運命の女

 円錐形の山の向こうに濃青色の空。
 私は白い息を吐きながら山を見つめた。
 あの頃はできなかった。だが、今の私には、捨てて惜しいものなど何一つない。
 私は静かに窓を閉めた。
「なにしてるの?」
 薄闇の中で、眠そうな妻の声が響く。
「天気がいいから山へ行こうと思う」
 私の返事に、妻はつぶやいた。
「気をつけて」
 私は決心が揺らぐのを感じて、まじまじと妻を見つめた。白い丸々と太った腕を布団から出して、ボサボサの黒髪を枕の上へうねらせている。目を閉じたまま妻はしゃがれ声を出した。
「捜索ヘリコプター代って高いんでしょ」
 なるほど、私よりもお金が心配か。私は深いため息をつくと、部屋を出た。


 私は柔らかな落ち葉を踏みしめて、若い頃によく歩いた山道を登っていった。
 やがて、道は樹林を抜けて開けた場所に出た。
 私は岩に腰かけて粗い息を吐いた。冷たい空気が肺を刺す。昔は何でもなかった道が、急坂に感じられる。身体がやけに重い。
 脳裏に浮かぶのは、長い間忘れていたあの少女の姿。
 この山で遭難しかけた私の前に、霧の中現れた美しい少女。赤い唇で私の名を呼びながら手招きをくり返した。
 ほっそりとした手が動くたびに、長い黒髪が揺れて見え隠れする乳房……。
 私は頭を振って立ち上がった。その時、視界の隅を白いものが流れた。
 霧だ!
 私が鼓動を早めながら立ち尽くす間に、山霧は渦を巻き、広がり、視界が白に染め上げられた。
 どこからともなく、小さく私の名を呼ぶ声がする。
 私は声を頼りに、何も見えない霧の中を歩いていった。


 霧の中から浮かび上がるように、買い物カゴをさげた女が立っていた。太った腕を私に掴みかかるように伸ばして、私の名をかすれ声で呼ぶ。
 女がニタっと唇を歪めて言う。
 「あなたに私はぴったりよ」
 そうか、今の私に相応しい姿で彼女は現れるわけだ。
 私は深くため息をついて、自分の太鼓腹を撫でた。彼女に背中を向けると、トボトボと帰途についた。

−end−  

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23.Nov.2001 UP
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