ペールフェイスの口笛

−来るべき次の世紀には目に見えぬものこそ恐怖となるだろう−
ジェームス・フォート「幻惑の十九世紀」より

 青空の下、バスを降りた美瑠は、目を輝かせて辺りを見回した。
 通りに面して並ぶ、マリンブルーやセイジグリーン、ピンクの壁に白い窓枠の可愛らしい店。石畳の歩道に突き出した、鉄枠で豪華に飾られた色とりどりの看板。
 舗装された道の片側に駐車中の車がずらりと並び、古い教会が陽光を浴びて金色に輝いて見える。
「わぁ……」
 美瑠は思わず感嘆の声を上げた。
 同じバスから降りた人々が次々と美瑠を追い越して、それぞれの目的の場所へと散っていく。
 美瑠は肩から斜めにかけた鞄を直すと、ゆっくりと教会へ向かって歩道を歩いて行った。
 店の前まで切花やペチュニアの鉢で飾られた花屋。ショーウィンドウの中でライトに照らされたピアスや宝石が輝いているアクセサリー店。缶入り紅茶やティーサーバーの並んだ紅茶専門店。風景写真やイラストの絵葉書と切手の飾られたポストオフィス。
 美瑠は一軒一軒覗きこみながらも、中へ入る勇気は持てずに通り過ぎた。
 歩いている美瑠の耳に聞こえてくるのは、早口の英語ばかり。美瑠には、聞き取れそうもない。
 足が浮いているみたいだと美瑠は思った。英語が堪能な梨音がいないのに、一人で知らないイギリスの街を歩いているなんて嘘みたい。
 街灯から吊られた鉢には、赤や白の花々があふれ出すように咲き誇っている。
 明るい陽射しに、家々の白っぽい石壁が眩しい。道路にはくっきりと黒い影が出来ている。
 美瑠はやや離れた場所から教会の写真を撮って、小さくため息をつくと時計を見た。そろそろ、次のバスに乗る時間だ。
 美瑠はまた、ショーウィンドウを覗きこみながら道を戻った。
 ショーウィンドウの並ぶ反対側の通りには、黒い柱と白い壁のコントラストがはっきりとしたハーフ・ティンバーの家や、淡い色の石組みの古い家並みが並んでいる。
 あのベージュ色の壁石も、有名なコッツウォルズのハニーストーンなのかもしれない。と美瑠は考えながらバス停まで戻ってきた。
 時刻表を取り出して、ノースリーチ行きのバス乗り場を確認する。
 少し迷いながらバス停に着くと、既に大勢の人々が並んでいた。
 やがて真っ赤な車体のバスが来て、次々に並んでいた人々が乗りこんでいく。美瑠が乗った時には、窓側の席は後ろまで埋まっていた。日本人らしき観光客の姿もない。
 優しそうな老婦人たちはたいてい二人組みだ。美瑠は少しためらって、一人で来ているらしい若い白人女性の方を見た。
 青い目で見つめ返されて、美瑠は顔を赤らめた。こんなときは、何と言えばいいのだろう?
 とっさに英語が出てこなくて、美瑠は女性の隣のシートを指さした。
 女性が不思議そうに美瑠の顔を見る。
「お……OK?」
 美瑠がやっとのことで言うと、女性は即座に「OK」と言って、窓の方を向いた。
 美瑠はほっとして、肩にかけていた鞄を膝の上へ載せてシートに座った。
 バスがゆっくりと動き始めた。街を出て少しずつ加速して走っていく。
 窓の外を見ようとすると、隣の女性の姿も視界に入ってしまう。美瑠は鞄をかき回して時刻表を取り出した。
 後ろの席に座った二人の老婦人が何やら笑いながら話している。美瑠の英語力では単語すらも聞き取れないけれど、柔らかな発音が心地よい。
 美瑠は今朝の梨音とのやりとりを思い浮かべた。


