虹の冠  第35話(13.Sep.2003 UP)

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「おい、おい。あんなにでかい奴をどう相手にするって?」
 ラスカが頬を引きつらせながら言う。
 アティナルはぼんやりとラスカの台詞を聞きながら、魅入られたように空に浮かぶ蛇を見つめていた。
 震えるように翼が動くたびに、低い唸るような音が響き、軌跡に虹色の輝きが生まれる。
 皺の一つもない真っ白な体表に陽光が反射する様は、まるで大理石でできているかのようだ。
 蛇の顔は、目も鼻も口もなく、つるりとしている。銀色の塊を載せた頭を、ゆったりとした動きで左右に振って何かを探しているようだ。
〈……天の蛇にラマとコカを捧げよ。その翼から雨を滴らせるであろう〉
 アティナルは「世界の不思議」の一節を思い浮かべて、呟いた。
「さっきの雨は、きっと、あの『天の蛇』が降らせたのよ」
「あれが、『天の蛇』だというのか?」
 レフィコの声が鋭く響く。
 アティナは打たれたように身体を強張らせると、レフィコの方を向いた。
 レフィコの薄紫色の双眸が、射るようにアティナルを見ている。薄い唇が開いて、再び問いが発せられた。
「あんなモノが、『天の蛇』なのか?」
 アティナルはごくりと唾を飲みこむと、口を開いた。
「なんだか立派だし、翼が生えているもの。伝説の『天の蛇』なのでしょう?」
 レフィコは眉間にしわを寄せて、黙りこくっている。アティナルは不安になって、青緑色の瞳でラスカを見つめながら訊いた。
「ねえ、ラスカ。違うの?」
 ラスカは顎に手をかけて、首をひねりながら応じた。
「天の蛇か。このへんの土地に伝わってた話じゃないからなぁ。白い肌の人たちのほうが詳しいんじゃないか?」
「でも……」
 口を開きかけたアティナルを制して、レフィコが気難しい表情で言う。
「悠長に話している暇はないようだ」
「え?」
 アティナルは顔をあげた。
 いつの間にか、蛇は頭を地面すれすれまで近づけている。頭に載っているのは、鈍い銀色に輝く王冠。
 白い顔の表面に、切りつけたような赤い筋が走ると、ぱっくりと開いてルビーのような紅い眼がぎょろりと覗いた。
(私を見た!)
 アティナルは顔を手で覆うと、大声で叫んだ。
「きゃー!」
「まぁあ、アティ様ぁ!」
 エレナがのんびりと言いながら、素早く駆けつけて肩を抱いた。
「おい。こっちに来るぜ!」
 ラスカがあわてて叫ぶ。
「ついて来い」
 レフィコが先に立って、森の奥へ走り出した。
「おう」
 ラスカがすぐに続く。
 アティナルはエレナに手を引かれて走りながら、振り向いた。
 黒い影のように見える梢の向こうに、迫ってくる天の蛇の顔が見えた。ガラス球のような生気のない瞳が、やけにギラギラと光っていた。


 厚く積もった枯葉を踏むと、水がじわりと滲み出る。
 垂れ下がる枝や蔓は苔に覆われ、生い茂る草が脚を濡らす。


 アティナルたち一行は、薄暗い森の中を走っていた。
 レフィコを先頭にして、道のない森の中を、下草をかき分けながら進んでいく。
 走っても、走っても、天の蛇が追ってくる。
 潅木や枝の折れ飛ぶ音が聞こえる。蛇が重い胴体を引きずる地響きが、遠くなったり近くなったりしながら伝わってくる。
(どこまで走ればいいの?)
 アティナルは荒い息を吐きながら、後ろを向いた。
 空が暗い。
 何かが閃光を放った。
 アティナルは立ち止まって、眼を凝らした。
(あれは、天の蛇の翼……?)
 雨音が聞こえると思ったら、すぐに勢いが強まった。滝のような激しい雨音が森中に響き渡る。
(また、降らせているのね)
 やがて、雨音は聞こえなくなり、再び重い音が響き始めた。
「アティ様ぁ。大丈夫ですかぁ?」
 エレナの声に振り向くと、すぐ目の前に心配そうなこげ茶色の瞳があった。
「平気」
 アティナルは大きな声で言うと、湿っぽい苔を踏んで駆け出した。


