メンフィス・ミツレィム博物館「特別展示世界の刀剣」

 大理石タイルの床に、靴音がやけに高く響く。
 私はスケッチブックを脇に抱えて、ひと気のない薄暗い廊下を歩いていた。
 廊下の両側には、無名画家の描いた絵画が飾ってある。石壁に掛けられたランプの灯りが、ぼんやりと顔や背景を浮かび上がらせている。
 素朴な木製の額縁に入れられた、大きさも時代も価値も様々な絵。
 何の変哲もない絵だ。
 私は心の中で唱えると、絵には目もくれずに長い廊下を歩いて行った。
 突き当たりの角を曲がり、勢い良く首を右へ向ける。
 ない。
 あの、特別展示室の出入り口が、ない。
 私はあわてて辺りを見回した。
 右側は小さな窓の並んでいる古びた石壁。
 出入り口どころか展示室自体がない。
 そんな馬鹿な!
 私は取り落としそうになったスケッチブックをあわてて左手でつかんだ。包帯を巻いた掌が、ずきりと痛む。
 私は舌打ちすると、スケッチブックを脇に抱えなおして、窓を覗きこんだ。
 対面のアーチ窓が連なる貴族の商館と石畳の路地が見える。
 壁の向こうは、外だ。
 どうなっているんだ?
 三日前は、確かにあったはずだ。
 私は廊下の左側を見た。漆喰塗りの、のっぺりとした白い壁があるばかり。こちら側にも、出入り口も部屋もない。
 廊下の先は一階へと続く狭い階段になっている。切り出した石が剥きだしで、奥は真っ暗。まるで牢獄へと続く階段みたいだ。
 こんな階段を通った覚えは全くない。だが……。
 私は首をひねりながら、独り呟いた。
「一応行ってみるか」
 長い廊下へ戻ると、壁のランプへ右手を伸ばす。すぐ横の古びた肖像画の男が、口をゆがめたように見えた。
 ただの絵だ。気のせいだ。
 私は心の中で唱えると、ランプを持って狭い石段を降りて行った。
 かび臭い匂いが鼻を刺す。湿り気と冷気が全身を包みこむ。
 ランプを掲げると、闇の中にぼんやりと木箱やボロ布に包んだ大きな塊が浮かび上がって見えた。どうやら、倉庫のようだ。
 こんなところに展示室があったはずがない。
 私は踵を返して、二階へ戻った。
 窓の前を通り、肖像画の横にランプを戻す。やはり、描かれた男は、口をゆがめてなどいない。
 私は額の汗を拭った。
 いったいどうなっているんだ?
 一本道の廊下だというのに、どこで間違ったのだろう?
 私は首をひねりながら、廊下を戻って行った。長い廊下の突き当たりを曲がり、明るい光の射しこむ廊下へ出る。
 大理石の床や壁に光が反射して、やけに眩しい。
 目を細めて窓を見ると、教会の尖塔が見えた。
 この景色は、確かに三日前にも見ている。この廊下を通ったのは間違いないだろう。
 私は立ち止まって、眉を寄せた。
 別館二階の廊下はここで終わり。この先を進むと、運河の上に架けられた橋を通り『メンフィス・ミツレィム博物館』の本館へ着く。
 私は首をひねって、天井を見上げた。漆喰塗りの天井は、真っ白で飾り気がない。
 ゴシック様式で豪華に飾りたてられた本館とは、あまりにも違いすぎる。
 そもそも、私が今いる別館は、前から存在していたのだろうか?
 特別展示室が消えたように、この別館自体もどこかに消えてしまうのではないだろうか?
 私は今年になってから何度も『メンフィス・ミツレィム博物館』に来ては、美術品の模写やスケッチをしていた。それなのに、別館の存在を知ったのは、たったの三日前のことなのだ。


