よろずや「漂亮(ピオラン)」奇効奇談

〜胡姫を望むサンハォ、酒家『番紅花』へ行くこと〜

 この世のどこかにその店はあるそうな。その名は「漂亮」。
 店内に並べられた不思議な薬や道具の数々は、どんな欲求も満足させることができるという。
 薬や道具を手に入れたいとお思いかな。
 まあ、お待ちなさい。
 手に入れてしまう前に、この話をどうぞ。

 静かな川面に薄墨色の山々が映っている。
 空と水は淡い桃色。鼓楼から夕刻を告げる音が鳴り響く。
 川の上に張り出した涼台に、一人の中年の女性が座っていた。
 ふっくらとした頬。憂いを帯びた眼差し。
 若い頃はさぞかし美人であったろうと思わせる、整った顔立ちをしている。
 彼女は手すりにもたれかかり、ため息をついた。
「おや、シィアン。何か心配事でも?」
 大男のタンダオは、西域出身者特有の大げさな身振りで近づいてきた。
「何か飲み物でも? それとも、楽でも奏でましょうか」
 タンダオは部屋の隅に飾ってある、古い胡弓を手に取った。
「いらない。独りになりたいのよ!」
 シィアンが強い調子で言う。
 タンダオは眉尻を下げて、深いため息をついた。歴史的価値があると言われている胡弓を静かに置き、大股で部屋を出て行く。
 独り残されたシィアンは、再び川面を見つめた。

 シィアンの姓はグィ。ここ「酒家 番紅花」の女主人で、町中で知らぬ者がいないほどの有名人だった。
 亡き夫から受け継いだ財産。酒家を大繁盛させる才覚。西域の言葉を操る頭脳。
 そして、美貌。
 全て備えた、誰もが羨む女性が、グィ夫人こと、シィアンなのだった。
 今は、若い恋人のタンダオと一緒に、贅沢に暮らしている。
 そんな彼女にも、一つだけ悩みがあった。
 それは。
 豪華な食事で、どうしても増えてしまう体重ではなく。
 大量に美容液や漢方を利用しても消せない皺でもなく。
 八年前に家を出て行ったっきり帰って来ない、たった一人の息子、レントゥのこと。
 どこかで同じ空を見ているのだろうか。
 お腹を空かしていないだろうか。
 苦労していやしないだろうか。
 レントゥのことを考える時は、商売のことも恋人のことも忘れて、母の顔になるシィアンだった。

 階下から軽やかな鈴の音が聞こえてくる。胡姫たちの踊りが始まったようだ。
 シィアンは傍らに置いてある布包みを手に取った。
 硬い結び目をほどき、中から現れたのは、鈍く輝く錫製の小さな香炉。
「煙は、出てないわよね」
 シィアンは小さく呟くと、形のいい眉を寄せた。
「やっぱり、騙されたのかしら」
 一週間前にふと立ち寄った、小さなよろずやで買ってきた品だった。
「欲を絶てば願いが叶う……。守っているのに」
 シィアンはため息をつくと、香炉に布を被せて部屋を出て行った。

 胡琴の物悲しい音色に合わせて、揃いの青い衣装を着た少女たちが体をくねらす。
 腕輪についた鈴の音が、手の動きに合わせてあたりに響き渡る。
 金色の細い三つ編みが一斉に揺れて弧を描く。
 白く秀でた額と三日月型の眉。
 淡い青や緑色の大きな瞳。
 つやつやとした桃色の頬。
 紅色のふっくらとした唇。
 みな西域出身の美しい少女たちだ。

 酒盃を片手に席についている男たちは、うっとりと少女たちを見つめている。

 そんな「番紅花」の店内で、赤い薔薇の花束を抱えて立っている若い男がいた。
 ひょろりと背が高く、青白い顔をしている。
 男の名はサンハォ。
 商家の三男で、働かずに毎日をただぶらぶらと過ごしている。
 サンハォは真っ直ぐに、踊っている少女の一人、ユウエを見つめていた。
 サンハォには、ユウエが踊りながらしきりに自分に微笑みかけ、「サンハォ」と呼んでいるように見えた。
 誘われるように、ふらふらと歩き出したとき、胡琴の演奏が止んでサンハォは我に帰った。
(ユウエさん!!)
 花束をしっかりと握り締め、サンハォはユウエを目指して突進する。
 けれども、ユウエは既に他の男たちに囲まれていて、とても近づけそうにない。
 サンハォは花束を高く掲げて、叫びつづけた。
「ユウエさーん!」
 既に、ユウエの両手は贈り物でいっぱいだ。
「ユウエさーん!」
 サンハォは必死で花束を差し出した。
 ユウエはちらりとサンハォを見つめると、にっこりと微笑んだ。…ようにサンハォには見えた。
「ユウエさん…」
 サンハォは花束を取り落としたのも気づかずに、夢心地で立ち尽くした。
 

