語り物師

 「とある町に、“語り物師”に憧れる一人の男の子イブン・ファドルがおりました。
 ファドルはいつも父親の目を盗んで喫茶所の戸口へ行き、漏れ聞こえてくる物語を聞いておりました。
 そこで語られているのは、かつての名君の業績から高名な詩人の幻想的な詩。近くの町で起きた事件から冒険譚や恋物語。
 ファドルは心を躍らせながら、いつか自分も“語り物師”になるのだと密かに決心していたのです」
 ハラルはそこで言葉を切って、落ち窪んだ黒い目で自分を取り囲んでいる人々を見回した。
 地べたに座りこんだ体格のいい大男に、立ったままの南方出の肌の黒い男、建物の壁に寄りかかって立っている腰の曲がった老人、水を売り歩く途中に立ち止まった若者、まだ十歳にも満たない子供が二人並んで座っている。
 後方に色鮮やかな刺繍入りの布で顔を隠した東方の装束の女性が三人。合わせて九人。
(初めてにしちゃあ、上々かもな)
 ハラルは薄い唇を歪めて笑いながら、再び口を開いた。
「ところが、このイブン・ファドルには、どうすれば“語り物師”になれるのか、少しも分かりませんでした」
 頭から足首まですっぽりと布で隠した女性が二人通りかかって、足を止めた。
 ハラルは痩せ細った腕を大げさに広げて、身にまとった鼠色の布をはためかせながら話し続けた。
「そこでファドルは、“語り物師”になることをひたすら夢見ながら、父親の営む小さな絨毯店の手伝いをするしかありませんでした」
 二人の女性はハラルへ背を向けると、歩みさった。それにつられたように、水売りの若者もくるりと背を向けた。
 ハラルは声を上ずらせながら、残った聴衆へ向けて語り続けた。
「やがて父が死に絨毯店を継いだファドルは、言い値で絨毯を買い付けた上に安く買い叩かれ、いつも損をしてばかりでした。
 店が上手くいかないことに腹を立てたファドルは、毎日のように喫茶所へ入り浸っておりました。
 そんなある日、朝早く絨毯を買いに来た中年女性がファドルをひと目見るなり『亡き夫にそっくり』だと言い、婚姻を迫ったのです。
 お金に困っていたファドルは渋々、自分の母親よりも年長の妻と一緒になりました」
「おい、声が小さくて聞こえねぇ。もっと大声で話せよ!」
 野太い声が飛んだ。
「そうだ。もっとはっきりと話せよ。何言ってるんだか分からないぞ」
 別の男が野次る。
(くそっ。腹が減ってて声が出ないんだよ)
 ハラルは男たちを見ないようにしながら声を張り上げた。
「絨毯店は寺院に近く、書物屋や香油店、製本屋や薬品店などに囲まれた奥まった場所にありました。けれど、賢い妻の経営で店は大変繁盛しておりました。
 しかし、妻にいちいち『亡き夫』と比べられて馬鹿にされ、喫茶所へ行くことも禁じられてしまったファドルは面白くありません。
 とうとう店の大金を持ち出して別の街へ行き、市場の中心地に近い小さな区画を手に入れたのです」
 ハラルがぼさぼさの黒髪をかきあげながら顔をあげると、いつの間にか三人の女性と大男が姿を消していた。残っている聴衆は、子供が二人と老人と南方の男、合わせて四人だけだ。
(あんな小さい子供がお金を持っているはず無いよな……)
 ハラルは対象を老人と南方の男に絞って、身振りを交えながら必死で話を続けた。
「なぜかファドルには、絨毯店をはじめることしか思いつきませんでした。
 他にやれることも無く、相変わらずどうすれば“語り物師”になれるのかが、分からなかったのです」
 南方の男はぽりぽりと頭を掻くと、これ見よがしに大あくびをした。
 ハラルは顔を赤らめて、早口で続けた。
「ファドルの手に入れた区画は、もっとも絨毯店にふさわしくないような場所でした。
 常に獣の匂いと生臭さい血の匂いが漂い、露天商の古い油の焦げ臭さい煙が立ち昇り、ロバの行き交う煩雑な通りに面していたのです。
 追って来た妻は、ファドルがしでかしたことを知って、あまりのことに嘆き悲しみ体調を崩してしまいました。
 店には客が来ないまま借金ばかりが増えていき、ファドルは喫茶所へ行く暇も無いまま市場の区画と全ての絨毯を手放すしかありません。
 体調が悪い妻を抱えて、ファドルは残った衣類や道具を売りながら細々と食料を手に入れておりました」
 ハラルがちらりと顔をあげると、南方の男が姿を消していた。おまけに、二人の子供たちは頭を寄せ合ってうとうとと眠っている。
(南方の男や子供には、少し話が難しすぎたかもな)
 ハラルは心の中で自分を慰めながら、やけになって続けた。
「医者に診せることも出来ないまま妻は天に召され、ファドルは遺体を包む白布を手に入れるのが精一杯。薔薇水をふりかけることも出来ませんでした。
 妻を亡くし、最後のファルス銅貨も使いきったファドルは、どうすれば“語り物師”になれるのかにやっと気づきました。
 “語り物師”になるには、元々何も必要なかったのです。ただ、人々へ向かって語れば良かったのです。
 こうしてファドルは、何もかも失った引き換えに“語り物師”になりました」
 ハラルは語り終えると、大きく息を吐き出した。額に滲んでいた汗を、汚れた袖口でぬぐう。
 じっとハラルを見つめていた老人が、呆れたように言った。
「なんだ、この話は。お前さんの身の上話じゃないのか?」
 ハラルは顔を強張らせて、老人を見た。
(まさか、俺のことを知っているのか?)