 大展示室の二階には、吹き抜けになった展示室内を見下ろすことのできるテラスがある。私は鋳鉄製の手すりに寄りかかって、展示室の壁一面に飾られた神話のレリーフを模写していた。
「ほほう。これはイシスとアサル・ウン・ネフェルですな。実に良く描けていますなぁ」
 後ろから声を掛けてきたのは、中年の男だった。妙に印象が薄くて顔も服装も思い出せないが、古めかしい風貌だったような気がする。
「なるほど、画学生の方でしたか。この博物館の中は、もうずいぶんと歩きまわられたことでしょうな」
 男は私の返事を待たずに、言葉を続けた。
「実は今、特別展示室で珍しい展示をしているのですよ。もう、ご覧になられましたかな?」
 男がずいっと差し出したのは、『特別展示・世界の刀剣』の案内状だった。
『世界中の刀や剣を一同に集めた、今世紀最大最後の展示』という謳い文句と、特別展示室への略図が記してあった。
 私が「まだ見ていません」と応えると、男は案内状を私の手に押し付けながら続けた。
「場所が離れているものだから、なかなか見に来る人が少なくてね。こうして、宣伝をして歩かねばならんのですよ」
 男は大げさに肩をすくめて言うと、足早に立ち去った。
 私は模写を中断して、案内状に記されていたとおりに、本館の二階奥と繋がる橋を渡って別館へと行ったのだ。


「あの案内状を持ってくれば良かった」
 私はため息をつくと、廊下を進んだ。橋を渡って、本館へたどり着く。
 振り返って別館を見つめると、降り注ぐ光の筋に廊下が霞んで見えた。
 別館が消える……?
 私は目を瞬いた。
 廊下は変わらずに、静かに続いている。
 大丈夫。消えていない。消えるはずがないじゃないか。
 私は頭を振ると、本館の廊下を進んだ。
 廊下の両側に白い柱が並び、天井近くの雪花石膏の明り取りから柔らかな光が降り注ぐ。弧形天井には、彩釉タイルで花模様が描いてある。
 左手にある女神像で飾られた出入り口を潜ると、三日前と同じ「東洋の織物展」が行われていた。老夫婦がのんびりと、絨毯を見つめている。
 私はちらりと室内を見ただけで、また廊下へ戻った。賑やかな笑い声をあげる、数人の男女とすれ違う。
 曲線模様を描く鋳鉄製の手すりにつかまって、私は幅広の大理石の階段をおりて行った。
 少年が歓声を上げながら、軽い足取りで階段をのぼっていく。
 私は広い踊り場で折り返して、ゆっくりと一階へ降り立った。
 列柱の間を潜って、楕円を描く列柱廊に出る。と、甘い花の香りを含んだ風が、頬を撫でた。
 私は列柱廊に囲まれた中庭を見つめた。
 白い花が咲いている。三日前はまだ硬い蕾だったのに、もう満開だ。
 私は柱の間を通って、中庭へ出た。
 眩い光に、目が眩む。
 中庭に向かって並べられたベンチの前まで進むと、風が吹いて甘ったるい香りが全身を包んだ。
 樹木の影が風に躍り、豊満な女神や有翼ライオンの影が見え隠れする。
 スケッチにぴったりだな。
 私はベンチに座って、ペンを用意するとスケッチブックを無造作に開いた。
 強い陽射しに、紙が白く輝く。
 ようやく目が慣れると、三日前に描いた剣のスケッチが目に飛びこんできた。
 刀剣のタイトルと説明文を書き記してから、展示物の大まかな形をスケッチをして、印象を書きとめておいたものだ。
 私はペンを置くと、紙を一枚ずつめくっていった。


〈憂鬱な貴婦人〉
・十六世紀の品。作出不明。
 光の当たる角度によって、刀身に貴婦人の姿が現れる。貴婦人の霊魂が乗り移ったのだとも、微量な成分がダマスクス鋼に浮き上がる文様のように貴婦人の姿を生み出すのだとも云われている。


「両刃で幅広の剣。凝った飾りのついた、金属製の柄。見た目よりも軽い。
 持ち上げてランプの光を反射させると、貴婦人らしき衣装の女性が浮き出して見えた。憂鬱というよりも、どこか恨めしそうで陰気な顔だ」