 サンハォは上機嫌で暗い川辺を歩いていた。
 思い浮かぶのは、ユウエの花のような笑顔。
「きっと、これまでに贈ってきた詩が良かったんだ!」
 サンハォは握りこぶしを作って、叫んだ。
「もう、彼女の心は俺のものだぞ。やった。やった!」
 踊りださんばかりに浮かれて歩いていく。
 花束を受け取ってもらえなかったことなど、とうに忘れている様子。
 そんなわけで、サンハォが家に辿り付いたのは、夜も更けてからのことだった。
 門をくぐり家へ入る。と、サンハォの部屋の前に、家業を継いだ一番上の兄が立っていた。
「遅かったな」
 そう、怖い顔をして言う。
 サンハォはそんな兄の様子に気づかずに、一気にまくし立てた。
「やあ、ちょうど良かった。聞いてくれよ、聞いてくれよ! ユウエさんは俺のこと好きだよ。あのユウエさんがだよ! 月白色の瞳がきれいで…」
 兄はため息をつきながら、弟を見上げた。
 サンハォはいつも、少女や女性のちょっとした笑顔やしぐさから、自分のことを好きなのではないかと、思い違いをする。
 今回もきっとそうに違いないと、兄は思った。
 末子だというので、両親が甘やかしてしまったのだろうか。両親亡き今、長子である自分が厳しく躾なければ。
「…あんなに美人なのに。すごいことだよ。あぁ、なんて素敵なんだ。なんて素晴らしいんだ…」
 いつまでも続きそうな調子に、兄はサンハォの言葉を遮って叫んだ。
「バカかお前は!」
 一喝にサンハォは目を瞬いた。
「いいか。そんな風に胡姫に貢ぐのなら、もう金はやらぬからな!」
「な、ななな。なんで、急に…」
 サンハォは魚のように口を開いたり閉じたりを繰り返した。
「だいたいお前は。この前まで、あのドゥスイの娘に夢中だったじゃないか」
 兄の言葉に、サンハォは口を尖らせた。
「そりゃあ、前のケイファちゃんは、大人しくてかわいらしかったさ。けど、もう、古老的病であんな風になっちゃったじゃないか」
「とにかく。もう、お前にやる余分な金は無い。明日にでも仕事を見つけて来い!」
 兄は言いたいことを言うと、自室へと立ち去った。
「仕事を見つけろだって…?二十五年間、一度も働いたことがないのに?」
 サンハォは自分の細長い腕と、痩せた体を見つめた。
「せっかく、ユウエさんに気に入ってもらえたのに…。お金がないと贈り物ができないじゃないか」
 サンハォは腕を組んでぶつぶつと呟いた。
「ああ!」
 サンハォは家中に鳴り響くような拍手を打つと、自室へ入った。
 灯りを点けて、巻紙を取り出す。
 墨を磨って筆に含ませると、唸り声をあげながらなにやら書きはじめた。
 ユウエへの愛の詩でも書いているのだろう。
 やがて、紙を文字で埋め尽くすと、サンハォは筆を置いた。
「よし。明日の夜が楽しみだなぁ!」
 サンハォはニンマリと笑うと、寝台へもぐりこんだ。
 既に、仕事を探さなければならないことを忘れている様子。
 「番紅花」で必要な酒代を、どうやって工面するつもりなのやら…。

