よろずや「漂亮(ピオラン)」奇効奇談

〜物忘れの激しい男、漂亮を訪れること〜

 この世のどこかにその店はあるという。その名は「漂亮」。
 どんな願いや望みも叶う、不思議な薬や道具を扱うのだという。
 「漂亮」に行ってみたいと思いますか? まあ、お待ちなさい。

 あなたの願いや望みを叶えられてしまう前に、この話をどうぞ。

 白い。ぼんやりと明るい、白い霧のようなものがあたり一面に広がっている。
 瞬きを何度繰り返しても、見えているものは白一色。自分の手……は見える。身体も。だが、つま先と地面は見えない。
 ここはどこだ?
 私は、何で、独りでこんなところにいるんだ?
 何も思い出せない。考えようとすると、眩暈がする。
 足を動かした途端に、身体がぐらついた。と、左肩が何か固いものに押しあたり、私は転ばずにすんだ。
 何だ?
 横を見ると、古い小屋のような建物に不似合いな、大きな真新しい板の看板が掛かっていた。
 磨りたての墨のように濡れている黒々とした文字で、「よろずや『漂亮』」と書いてある。その横には、走り書きのような字で「どんな願いや望みも叶う、道具・薬・在りマス」と書き加えてあった。
 よろずや……?
 ここで何か? 何も思い出せない。が、この店に入れば何かが判るかもしれない。
 朽ちかけた板の引き戸に手をかけると、戸は見た目に似合わずするりと横へ滑る。
 私はなぜかため息をついて、ゆっくりと薄暗い店の中へ入った。

 薬草の臭いと金臭さが混ざったような臭いが漂っている。
 床は踏み固められた土。どこに灯りがあるのか、ぼんやりとうす明るい光が、部屋の中を照らしている。
 壁一面の棚に、奇妙な形の道具の数々――突起のたくさんついた箱、煤けた布束、妙な形の壺や瓶、銀色に光る四角や球の塊――が、無造作に積み重ねてあった。
 何を売っている店なんだ?
 二、三歩足を進める。と、床に置かれた木箱や樽から、細長い棒や蛇のようにうねる長い紐が飛び出していて、足をひっかけそうになった。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
 突然、落ち着いた低い男の声が響いた。 
 驚いて声の主を探すと、前方に背の高い男が影のように立っていた。
 整った白い顔。まばらに垂らした長い前髪の間から、切れ長な黒い瞳が覗いている。
「ここはよろずや『漂亮』。私は店主のシィワンです」
 そう言って、店主は腰を折るようにして頭を垂れた。ついで、顔をあげると店主は口元に微笑を浮かべて続けた。
「どんな願いや望みをお持ちでしょうか?」
 願いや望み……? 私は、何か願いごとがあってこの店に来たんだろうか。
「どうぞ、こちらへ。お茶でも飲みながら、ゆっくりしていってください」
 店主は、古びた布張りの椅子と螺鈿細工の丸い卓子を示した。
 卓子の上には茶盤にのった茶道具がひと揃え置いてある。店主に勧められるまま、私は椅子に腰をおろした。
 なぜか左肩が痛む。私は右手で左肩をさすりながら背もたれにもたれかかった。
 店主は慣れた手つきで、ぽってりとした形の黒い茶壷を操る。細長い指だからか、どこか優雅な動きだ。
 目の前の小さな陶製の茶碗に、黒色のお茶が注がれた。
「どうぞ」
 茶碗を差し出しながら、店主は微笑んだ。
 受け取って一口飲むと、口中に燻したような香りが広がる。
 すべすべとした茶碗を持ちながら、どこかでこのやりとりを知っているような気がした。いつか、どこかで、既に……。
「どうかされましたか?」
 店主の言葉に、私は口を開いた。
「思い出せないのです。……そう、何かお願い事があってここへ来たような気がするのですが、何も……」
 そうだ、私は誰だ? 名前も家も職業も、思い出せない。
 ふと、顔をあげると、店主の黒い瞳の中に自分の顔が映っていた。
 私の目の中にも店主が映っているんだろうか? そして、その映っている店主の瞳の中にも私の顔が……?
 私は軽い眩暈を感じて、残りのお茶を一気にのどへ流した。
 そういえば、この店主はなんと名乗っていた? この店の名は何だっただろうか?
 私は茶碗を卓子の上へ置いて、ため息混じりに言った。
「なぜ、こんなに何もかも忘れてしまうのだろう?」
 目の前の男は、静かな笑みを浮かべたまま薄い唇を開いた。
「良い薬がありますよ」
 男はくるりと後ろを向いた。一つに束ねた長い黒髪が、男の広い背中で揺れる。ごそごそと木箱を探って取り出した小瓶には、赤い小さな粒が入っていた。
 男は卓子の中央に小瓶を置いて説明した。
「これは、何もかもを思い出すことができる薬です。ただし、薬の副作用として、少し時間が戻ってしまいます」
 私はまじまじと赤い薬を見つめた。やや扁平な球形をして、つやつやと光っている。
 そういえば、ここは店だっただろうか。
「おいくらですか?」
 私の問いに店主は微笑んだ。
「お代は既にいただいておりますから」
 ……そうだっただろうか? 思い出せない。
 私が手の平を差し出すと、店主は一粒だけ薬を落とした。
「どうぞ」
 店主は茶碗に白湯を注いで差し出した。
「どうも」
 私は白湯で薬を飲みこんだ。
 ……これで、何もかも思い出すことができる。忘れていたことを全て。この薬をもらうことこそが、この店に来た目的だったような気がする。
 私がほっとして立ち上がると、店主が付け加えるように言った。
「そうですね、ちょうどあなたが店を出る頃に、薬が効きはじめるでしょう」
 その時、店主の口元が歪んで、ニィっと笑ったように見えた。

