虹の冠  第34話(31.Aug.2003 UP)

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 甲高い咆哮が森中に響き渡る。
 アティナルは身体をこわばらせると、両手で自分の耳を塞いだ。
 森の奥へ真っ直ぐに続く小道には、何の姿も見えない。だが、咆え声が少しずつ迫っている。何かが確実に近づいてきている。
 エレナは小道の一番前で、いつでも抜けるように腰の両側に吊るした剣に手をかけて、前方を見据えている。
 アティナルの左横には、緊張した面持ちのラスカが、後ろには厳しい表情のレフィコがいる。
 アティナルはごくりと唾を飲みこんで、辺りを見回した。
 一行の立っている小道の両側には、うっそうと茂る森がどこまでも続いている。
 灰茶色の樹幹。絡まりあうツル植物。地面を覆いつくす緑色のシダ。赤や紫の毒々しい色の花や実。
 光の降り注ぐ小道と対照的に、森の奥は暗い。
 幾重にも重なり合う木の葉が光を遮り、僅かに空いた隙間から白い筋状の光が届くだけだ。
 地の底から聞こえてくるような、低い重い音が絶え間なく響いている。
 アティナルは森の奥に広がる黒々とした闇を見つめた。
(どこに隠れているの? 何の音なの?)
 じわり、と闇が滲んだ。
 アティナルは瞬きもできずに、目を見開いて闇を見つめていた。
 枝の折れる音と、藪を踏みしだく音が、すぐ近くで聞こえる。
 宝石のように輝く金色の双眸が闇の中を迫ってくる。
「アティ様ぁ。下がっていてくださいぃ」
 エレナがいつものようにのんびりと言いながら、アティナルの前へ躍り出た。
 森の中に降り注ぐ僅かな光に、獣の姿がちらちらと見える。
 尖った耳に狭い額。濡れたように光る大きな丸い顔。黒い毛皮に血痕を浴びたかのような深紅の斑点が散っている。
「なんだぁ、ありゃ。あんな獣、見たことないぜ」
 ラスカが上ずった声で言った。
 アティナルは獣に魅せられたように見つめたまま、呟いた。
「どこかで見たことがあるわ。これ、知ってる」
「何だ?」
 レフィコの鋭い声が、後ろから飛ぶ。
「え?」
 アティナルは首をひねって、後ろを向いた。
 高い金属音が、獣の咆え声にかき消される。
 アティナルははっとして、前を向いた。
 エレナの頭の上に、獣の大きな顔があった。耳まで裂けた大きな口に、剣の切っ先のような鋭い牙がずらりと並んでいる。
 エレナの剣が、牙を阻んでいた。
「あらぁあ、嫌ですわぁ」
 エレナはのんびりと言って、剣を引いた。
 獣はすぐに頭を低く下げると、エレナに向かって再び牙を突き出す。馬と同じくらい大きな身体なのに、素早い身のこなしだ。
 エレナは獣を引きつけておいてから、スカートを翻しながら軽やかに回転した。ふわりと白いペチコートが覗いて、牙ががちりと噛み合わさる音が響く。
 エレナは振り向き様に、剣で獣の横腹に切りつけた。皮が硬いのか、獣はかすり傷も負わずに、悠々と振り返る。
 獣のやけに大きな顔は、横から見ると鼻がつぶれたような扁平な形だ。
 地の底で鳴っているような低く響く音に、獣の咆哮が重なった。
(他にも何かいるの?)
 アティナルはきょろきょろと辺りを見回した。
「あの獣は何だ?」
 レフィコが大きな声で訊く。アティナルは後ろを向くと、首をかしげながら口を開いた。
「何か顔が変な気もするけど……ピューマよね。赤い斑点のあるピューマでしょう?」
「ピューマだって、そんな馬鹿な!」
 ラスカが呆れたように叫ぶ。アティナルは傍らのラスカに向き直ると、大声で言った。
「だって、見たことがあるの。伝説のピューマだから、赤い斑点なのよ」
「赤い斑点だって? ピューマに斑点があるのは、ガキのうちだけだぜ」
 ラスカは獣を見つめたままで言う。
「だって、それじゃあ、あれはまだ子供なの?」
 アティナルは首を曲げて、獣を見つめた。
 獣は馬のようなふさふさの尾を揺らして、エレナの横に回りこもうと動いている。
 エレナはくるりと振り向いて、剣を煌めかせながら獣の後ろ脚を打ちつけた。獣は金の瞳で、エレナの動きを追うと、再び牙を剥き出した。
「お前が見たというのは、本の挿絵か」
 ふいに、レフィコが言った。
 アティナルは目を大きく見開いて、レフィコの方を振り向いた。
「どうして、知っているの?」
 言ってしまってからアティナルは、レフィコも「世界の不思議」を読んだことを思い出した。
「言われて見れば、あの本に描かれたモノに似ているな。だが、こんなモノは、伝説のピューマでもただのピューマでもない」
 レフィコはそこで言葉を切ると、紫色の瞳でじっとアティナルを見据えながら、大声で続けた。