 さて。

 次の日の朝。
 場所は「番紅花」の二階。
 椅子に座ったシィアンとタンダオの前に、一人の男が立っていた。
 彼は頭を垂れて、汗を流しながら必死にシィアンに頼みこんだ。
「どうか、お願いします。グィ夫人。飛蝗が大発生して、畑が全滅してしまったのです」
 シィアンはすっと立ち上がると、窓へ近づいた。
 竹を模した格子に手をかけて、穏やかな川の流れを見つめる。
「グィ夫人。お願いします。来月こそは返しますから、どうか今月はご勘弁を」
 シィアンはくるりと振り向いた。
「言い訳は必要ない。畑だの、飛蝗だの、私には関係ないこと」
 冷たく言い放つ言葉に、男はうめき声をあげた。
 ここ「番紅花」の昼の顔は、高利貸しだった。
 シィアンは冷淡な女主人を務め、容赦なく取り立てた。
「約束は守ってもらいます。今日中に、他所から借りてでも、利息分6幣だけでも用意なさい」
「そんな…、そんなの無理だ」
 青い顔をして男は呟いた。
 その時。
「何だ!?」
 タンダオが小さな悲鳴をあげて、部屋の隅を指差した。
 小さな布包みから、一筋の白い煙が立ち昇っている。
「…そ、そんな!」
 シィアンは叫び声をあげて、布包みに駆け寄った。
 大急ぎで布を解くと、あの水差し型の香炉が現れた。
 注ぎ口から次々と煙が出てくる。
 香りはない。
 シィアンは震える指で香炉の蓋を開けた。
 タンダオが覗きこむ。
 中は空だ。
「ま、魔術…の品」
 タンダオは呟きながら後退った。
 煙はどんどんと溢れるように湧き出して、部屋中へ広がっていく。
 呆然と立っていた男は、悲鳴を上げて駆け出した。
「うひゃぁ〜」
「あ、待って!」
 シィアンは叫んだ。
「待って。利息はいらないから!」
 男は扉に手をかけた姿勢で、ぴたりと立ち止まった。
 振り向いた男の顔は、煙で霞んでよく見えない。
「来月まで返さなくていいから!」
 シィアンは大声で叫んだ。
 まだ、煙は出つづけている。
「もうっ。返さなくていいから、止まって!」
 シィアンは顔を真赤にして叫んだ。
 その途端。
 煙は跡形も無く消え去った。
 扉に手をかけたままの男は、恐る恐る口を開いた。
「…あの、本当に返さなくてもよろしいので?」
「ええ。いいから、もう帰ってちょうだい」
 シィアンが手で、追い払うしぐさをしながら言う。
 男は大喜びで廊下へ飛び出していった。
「いったい…、どうなっているんです?」
 タンダオが男の背中を見送りながら訊く。
 それには答えずに、シィアンは両手でしっかりと香炉を持ち上げた。
「やっぱり、本物だったわ」
「何がです? その香炉はいったいどこで手に入れたのです?」
 タンダオはシィアンの傍へにじり寄った。
「よろずやで手に入れたの。煙が出ないようにしていられれば、願いが叶う香炉なのよ」
 シィアンはうっとりと香炉を見つめながら言う。
「…まさか。願いが叶う道具なんて」
 タンダオは両手を上げて、信じられないというように首を振った。
「きっとレントウも帰ってくるわ!」
 シィアンの黒い瞳が潤んだ。
「レントウ…。あなたの、息子さんですね」
 タンダオはシィアンの瞳を見つめながら、呟くように言った。

 昼近くになってようやく起きたサンハォは、兄嫁に外へと叩き出された。
 仕事を見つけて来いというのだ。
 サンハォは仕事を探す気などさらさら無く、市をぶらぶらと見物して歩いた。
「緑豆包子、二環。たった今、作ったばかりだよ!」
「美味しい焼餅だよ!黄菜焼餅。胡麻焼餅。さあ、さあ」
 サンハォは屋台に近づくと、胡麻焼餅を買い求めた。
 熱々の焼餅を、昼食代わりにほお張りながら歩く。
 人垣を覗きこむと、道の真中で猿が逆立ちをして芸を見せていた。
 次の通りでは、派手な衣装を着た男が二人。西域風の魔術を披露している。
 サンハォは糖果細工の屋台の前で立ち止まった。
 鮮やかな紅色の糖果を、職人が曲げ伸ばししていく。よく練った部分は色が薄まり、淡い桃色と紅色の花びらを持つ、桃の花が出来上がった。
 こんどは緑と青の糖果を巻き取り、練り上げていく。棒で鱗の形をつけて行くと、あっという間に龍の姿になった。
「見事なものだねぇ」
 感心しているサンハォの耳に、ふと、どこからか鈴の音が聞こえてきた。
 サンハォはきょろきょろと辺りを見回した。
 聞き覚えのある音。
 よく知っている鈴の音と同じ音だ。
 サンハォは鈴に誘われるように、音の聞こえる方へと足を進めて行った。
 幾つもの角を曲がり、狭い路地を潜り抜ける。
 次第に鈴の音が高く響き、胡琴の音色まで聞こえてきた。
 いつも「番紅花」でユウエが踊っている曲だ。
 もしかしたら、ユウエがどこかに居るのではないか。
 そんな思いが、サンハォの足を速めた。
 やっとたどり着いたかと思っても、今度は向こうの通りから聞こえはじめる。
 一度大きくなっても、別の場所へ。まるで、移動しているかのように。
 サンハォの脳裏には、先になって通りを歩いて行くユウエの姿が思い浮かんでいた。
 さらさらの金髪には、昨夜サンハォが用意した真っ赤な薔薇の花飾り。
 いつもの、鈴のついた腕輪をつけて、サンハォに場所を知らせるように、わざと手を振りながら歩いていくのだ。
(あぁ、ユウエちゃぁん。今、追いつくから待っててね)
 サンハォは、ユウエと追いかけっこをしているような気分になっていた。
 どのくらい歩いただろうか。
 サンハォは既に、自分がどこへ向かっているのか判らなくなっていた。
 ふと、寒さを感じて辺りを見回す。両脇には古い煤けた家々が立ち並んでいる。
 つい先ほどまで昼だったというのに、いつのまにやら薄暗い。
(こんな街中で霧?)
 サンハォが驚いていると、あっという間に、脇の古い家並みが霧に飲みこまれた。
 目の前が真っ白だ。自分のつま先すら見えない。
(ここはどこだ? 仙界にでも来たのか?)
 鈴と胡琴は、より一層大きな音を響かせている。
 サンハォは音だけを頼りに、ゆっくりと歩いていった。
 