 ハラルの父親の名はファドル。ハラルは子供の頃、ファドルの息子であることを意味する名“イブン・ファドル”と呼ばれていたのだ。
(いいや、俺のことは誰にも伝わっていないはずだ。実際に親父の店があったのは隣の町だし、ここの町で俺が絨毯店を開いていたのはひと月にも満たない間だからな)
 ハラルはごくりと唾を飲みこんで、無理に笑顔を浮かべながら口を開いた。
「いえ……。私は“語り物師”のハラルです。今お話したのは、ファドルという男が“語り物師”になるまでの物語なのです」
 老人はあからさまに顔をしかめて、鋭く言う。
「結局、お前さんのことなのだろう?」
「いいえ。その……」
 ハラルが言いよどむと、老人は続けた。
「面白い話は無いのか?」
「あ、あの。美しい女の妖霊と結婚した男の話などいかがでしょうか?」
 ハラルがあわてて言うと、老人は馬鹿にしたように鼻を鳴らせた。
「そんなどこにでもあるような話ではなく、お前さんにしか出来ない面白い話はないのか?」
「あ、あの……」
 ハラルは口を開きかけて、黙りこんだ。
(子供の頃から繰り返し耳にした冒険譚や恋物語なら“語り物師”の口癖つきで再現することが出来る。だが、それをやっても、この老人にはよくある話としか思ってもらえないだろう)
「そんなことで“語り物師”としてやっていけるかね? よくある話にお決まりの語り方では、もっと声に魅力がないと無理だろうに……」
 老人はきつい一言を残して、立ち去って行った。
「爺め。これだから、年寄りは嫌いなんだ。若い奴らなら、どこにでもあるような話だって喜んで聞くさ」
 ハラルはぶつぶつと呟くと、足元に置いてあった素焼きの碗を拾いあげた。中は空っぽ。ファルス銅貨一枚入っちゃいない。
 眠りこんでいた子供の一人が目を覚ました。あどけないしぐさで目をこすりながら首を傾げて言う。
「あれ、お話おわったの?」
 ハラルは軽く微笑みながら応えた。
「そうだよ。ちょっと難しかったかな?」
(俺もはじめて聞いたときには、眠りこんじまったっけな……)
 子供は黒い目をパッチリと見開いて、首を振りながら言う。
「うううん。そんなことなかった。だって、男の人が、“語り物師”になろうとするお話でしょ?」
 ハラルはまじまじと子供を見つめながら訊いた。
「なんだ。すっかり眠っていたと思ったのに、聞いていたのかい?」
「うううん。先がどうなるのか気づいたら、きゅうにねむくなったの」
 子供は笑顔で言う。ハラルは空の碗を持ったまま蒼ざめた。
(こんな子供に、先の展開が読めるようじゃ駄目じゃないか……)
「それでねぇ、その男の人、“語り物師”になったあとでどうなったの?」
 子供は瞳をきらきらと輝かせて訊く。ハラルは目を伏せて口を開いた。
「続きは……そうだね。“語り物師”としても失敗して、どこかで一人寂しく野垂れ死んだのかな」
 口に出した途端に、ハラルは肩を震わせた。いつか本当に、自分がその通りになるような気がした。
「そうなんだ」
 子供は興味なさそうに言うと、隣の子を揺り起こした。
 長い黒髪がさらさらと華奢な肩を滑る。子供は整った顔をあげて、ゆっくりと目蓋を開いた。睫毛に縁取られた形のいい目に、沙漠を照らす月光のような淡い青の瞳。
 子供は青い瞳でじっとハラルを見つめながら、訊いた。
「最初の方で言ってたけど、業績ってどういう意味?」
 ハラルは首をひねって唸り声をあげた。
「う〜ん……」
 ハラルがどう答えようか悩んでいると、子供はくるりと後ろを向いた。もう一人と肩を並べて立ち去る。
 ハラルは空の碗を脇に挟むと、深くため息をついた。
「おーい。“語り物師”!」
 遠くから大声で呼ばれて、ハラルは首を竦めた。
(俺のことか?)
 通りの先から体格のいい男が二人、ハラルのほうへ近づいてくる。一人は、先ほど聴衆の中にいた大男、もう一人は派手な刺繍の外衣を纏った背の高い中年の男だ。
(声が聞こえないだなんて文句を言っておいて、何の用だ?)
 ハラルは近づいてきた中年男を見て、息を呑んだ。
(あいつは……)
 浅黒い顔に太い眉、つりあがった細い目、薄い唇に浮かべた残忍な笑み。
(忘れもしない。絨毯店を出すのに金貨十枚もの登録料を要求した市場監督官だ)
 近づいてきた市場監督官は、杖を握る右手をすっと前へ出してハラルの前の地面を突いた。杖には、市場監督官であることを示す装飾文字が刻まれている。
 市場監督官は腹を突き出すようにして胸を反らすと、ハラルを見下ろしながら口を開いた。
「お前が“語り物師”か。名はなんと言う? 登録は済んでいるのか?」
(くそっ。余計なことを)
 ハラルは顔をしかめて市場監督官をつれてきた大男を睨んだ。大男はあわてたように、邪視避けのしぐさをはじめる。
 ハラルはぼそりと名前を答えた。市場監督官は首をひねって断言する。
「聞いたことがない名だ。未登録だな?」
(たった二月前のことだってのに、こいつは俺の名前を覚えてないのか)
 ハラルが黙っていると、市場監督官は声を強めて言った。
「登録料は二十五ファルス。未登録で仕事をしていた分は五十ファルスだ」
「未登録で仕事などしておりません!」
 ハラルはそう叫ぶと、脇に抱えていた碗を差し出しながら続ける。
「これを見てください。私の話には誰もお金を払いません。ついさっき“語り物師”としてはじめたばかりで、私はまだ見習いみたいなものなのです」
 ハラルの目にじわりと涙が滲んだ。
 市場監督官は空の碗を覗きこむと、ハラルを胡散臭そうに細い目で見つめる。
「そういや、やけに下手くそなだったな」
 大男がぼそりと言った。市場監督官は大男に鋭い一瞥をくれると、ハラルにずいっと顔を近づけて言う。
「ならば、これまでの分は見逃してやろう。だが、登録料は払わねばならんぞ」
 ハラルはじりじりと後ろへ下がりながら応えた。
「いえ。向いていないことが分かりましたので、“語り物師”になるのはやめようと思います」
 市場監督官の眉が、ぴくりと動いた。
「ならば、未登録なのに“語り物師”と名乗った分、五十ファルスを払うのだな?」
 ハラルは更に後ろへ下がりながら口を開く。
「払いたいのですが、私はファルス銅貨の一枚も持っておりませんの……」
 風を切る音と共に、ハラルは腰を強く打ち付けられた。うめき声を上げながら、地べたへ倒れこむ。
 土ぼこりが舞い上がって、ハラルは涙を流しながらむせこんだ。
 市場監督官は、無言のまま容赦なく杖で打ちつける。
「どうか……どうか、……お許しを」
 ハラルは身体を丸めて、背中や肩を打たれながら涙声で懇願した。
「……本当に……一枚の銅貨も持っていないのです」
 市場監督官は振り上げた杖を持ち替えて、ハラルの耳すれすれに杖を下ろして地面を突いた。
「こいつを調べろ」
 大男は市場監督官に命じられるまま、ハラルの横に屈みこんで身体をまさぐった。ハラルの腰帯に挟んである革財布を引き出して、中身を覗きこむ。
「何も入ってやがらない。……こいつ、本当に何も持ってないみてぇだ」
 大男はそう言って、空の財布を放り投げた。
「金のない奴は市場に入る資格はない。引きずり出しておけ」
 市場監督官が声高に言う。
 大男はハラルの片腕をつかんで引っぱりあげ、ハラルを立ち上がらせた。
「誰が立たせろと言った?」
 杖が唸り音をあげて、大男の腕を打った。
「ぃてぇ!」
 大男は大げさに叫びながら手を離し、ハラルはよろけて地面に転がる。
「引きずり出せと言ったはずだが?」
 市場監督官が杖を振り上げて、不機嫌に言った。
「は、はい」
 大男はハラルの腕を持つと、ずるずると引きずった。ハラルの纏った灰色の布がめくれ上がり、土ぼこりがもうもうと立ち上る。
「そのまま城壁外へ捨てておけ」
 市場監督官は最後にそう命じて、二人に背中を向けて立ち去った。

 黒々とそびえる城壁の上に、糸のように細い月が浮かび荒涼と広がる大地を蒼く照らしていた。
 砂まじりの冷たい夜風が城壁に吹き付け、寂しげな音を立てる。
(……寒い)
 薄闇の中、城門のすぐ脇に転がっている灰色の塊がもぞもぞと動いた。
(いてっ)
 灰色の塊の下からハラルの砂まみれの頭が、棒切れのような腕と脚が飛び出す。
(なんだって、こんなにあちこちが痛いんだ?)