「どうして準備しないの? せっかく晴れたのに、ホテルに引きこもっているつもり?」
 すっかり身支度を整えた梨音が腰に手を当てて言う。美瑠はベッドの縁に腰かけて、天蓋から垂れ下がる豪華な花柄のジャガード織の布の横から顔を覗かせて、梨音をみあげた。
「時刻表持ってきておいたけど、コッツウォルズに行きたいんじゃないの?」
 梨音は長い黒髪を揺らして言うと、アンティークの丸テーブルの上へ小さな紙切れを置いた。
「行きたいけど、でも、やっぱり私一人で出歩くなんて無理。こっちに来たら少しは判るようになるかと思ったけど、ぜんぜん聞き取れないし、話せないし」
 美瑠がため息混じりに言うと、梨音は切れ長の目で美瑠を見て言う。
「一緒に来る?」
 梨音は今日、ずっと前からの約束で、ブリストルに留学していたころの友人や恩師と会うのだ。
 美瑠は、眉を寄せた。梨音についていけば一番安心だけれど、梨音と友人たちが英語で会話している間に入っていけないし、いちいち通訳してもらうなんて梨音に悪いと思った。
「うううん。部屋にいるから。そして、午後になったら、中庭に出て行って優雅にアフタヌーンティーを楽しんでるから」
 美瑠の言葉に、梨音は首を傾げた。
「アフタヌーンティーまでは、何をしているつもり?」
「ええと……」
 答えに詰まった美瑠に、梨音がたたみかけるように言う。
「だいたいね、今日は今回の旅で初の青空なわけ。晴れの日って、今の時期にはすごく貴重なんだから。郊外に行けば畑は菜の花で一面の黄色だし、緑の丘は羊でいっぱい。外を歩くのにぴったりだと思わない?」
「それは……まあ、そうだね」
 美瑠は不安を感じながらも、梨音の言うとおりにバスでコッツウォルズへ行くことにした。


 今頃はティーハウスにでも行ってイギリス人の友達と会っているだろうなと、美瑠は梨音の姿を思い浮かべた。
 小柄で、背中まで伸ばした真っ直ぐな黒髪の梨音は、大人しそうに見えるけれど活動的だ。田舎町や庭に殆ど興味がない。それよりも、ロンドンなどの都会を歩き回るほうが好きなタイプだ。
 もしも空いている日が一日あっても、梨音はコッツウォルズに行きたいって言わなかったんだろう、と美瑠は思った。
 時刻表を鞄へしまおうとした美瑠の目に、点滅する緑の光が飛びこんで来た。
 隣席の女性の膝に置かれたポータブルMDプレーヤーの、演奏中を示すインジケーターだ。女性はまるで光の点滅に合わせるように指でリズムをとっている。
 どんな曲を聴いているんだろう、と思った美瑠は、見ていれば音が聞こえると思っているかのように、リズムをとる女性の指をじっと見つめた。