 乳白色の世界をどのくらい歩いただろうか。
 霧の中を歩いているというのに、サンハォの髪も服も乾いたままだ。
(何か妖怪にでも騙されているんじゃないだろうか)
 そう、サンハォが考えたとたんに、目の前に草葺きの小さな建物が現れた。
 壁の半分を覆うくらいの板に、「満足千万人的欲求・よろずや『漂亮』」と、真っ黒な文字で書いてある。
「よろずやだって!?」
 サンハォは思わず、口に出して叫んでいた。
 気が付くと、先ほどまで聞こえていた鈴や胡琴の音が止んでいる。
 このよろずやから聞こえていたのだろうか。
 サンハォは首を傾げながら、「漂亮」の中へ入っていった。
 さて。

 狭い店内は薄暗く、土の床に木箱や籠が転がっていた。
 屋根は草葺きだろうか。隙間から一筋の光が射しこんでいる。
(光…。そうだ。霧はもう晴れたんだろうか)
 サンハォは閉めたばかりの板戸に手をかけた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
 声に振り向くと、一人の男が立っていた。
 背が高く、整った顔立ちをしている。
「私はここ漂亮の主、ワン・ジンユーです」
 男は胸に手を置いて、優雅に頭を垂れた。
(小屋みたいな店なのに、随分と不似合いな店主だ)
 サンハォは鼻を鳴らせて臭いを嗅いだ。
(狐や蛇などの生き物は、年を経ると人に化形し妖力を持つというけど…)
 獣の臭いや生臭さはない。
「どうぞ、こちらへ」
 店主はにこやかな笑みを浮かべて、店の奥を指し示す。
「いや。特に用があるんではなくて。その、深い霧で迷いこんでしまって」
 サンハォの言葉に、店主はにこやかな笑みを浮かべたまま答えた。
「霧ですか、珍しいですねぇ。お茶を入れますから、どうぞ休んでいってください」
 店主の示す方を見ると、古びた卓子が一つ。布張りの椅子が二つ。
 卓子の上には、陶器の茶具が一揃い並んでいる。
(そういえば、ずっと歩き通しで何も飲んでいなかった)
 サンハォは店主の言葉に従うことにした。