〈香辛刀〉
・十五世紀フランスで使用。血なまぐささを消すために、スパイスの香りが漂うように細工されている。
 胡椒と肉桂の香りが、戦場にあっても常に食欲を湧かせるという。


「かなり大振りの剣。麻紐を巻きつけた柄は、太くて長い。ずっしりと重くて、持ち上げることが出来なかった。
 刃は厚く、切るというよりも力で強引にぶった切るような雰囲気」


〈舞唄〉
・アフリカのタンザニア、今はなき幻のシペ族が使用していた演舞用の剣。
 管状の特殊な構造で、素早く振ることによって音が出る。また、つかむ場所によって音色が変わる。
 シペ族の踊り手は、舞いながら次々と持つ場所を変えて様々な曲を奏でたといわれている。


「笛のように孔がいくつも開いている。表面には筋状の傷が走り、ざらざらとしている。どちらが柄でどちらが剣先か判らない。刃がない」


〈剣の化石〉
・三億年前(古生代石炭紀)の地層から出土した、剣の化石。この地層には、剣と一緒に三葉虫の化石も見られる。


「層になった土の塊から、錆びた剣先が見えている。土の表面には、確かに三葉虫の姿もある。
 古いというより、埋められて雨ざらしになっていただけのようだ」


〈宵闇の影・太陽の光輝〉
・十三世紀初頭、エスターライヒ(東方辺境伯領)の大司教フランツ・フォン・ヒルデブランドがアナトリア出身の鍛冶職人に作らせた一対の剣。
 「宵闇の影」は黒曜石、「太陽の光輝」はダイヤモンドで作られた刀身を持つ。
 「太陽の光輝」は十七世紀、オスマン・トルコ軍の第二次ウィーン包囲に伴う侵攻による火災で柄が消失。刀身だけが残った。


「『宵闇の影』は、刃も柄も黒く、樹脂光沢がある。剣というより、ただの石器。
 『太陽の光輝』は、細長い板状の形の、ただの黒炭」


〈「聖神刀」または「吸血刀」〉
・年代不明。南米パタゴニアで、好戦的な一族で知られるサンギフエラの民が使用していた儀式用の湾刀。
 血を好む神は、生贄の血が無駄に流れるのを嘆き、自らの分身として血を吸う刀を作るよう啓示を与えたという。
 無数の孔が層を成す、特殊な多孔質鋼で作られ、重量の数十倍もの血液を吸い取る。