 苔に溜まった水溜りを避けて、ひらひらの花びらみたいな茸を踏みしめて。
 大きく広がるシダの葉をかき分けて、朱色の穂状の花が咲いている横を駆け抜けて。


 やがて、一行は一本の細い獣道に入った。
 柔らかい苔の上を歩きながら、アティナルは首を傾げた。
(前に通ったことがあるような気がする……)
 ふと、獣臭さを感じて、アティナルは横を向いた。
 白い獣が十数頭、鼻を突き合わせるように集まっている。
(アルパカ……?)
 獣たちは、木々の間でじっと動かずに、アティナルたちを見送った。
 再び獣道から外れて、うっそうと茂った木々の間を潜り抜けて行く。
 やがて、先頭を行くレフィコが、ぴたりと立ち止まった。
 森がぽっかりと開けて、眩い光がさんさんと射しこんでいる。
 続いて立ち止まったラスカは、きょろきょろと辺りを見回しながら呟いた。
「すげぇな」
 アティナルは肩で息を吐きながら、倒木に座りこんだ。
 ずっと走り続けてきて、息が苦しい。すぐには立ち上がれそうにない。
 エレナは荷物から布を取り出すと、広げてアティナルを扇いだ。
 地面が幅広く左右に長くえぐれて、黒褐色の土があらわになっている。
 大人二人が横に並んで通れる位の溝だ。右も左も、大きく曲がりくねりながら、森の奥へと続いている。
(……道?)
 アティナルははっとして、身体を強ばらせた。
 折れた枝が幾つも転がっている。倒れた潅木が、浅く張った根をさらしている。
 落ちてひしゃげた果実が、濃紫色の果汁を滲ませている。中途で折れた幹が、涙のような樹液を流し続けている。
 アティナルは上体を屈めて、折れた小枝に手を伸ばした。
 泥だらけになった枝には、小さな葉が一枚だけ残っている。持ち上げると、むせ返るような青臭い樹の匂いが漂った。
(あの蛇は、翼のついているところだけが浮かんでいたわ)
 アティナルは顔をあげると、念を押すように訊いた。
「これをみんな、あの天の蛇がやったのね?」
 レフィコは溝を見つめたまま、そっけなく答えた。
「あの蛇が通った跡だ」
「この跡は、このまま残ってしまうの?」
 アティナルの問いに、レフィコは黙りこんだまま答えなかった。腕を組んで、遠くを見つめるような目つきで、立ち尽くしている。
 ラスカは、散った白い花びらをつまみあげながら、口を開いた。
「いつかまた、樹が生えて森に戻るさ」
「でも、でも……」
 アティナルは、握りこぶしをわなわなと震わせながら叫んだ。
「天の蛇はまだ暴れまわっているのに。逃げてばかりいたら、森がめちゃくちゃになっちゃうわ」
 レフィコが素早く振り向いた。一つに束ねた銀の髪が、煌めきながら弧を描く。
 アティナルは、振り向いたレフィコを見据えながら訊いた。
「どうにかできないの?」
「何をだ?」
 レフィコが眉をしかめて訊ねる。アティナルはじれったくなって、レフィコの前へ詰め寄りながら叫んだ。
「あの蛇よ!」
 エレナが小首を傾げて、口を開く。
「そぉですねぇ。尻尾を切ったくらいではぁ、ぜんぜん倒れそうにないですしぃ。頭は空に浮かんでますしぃ……」
 アティナルは、話し続けるエレナを無視してレフィコの前へ立った。ほぼ同じ背丈のレフィコを、睨むように真っ直ぐに見つめながら言う。
「ピューマのときみたいにはできないの?」
 レフィコはため息をつくと、訊ねた。
「奴の頭を見たか? 冠を載せていただろう」
 アティナルは、白いつるりとした蛇の頭を思い浮かべて口を開いた。
「確か、銀色の冠ね。そういえば、どうして冠を載せているのかしら」
 レフィコは、声をひそめて一息に言う。
「夢見主は、あれを最強の生き物だと信じている。冠はその証だ」
「それじゃあ、どうしたらいいの?」
 アティナルの問いに、レフィコは押し黙ったままだ。アティナルは居心地が悪くなって、重ねて訊いた。
「逃げるしかないの?」
 レフィコはアティナルから目を逸らすと、不機嫌に言う。
「逃げているつもりはない。夢見主の元へ行こうとしている」
「行こうとしている?」
 アティナルは首を傾げた。レフィコは溝を見つめて、口を開く。
「この跡を辿れば、夢の中心部へ近づく。だが……」
「わかったわ」
 アティナルは勢いよく言って、素早く溝に降り立った。溝の深さは、アティナルの膝まである。
「待て。危険だ」
 レフィコが珍しく、あわてたように言って手を伸ばす。近くで雨音が聞こえ始めた。
「また、あの蛇が近づいたのか。しつこいぜ、全く」
 ラスカがため息混じりにぼやく。
「どうしたの? 早く行かなきゃないのでしょう?」
 アティナルはレフィコの手を振り払って、首を傾げた。レフィコが声を荒げて言う。
「早く上がれ」
 雨音が強まって、轟音に変わった。
 レフィコは強引にアティナルの手を掴んで、思いっきり引っぱる。
「早く、アティ様ぁ」
 エレナがゆっくりと言いながら、素早くアティナルの身体を素早く引き上げた。
 アティナルがようやく溝から這い上がった時、泥水が勢い良く溝に押し寄せてきた。小枝や木の葉を巻きこんで、渦巻きながら流れていく。
「すげぇな」
 ラスカが頷きながら言う。アティナルは、放心したように泥水が左へと流れていくのを見つめた。
「あ、そうよ。この横を行けばいいのよ!」
 アティナルは大声で言うと、急に立ち上がった。レフィコが淡々と言う。
「駄目だ。もう、あの蛇が回りこんで行く手を塞いでいる」
 アティナルは顔をあげて、空を仰いだ。右方の森の上に、天の蛇がいる。翼を煌めかせて、激しい雨を降らせている。
 アティナルはやけになって、叫んだ。
「もう。どうすればいいのよ!」
「方法はある」
 レフィコの声が鋭く響いた。
 アティナルがはっとして顔をあげると、レフィコは薄紫色の双眸でアティナルを見据えながら続けた。
「ただし、非常に危険な方法だ」
 アティナルは、ごくりと唾を飲みこんで、口を開いた。
「危険でも、他に方法がないならやるしかないわ」
 レフィコは重々しく頷いて言う。
「では、あの帽子を被れ。きっとお前を守る」
「まぁあ。危険な方法ってぇ、アティ様が危険なんですかぁ!」
 エレナが悲鳴のような高い声で叫んだ。
 アティナルは黙って、荷物から毛糸の帽子を取り出した。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
 アティナルは帽子を目深に被ると、エレナに向かって微笑んだ。
「大丈夫よ、エレナ」
 ついで、アティナルはレフィコの方を向く。
「さあ、いいわよ。どうするの?」
 レフィコはじっとアティナルの瞳を見つめながら、静かに言った。

 (続)   

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