 小さな茶杯に濃褐色のお茶が注がれると、濡れた樹皮のような香りが仄かに漂った。
 サンハォは茶杯を持つと、一口含んだ。舌の上に甘い味が広がる。
 ふと、顔を上げると、店主の後ろで何かが光っていた。
 天井に届く高さまで、積み上げられた麻袋。
 そのうちの一つから、小さな銀色の棒のようなものが飛び出している。
 そのすぐ横にある大きな木箱からは、茶色の毛のようなものがはみ出ていた。
(変なものばかりある。いったい何に使うんだ?)
 サンハォの視線を感じたのか、店主は口を開いた。
「ここにあるのは、『古老的文明』時代に作られた物です。あなたの求めに合う物も、きっとありますよ」
「『古老的文明』だって!? こんな庵みたいな所に?」
 サンハォは大声を上げた。
 今では、「古老的文明」時代に作られた物は数少なく、貴重だという。それが、こんなところに、無造作に転がっているなんて。
(ここは一体何なんだ? この男、何者なんだ?)
「私はただの、よろずやの店主ですよ」
 サンハォは驚いて、立ちあがった。椅子が大きな音を立てて、ひっくり返る。
「どうです? 叶えたい願いなど、ございませんか」
 店主は笑顔で言う。
 サンハォは後退った。
(心を読まれた? 法力か妖術を使うのか?)
「好きな相手がおありなら、これなんていかがでしょう」
 店主は磨いた水晶のように透きとおる、青い小石を取り出した。
「これを身に付けていれば、好きな相手に好意を持ってもらえますよ」
「好意を?」
 サンハォは倒れた椅子を直して腰をおろした。
 脳裏に微笑むユウエの姿が浮かぶ。
(もう、好意は持ってもらってる)
「では、これはどうでしょう」
 店主は布袋を卓子に載せる。
 サンハォが身を乗り出すと、店主は口を開いた。
「好きな相手と二人っきりになることが出来る道具です。近づきにくい相手にぴったりですよ」
 サンハォは酒家「番紅花」を思い浮かべた。
 胡姫はいつも体格の良い男たちに守られている。
 彼女たちは独りで外に出ることはないし、どこに住居があるのか秘密にされている。
(もしも、ユウエちゃんと二人っきりになれたら…)
 サンハォは卓子に肘をついて、両手に顎をのせた。
「あぁ…」
 うっとりと目を細めて、幸せなひと時を思い浮かべる。
「ただし、これは一度だけしか効果がありません」
 店主の言葉で、サンハォは現実に引き戻された。
「こちらは…」
 店主は説明しながら、小さな陶壺を卓子に置いた。
「道具ではなく、薬ですが。好きな相手に自然に近づくことができます」
 サンハォは陶壺を見つめながら訊いた。
「薬だって?」
「はい。これを体に塗るだけでいいのです」
 答えながら店主は蓋をずらした。灰青色の中身がちらりと見えた。
 サンハォは興奮して叫んだ。
「すごい。これはいい!」
「八環です」
 店主がにこやかに言う。
「八環…」
 サンハォは頭を抱えた。
 家を出たときには、八環持っていたのだ。けれど、焼餅に二環使ってしまった。
「…少し、値下がりませんか?」
 サンハォの言葉に、店主は笑みを浮かべたまま答えた。
「では、十六環で」
「はぁ? 安くしてくれって言ってるのに!」
「判りました。三十二環でいいです」
 冗談なのか本気なのか、店主は涼しい顔をして言う。
(…最初の値段は言い間違いだったのか? 「古老的文明」時代の道具なら、安いはずがない)
「こちらは四環。こちらなら、三幣ですよ」
 店主は初めに青い小石を、次に布袋を示した。
「三幣!」
 サンハォは目を丸くして、布袋を見つめた。
(一回しか使えない道具が、どうして高いんだ?)
「お茶でも飲みながら、考えてください。淹れ直しますから」
 そう言って店主は立ち上がると、茶具の乗った盆を持って奥へと引っこんだ。
 サンハォは唸り声をあげて、卓子の上を見ていた。
(この小石なら買える。でも必要ないからなぁ)
 サンハォは陶壺を見つめた。
(塗ったらどうなるんだろう)
 店主が戻ってくる気配はまだない。
 サンハォは陶壺に手を伸ばした。
 そっと蓋をずらして、中に指を突っこむ。
 冷たく滑らかな触り心地だ。
 すくい上げると、指に半透明な皮膜をつくり、とろりと壺に滴った。
(薄く伸ばすくらいなら、ばれないかもしれない)
 サンハォは手の平に軟膏をすくい取り、大急ぎで顔や首に塗りたくった。
(戻ってきませんように)
 心の中で祈りながら、袖をまくって腕や肩に擦りこんだ。
 壺の中身を平らに撫で付けて、蓋を閉めた。
 すると、ちょうど盆を抱えた店主が戻ってきた。
(見られた!?)
 サンハォはあわてて手を卓子の下へ引っこめた。
 店主はサンハォを見つめて、口を歪めて笑った。
が、うつむいているサンハォは気づかなかったようだ。
「お待たせしました。どれがいいか決まりましたか」
 店主の言葉にサンハォはホッとすると、懐を探った。
「これに決めましたから」
 青い石のそばに、取り出した四環を置く。
 店主は石をつまんでサンハォへ手渡した。
「相手から見えるように身に着けてください。穴がありますから、紐など通すとよいでしょう」
「判りました。それじゃあ、急用を思い出したんで、これで」
 サンハォは冷たい石を握りしめて、逃げるようによろずやを後にした。

