出ただけなのに、少し大げさだわ」
「そおですかぁあ?」
 エレナが小首を傾げて言う。
「きっちり巻いといたほうがいいだろ。きっと、もう一回転んでも大丈夫だぜ」
 ラスカが笑いながら言う。
「ほんとにそうよね」
 アティナルはがっちりと布の巻かれた両手を見て、甲高い声をあげて笑った。


 うっそうと茂った森の中は、まるで下から照らされているかのように明るい。
「アティ様ぁ。そこにぃ、木の根が出てますからぁ、気をつけてくださいぃ」  エレナはしょっちゅう振り返って、いちいちアティナルに注意しながら歩いていく。
「はい、はい。分かっているわよ」
 アティナルはうんざりしながら、右足を庇うようにして木の根をまたいだ。
 先頭のレフィコは、始終無言だ。後ろを振り返りもしないのに、時おり立ち止まってアティナルたちが近づくのを待っている。 まるで、後ろが見えているかのように。
「やっぱり、夢なんだよな」
 一番後ろを歩くラスカが、しみじみと呟いた。
「なにが?」
 アティナルはちらりとラスカを振り向いて、訊ねた。
「いや、だからさ」
 ラスカはぽりぽりと頭をかくと、続けた。
「さっき、青い水の中を歩いただろ?」
 アティナルは歩きながら、頷いて言った。
「ええ、歩いたわ」
「それなのにさ、全然足が濡れてないだろ?」
「足?」
 アティナルは思わず立ち止まって、自分の足を見つめた。
「そういえば、すっかり靴が乾いているわ」
「革は濡れて乾くと、普通ごわごわになっちまうだろ。だから、嬢ちゃんの靴は、最初から濡れてなかったんだよ」
 ラスカは頷きながら力説する。
「どういうことなの?」
 アティナルは眉を寄せて、ラスカを見あげた。
「俺はさ、皮が濡れて駄目になっちまうと思って、水に入る前に靴を脱いでおいたんだよ。だけど、気がついたときには、ちゃん と足に靴があった。履いた覚えもないのに、だぜ」
 ラスカは一気にまくし立てた。
 アティナルは自分のスカートを軽くつまんで持ち上げると、首を傾げた。
「そういえば、あんなに青い水だったのに、裾に色がついてないわ」
「な、そうだろ」
 ラスカが、まるで大きな秘密を見つけたかのように、青灰色の瞳を輝かせて言う。
「ええ、驚いたわ」
 アティナルはそう返事をしながら、眉を寄せた。
(どこまでが夢だったの? 水の中を歩いていた私と、今の私は同じ?)
「アティ様ぁ? お話ならぁ、歩きながらにしてくださいぃ」
 エレナがのんびりと言う。アティナルは歩きはじめながら、ぽつりと呟いた。
「ちっともわけが解らないわ」
 森の中を進んでいくにつれて、どこからともなく白い霧が流れてきた。
 道には厚く敷き詰めた絨毯のように柔らかな苔がびっしりと生えて、踏みしめるたびに水がじわっとにじみ出てくる。
(前にもこんな風に、霧の中を歩いたことがあるような気がする……)
 アティナルは歩きながら、きょろきょろと周りを見回した。
 霧で狭まった視界の中で、濡れたシダの葉が、やけにつやつやと光っている。
 不意に獣の匂いが鼻を刺した。乳白色の霧の中に、うっすらと白いものが見える。ゆっくりと動き回っているようだ。
「アルパカ!」
 アティナルは声をひそめて言った。エレナも頷いてアルパカを見つめた。
「まぁあ、本当にぃ、アルパカみたいですぅ」
 アルパカは、アティナルたちに気づかないのか、のんびりと草を食んでいる。
 ラスカは首をひねって、呟いた。
「森の中にアルパカ。どこかで聞いたことがあるような気がするなぁ」
 アティナルは頷いて、口を開きかけた。
「姫様ーー!!」
 とつぜん聞こえた大声に、アティナルは息を呑んだ。エレナもはっとして、立ち止まっている。
「姫様ーー!! どこへ行かれたのですか!」
 大声と共に、霧の中から人影が現れた。
 必死の形相を浮かべた、白髪頭の老人だ。血走った目は濁り、前だけを見つめている。
(……爺!)
 アティナルは思わずラスカの影に隠れた。恐る恐る顔だけを覗かせて、老人を見つめる。
「こっちに来るぜ」
 ラスカは小さく囁くと、アティナルと一緒に後ろへ下がって老人に道を空けた。
 老人は、枯れ木のようなやけに細長い腕を突き出し、今にも相手の腕をつかむばかりに指を広げている。
 ぐっと前へ突き出した、尖った顎。べったりと張り付いたような、白髪。骨ばった大きな顔を細い皺だらけの首が支えている。
 老人は張り付いたように同じ姿勢のまま、足だけを動かして一行の前を通り過ぎていく。
「お返事をしてくだされ。姫様!」
 大きな叫び声をあげながら、老人は霧の立ちこめる木立の間へ消えていった。
「アティナル様!」
 最後に響き渡った大声に、アティナルは思わず身体を竦ませた。
「なんだぁ、あれ」
 ラスカは顔をしかめると、言葉を続けた。
「あの格好からすると、どっかの金持ちの屋敷の執事だよな。立派な身なりしてるってぇのに、変なじいさんだぜ」
 アティナルはエレナを見つめた。血の気のない顔色で、エレナが呟く。
「どおなっているんですぅ?」
「まだ、夢の中だ」
 ぽつりとレフィコが言った。
「え?」
 アティナルは思わず、聞き返していた。
「また、どこかにいる夢見主を探さなければならない」
 レフィコは淡々と言う。アティナルはごくりと唾を飲んで、口を開いた。
「だって、夢見主は兄さま……」
 アティナルは慌てて口を押さえると、言い直した。
「……夢見主は、さっき起き上がった男だったんでしょう?」
 レフィコはちらりとアティナルを見つめると、さらりと言った。
「そうだ。だが、いま俺たちがいる夢にも、当然夢見主がいる」
「ええと、つまり、さっきとは別の夢の中にいるってことか」
 ラスカが頭をかきながら言う。
「そういうことだ」
 レフィコはそう言うと、くるりと前を向いて歩き出した。
「え? ちょっと待ってよ!」
 アティナルは大声で、レフィコを呼び止めた。レフィコは、ぴたりと立ち止まると、ゆっくりと振り向いた。
「夢見主って、一人じゃなかったの? それって、神のかけらを使った人が、何人もいるっていうこと?」
 アティナルが一気に訊くと、レフィコはため息をつくと、口を開いた。
「まず、一人が夢を見た」
 レフィコはそこで言葉を切ると、霧に濡れた苔を見つめながら淡々と続けた。
「その夢には、夢見主が強く希う人物が現れる。『神のかけら』が見せた夢が、夢見主の希う人物を忠実に夢の中に誘う」
(誘う……)
 レフィコは顔をあげて、アティナルを睨むように見つめた。薄紫色の瞳が、鋭く光を放っている。
 アティナルはレフィコの獣のような双眸に見つめられたまま、動けずにいた。
 レフィコは、おもむろに口を開いた。
「その誘われた人物が眠りにつくと、その者もまた夢見主となる。誘われた者が次々と夢見主になることで、その夢が連鎖してい く」
(それじゃあ、兄さまは誰かの夢に出て、誘われた……)
 アティナルはごくりと唾を飲みこんだ。
(一体誰が兄さまの夢を見たの?)

 (続)   

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