「こんな不自然な姿で素早く動けるはずがない。このままでは自然の中で生きて行けない、歪んだ哀れな存在だ」
(哀れな存在……)
 アティナルは息を呑んで、獣を見つめた。
 獣の姿が一回り縮んだように見えて、アティナルは目を瞬いた。
 剥き出しの牙にも、先ほどまでの鋭さが感じられない。
(どうなっているの?)
 獣はなおも牙を剥き出して、エレナに迫っていく。エレナは素早く横に回りこむと、小さくなった獣の首に向かって剣を振り下ろした。
「あっ」
 アティナルは思わず声を漏らした。
 獣は金の目を見開いたまま、牙を剥き出したまま、凍りついたように動きを止めている。
 エレナが剣を引くと、獣はゆっくりと傾いで横倒しに倒れた。
「あらぁ、どうなっているんでしょう?」
 エレナは引き抜いた剣を顔の前にかざした。剣には一滴の血もついておらず、鏡のようにエレナのこげ茶色の瞳が映っている。
 エレナは首を傾げながら、懐から布を取り出して剣を拭った。
「死んだの?」
 アティナルは倒れた獣を見つめながら訊いた。
 まだ、地の底から響くような地響きのような音が鳴っている。けれど、獣はぴくりとも動かない。
「えぇ。そうみたいですぅ」
 エレナがにこやかな笑顔で言う。
「なんだか、眠っているみたいよ。本当に死んでいるの?」
「ああ」
 レフィコはぼそりと言って、倒れている獣に近づいて行った。
 獣は金の瞳を見開いたまま、口を開けて牙を剥き出しにしたまま、横たわっている。
 先ほどまでは馬と同じくらい大きかったのに、今は羊ほどの大きさしかない。
 レフィコが首の傷を確かめるのを見て、アティナルは訊いた。
「どうして血が出ないの?」
「さあ。夢見主が血が出ないと思ったからだろう」
 レフィコが淡々と言う。
「え〜と……?」
 アティナルは眉を寄せて考えこんだ。レフィコは小さくため息をつくと、説明した。
「夢見主が『無敵だ』と思えば傷も与えられない。だが『傷ついた』と思えば傷つく」
 アティナルが首をひねっていると、レフィコは続けた。
「つまり、かすり傷でも、夢見主が『致命傷を負った』と思えば倒れるということだ」
 アティナルはぞくりとして、自分の肩を抱いた。
(何もかも夢見主の思うがまま……?)
「なあ。さっきから音が近づいて来てないか?」
 ラスカが不安げに辺りを見回しながら言った。
 絶え間なく聞こえる地響きのような音に、潅木の倒れる音が重なって響いている。
「えぇえ。そういえばぁ、さっきの獣と戦っている間もぉ、ずっと聞こえてましたぁ」
 エレナがゆっくりと言った。
「新手のようだな」
 レフィコが告げた途端に、空がかげった。
「何なの?」
 空を見あげたアティナルは、急に降り始めた雨に、あわてて顔を伏せた。
 強い雨が容赦なく一行に降り注ぐ。
 アティナルはエレナに手を引かれるまま、森の中に入った。
 大きな葉を茂らせている木の下で、一行は身体を寄せ合った。
 エレナは素早く荷物から布を取り出して、ずぶ濡れになったアティナルの頭を拭く。
「ひでえな」
 ラスカはアルパを庇うように胸に抱えた。
 雨がひっきりなしに木の葉を叩く。木の葉や枝を伝って水が滴り落ちてくる。
 先ほどまで居た小道は、激しい雨に塗りこめられている。
「これも、夢見主の仕業なの?」
 アティナルが顔を拭きながら訊く。レフィコはちらりとアティナルを見ると、答えずに空を見あげた。
 アティナルはつられたように、空を見あげた。次々と絶え間なく雨粒が降り注ぐ。
(何かあるの?)
 次第に雨足は弱まって、降り始めと同じように唐突に止んだ。
 重いものを引きずるような音と地響きに続いて、折れた枝が弧を描いて空を飛んだ。
 アティナルは思わず、枝が飛んできた方向を見つめた。森の中で、何かがゆっくりと動いているようだ。
「なんだ、ありゃあ!」
 ラスカが上ずった声で叫ぶ。
 アティナルは再び空を仰いだ。空がやけに明るい。何かがキラキラと輝いている。
 アティナルは目を細めた。
 輝いているのは、大きな四枚の翼。羽虫の羽のように半透明で、虹色に輝いている。
 翼に吊るされるように、白い大きなヘビの胴体が空に浮かんでいた。だらりと下がった尾は、地面に届いている。
 アティナルはごくりと喉を鳴らすと、呟いた。
「翼を持つヘビ……。伝説の『天の蛇』?」
「困りましたわぁ。ヘビはぁ、相手にしたことがないんですぅ」
 エレナは首を傾げると、少しも困っていないような調子で言った。

 (続)   

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