 ハラルは地面に手足を投げ出したまま、目を開けた。ハラルの目に、濃紺の空に浮かぶ月と星が映る。
(もう、夜か……)
 ハラルは痛む腕を伸ばして、かつて服だった灰色のぼろ布を引っぱりあげた。と同時に、昼に何があったのかをぼんやりと思い出す。
(くそっ。あいつめ!)
 ハラルはわなわなと肩を震わせて、地べたに爪を立てた。怒りと同時に、あのときの惨めな気持ちが蘇る。
(なんでいつも、俺ばかりがこんな目に遭う?)
 ハラルは血と砂で汚れた手で、髪の毛をかき回した。
(……このまま横になっていても、死ぬだけだ)
 ハラルは深くため息をつくと、ゆっくりと上体を起こした。ずきずきと痛む背中に手を当てて、顔をしかめながら城門を睨むように見つめる。
(あの中へ入れば、喉を潤すことが出来る。だが、その後どうする? もし、これが“語り物師”の物語なら、行き先は決まっているんだがな)
 ハラルは目を細めて、僅かな草が生えるだけの乾いた地面を見つめながらお決まりの物語を思い浮かべた。
〈街で酷い目に遭わされた男は、死を覚悟して砂原へ踏み入る。そこで砂の民に奇跡的に助けられ、砂原の荒々しい自然の中で逞しく成長し、自分を酷い目に遭わせた男たちに復讐するために街へ舞い戻る〉
「だが、現実はどうだ? 俺を助けてくれる人が、この荒地の先に広がる砂原にいるってのか?」
 ハラルはそう言うと、ため息をついた。口を歪めて笑いながら、自嘲気味に続ける。
「或いは……。男は何もかも捨てて砂原へ行き、月に見守られて最後の眠りにつく。やがて、男は砂原を駆ける風の一つになる」
(偉業を成し遂げた男なら、それも悪くないだろう。男の一生は永く語り継がれるのだから。だが、俺には、成し遂げた偉業も、語り継がれるような珍しい話も何もない)
 ハラルはうな垂れると、城壁に沿って歩き出した。低木と草の続く荒地を抜けて、砂礫だらけの地面を踏みしめていく。
 やがて、ハラルの前方に墓地が現れた。
 盛り土の上に平らな墓石を載せただけの簡素な墓がいくつも並んでいる。中には、土を盛っただけの墓もある。
 聖廟もないこの墓地には、昼間でも訪れる参拝者はいない。真夜中の墓地に、ハラルの他の人影はなかった。
 ハラルはちらりと城壁を見上げると、ごくりと唾を飲みこんだ。
(大丈夫。誰も見ているはずがない)
 ハラルは足をもつれさせながら、手近な一つの墓に駆け寄った。膝をついて、顔を真っ赤にしながら墓石を横へずらしていく。
 やっとのことで墓石を動かすと、手で土を掘り始めた。
 掘っても掘っても、さらさらに戻った砂が穴へ流れこんで一向に深くならない。やがてハラルの指先は爪が剥がれかけて血が滲み、じくじくと痛んだ。
「そんな古い墓を掘っても無駄だぞ」
 薄闇の中で、甲高い子供のような声が凛と響き渡った。
(誰だ?)
 ハラルはびくりと肩を震わせると、凍りついたように手を止めた。息を潜めて、薄闇の中を窺う。
「もう、そこには骨の一本も残っていないぞ。こっちの新しい墓にしておけ」
 ハラルの後方で、誰かが無邪気な声で言う。ハラルは恐る恐る振り向いた。
 整った顔をした十歳くらいの少年が、墓石の上へ腰かけていた。
 広い額に大きな灰色の瞳。すっと通った鼻筋に、ふっくらとした口元。光沢のある白い服を着て、青い腰帯に金色に輝く短剣を挿している。
「……こ、子供」
 ハラルはかすれ声で呟いた。
「なんだ。お前、いつもの奴じゃないのか」
 少年は別段驚いた様子も見せずに、淡々と言う。
「いつもの奴?」
 ハラルは顔をしかめた。
(こんな子供と組んで、墓暴きをしている奴でもいるのか?)
「まあ、かまわないさ。別にそいつと約束してたわけじゃないからな」
 少年は甲高い声に似合わない大人びた口調で言うと、すっと腕を上げて傍らの墓を指し示しながら続けた。
「ほら。この下なら新鮮さ。何せ、ここの墓の中で一番新しいからな」
 ハラルは少年の示した、盛り土の上へ丸い小石を載せた墓を見て息を呑んだ。
(……シャイラの墓だ)
 ハラルは妻の眠る墓の上へ載せる石が買えずに、拾った丸い小石を載せておいたのだ。
「まあ、新鮮とは言っても婆さんだからな。骨と皮だけかもしれないが、他よりマシだろうよ」
 少年は身体を曲げて笑いながら言う。ハラルは顔をしかめて少年を睨んだ。
「なぜ、そんなことを知っている?」
「たまたま見ていただけさ」
 少年はさらりと言うと、ハラルを見ながら続けた。
「ほら。せっかく教えてやったんだから、早く掘れば?」
 ハラルは顔を自嘲気味に口を歪めて言った。
「こんな貧乏人の墓じゃだめだ。せめて上に石が載っているような墓じゃなければ、埋葬品が入っていないからね」
 少年は首をひねって呟く。
「埋葬品……? それは何だ?」
 ハラルは顔をしかめて、まじまじと少年を見つめた。
(何を言っているんだ、こいつは)
 少年はじっとハラルを見ながら言う。
「変な奴だな、お前は。埋葬品なんてものを集める喰人鬼なんて、聞いたことがないぞ」
「喰人鬼!」
 ハラルはひっくり返った声で叫んでから、あわてて自分の口を手で押さえた。
(墓を暴いて死肉を喰らう……)
「ああ。ほら、お前の仲間が来たぞ」
 少年はにやにやと笑いながら、砂原の方を指差した。
 薄闇に包まれた砂原で、ぼんやりとした灰色の影のようなものが揺らめいている。次第に近づいて来るようにも、一箇所に留まって揺れているだけのようにも見える。
(あれが喰人鬼……?)
 ハラルはごくりと唾を飲みこんで、少年を見つめた。
(こいつ、人じゃないのか?)