 板の引き戸を後ろ手に閉めて、私は霧の中に佇んでいた。
 そう、薬を飲んだ。赤い薬だ。さっきの行動だ。
 その前には黒いお茶を飲んでいた。古い布張りの椅子に座って。目の前には、黒くて丸い卓子。
 店の名は「漂亮」、店主の名は「シィワン」だ。思い出したぞ。
 それから、床をうねるように飛び出ていた紐に足をひっかけそうになって……それから、店に入る前、真新しい「漂亮」の看板をぼんやりと見つめている。
 今と同じように、真っ白な霧の中にいた。その前は……。
 薄暗い場所だ。奇妙な道具が置いてあって、足元には長い紐――「漂亮」の中だ。
 白い整った顔に切れ長の黒い瞳の店主。薄い唇が歪んで、ニィっと笑う。そして……店主から貰った薬を飲んだ。そう、黒い小さな薬だ。
 何もかも忘れなければいけない。忘れたかった。
 その前は……カラの陶器の茶碗をぼんやりと見つめている。お茶の表面に自分の顔が映るのが嫌で、一気にお茶を飲んだ。
 あの店主と目を合わせたくない。恐ろしい。恐ろしい。
 だが、私は店主の様子をうかがって、ちらりと見てしまった。
 漆黒の闇のような瞳が、じっと私を見ている。
 彼の黒い瞳の中に、小さな小さな私の姿が見える。その、瞳に映っている小さな私の顔の瞳にも、彼の姿が映り、その彼の瞳の中にも私が映る。
 映っている私の瞳に映っている彼の瞳に映っている私の瞳に映っている彼の瞳に映っている私の瞳に映っている彼の瞳にも、私の瞳が……。
 ……霧の中に佇んでいる。そう、今と同じように、店の戸口に左肩を向けて。
 そうして、あの時にも、何もかもを思い出していた。今と同じように、起こったことの全てを。
 霧の中と店の中、もう、くり返している。何百回、何千回、何万回も、同じことを繰り返し、繰り返しつづけて……。
 眩暈がしてよろめいた私は、「漂亮」の戸口に左肩をぶつけた。
 ささくれだった、朽ちかけた戸板の表面に左手を這わせる。肩の痛みが、私を現実に引き戻してくれた。
 そうだ、何もかも思い出してしまう前に、全てを忘れなければ。
 私はため息をつくと、引き戸をするりと横へ滑らせて店の中へ入った。

 もし、あなたが願いや望みを胸に抱いているなら、どうぞ気をつけて。
 あの店主に、うっかりと胸のうちを話してしまったりしないように。
 願いや望みを叶えられてしまわないように。

(了)  

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