「三日月形の湾刀。片刃。柄は大粒のエメラルドでごてごてと飾られ」


 スケッチできた分は、たったのこれだけだ。
 私はスケッチブックを閉じると、ため息をついた。
 「世界の刀剣」展には、まだまだ様々な刀や剣が展示してあった。
 今日は、三日前にできなかった分をスケッチしたいと思っていたのだ。名前も、嘘臭い説明文も、全て。
 私は再びため息をつくと、腰をあげた。
 今日はなんだか、きれいな景色をスケッチをする気分じゃない。
 私は光と影が交錯する中庭を突っ切って、再び列柱廊へ入った。こちら側のベンチは、中庭の彫刻を鑑賞する見物人で埋まっている。
 私は見物人たちの後ろを通って、大展示室へ続く廊下へ入った。
 角を曲がると、廊下の端で恰幅のいい警備員が、厳めしい顔で立っている。
「ちょっと訊きたいんだが」
 私が声をかけると、警備員は振り向いた。私は続けて、訊いた。
 「三日ばかり前に『世界の刀剣』という展示を見たんだけどね、もう終了してしまったのかい?」
 警備員は眉を寄せて、素っ頓狂な声をあげた。
「いったい、何の展示ですって?」
 私はイライラしながら、口を開いた。
「だから、『世界の刀剣』だよ」
「聞いたことがありませんねぇ。他所の博物館ででも見たんじゃありませんかね?」
 警備員が首をひねりながら言う。私は大声を出した。
「まさか。たったの三日前だぞ。間違えたりするものか」
 警備員は目を瞬くと、ゆっくりと口を開く。
「しかしですねぇ、ここでやっていないのは確かなんですよ。私には、それ以上、言いようがありませんで」
「案内状を貰ったんだぞ。ここの二階から橋を渡って、別館の特別展示室へ行ったんだ。そこにはなあ、本当に珍しい刀剣ばかり展示してあったんだ」
 私が一気にまくし立てると、警備員は頭をかきながら言う。
「あそこは別館なんかじゃありませんよ。倉庫ですよ」
「なんだって? 廊下に絵画が飾ってあったじゃないか」
 私の言葉に、警備員は頷いて口を開いた。
「ああ。お客さん、あれをご覧になって、展示室と勘違いされたんですね。あれは、建物の以前の持ち主が趣味で飾っていた絵ですよ。価値のある絵は全て移したので、あそこに残されたものは、無名の画家が描いた価値のないものばかりだという話です」
「廊下を展示室と間違えたりするものか!」
 私が再び大声を出すと、警備員は目を瞬いた。 「しかしですね、あそこには展示室に使えるような部屋なんて、一つもないんですがね」
 私は信じられない気持ちで、警備員を見つめた。
 左の掌が痛い。興奮してつい力が入ってしまったようだ。
 警備員は、どこか哀れみのこもった静かな目で、じっと私を見ている。
「わかったよ」
 私はぼそりと言うと、包帯を巻いた左掌をさすりながら、足早に警備員の側を立ち去った。
 アーチ型の出入り口をくぐると、大展示室だ。大勢の人々が、さざめきながら見物している。
 私は二歩ばかり進んで、紅い台座の前で立ち止まった。
 天井から射しこむ光に、黄金のスカラベと青金石で作られたホルスの眼が鈍く輝いている。
 左の掌はまだ、鈍く痛む。
 私はぼんやりと台座を見つめながら、考えていた。
 今すぐ家へ帰って、『世界の刀剣』展の案内状を取って戻ってこようか。
 あの警備員の奴、案内状を見せたらどんな顔をするだろう?
 私は小さくため息をつくと、スケッチブックを抱えなおした。
 家へ帰るのに三十分、往復で約一時間。
 あの案内状はどこに置いただろう。部屋中に散らかった画材の中から探し出すなら、結構時間がかかるかもしれない。
 そのうえ、博物館の入り口で、また入館料を払わなければならないじゃないか。
 駄目だな。
 私は頭を左右に振った。
 何も、今すぐ戻らなくてもいいじゃないか。次にこの博物館に来るときにでも、持ってくればいい。
 それに、あの警備員だって、何でも知っている風に言っていたけれど、昨日にでも雇われたばかりかもしれないじゃないか。
 そうだ。だから、きっと知らなかったんだ。
 私は自分の考えに頷くと、展示室の中を進んだ。
 それにしても、惜しいことをした。『世界の刀剣』展が、もう終わってしまったなんて。
 あの時に、もっと様々な刀剣をスケッチしておけば良かった。
 そう。あの刀に触りさえしなければ、もっとゆっくり見ていられたのに。
 私は、三日前の出来事を思い浮かべた。