 シィアンは町の中を当てもなく歩き回っていた。
 横には、シィアンを守るようにぴったりと、タンダオが寄り添っている。
「シィアン。また同じ所に出ましたよ」
 タンダオの言葉に、シィアンは今日何十回も繰り返した言葉を呟いた。
「変だわ。前は確かに、この辺りにあったのに」
 タンダオは大げさに首を振って、ため息をついた。
 シィアンがしっかりと抱えている布包みには、あの不思議な香炉が入っている。
 彼女はどうしても、よろずやに確かめたいことがあった。
 どのくらいの間、欲を絶てば願いが叶うのか。
 一度煙が出た香炉でも願いが叶うのかどうか。
「もうそろそろ戻りませんか? 先程尋ねた老人も『漂亮』なんて店は知らないと言っていたでしょう」
 シィアンは、そのタンダオの言葉を聞いていなかった。
 前方を睨むように見つめている。
「どうしました、シィアン?」
 タンダオはシィアンの目線を辿った。
 若い男が一人。きょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。
 ひょろりと背が高く、青白い顔をしている。
「…レントゥ!!」
 そう叫ぶなり、シィアンは駆け出した。
「え? 待ってください。シィアン!」
 タンダオはあわててシィアンを追いかけた。
 シィアンは若者に飛びついて、声を張り上げて泣きはじめた。
 若者は目を丸くして、落ち着きなく辺りを見回している。
 タンダオは若者に近づいて、声を掛けた。
「あなたが、シィアンの息子さんですか」
 若者はただ困ったような表情を浮かべている。
 グィ家の血を濃く引いているのだろうか。シィアンには少しも似ていない顔立ちだ。
「私は胡族のタンダオ。グィ夫人のおそばに仕えております」
 タンダオが大仰に頭を下げて挨拶すると、若者は見る見る目を輝かせた。
「あの、酒家『番紅花』の!」
 若者の言葉に、シィアンは涙で濡れた顔を上げた。
「あれは、しょうがないの。…あなたが、ああいうお店が嫌いで、だから家を出て行ったって、判っているわ」
 若者の腕にすがるようにして、シィアンは続けた。
「でも、お店を続けないと、今まで働いてくれていた人たちが路頭に迷ってしまう。あなたも判るでしょう? お父様のお店を潰すわけには行かないでしょう?」
 若者はこくりと頷いた。
 シィアンは若者の腕を掴んで言った。
「判ってもらえて良かったわ。ねぇ、レントゥ。これからはずっと家に居てもらえるのでしょう?」
 若者が何度も頷くのを見たシィアンは、満面に笑みを浮かべた。
「良かったわ。さあ、早く家に帰りましょう」
 シィアンと並んで歩いていく若者の胸で、青い小石が揺れていた。
 タンダオは首を傾げながら、二人の後ろをついていった。

 さて。

 レントゥが帰ってきてから一週間。
 タンダオは常に疑問に思っていた。
「レントゥは本当に、シィアンの息子なのだろうか」
 母親が「息子だ」と、認めているのだから間違いないのだろう。けれども、初めて会った時の違和感が、どうしても消えないのだ。
 タンダオは立ち上がると、隣の部屋へ入った。
 予想していた通り、レントゥが居た。
 西域の長椅子に、肘をついて横になっている。
 浅黒い顔には、へらへらとした薄ら笑い。胸にはいつもの、瑠璃のような青い石。

 ここは酒家「番紅花」の奥に隣接したグィ家の屋敷だ。数人の使用人と共に、シィアン、レントゥ、タンダオの三人が暮らしている。
 レントゥは母親の恋人であるタンダオを気に止める風もなく、勝手気ままに毎日を暮らしていた。
「レントゥ様。ユウエさんがいらっしゃいました」
 使用人の声に、レントゥはあわてて起き上がった。
 椅子の下に置いていた大きな包みを抱えて居間を飛び出していく。
「ユウエちゃーん。待ってたんだよぉ」
 あの包みの中には、おそらくユウエへの高価な贈り物が入っているのだろう。
「やれやれ」
 タンダオは両手を上げて、大きく首を振った。
 お金を持たせると、レントゥはすぐに胡姫に貢いで使い果たしてしまう。
 酒や食料を買い付けに行かせると、安物を高く買わされて大損。
 珍しい品と聞けば、どんなにつまらないものでも買いたがり、賭博で負けては身に付けている金目の物を取り上げられる。
 シィアンはレントゥのおかげで財産を減らしているというのに、彼のやることには甘い。今は仕事が出来なくても、少しづつ覚えていけばいいと考えているようだ。
 タンダオはため息をついた。
 
 一刻の後。
 レントゥの胸から、あの青い石が消えていた。
   シィアンはレントゥの許しを得て、高利貸を再開した。「番紅花」の二階の窓から、白い煙が吐き出されはじめた。