 ノースリーチの街に入って最初のバス停で、美瑠の隣席の女性が降りた。
 美瑠は窓際に席を移って、窓の外を見つめた。大きな教会の横を過ぎ、木造のハーフ・ティンバーの家の並ぶ通りをバスが走っていく。
 花鉢で飾られたハニーストーンの家々。風に揺らめくイングランドの旗。白い馬の描かれた洒落た看板。
 全体的にハニーストーンの家が多く、落ち着いた雰囲気の町だ。美瑠は目を細めて、外を見つめた。
 色あせたようなB&Bの看板の下で、椅子に座った老人が一人アコーディオンを弾いている。美瑠は窓に耳を近づけたけれど、音色は聞こえなかった。
 マーケット街で他の大勢の人たちと一緒にバスを降りた美瑠は、パブを探して看板を見上げながら町の中を歩いた。
 それにしても今日はやけに冒険している、と美瑠は思う。一人でパブに入って食事する気になるなんて。
 美瑠はいくつか見てまわった中で、白い鹿の看板の店に決めた。窓がなくて店内が見えない店は、なんとなく不安で怖い。だから、窓が多くて店内が明るく、花鉢を吊り下げている感じのいい店へ入った。
 カウンターに座って、梨音に教わっていた通りに、ハーフパイントのビターと、パブフードのビーフ&エールパイを注文する。
 美瑠は梨音が熱く説明していたのを思い出した。
「いい? ジョッキ一杯なら、一パイント。半分ならハーフパイント。で、ビールって言ってもだめ。種類を言わなきゃ通じないから」
 梨音はそう言って息をつくと、続けて説明した。
「スタウトとかブラウンでもいいけど、せっかくパブに行ってて瓶入りなんて出てきたらがっかりじゃない? だから、やっぱりパブに行ったらビターよね」
 美瑠は、パイに添えられたポテトとサラダが山盛りなのに驚きながら、ビターを飲んだ。フルーティで、日本のビールとは大違いだと美瑠は思った。
 食事の後、ぶらぶらとマーケットを歩いていた美瑠は、一つのショーウィンドウの前で立ち止まった。
 鉄製の看板に、緑色の凝った文字で『ジェード&ジャスパー・アンティークス』とある。
 ショーウィンドウには、唐草模様で縁取りされた絵皿、銀色に鈍く光る蝋燭台、石製の蒼い馬の座像などが飾られている。
 美瑠が店の中を覗きこんでいると、店の中から痩せた老婆が出てきた。しわくちゃの顔に微笑をうかべて、美瑠が入りやすいように戸を開けたまま支えている。
 美瑠は老婆に誘われるまま、店の中へ入った。
 老婆は美瑠が店内に入ると、店の奥の椅子に座りこんだ。本のようなものを開いて、急に気難しい顔をして熱心に見つめはじめる。
 美瑠は老婆が何を読んでいるのか気になりながらも、店の中を見まわした。店の中央に大きな台が一つ。壁際にはぐるりと棚がならんでいる。
 品物は無秩序で、高そうなものも安そうな小物も一緒に飾られていた。陶器製の黒白模様の犬の置物。中華風の服を着たアンティークドール。
 金糸で唐草模様が刺繍された、ビロードのクッション。日本の着物のような服を着た、横笛を吹く少年の絵皿。
 西洋アンティークというよりも、東洋趣味「シノワズリ」の品物が多いみたいだ。
 美瑠はふと、棚の隅に置いてあった新書くらいの大きさの小箱に目を留めた。
 黒地の蓋全体に、螺鈿細工のようなパールピンクやパールブルーで孔雀や牡丹の花の絵が描かれ、金色の線で縁取られている。側面にある鈍い金色の留め金は、目玉のような形だ。
「わぁ……」
 美瑠は小箱を見ながら、思わず呟いた。すると、いつの間にか老婆が近くに来ていて、にこにこと笑いながら何ごとか言う。
 老婆の発音が聞き取れなくて、美瑠は眉を寄せた。
 単語が断片的にしか判らなかったけれど、たぶん「十九世紀頃の品物だ」と言っているのだろうと、美瑠は解釈した。
 老婆は小箱を持ち上げて美瑠へ手渡した。小箱は予想していたよりも重かった。
 美瑠の手に持たせたまま、老婆は小箱の留め金を回して蓋を開けた。中は、ビロードのような黒い布が張られていた。何か大切なものを入れておく箱のようだ。
 美瑠はそっと箱を台の上へ戻して、値段を訊いた。老婆から数字を告げられて、あわてて鞄から計算機を取り出す。日本円に計算してみると、四千円ほどだ。
 美瑠は信じられない思いで訊き返した。
 老婆は美瑠の手から計算機を取り上げると、再び先ほど告げた数字を画面に示した。
「ポンド?」
 美瑠が訊き返すと、老婆はにっこりと笑って肯定する。
 安すぎると思いながら美瑠は、老婆の気が変わらないうちにと思い、財布を出した。すると、老婆はさっそく小箱を持って新聞紙にくるくると包むと紙袋に入れる。
 美瑠はお金を払って紙袋を受け取ると、鞄へ入れた。老婆は最後まで笑顔で、店の外まで美瑠を見送った。


 思いがけない買い物で重くなった鞄を肩にかけて、美瑠は一番の目的地のバイブリーへ向かった。
 着いてみると、バイブリーは美瑠が旅行雑誌やパンフレットを見て思い描いていた通りの可愛らしい村だった。
 壁も屋根もハニーストーンの家々が連なっている。屋根の上には小さな煙突が覗き、壁を濃いピンク色の薔薇が這う。
 刈りこまれた芝生に、雨風に晒されて風合いの出た木製のベンチ。石のめがね橋に、空の青を映す川。
 時代から取り残されたような村バイブリーは、美しい村として有名なだけあって観光客も多い。日本人らしき旅行者の姿もある。
 美瑠は他の観光客たちに混ざって、ゆっくりと歩いて散策した。
 緑のツタに覆われたカントリーハウスを通り過ぎて道を曲がると、トラウト・ファームがある。
 他の人々に混じって中へ入ると、大きな池があった。一人が餌を買って投げこむと、様々な色のニジマスが水面近くに現れる。
 美瑠は建物の中へ入り、梨音へのお土産を探した。老夫婦がニジマスの燻製をたくさん買うのを見て、美瑠は真似をした。