 特別展示室は薄暗く、私の他には誰も居なかった。
 壁に掛けられたランプの灯りが、黒い台座の上の刀剣を妖しく煌めかせている。
 私はスケッチブックを開くと、手近な剣に近づいた。
 ざらざらとした石の床は、靴音が響かない。油の燃えるわずかな音だけが聞こえている。
 私は入り口近くの台座に近づくと、ペンを取り出して、名前と説明文を書き写した。次いで、スケッチブックを台座の隅に置いて、心の臓の高鳴りを覚えながら、刀剣にそっと手を伸ばす。
 手に取って重みを確かめ、細かな模様に指先を這わせ、裏返し、ランプの光にかざす。
 飴色の光沢。浮かび上がる文様。時代を感じさせる傷。
 そうして、じっくりと観察した後、刀剣を台座に戻して、スケッチをする。
 私は台座の右側から順に、刀剣を描いていった。
 ふと、誰かの視線を感じたような気がして、私はスケッチブックから顔をあげた。
 誰だ?
 不意に怖くなって、私は壁からランプを外すと、高く掲げた。
 幾つも並んでいる台座が見えるばかり。人影はない。
 やはり、誰も居ないじゃないか。
 壁にランプを戻そうとした私は、奥の台座でギラリと輝く刀剣に気づいた。
 あの輝きは何だ?
 私はランプを持ったまま、奥の台座へと近づいた。
 黒いビロードの上に、優雅な湾刀がある。ランプの灯りに刃が輝く様は、夜空に浮かぶ三日月のようだ。
 柄は、幾つもの大粒のエメラルドが埋め尽くすように取り囲む豪華さだ。
 私は息を呑むと、刀に見とれた。
 しばらくして、ランプを持ったままなことを思い出した私は、元の壁へランプを戻した。
 奥の台へ引き返すと、はやる心を抑えて、今までと同じように名前と説明文を書き記す。早く触れてみたいのに、手が震えて思うように書き進まない。
 やっと書き終えると、ペンを置くのももどかしく、私は刀に手を伸ばした。
 ごろごろとしたエメラルドが邪魔で、握りにくい。持ち上げようとすると、ずっしりと重い。
 私は両手で包みこむように柄をつかんで、やっと持ち上げた。
 光を反射させれば、多孔質鋼ならではの独特の模様が刃に浮き出るかもしれない。
 ランプの前にかざした途端に、まばゆい光が目を貫いた。
 刀は私の手を滑り落ち、台座にぶつかって奇妙に跳ねる。
 豪華な柄が壊れたら困ると思い、私はあわてて左手を伸ばした。
 あっと思ったときには、刃をつかんでいた。
 掌に鋭い痛みが走る。
 くそっ。血まみれになっちまう。
 そう思ったのに、生温かさも、ぬるぬるとした感触もない。
 痺れるように痛いのに、一滴の血も出てこない。
 私は驚いて、まじまじと左手を見つめた。
 刀はまるで、吸い付いたかのように掌に収まったまま離れない。
 私は恐ろしくなって、右手で柄を握り、力任せに引っぱった。
 するどい痛みが掌を貫く。
 ようやく刀は手から離れて、台座の上へ転がった。血の匂いが辺りに仄かに漂う。
 私は恐る恐る掌の傷を見つめた。
 驚いた。
 傷口は、ぱっくりと開いて淡紅色の肉が覗いている。それなのに、血が滲んですらいない。
 私は眩暈を感じて、あわててスケッチブックをつかむと展示室を飛び出した。
 長い廊下に出ると、肖像画や画家の自画像が、一斉に嘲笑の表情を浮かべて私を見送った。


 血が出ていなかったのだから、大した怪我じゃない。
 それなのに、臆病風に吹かれて逃げ出してしまった。
 だいたい、剣が血を吸うわけがないじゃないか。あんな説明文を鵜呑みにするなんて、私は馬鹿だ。
 左掌の傷が疼く。
 私は顔をしかめると、包帯の上から傷口を押さえた。
 大丈夫だ。なんともない。
 廊下の絵画だって、たまたま笑っている顔の絵が眼に飛びこんで来ただけだ。
 それだけだ。
 『世界の刀剣』展が終わったから、特別展示室は締め切っている。だから、今日は見つけられなかっただけだ。
 きっと、そうだ。
 私は左掌を抑えたまま、自分に言い聞かせるように心の中で唱えながら大展示室を出た。
 廊下を通って出入り口に近づく。博物館の係員の姿が見えた。
 私は一瞬だけ、『世界の刀剣』展について訊ねようかと思ったけれど、黙って係員の前を通り過ぎた。
 パルテノン式の柱とグロテスクな天使像で飾られた正面出入り口を通って、私は、メンフィス・ミツレィム博物館を後にした。


 私はあれから一度もメンフィス・ミツレィム博物館へ行っていない。
 掌の傷は、未だに思い出したように疼く。
 『世界の刀剣』展の案内状は、今でも私の部屋のどこかにあることだろう。

-end-

 

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