 一週間後。
 風がそよぎ、朝の光が射しこむ中、シィアンは浅い眠りについていた。
 先に目を覚ましたタンダオは、静かに寝台から滑り降りて、彼女の寝顔を見つめた。
 細かい皺で覆われ、染みのある肌。
 たるんだ頬や腕。
 艶のないもつれた髪。
(…前からこうだっただろうか。別人のようだ)
 タンダオのが眉を寄せていると、シィアンは目を覚ました。
「おはよう、タンダオ」
 甘えるような声で囁き、タンダオの腕を引き寄せて目を瞑った。
 接吻を迫っているのだ。いつものように。
 けれど、甘え声は耳障りな唸り声にしか聞こえない。
 欲情どころか、湧いてくるのは恐怖心。
(これに、接吻するのか)
 タンダオは、見たことの無いものを見つめるように、シィアンを見ていた。
(これまでの自分が信じられない。どうして、これを美しいなどと思っていたのだろう)
 朝の光の為だろうか。
 それとも、息子が帰ってきてから変わってしまったのだろうか。
「もう。タンダオったら、焦らさないで」
 シィアンが薄目を開いて、タンダオを見つめた。
 背中を一筋の汗が流れるのを覚えたタンダオは、大急ぎで接吻を済ませると逃げるように部屋を出た。
 開店前の「番紅花」の一階で、一人タンダオが佇んでいると、ユウエが入ってきた。
「タンダオさん」
 そう、声をかけてユウエはにっこりと微笑んだ。
 張りのある白肌。柔らかそうな唇。澄んだ瞳。
(シィアンとは大違いだ)
 タンダオは、ぼんやりとユウエの顔を見つめていた。
「タンダオ様?」
 ユウエの声に、タンダオは我に帰った。
「ええと。レントゥ様なら、奥のほう。家に居ると思うよ」
 ユウエは頬を赤らめて、口を開いた。
「いいえ。私が用のあるのは、タンダオ様です」
 彼女の白い胸元で、青い石が輝いた。
 
 夕刻を告げる鼓楼の音が町中に鳴り響いている。
 酒家「番紅花」は大勢の客で賑わっていた。
 使用人が忙しく動き回る中、タンダオはぼんやりと佇んでいた。
(これからどうしようか)
 ふと、鮮やかな紅色と金色が目に飛びこんできて、タンダオは目をこすった。
 よく見ると、紅色の絹衣を身に着け、翡翠飾りのついた帯を巻いたレントゥ。そして、金の髪飾りと胸飾りをつけたシィアンの姿だった。
 髪を結い上げ、まぶたは青く、唇には紅を引いている。
 だが。
 タンダオの目には、今朝のシィアンの姿が焼きついて離れない。
(もう、彼女のことは愛せそうにない)
 タンダオは深いため息を吐いた。

 一刻の後。
「タンダオさん!」
 受付係の者が、店の奥にいたタンダオの元へ駆けこんできた。
「なんだ、どうした?」
「人を探しているとかで…」
 受付係についていくと、店の隅に一人の中年の男が立っていた。
「何か?」
 タンダオを見上げて男は口を開いた。
「忙しいところすみません。こちらの店にサンハオという者が、何度も来ていたはずなんですが」
「う〜ん」
「ご存じありませんか…。ちょうど2週間ほど前から行方不明なんです」
「二週間前…」
 タンダオは腕を組んだ。
 丁度レントゥが来た時期と重なる。
(いや、まさかね)
 男は続けた。
「行きそうなところを当たってみているんですが、こちらで最後なんです」
「どんな方なんですか」
 タンダオが訊くと、男は頭を掻きながら答えた。
「出来の悪い弟なんです。怠け者で。胡姫に熱を上げていて」
(誰かに似ている…)
 タンダオは咳払いを一つして、口を開いた。
「外見はどんなでしょう?」
「背は高いほうで、痩せています。それから、ええと…」
 ふと、店の奥を見たタンダオは、こちらの様子を覗っている人影を見つけた。
 顔は隠れて見えないが、柱の影から見えている衣の裾は鮮やかな紅色だ。
 タンダオは口を開いた。
「昼過ぎにようやく起きてきて、起きたと思ってもすぐに横になりたがる。先のことを考えずに、お金はすぐに使い果たす。熱を上げている胡姫の名前はユウエ。それから…」
「そうです、そうです! ご存じなのですか!?」
 男は顔を赤らめて、大きな声を出した。
「ええ。そういう男なら一人、心当たりがあります」
 そう言いながら、タンダオがちらりと柱の方を見つめると、覗いていた男はあわてて逃げ出した。
 帯の翡翠が光っている。
(やはり、レントゥだ。いや、レントゥになりすましているサンハォとかいう奴か?)
 タンダオは逃げる男を追い始めた。
 
 男は、卓子の上の物を撒き散らしたり、椅子をひっくり返したりしながら、屋敷の中を逃げていく。
 走り回っているうちに、廊下や部屋に煙が立ちこめはじめた。
 二階の香炉から漂う煙だろうか。
「早く逃げろ」
「火事だー!」
 どこかで誰かが叫んでいる。
(火事だって? これは、香炉の煙じゃないのか?)
 煙は一層濃くなり、前に何があるのかさえ見えない。
 どこからか、焦げるような臭いが漂ってくる。
(まさか、本当に火事なのか?)
 手探りで戸を開けると、熱気を帯びた風が吹いてくる。
(本物だ。逃げなければ)
 前方で咳きこんでいる男の姿が見える。
 タンダオは男の腕を掴むと、引きずるようにして屋敷を出た。