 美瑠がブリストルのホテルに帰りついたのは、十七時前だった。外はまだ明るい。梨音もまだのようだ。
 鞄の中から小箱入りの紙袋を取り出すと、壁際のコンソールの上へ置いた。すぐ横の部屋の角にある花柄のソファーに深々と座って、伸びをする。
「あぁ、疲れたー」
 二人が泊まっているホテルは、ブリストルのプチホテル『ロイヤル・トゥリー・ホテル』。元々は貴族の館だった十九世紀のL字型の建物で、池のある中庭を取り囲んでいる。
 今回の旅の最後に奮発して、憧れの天蓋つきベッドのある部屋に二泊することにしたのだ。
 美瑠は立ち上がると、窓に近づいて中庭を見下ろした。青々とした芝生の上でお茶を飲んでいる人たちがいる。
 早く梨音が帰ってくればアフタヌーンティーに間に合うのに、と美瑠は考えてため息をついた。傾きかけた太陽の光に、聖メアリー教会の尖塔が輝いている。
 十七時を過ぎて、ようやく梨音が戻った。
「もう戻ってたんだ?」
 そう言いながら梨音は、猫足椅子をコンソール前まで運び、美瑠と向かい合うように座る。
「バイブリーから戻るバスが、本数が限られているから」
 美瑠の返事に、梨音は頷いて言った。
「そういえば、そうだったかも。で、どうだった? 一人でも大丈夫だったでしょ?」
「まあね。でもやっぱり、英語のコミュニケーションには苦労したけど」
 美瑠はそう言いながら、サーモンの燻製を鞄から出した。
「はい、お土産」
「ありがとう。そっか。ちゃんとバイブリーまで行けたんだねぇ」
 梨音が満面に笑みを浮かべて言う。
「あ、梨音ったら、私のこと馬鹿にしてるでしょう。私だってちゃんとバスだって乗り換えたし、ノースリーチでパブにも入ったし……」
 美瑠が長々と説明している間、きょろきょろと部屋の中を見回していた梨音は、コンソールの上から紙袋を持ち上げた。
「これ、何?」
「あ、それはね、ノースリーチのアンティークショップで買ったんだ。ちょっと値段が安すぎだったけど」
「へぇ、どれどれ」
 梨音は勝手に紙袋を開けて新聞包みを破り小箱を取り出した。
「あ、すごい。シノワズリだ。キレイ」
「でしょー。十九世紀のものなんだって。なんかね、一目惚れしちゃって」
 美瑠がはしゃいで言うと、梨音は首を傾げて訊いた。
「高かったでしょ。ちゃんと値段の交渉した?」
 美瑠は笑いながら応えた。
「うううん。でも、日本円で四千円だから」
 梨音は目を見開いて、箱をまじまじと見ながら言う。
「うそ。計算間違ってるだけでしょ」
「梨音ったら酷いね。私だって、そこまで馬鹿じゃありません」
「あ、ごめんごめん。でも、なんか信じられなくって」
 梨音は軽く言うと、留め金をひねって蓋を開けた。
「あ、中もキレイだね」
「でしょー。ちゃんと中も見て買ったんだ」
 美瑠の言葉に梨音は頷いて、蓋を閉めると箱をひっくり返した。つるりとした黒い底面が見える。
「あっ。何するの」
 美瑠は思わず立ち上がって箱へ手を伸ばした。梨音はあわてずに言う。
「ほら。お宝だと、底に作者の名前が入ってたり、製作年度が入ってたりするじゃない?」
「それはテレビの見すぎ。乱暴にしないでよね」
 美瑠はそう言って、梨音の手から勢い良く小箱を取った。箱の中で何かがガタっと音を立てる。
「何か入ってる?」
 美瑠は首を傾げた。すかさず梨音が言う。
「さっき見たけど、中には何も入ってなかったじゃない?」
「うん。でも、音がする……」
 美瑠は小箱を揺すってみた。がさがさと擦れるような音がする。
「貸してみて。二重底になっているのかもよ」
 梨音は美瑠から小箱を受け取ると、蓋を開けて中を調べた。
「あれ、底のほうに黒い糸があるけど?」