 少年はハラルの視線に気づくと、嬉しそうに笑って口を開く。
「さあ、どうする? あいつに食われる前に、そこの新鮮な肉を食っておけよ」
 少年は再び、シャイラの墓を示した。ハラルは蒼ざめて、じりじりと後ろへ下がりながら口を開いた。
「あ、あの。……あなたは、食べないのですか?」
 少年は目を細めて、鼻を鳴らせてせせら笑った。
「この私が、死肉なんぞを喰うだと?」
 少年は立ち上がると、ハラルの鼻先に細い指を突きつけながら脅すように続ける。
「お前のような卑しい輩と一緒にするな」
「で、では、あなたは……?」
「わからないのか?」
 少年はにやりと笑って、束ねた黒髪を翻しながら飛び上がった。月明かりを受けて、少年の瞳が淡い青色の宝石のように輝く。
 ふっと少年の姿が掻き消えて、代わりに青白い炎が現れた。宙に浮かんだまま、めらめらと炎を揺らして燃え盛る。
 ハラルは炎を見つめたまま、震え声で呟いた。
「青い炎……。まさか、“煙なき炎より創られし者”――妖霊」
 普段は人の眼に映らずに空を駆けている妖霊は、あらゆる姿に変身し、気紛れにいたるところに現れる。強い力と不思議な力を操って、人を惑わせ悪さをする。
 妖霊は人と同じように喜怒哀楽を持ち、「人と同じ位の知力がある」とも、「知力は人より劣る」とも云う。
(俺を喰人鬼と間違うなんて、やはり知力はあまりないのだな)
 青い炎が風に煽られたように大きく揺らぎ、一瞬の後にはそこに涼しい顔をした少年の姿があった。
「我らをそんな風に呼ぶとは、お前は“土で創られし”卑しき者のようだな」
 少年の姿をした妖霊がにやにやと笑いながら続ける。
「お前は人の中でも、男か。ならば、こういう姿で現れたほうが良かったかな?」
 妖霊は再び青白い炎の固まりに戻ると、一瞬の後に薄絹を纏った美しい女の姿に変わっていた。
 薄桃色のベールの下、背中まで垂らした黒髪が艶やかに輝く。透けるような白い肌に薔薇色の唇。長いまつげに縁取られた、潤んだような青い瞳でハラルを見つめている。
 ハラルはごくりと唾を呑みこんだ。
 きらきらと輝く白い布越しに、均整の取れた肢体がうっすらと浮かび上がっている。
「ふふふ。やっぱり、こういう姿のほうがお好みみたいだねぇ」
 妖霊は甘く柔らかな声で言いながら、白いほっそりとした手で優雅に髪をかきあげた。黒髪に隠れていた胸元が露になる。
 華奢な首と肩。大きく開いた襟ぐりから、柔らかそうなふっくらとした胸が覗いている。
 ハラルは頭の芯がしびれたようになって、何も考えられずにひたすら妖霊の姿を見つめ続けた。


 しばらくして、妖霊はすっと腕を上げて砂原を指し示しながら口を開いた。
「ほら、もう喰人鬼が来た。死肉もいいけれど、新鮮な肉の味を教えてやるのもいいかもしれないねぇ」
 ハラルは夢見ごこちのまま美しい妖霊の示す砂原を見つめた。
 月に照らされて輝く砂原に、灰色のぼろ布を頭から被った者がゆらりと立っていた。布の下から突き出した四肢は異様に長くやせこけている。
 風に吹かれたようにぼろ布がめくれ上がり、ぎらぎらと光る紅い大きな目が二つ射るようにハラルを見た。
(……喰人鬼!)
 ハラルは急に我に返って、その場にへなへなと座りこんだ。すぐにでも逃げ出したいのに、足がすくんで動かない。
(……どうすればいいんだ。俺は、あの喰人鬼に喰われてしまうのか)
「さあ、どうする? 黙って大人しく喰われてみる?」
 妖霊がくすくすと笑いながら訊く。ハラルはなるべく美しい妖霊の姿を見ないようにしながら、必死で“語り物師”の話を思い浮かべた。
(喰人鬼の話は……だめだ。たいてい、悪い奴が喰われてしまって終わりだ。妖霊の出てくる話ならいくらでもあるってのに……)
 ハラルは目を大きく見開いて、妖霊を見つめた。
(そうだ。語りの中には、上手いこと言って妖霊に願いを叶えさせる英雄がよく出てくるものだ)
「ふふふ。覚悟が出来たの?」
 妖霊が嬉しそうに笑いながら言う。ハラルは“語り物師”の口調を思い浮かべながら言った。
「気高きあなた様にとって、卑しき私めの願い事を叶えることなどたやすいことでしょう」
「ふん。そんな上手いことを言ったって、お前の願いなど叶えてやる気はないね」
「ええ、それはもちろんでございましょう。ただただ、愚かな私めには判断がつきませんので、確認しておる次第です」
 ハラルはそこで言葉を切ると、身振りを交えながら続けた。
「一つお訊ねしたいのですが、願いを叶えるだけなら力あるあなた様はもちろん、どんな妖霊にもできることなのでしょうね?」
「私を誰と思っている? 他の妖霊なら幻影でごまかすようなことも、私なら本物にすることができるのだぞ」
 妖霊はそう言いながら、女の姿から漆黒の子馬に変わった。
 ハラルは驚きを隠しながら応じた。
「やはり、あなた様は私が思った通りの御方です。折角ですから『新鮮な肉を喰人鬼へ与える』などという、どんな妖霊にも簡単にできるようなことではなく、力ある妖霊であるあなた様にしかできないことをしてみてはいかがでしょう?」
「何をやらせるつもりだ?」
「いえ。難しいことではないのです。単に言葉を使った遊戯です。もちろん、遊戯などしても到底あなた様に敵うはずはありませんが、劣る者の馬鹿な挑戦としてお笑いください」
「遊戯だと?」
 妖霊は馬の姿から再び蒼白い炎の姿となった。
 ハラルの視界に、死肉を求めて墓場を彷徨い歩く喰人鬼の姿が入った。喰人鬼の纏う衣が、灰色から紫色へとちらちらと移り変わる。
(急がなければ)
 ハラルは早口になって続けた。
「はい。人という生き物は、絶えず何かしら言葉を口せずにはいられないものなのです。そこでもし、口にした言葉が本当にその通りになるとしたら、街の中にはどんな混乱が起こりますやら」
 妖霊は炎から最初の少年の姿に戻り、気難しい顔で腕を組みながら言う。
「結局、願い事を叶えろということか?」
 ハラルはあわてて言った。
「いいえ。もちろん、私めは無知な頭を絞って、何とか自分の望みのことを口にできるように勤めることでしょう。ですが、きっと余計なことや恐ろしいことを口走ってしまうに違いありません」
「だが……」
 妖霊はじろりとハラルを見て、口を開く。
「お前は“語り物師”だろう? 言葉を紡ぐということに関して“語り物師”が失敗するとは思えぬな。簡単すぎる」
 言い終えて妖霊が首をひねった。と、灰色の瞳に月明かりが当たって淡い青色に輝いた。
(なぜ知っている? 市場のどこかにいたのか……?)
 ハラルはまじまじと少年の姿の妖霊を見つめた。
「あ!」
(聴衆の中に、青い瞳の子供がいた)
「そういえば、“語り物師”として失敗して、どこかで野垂れ死ぬんだったか」
 妖霊はそう言って、声をあげて笑った。
(くそっ。最初から俺が人だと判っていて話しかけてきたのか)
 背後から漂ってくる腐臭に、ハラルは思わず飛び退いた。間一髪、ずらりと並んだ鋭い歯が、ハラルの目の前で鋭い音を立てて噛み合わさった。
 喰人鬼は、ぬめぬめと光る紅い目玉をぐるりと一回転させると、再びぱっくりと口を開いた。剣のように尖った歯がぎらりと輝き、酸っぱいような、卵の腐ったような強烈な臭いが吹きかかる。
(……喰われる!)