 赤々と燃える炎は、酒家「番紅花」と屋敷を包みこんでいた。
 大勢の者が、壺や桶を持ち、川の水を汲んで消火に当たっている。
 だが、炎の勢いは少しも弱まらない。
「ああ。私の家が。私の店が。私の財産が〜」
 シィアンは膝をついて座りこみ、火の粉を浴びながら泣き叫んだ。
 煤だらけのタンダオと男が立っていると、消火していた男が近づいた。
「おやおや、二人とも真っ黒だ。火傷してたら大変ですよ」
 頭から冷たい水をかけられて、タンダオは思わず男の手を放した。
「わあぁぁ!」
 男は大声で叫びながら、両手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
「まあ、レントゥ。どうしたの? どこか痛いの?」
 真っ赤な目をしたシィアンが、大あわてで駆けつけた。
 タンダオが力ずくで顔に当てている手を離す。
 すると。
 現れたのは、別の顔。
「…お前は、誰!?」
 シィアンは男を指差したまま、その場に凍りついた。
「やっぱりな。お前はサンハォって奴だろう」
 タンダオに小突かれて、男は震えながら頷いた。
「な、なんですって? 今まで騙していたの!?」
 シィアンの叫び声に、使用人が集まってきた。
「レントゥ様じゃないだって!」
「今まで一体どうやって化けてやがったんだ?」
 男たちに殴られながら、サンハォは両手でびしょ濡れの頭をかばうようにしながら口を開いた。
「ち、違うんだよぉ。痛てて。ま、待ってくれ。俺はただ、『古老的文明』の薬とかってのを使っただけなんだよ〜」
「嘘つくんじゃねぇよ」
「もしかして、お前が屋敷に火をつけたんじゃないのか?」
「そうだ、きっとそうだ」
「ち、違いますってば。『漂亮』ってよろずやに行ったんですよぉ」
 サンハォの言葉に、シィアンは大声を上げた。
「『漂亮』ですって!?」
 サンハォが頷くと、シィアンはわなわなと震えた。
「あの店! あの店主。許せない。許せないわ。『願いが叶う』って言っていながら、偽者をよこすなんて!」

 消火も虚しく、酒家と屋敷は残骸を残して燃え尽きた。
 ようやく白みはじめた空の下、シィアンとタンダオ、胡姫や使用人たち、そしてサンハォとその兄が無言で立っていた。
 川から吹きつける風が、灰を花吹雪のように散らしている。
 その灰を踏みしめながら、近づいてくる一人の若い男がいた。
 グィ家の屋敷跡を見つめて、呟く。
「…見事に何も無くなりましたね」
 ひょろりと背が高く、痩せている。
 その顔は。
「レントゥ? 本物…なの?」
 シィアンは信じられないというように、男を見つめた。
「はい。この町の人から『グィ家に息子が帰ってきた』っていう噂を聞いたんです。それで、噂を確かめに帰ってきたら、今度は『火事だ』って言われて」
「レントゥ!」
 シィアンは男に飛びついた。
「レントゥ。ああ、レントゥ。本当に…」
 レントゥは黙って、シィアンの背中に手を回した。
 
 
 夜明けを告げる鐘楼の音が鳴り響く中、使用人と胡姫たちは新しい働き先を求めてグィ家の敷地を去っていった。
 胡姫の中でただ一人、ユウエだけが残っていた。
 タンダオの傍らで、彼に何か相談している。
 サンハォはそんなユウエの姿を、ぼんやりと見つめていた。
(あぁ、ユウエちゃん。いい匂いがしていた…)
 サンハォの兄は、シィアン親子と商売の話をしている。
(ユウエちゃん。働き先なんか、探さなくってもいいんだよぉ。俺が養ってあげるぅ)
 サンハォが妄想を膨らませている間に、タンダオとユウエはシィアンの側へ来た。
「これまで、お世話になりました。二人で、故郷へ帰ろうかと思っています」
 二人は揃って頭を下げた。
 シィアンは頬を染めているユウエを見てから、タンダオの顔を見上げた。
「…そう。旅の無事を祈っているわ」
 シィアンの言葉に二人は同時に口を開いた。
「どうかお元気で」
「さよなら」
 二人は顔を見合わせて微笑むと、立ち去っていった。
 ようやく我に帰ったサンハォは、あわてて二人を追いかけた。
「ま、待ってよぉ。ユウエちゃ〜ん」
「やめんか、ばか。みっともない」
 サンハォの兄は、弟の腕を掴むと、引きずるようにして連れ戻した。
「離せっ。あぁ、行ってしまう。ユウエちゃ〜ん!」
 ユウエの背中に向けて手を差し伸べながら、サンハォは叫んだ。
「ユウエちゃ〜ん!!」
 サンハォの声を背に、タンダオとユウエは歩いていった。
 ユウエの胸元では、あの青い石が朝日を受けて輝いていた。

(了)  

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