 目立たないけれど、確かに箱の中底に黒い糸がある。梨音は勢い良く引っぱってみた。すると、底がはずれて、黄ばんだ新聞紙に包まれた薄い四角いものがいっているのが見えた。
「あ、うそっ」
 驚く梨音の前で、美瑠は包みを取り上げた。
「すごい。お宝かも」
 目を輝かせて言いながら、四角いものを包んでいる黄ばんだ新聞紙をひっぱった。すぐにはがれた紙は、切り取ったような新聞の切れ端だ。中身はまだぐるりと新聞紙に包まれている。
「いつの時代かな?」
 梨音は美瑠がはがした切れ端を持ち上げて読みはじめた。
〈一八六四年ロンドンでの集団死亡事件に、別の疫病の劇症化の可能性〉
 美瑠は次々と新聞包みをはがしていく。そのどれもが切り取ったような紙切れで、中身がまだ出てこない。梨音は美瑠がはがしてコンソールに散らした新聞の切れ端を、次々と読んで行った。
〈マンチェスターで集団死亡事件発生。住民間に毒ガスの噂広がるも、当局は否定〉
「まだ出てくるよ。なんなの?」
 美瑠がため息混じりに言った声に重なるように、梨音が眉をひそめて言う。
「嫌だこれ。みんな十九世紀の死亡事件の記事だ」
 美瑠は梨音の言葉に気づかずに、紙をはがし続けている。梨音は次々と別の新聞を見た。
〈夏至の夜リヴァプールで集団死亡事件発生。埠頭で老若男女合わせて十三名が死亡。当紙記者も奇禍に。紅茶が感染源との見方を中央保険局は否定〉
〈一八六〇年リーズの集団感染報告は、劇症コレラとは別の疫病である。ウォルター博士はインド発生説を否定〉
 美瑠はようやく最後に包んでいた新聞片はがして、片手に収まるくらいの大きさの薄茶色の陶板を取り出した。表面に、うっすらと手書きの楽譜が書いてある。
 美瑠はソファーから立ち上がって、光の射しこむ窓の前へ行った。窓枠へ寄りかかって陶板に光を当てながら音符を目で追ううちに、口をついてハミングをはじめる。
「嫌だ、その曲何なの?」
 梨音は耳を押さえるようにして言った。けれど、美瑠は夢中になって陶板を見ながら歌っている。やがて、ハミングに重なるように音が二重に響きはじめた。
 美瑠は歌いながら、自分の声にかかるように響く低い声を聞いていた。陶板を見つめたまま、梨音が真似をしているのだと思った。
 やがて、最後まで歌い終えた美瑠は、顔を上げた。黄昏にはまだ早いのに、いつの間にか部屋の中が薄暗い。急に陽射しが翳ったようだ。
 梨音は古い新聞の切抜きを持ったまま立ち上がって、美瑠の方を見ていた。やけに顔が蒼い。見開いた目で、凍りついたように美瑠のいる窓のほうを見つめている。
 美瑠の背後で影が揺らいだ。
 美瑠に向かい合うように立つ梨音の脚が小刻みに震えている。ジーンズをはいた太腿の前できつく握りしめた右手は蒼白。
 出かけたときのまま羽織っている白いパーカーの紐が、風もないのに揺れている。
 長い黒髪が乱れて顔に張り付き、普段から白い顔がもっと白く蒼ざめて、いつもは切れ長な目が丸く見開かれている。細い鼻に、閉じたままの小さめの口。唇は血の気のない紫色。
 新聞の切抜きを持つ左腕は曲げられており、枯れ枝のような細い腕が覗いている。骨ばった節はやけに蒼い。親指に力がこめられて、切抜きに大きなしわがよっている。
 細い指の先で爪は鉛色。指先から伝わる振動で切抜きがをぷるぷると震えている。
 いったい何を怖がってるの?
 何かの気配を背中に感じながら、美瑠は振り返ることはもちろん、声を上げることも出来ずに立ち尽くした。

-end-

 

・参考文献
「コレラの世界史」見市 雅俊 晶文社
「図説ヴィクトリア朝百科事典」谷田 博幸 河出書房新社

「蒼き相貌のトラヴェルソ」へ     Back