 ハラルは目を瞑りながら、早口で叫んだ。
「難しくするなら反対にすればいい。喋った言葉の反対を叶えることにすれば、願い通りの言葉を言うのが酷く難しいじゃないか!」
 臭い息が顔に当たる。ハラルは頬を引きつらせながら、終わりのときを待った。
(どうか、痛みを感じずに死ねますように。どうか、あまり痛くありませんように……)
 喰人鬼の歯ががちがちと金属の打ち合わさるような音を立てて鳴っている。音のするたびに、むかむかするような酸っぱいような臭いが顔に吹き付けられる。が、予想していたような痛みが襲ってこない。
 ハラルはゆっくりと目を開いた。
 妖霊のすっと伸ばした手が、口を半開きにしたままの喰人鬼を制していた。妖霊が喰人鬼の耳元で何事か囁くと、喰人鬼はぼろ布を翻して後ろを向き、砂原へ向かって帰っていく。
「お前の案が気に入ったぞ。明日の日の出から三回だけ、お前の口にした言葉の反対を本物にすることとしよう」
 妖霊の言葉にハラルは目を輝かせた。
(やった。危機をうまく切り抜けたぞ。後は……回数だ)
 ハラルはごくりと唾を飲みこむと、震え声で言う。
「ありがとうございます。ですが、三回だけ願いを叶えるというのは、“語り物師”の話に良く出てくる妖霊と同じですね」
 妖霊は顔をしかめると、じろりとハラルを睨んだ。
「私が、その辺の妖霊と同じだと?」
「いいえ。あなた様は他の妖霊とは違って、力あるお方ですから。十回くらいたやすいでありましょう?」
「多すぎるな。五回だ」
「いえいえ。多いほうが失敗したり間違える可能性が増えて、あなた様を楽しませることでしょう」
 ハラルの言葉に、妖霊は腕を組んで首をひねる。
「十回が多すぎるのなら、八回でもいいのです」
 ハラルが必死になって言うと、妖霊は顔をあげて口を開いた。
「数はそれでいいが、私は待つことが嫌いだ。八回言ってなくとも、期限は明日の日没までとする。夜になったら、喰人鬼が再び腹を空かせて訪れるだろうから、お前を喰わせるとしよう」
「喰われるのですか……?」
 ハラルが目を見開いて訊くと、妖霊はにやりと笑って言った。
「八回に増やしてやったのだから、喰人鬼から逃れられる言葉でも言ってみるがいい」

   晴れ渡った空の下、夜明けの祈り声が辺りに響き渡った。やがて、静かな余韻を残して消える。
 城壁の作り出す影の中に、ハラルは横たわっていた。
 すぐ横の城門を、次々と荷物を抱えた人々が通り過ぎる。みな、夜通し砂原を渡ってきた旅人や砂の民だ。
 荷物を背負った騾馬がいななき、駱駝が鼻を鳴らせて城門を潜る。街はにわかに活気付いて、賑やかな声が聞こえ始めた。
 ハラルはゆっくりと目を覚ますと、痛む身体を起こした。
(ここは……どこだ? 俺は何をしていたんだ?)
 身体のあちこちに痣ができており、喉はからからで痛いほどだ。ハラルはすぐに、昨日のことを思い出した。
(市場で“語り物師”の真似事をしてあの市場監督官の奴に打たれ、墓場へ行って……)
 ハラルはきょろきょろと辺りを見回した。昨夜の妖霊らしき姿はどこにも見えない。
(あれは、本当のことだったのだろうか?)
 ハラルは自信がもてずに、ぽりぽりと頭をかいた。
(あの妖霊も、喰人鬼も、全て夢だったんじゃないだろうか?)
 ハラルはごくりと唾を飲みこむと、雲ひとつ無い空を恨めしそうに見上げた。
(ああ、喉が渇いた。水気たっぷりの果実でもあればなぁ……。そうだ、夢かどうか知るには何か言えばいいわけだ)
「果実があ……」
 ハラルは途中まで言いかけて、はっとした。
(そうだ、反対のことを言うのだった)
「……一つもない」
 そう言った途端に、ぽとりと丸いものがハラルの足元に転がった。片手で掴める大きさで、表面がでこぼことした緑色の果実だ。
 ハラルは思わず、上を見上げた。真っ青な空が広がっているばかり。こんな果実が実る木が生えているはずもない。
 ハラルは果実を拾いあげて、しげしげと見つめた。
(やったぞ。夢じゃなかったんだ)
 たった一つしか現れなかったが、腹が減って喉が渇いているのは事実。ハラルはとりあえず腹ごしらえにと、果実に噛り付いた。
 じわりと染み出した果汁が口いっぱいに広がる。ハラルは思わず口に入った果汁を吐き出しながら叫んでいた。
「うぅぅ、なんて渋さだ」
「残り六回」
 高い声が凛と響き渡る。ハラルはあわてて辺りを見回した。姿を隠しているのか、どこにも妖霊の姿は無い。
(今の言葉も、反対になってしまったのか?)
 ハラルはまじまじと果実を見つめた。ハラルの歯形がついているだけで、どこも何も変わったようには見えない。
 ハラルは思い切って果肉を口へ入れた。強烈な酸味に、舌が割れてびりびりと染みる。
(今度は酸っぱいのか!)
 ハラルは痛む口を押さえながら、辺りを見回した。
(あの妖霊め。きっとどこかで笑っているに違いない。くそっ。せっかくの機会だってのに、何の足しにもならないことに二回も使ってしまったじゃないか)
 ハラルは顔をしかめると、むりやり口内の唾液を飲みこんだ。ふらふらと立ち上がって城壁の側へ行き、石壁に寄りかかって地べたに座りこむ。
 ハラルは腕を組んで首をひねった。
(残り六回。必要なものを手に入れなくては……)
 ふと横を見ると、小さめの革袋が落ちている。ハラルは拾い上げて、中を覗いてみた。やはり、空だ。中身がなくなったので、誰かが捨てたのだろう。
 ハラルは拾った袋にたっぷりと金貨が詰まっている様を想像してにやにや笑いを浮かべた。
(やっぱり金は必要だな。反対のことを言えばばよいのだから……)
「この財布は軽くて、金貨が一枚も入っていない」
 ハラルがそう言った途端に、地面の革袋が灰色の手の平ほどの塊になった。四角くて表面がざらざらしている。石のようだ。
(なんだ? これは)
 ハラルは石をどかそうとして、両手をかけた。重い蓋がずれて、鈍く輝く金の光が見える。
(金貨か?)
