「月亮」

 月だ。月だよ。まあるい月が出てるよ! と、ルドルフが興奮して、芝生の上をうろうろと歩き回りながら叫んでいる。
 そんなの、見れば判るよ。少し落ち着きなさいよ。と、私はルドルフに聞こえるように大声で言って、ひょいと芝生に降り立った。
 黄色い秋桜の花が、秋風にゆらゆらと揺れている。月の明るい気持ちの良い夜だ。
 お気に入りのスペイン製の素焼鉢の横で、私は空を見上げた。
 ルドルフが興奮するのも仕方がない。お月さまはまん丸。満月だもの。
 まあるい、まあるい、お月さま! と、ルドルフは歌うように言いながら、くるくると踊るように回った。
 私は鼻を鳴らせて、ルドルフを見上げた。ルドルフは血も繋がっていなくて、私よりもずっと身体が大きいけれど、可愛い弟だ。
 まあるい月って、なんだか、ホットケーキみたいだねぇと、ルドルフがよだれを垂らしながら言う。
 私は呆れて、食いしん坊なんだから! と叫んだ。
 木の葉がざわめいて、風がふわりと、甘い花の蜜のような香りを運んできた。
 そういえば、あの花はとてもいい匂いだったっけ。
 私はウッドデッキの隅に腰を下ろして、話しはじめた。


 あの日、いつものように散歩していたら、見たことのない黒ブチの白猫が通りかかった。だから、こっそり後をついていってみたの。
 そうしたら長い石段があって、登りきった先にあの庭があった。
 レンガの塀にこぼれ落ちるように垂れ下がって、淡い桃色と白色の小花が咲き乱れている。
 庭を取り囲むトレリスには、赤と桃色のつる薔薇が咲いていて、うっとりするようないい匂いがしてた。
 黒ブチのことなんかすっかり忘れて、私は庭に見入ってた。
「こんにちは」
 庭の中から急に声をかけられて、あわてた私は石段に落ちそうになった。
 だって、本当に驚いた。庭の手入れをしているのが、若い男の人だなんて思っても見なかったから。それに、彼が真っ白な薔薇の花束を抱えていたから。
 彼は私を見て、にっこりと笑って門扉を開けてくれた。
「色々な花があるから、中へ入って見てご覧」
 私は扉の隙間をくぐって、庭へ入った。
 大小様々な樹が植えてある庭は、広くて、陽当たりが良くて、とっても素敵だった。
 彼に色々な花の名前を教えてもらって……、もう忘れちゃったけど、皆少しずつ違う匂いがして、きれいな花ばかりだった。
 彼はクッキーと酔っちゃいそうな匂いのハーブをご馳走してくれて、「又おいで」って言ってくれたの。
 だから、すっかりお気に入りの散歩道になったんだ。


 お姉ちゃんはいいよねぇ。好きなところに自由に行けるんだもん。と、ルドルフが呟いた。
 私はすかさずルドルフをにらんで、まだ話は終わっていないよ、と言った。
 ルドルフは少しも悪びれずに、黒いつぶらな目で私を見ながら言う。だってさ、ぼくもクッキー食べたいよ。って。
 あんたってば、本当に食べ物のことばっかりね。いいから、黙って聞いてなさいよ。
 ルドルフが諦めたように待つ姿勢をとったので、私は再び、話しはじめた。


 それからも、晴れている日にはいつも、その庭に行った。
 薔薇が咲き終わる頃になって、庭の真ん中に生えている変わった植物に気づいたの。
 透き通るように蒼い植物で、細かく枝分かれした先に小さなつぼみがついている。葉っぱが全然なくて、とにかく、あんなの、他で見たことがない。
 私が見上げると、彼は笑って教えてくれた。
「変わった色だろう? これはね、月の光を浴びて成長するんだよ」
 それじゃあ、月の匂いがするの?
 私は蒼い枝に顔を近づけて、匂いを嗅いでみた。良く判らない。なんだか、水の様な匂いがする。
 彼が私の仕草に笑いながら言う。
「花が咲いたら、匂いがわかるよ」
 どんなな花なんだろう? 私が熱心につぼみを見つめていると、彼は青空を仰ぎ見た。
「そうだね。夜にしか咲かない花だけど、もし良かったら見に来てご覧。三日後に咲きはじめるから」
 三日後の夜。
 私は家をこっそり抜け出して、あの庭を目指した。
 月は糸のように細くて頼りない明かりだったけれど、通い慣れた道だから迷いはしない。
 私がそっと庭に入っていくと、彼があの蒼い植物の前で待っていた。
「やあ、来たね」
 彼は私に微笑んで、つぼみを示した。
「ご覧、もう少しで咲くよ。丁度良かったね」
 大きく膨らんだつぼみは、月色を浴びて更に蒼白く光って見える。やがて、つぼみの先端がめくれあがって、ひらひらとした透きとおるような蒼い花弁がゆったりと広がった。
 私は誘われるように近づいていって、匂いを嗅いだ。ほのかに甘くて、すっきりとした、何とも言えない良い香り。
 私が花に顔を埋めようとすると、彼はひょいっと私の身体を持ち上げた。
「危ないから、下がっておいで」
 私が驚いて見ている中で、幾重にも重なった花弁がゆっくりと開いていく。開くたびに花弁の蒼色が少しずつ明るくなっていき、やがて花の中心は白く輝きはじめた。
 眩しい光に私が目を細めていると、ひゅうと小さな弾ける音を立てて、花が空に跳びあがった。
 花弁をひらひらと揺らして煌めきながら、花は勢い良く夜空を昇っていく。ぐんぐんと光の球となって空高く昇り、とうとう月にぶつかって、吸いこまれるように消えた。
 あっ。私は、思わず声をだした。花の光を吸いこんで、月が少しだけ太くなったように見えた。
「これから毎晩、一つずつ花が咲いていくよ。満月の時までね」
 男はそう言って、静かに私を地面に下ろした。
「良かったら、また見に来てご覧」


 私が話し終えると、ルドルフはふんふんと鼻を鳴らせた。
 なあんだ。お月さまはホットケーキじゃなくて、花で出来てたのか。と、ルドルフが言う。
 私は頷いて、説明した。
 それでね、一番最後の花が咲いて、満月になるんだ。その後はね、次の新月までの間、月の植物はお休みするんだって。
 ふーん。と、ルドルフはやけに気のない返事をして、続けて言った。
 でも、ぼくは花よりホットケーキのほうがいいな。もちろん、クッキーでもいいけど。
 やっぱり食べ物のことばっかりね。と、私は笑いながら言って、ぶるぶると身体を震わせた。すっかり身体が冷えちゃったみたいだ。
 でも、そうだね。温かいホットケーキもいいかな? と、私が言うと、ルドルフが、驚いたように顔をあげた。
 だって、おねえちゃんは、熱いの食べれないじゃないか。と、ルドルフが言う。
 私は笑いながら、ルドルフに言った。
 冷ませば私だって食べれるよ。だからね、ホットケーキを作ってもらおうよ。
 ほんと? ルドルフは目を輝かせて大喜びで立ち上がり、待ちきれないというようにウッドデッキに飛び乗った。鎖を思いっきり引っぱって、口元からよだれを垂らしながら、ふさふさとした尻尾を激しく左右に振りはじめる。
 私はくすくすと笑いながら、ルドルフに言った。
 中に行って、作ってくれるようにおねだりしてきてあげるから、あんたはそのよだれと舌を引っこめときなさいよ。
 私は自慢の尻尾をぴんと立てて、専用の出入り口を潜って家の中へ入った。

-end-

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