 ハラルは急いで蓋を持ち上げた。石製の箱の中に、金貨が一枚ぽつりと入っている。
 ハラルはため息をついて、金貨を手に取った。
(言い方が悪かったか……。まあ、何も無いよりはいいな。これで何を買おうか)
 ハラルはふらりと立ち上がった。風にハラルが纏ったぼろ布がはためく。
 城門へ向かって歩き出したハラルは、ぴたりと立ち止まった。
 目の前を、腰の曲がった老婆がよろよろと城門へ向かって歩いていく。ぼろ布に老いさらばえた身体を包んだ姿は、死ぬ間際のシャイラのようだ。
(俺と一緒になったりしなければ、もっと美しいまま長生きして、丁寧に埋葬してもらえただろうに……)
 ハラルは掌に握りしめた金貨を見つめた。
(これで薔薇水を買って、今からでも墓にふりかけるべきだろうか。それとも……)
 ハラルは息を呑むと、立ち上がった。
(あの妖霊が女に化けた間に何があった? 昨夜、喰人鬼は何も喰わなかったのか?)
 白日の太陽が照らす砂礫を蹴散らしながら、ハラルは墓地へ向かった。
 新たな埋葬者も参拝者もいない墓地は、ひっそりとしている。
 昨夜ハラルがずらした墓石が転がり、深く掘ったはずの穴は砂で埋まっている。
 ハラルは急いでシャイラの墓へ駆け寄ると、ひざまずいた。穴も、新たに掘った跡も、どこにもない。
 ハラルは地面に手をついたまま、深くため息をついた。喰人鬼はどうやら、シャイラを喰わずに砂原へ帰ったようだ。
(俺が喰人鬼から逃れられても、今度はシャイラが餌食になるのかもしれない)
 ハラルの額を伝う汗が、ぽとりと落ちて砂に染みこむ。
(仕方が無い。シャイラはもう死んだんだ)
 ハラルは頭を振って立ち上がり、墓に背を向けた。
「待って……」
 か細い女の声が耳に届き、ハラルはぎょっとして振り向いた。シャイラの眠る墓の盛り土が、まるで下で何かが動いたかのように中央から崩れて窪んでいる。
(シャイラ……?)
 ハラルはすぐに、自分の考えを打ち消すように呟いた。
「シャイラが動くはずがない」
 そう言い終わった途端に、シャイラの墓に載せていた石がハラルの足元へ転がり落ちた。
 墓土の下から、黒ずんだ茶色に変色した腕が二本、真っ直ぐに突き出ている。骨と皮ばかりの腕はぶるぶると動き、手指がゆっくりと曲げ伸ばしを繰り返した。
 次いで、這うように墓土の上をうごめいて、土の山を崩していく。やがて、灰色の毛に覆われた頭が持ち上がり、薄茶色に汚れた布を纏った胴体が現れた。
(シャイラなのか……?)
 ハラルは息を呑んで、墓から這い出たモノを見つめていた。
 四つん這いの姿で現れたモノは、ゆっくりと身体を起こした。抜けかけたぼさぼさの頭髪が、風になびいている。
 腐った肉と糞尿とを混ぜ合わせたような鼻を突く臭いに、ハラルは顔を顰めていりじりと後に下がった。
 突然、けたたましい笑い声が辺りに響き渡った。
「ほら。残り四回!」
 甲高い声が嬉しそうに宣言する。ハラルはあわてて辺りを見回したが、どこにも妖霊の姿は見えない。
(くそっ。まともに願いを言わせる気がないな!)
 怒りで顔を赤らめたハラルは、はっと息を呑んだ。
 いつの間に近づいたのか、すぐ前にシャイラの顔があった。
 皺だらけの土気色の顔に、つぶれて崩れた赤黒い鼻。目蓋がひくつきながらゆっくりと開くと、灰黄色に濁った目玉が糸を引きながらぽとりと地面に落ちた。
 ハラルはくるりとシャイラに背を向けて、口を押さえながら走り出した。押さえていないと、叫びだしてしまいそうだ。
 シャイラはハラルへ追いすがるように、よろよろと進みながら手を差し伸べた。捲れた皮の下から指の骨が覗いている。
 ハラルは足がもつれてつんのめりそうになりながら、必死に走った。
 大勢の人が行き交う城門に滑りこみ、荷物を抱えた人々でごった返す通りを土ぼこりを巻き上げながら駆け抜ける。
 陶器壷をひっくり返し、店先に吊るされた布地を翻して、怒声と悲鳴の飛び交う中を走っていく。
 十字路を曲がって薄暗い路地に出ると、ハラルはようやく立ち止まった。冷たい風に咳きこみながら、隊商宿の壁へ寄りかかる。
 通りから聞こえてくる、売り子の呼び声と威勢のいいかけ声。ハラルはほっとして、大きく肩で息をした。
(さっきのは、きっと妖霊の見せた幻だ。そうでなきゃ、夢だ。きっとそうだ)
 ハラルは汗でべとつく金貨を握りなおすと、再び店の並ぶ通りへ出た。ぶらぶらと歩きながら品を物色して歩く。
 売り子や店主は、みすぼらしいハラルの格好に顔を顰めるが、ハラルは悠々と店の中へ立ち入って覗いてまわった。
 甘い匂いが漂ってきて、ハラルは足を止めた。木製の台に並べられた皿に、木の実がたっぷり入った焼き菓子が山盛りになっている。
(よし。こいつで腹ごしらえだ)
 ハラルが菓子を指さそうとしたとき、街じゅうに長い悲鳴が響き渡った。
「喰人鬼が出たぞー!」
 蒼ざめた顔をした人々が、次々と城門から街中へと引き返してくる。騾馬が背負った荷物を撒き散らしながら、通りを走り去る。
 ぶつかり合って怒鳴り散らす者。泣き叫ぶ子供。何が起きたか分からずに右往左往する者。商品を置いたまま逃げ出す売り子。
 ハラルは置き去りにされた焼菓子に手を伸ばそうとして、誰かに思いっきり突き飛ばされた。
「いてぇ!」
 思わず叫びながら、ハラルは地面に転がった。肩と腰を強く打ったはずなのに、少しも痛みがない。
(……しまった! また、口に出してしまった)
 ハラルはきょろきょろと辺りを見回した。やはり、妖霊の姿はどこにもない。
(残り三回になっちまった)
 ハラルはため息をつくと、のろのろと立ち上がった。ふと顔をあげると、巻き上がる土ぼこりの中に、両手を前へ突き出した人影が立っていた。ぎこちない足取りで、腐臭と共にハラルのほうへ向かってくる。
(くそっ。どこまで追ってくる気だ?)
 ハラルは舌打ちすると、街の中心部へ向かって逃げ出した。


 ひと気のない路を通り、角を幾つも曲がって、ハラルは街の中央市場へとたどり着いた。
 市場の中は大勢の人でごった返し、人いきれで息苦しい。ハラルは額から汗を滲ませながら、荒い息を吐いた。
 人々は口々に、喰人鬼のことを噂しあっている。ハラルのすぐ後ろで若い男が言った。
「おいおい。喰人鬼は夜にならなきゃ出て来ないんだぜ」
「いいや、俺は確かに見たぞ。あれは、話に聞く喰人鬼そのものだ」
 すぐさま、横にいた初老の男が応じる。ハラルは首をひねった。
(さっき見た人影は、本当にシャイラだったろうか。もしかしたら、皆が言うように喰人鬼だったのか?)
 ハラルは見たという男に確かめようと、振り向いて口を開きかけた。
「その……」
「いったい何の騒ぎだね?」
 轟くような大声に、ハラルの声はかき消された。人垣が二つに割れて、中から市場監督官がゆっくりと進み出た。
 杖を握る手をずいっと前へ出して、詰め掛けている人々を見回しながら言う。
「この有様は何事だ?」
 ハラルはごくりと唾を飲みこみ、疼く傷をさすった。なるべく目立たないように背中を丸めて、少しずつ後ろへ下がっていく。
「何の騒ぎかと訊いておる!」
 市場監督官は叫びながら杖で地面を突いた。ハラルはその動きに思わず身体を竦めて、その拍子に誰かの足を踏みつけた。
「いてぇ!」
 踏まれた男が大声で叫ぶ。ハラルは、大あわてて逃げ出した。
「待て、そこの奴。止まれ!」
 市場監督官が杖でハラルを示しながら命令する。
(くそっ。見つかっちまった)
 ハラルは立ち止まらずに人を縫って走り続けた。市場監督官はハラルを追って走り出しながら叫んだ。
「急に逃げ出すとは怪しい奴め。誰か、そいつを捕まえろ!」
 ハラルは幾人もにぶつかりながら、怒声を浴びながら走って行った。路地の角を曲がるときに振り向くと、杖を振り上げて追いかけてくる市場監督官の姿が見えた。
(畜生、追いかけて来やがる)
 ハラルは商店でひしめく通りを駆け抜けながら顔をしかめた。すぐに怒鳴り声が迫ってくる。
「待て!」
(ただ逃げていたんじゃあ、いずれ追いつかれちまう。何とかしないと……)
 息が苦しい。脚が、背中が、身体中が悲鳴を上げている。ハラルは再び後ろを向いて、市場監督官が眉と目を吊り上げて恐ろしい形相を浮かべているのを見た。
(「逃げられる」の反対は、「逃げられない」って言えばいいのか。それとも「捕まる」か?)
 ハラルは顔を真っ赤にして考えながら、十字路を曲がって狭い路地に入った。薬草や動物の肝などを売る店がぽつぽつと並ぶ、人通りの少ない場所だ。
(いいや、もう三回しか残っていないってのに、ただ逃げるだけに使うのは惜しい。何か、復讐できる言葉は……?)
 足が思うように動かない。鉛のように重い。ハラルは眩暈を覚えながら、ひたすら足を動かし続けた。
(あの杖を取り上げてやろうか。いや、俺がやられたみたいに、杖で打たれればいいんだ。それとも、貧乏にしてやろうか。いや、地位を奪ってやろう。そして、人に鞭打たれるような存在になればいい)
「止まれ」
 すぐ後ろから、市場監督官の怒鳴り声が聞こえる。ハラルは恐る恐る振り向いた。と、その拍子に足が滑って、地面にしりもちをついた。ハラルのすぐ頭上を、杖が唸り音を上げて掠める。
 擦りむいた掌を見回していたハラルは、いつの間にか金貨を落としたことに気づいた。
(どこだ? 俺の全財産が)
「ええい。動くな!」
 市場監督官は鋭く言いながら杖を振り上げた。その時、ハラルは視界の隅できらりと輝く光に気づいた。
(金貨だっ)
 ハラルは金貨に向かって飛びつき、市場監督官の振り下ろした杖は虚しく地面を叩く。
 市場監督官は、怒りに顔を赤黒く染めながら怒鳴った。
「こ奴め。ちょこまかと動きおって!」
 ハラルはようやく、市場監督官を見あげた。
(何て言えばいいんだ? 反対の言葉だから「鞭打たれない」か。それとも「市場監督官だ」か?)
「騒ぎの原因はお前だな。この盗人めが!」
 市場監督官はそう叫びながら、杖を振り回す。ハラルはごろりと後ろへ倒れると、頭を抱えながら呟いた。
「どうすりゃいいんだ、もう、わけが分からなくなったぞ」
 杖先が素早くハラルの眼前を横切る。妖霊が金切り声で叫んだ。
「残りは、たったの二回!」
「誰だ?」
 市場監督官は、声の主を探そうときょろきょろと辺りを見回している。ハラルは、頭の中が急にすっきりと晴れ渡り、ものすごい速さで考えが駆け巡った。
(先ほど言った俺の言葉と妖霊が叶えた事柄から考え合わせると、妖霊が叶えるのは、俺が言った言葉の反対が示す範囲の中で、なるべく俺の望みとは異なるような事柄だ。つまり、量ならば一つ。そして、俺が市場監督官に対して望む事柄は、杖を振って他人に威張れなくすること――すなわち、地位の剥奪。そして、惨めで貧乏な生活と、二度と俺を追い回さないこと、だ。それらを全て叶えるには、市場監督官を従順で人に使役されるものにでもしてしまえばいい。ただし、地位を剥奪するには、名前が必要だ。市場監督官というのを主語にしてしまっては、それがそのまま後にも残ってしまう。つまり、市場監督官の名前を知らない俺に出来ることは……)
「隠れてないで出て来い!」
 市場監督官は、首だけを回して後方を睨みながら、怒鳴っている。
 ハラルは忍び足で横から近づくと、杖を持つ手に向かって手を伸ばした。と、その動きを察知した監督官は、素早く反対の手でハラルの腕をひねり上げた。
「貴様、何のつもりだ?」
 市場監督官は太い眉を寄せて、腕に力をこめながらハラルを睨む。ハラルは痛みに涙を浮かべながら言った。
「私に触れているこの者は、人に使役される哀れな生き物ではない」
 市場監督官の全身が青白く輝く光で包まれ、ハラルは弾き飛ばされて地面に突っ伏した。杖も一緒に、高い音を立てて地面に転がる。
 光の中で市場監督官の背丈がどんどんと縮み、腕が伸びて四本足の姿を形取った。ぴんと尖った長い耳に長い鼻先。太い首に短いたてがみ。ずんぐりとした胴体に、細い尻尾。
 強い輝きを残しながら光が掻き消えると、薄茶色の毛色をしたよぼよぼのロバが立っていた。目はしょぼくれて、毛もぱさぱさ。顔回りの紐は擦り切れ、引き綱もぼろぼろだ。
(やったぞ。これでもう、安心だ)
 ハラルはほっとすると、べたりと地面に座りこんだ。ロバは、不安げに辺りを見回している。
 さっと影が差して、ハラルの前へ子供が現れた。長い黒髪を背中まで伸ばし、白い肌の整った顔に笑顔を浮かべている。細められていた目が大きく開くと、淡青色の瞳が光を放つ。
(……妖霊か?)
 ハラルは髪をかき回した。先ほどなら何でもすぐにわかったのに、急にもやがかかったように頭が働かない。
 ロバはいななくと、ハラルの後ろへ回りこんだ。鼻先をハラルの背中に押し当てて、必死で子供から隠れようとする。
 子供の姿の妖霊は、ハラルとロバを交互に見つめながら高らかに告げた。
「残り一回だけ」
 ハラルは口を開きそうになるのをあわてて押さえた。
(くそっ。そんなことはわかっている)
「もう、最後だね。どうするの? 喰人鬼から逃れる方法は考えた?」
 子供の姿の妖霊は身体を屈めると、人差し指でハラルを示しながら言う。長い髪が肩を滑って、さらさらと揺れた。
 ハラルは眉を寄せて、妖霊を見つめた。立ち上がろうにも、疲れきった脚に力が入らない。
 妖霊は腰に手を当てて、くすくすと笑いながら続けた。
「すっかり忘れてたけど、お前は“語り物師”だったね。叶えたい願い事はとっくに叶えたんだろうねぇ」
 ハラルは眉をひくつかせながら、妖霊を睨んだ。
(わかっているぞ。俺を怒らせて、最後の願い事を台無しにさせる気だな)
「それにしても、あっという間だったね。まだ半日も経ってないのに、もう最後になっちゃったねぇ」
 ハラルは顔を赤らめると、怒りを紛らせるためにロバの背中を撫でた。ロバはされるままに大人しくしている。
(喰人鬼から逃れる方法? 「喰う」って言えば、喰われないことになる。……だが、その後でどうする?)
 何かを引きずるような音に続いて影が差し、強い腐臭が漂った。ロバは怯えて、ハラルの背中へ鼻先を押し付ける。
 ハラルは臭いの元を見ないように俯いて、気持ちを落ち着けようとロバのたてがみを撫でた。
「ああ、ようやく追いついたみたいだね。ぼろぼろになって、かわいそうに」
 妖霊は手をひらひらと振りながら楽しそうに言った。少しも言葉に実感がこもっていない。
 ハラルはロバの温もりを感じながら、考え続けた。
(年老いたロバは大した金にならないし、金貨一枚では商売を始めるには足りない。使い潰せばそれで終わり。生き延びても意味がない)
「ほら。せっかくお前のために動いているんだから、顔を見てやれよ」
 妖霊が軽い調子で言う。ハラルは強い臭いにめまいを感じながら、必死で考えた。
(シャイラをどうにかしてやるべきだろうか。いいや、妖霊が動くようにしただけで生き返ったわけじゃない。シャイラはもう、死んだんだ)
(本当に叶えたい願い事は、何だっただろう。ずっと“語り物師”になりたいと思っていた。だが、実際にやってみると、どこか何か違う……)
「おい。こいつが可哀想だろ。お前と一緒にいたくて追いかけてきてるってのに」
 妖霊が語気を強めた。ハラルはようやく顔をあげた。
 シャイラの身体は歩き回ったためにあちこちが崩れて、皮が捲れ上がって赤黒い血肉のこびりついた骨が覗いていた。
(このまま何日も動き続けたら、やがてシャイラは骨だけになってしまうだろう……。いいや、シャイラじゃない。ただの死体だ。ただの骨だ)
 ハラルはシャイラのことを考えないようにしながら、昨日のことを思い浮かべた。
(永く語り継がれるなら、砂原で独り死ぬのも悪くない……。そうだ。俺は、語りに出てくる人物になりたかった。語り継がれるようなことを成し遂げたかった)
 ハラルは妖霊を見据えながら、一言一句はっきりと言った。
「私は、これからすることによって“語り物師”に永遠に語り継がれない」
 妖霊はまじまじとハラルを見つめて、ぽつりと呟いた。
「語り継がれるようなこととは何だ?」
 ハラルが口を開こうとすると、妖霊は手で制して言う。
「お前は言わなくていい。私が街の奴らに訊いて判断する」
 妖霊は瞬きする間に姿を消して、ハラルはロバとシャイラと共にその場に残された。


 こうして、妖霊は街の中を歩き回って様々な人に「語り継がれることとは何か」訊ねて歩きました。
 最初に出会ったのは、書道家の初老の男。男は自慢げに自分の髭を触りながら言います。
「語り継がれるべき事柄といえば、やはり聖地への巡礼をおいて他にはあるまい。私の他に聖地への巡礼を果たした者はこの街には居らぬのだ」
 聖地や聖典、礼拝所のたぐいは、妖霊にとって天敵も同然です。妖霊はそそくさと男の前を去りました。
 次いで出会ったのは、香料売りの大男。男は秤に菩提樹の乾燥葉を乗せながら、ぶつぶつと言います。
「喰人鬼がうろうろしていたんじゃ、ろくに商売もできやしない。もしも、喰人鬼を倒すことが出来れば、語り継がれるだろうさ」
 妖霊は悩みました。自分が行うのは容易いのですが、その力をハラルへ与えるのは難しい上に危険です。
 続いて声をかけたのは、水汲みに来ていた少女。少女は桶を小脇に抱えて、遠い目をしてまくし立てます。
「それはやっぱり、美しくて儚い恋愛物語よ。悲劇もいいわね。愛し合っている二人を運命が引き離すの。そして、離れ離れになった二人はやがて……」
 少女はまだ話し続けていましたが、妖霊はその場を立ち去りました。ハラルに恋愛は似合わないと思ったのです。
 続いて出会ったのは、若い“語り物師”の男。男は鳶色の長い髪を振り乱しながら、身振りを交えて言います。
「語り継がれるといっても、様々さ。立派な偉業から、滑稽な話まで。舞台も身近な街から遠い異国まで」
 妖霊は重ねて訊ねました。
「では、何なら永遠に語り継がれる?」
 男は腕を組んで、唸りながら応えます。
「それは難しいなぁ。どんな話も時代に合わせて、舞台を変え、小道具を変え、人物を変えていくものさ。どんなに立派な事柄でも、語り継がれるとは限らない。たとえ紙に書いても、いずれ失われるかもしれないからね」
 妖霊は笑顔を浮かべると、男の元を去りました。どうすればいいのか、やっと思いついたのです。
 さっそくハラルの元へと戻った妖霊は、にやりと笑って言いました。
「そういえばお前は、“語り物師”だったな。すっかり忘れていたよ」
 ハラルが驚いて見ている前で、永遠の命を与えました。そして、こう宣言したのです。
「おまえが自分でお前の自身の話を語って歩くがいい。話が消えてしまわないように、永遠に語り継がれるように」


 “語り物師”は語り終えると、足元に投げられた銅貨を手早く集めた。年代モノの薄汚れた外套を纏って、踵を返すと大股に歩み去る。
 話の続きが気になった少年は、“語り物師”の後を小走りに追いかけた。
 “語り物師”は幾つもの通りを抜けて、どんどんと歩いていく。そして、街外れまで来るとぴたりと立ち止まり、前を向いたまま言った。
「何か用?」
「あの。さっきの話なんだけど。あれから、どうなったの?」
 少年が訊ねると、“語り物師”は振り向いて、微笑みながら言った。
「さあ。どうなったんだろうね。永遠の命があるのだから、どこかで生きているんじゃないのかな」
「でも……」
 不満げに口を尖らせた少年は、“語り物師”の後ろでぎこちなく動く白い影に、息を呑んだ。
 “語り物師”は少年に向かって軽く手を振って、骸骨を従えると街を出て行った。

―end―

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