夜降雪

 誰も踏んでいない地面を踏みしめるたびに、霜柱が音を立てて崩れる。
「サクッ、サクッ、ザクッ」
 少女は霜柱の崩れる音を、調子をつけて口真似しながら、自分の足跡をつけるのに夢中だ。
 牛小屋の前をすべて踏み固めて、今度は隣の牧場との境にある柵を目指して霜柱をつぶしていく。
 そうして、地面を靴跡でいっぱいにした少女は、顔を上げて辺りを見まわした。
 少女の頬は紅く色づき、吐く息は真っ白だ。
 柵の向こうでワラを運んでいた男は、少女の様子に目を留めると口を開いた。
「おやおや、ミシュトゥ。顔を真っ赤にして。今日は早く帰ってあったかくしていなよ」
「どうして?」
 ミシュトゥが首をかしげると、男は空を見上げた。
「ごらん、厚い雲が見えるだろう?冷えてきているし、今夜も雪になるよ」
「雪……」
 ミシュトゥは男と同じように空を見つめた。
(今夜がちょうどいいかもしれない)
「ほらほら、早くお帰り。すぐに暗くなってしまうよ」
 男に促されて、ミシュトゥはぬかるんだ土の道を駆けていった。


 戸の隙間からわずかに射しこんでいた灯りが消えた。
 ミシュトゥは暗闇の中で目を開けると、息を殺して辺りをうかがった。
 すぐに壁の向こうから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 ミシュトゥは素早く寝台から滑り降りた。
 靴を履き、外套をはおり、音を立てないようにそっと部屋を出る。
 ミシュトゥは椅子の上に置いてある白と黄色の布を手に取ると、少し考えてから両方を重ねて肩にかけた。
(タリカの分も必要だものね)
 ランプとほくち箱を持つと、ミシュトゥは外へ出た。

 暗闇が辺りを覆っている。空は星一つ見えない濃灰色。
 ミシュトゥは道具小屋の陰へ歩いていって、ランプに火をともした。
 黄色い光を頼りに、静まりかえった牛小屋の前を通り過ぎて歩いていく。
 やがて、石造りの古びた小屋にたどり着いた。
 ランプを足元に置くと、ミシュトゥは重い木戸を押した。
 全体重をかけるように両手で押す。ゆっくりと、きしみながら戸が開いていく。
 ミシュトゥは隙間に体を滑りこませると、そっと声をかけた。
「タリカ、起きてる?」
 声は吸いこまれるように、真っ暗な小屋の中に響いた。
(…返事がない。まさか?)
 ミシュトゥはランプを掲げて小屋の中を照らした。
 部屋の中央に置いてある木製の台の上には、埃をかぶった古い道具がたくさん転がっている。それらは「遺物」と呼ばれる過去のもので、今はもう動かないか、使い方が判らないものばかりだった。
「ああ、起きている。まだ私は無事のようだ」
 部屋の隅から声が聞こえる。
 ミシュトゥはほっとすると、壁にランプを掛けた。
「こんな夜中に珍しいね」
 タリカの言葉に、ミシュトゥはにっこりと微笑んだ。
「今夜、見れると思うよ」
「何を?」
 タリカの言葉に、ミシュトゥはため息をついた。
「約束したでしょう?タリカが起きたばかりのころだから、二ヶ月くらい前なだけだよ」
「…すまない。長いこと眠っていたせいかな。思い出すのに時間がかかるのだよ」
 ミシュトゥは、台にもたれかかってタリカの言葉を待った。
(タリカはいつもそう。色々な言葉を知りすぎていて、詰めこみすぎているから、時間がかかるのよ)
「約束…。君の一番好きな物を、冬になったら教えてもらう」
「そう! 今夜がぴったりなの」
 ミシュトゥは肩に羽織っていた布を取り去った。
「あの時は、こんなに長く無事でいられるとは思っていなかったな」
 タリカの言葉に、ミシュトゥは首を傾げた。
(また。自分はもう長くないとか、言い出すつもりなんだから……)
「タリカはずっと大丈夫だよ。ね、すぐに見に行こうよ」
 ミシュトゥは黄色の布を肩に掛けなおして、もう一枚を広げた。
「行くだって? どこに?」
「外だよ。外に出ないと、見れないものだから」
「それは何だい?」
 タリカの問いには答えずに、ミシュトゥはタリカを白い柔らかな布で包みこんだ。
 そして、囁くように付け加える。
「雪。だから、これを巻いててね」
「雪。雪は白くて冷たいモノだ。空から降ってきて、やがて融ける。…わざわざ見に行くほど珍しいモノではない」
 タリカの言葉に、ミシュトゥは眉を寄せた。
「珍しいから見せるんじゃないよ。タリカと一緒に見たいの」
「…判った」
 タリカの返事に、ミシュトゥは目を細めた。

 ミシュトゥはランプを持って、布を抱えてゆっくりと歩いて行く。うっすらと雪の積もりはじめた道を。
「雪なら、もう見えた」
 その、タリカの棒読みのような言葉に、ミシュトゥは唸った。
「まだ! もう少し」
 やがて、小高い丘に来たミシュトゥは立ち止まった。
 タリカの目に被さっている布を払い、ランプを高々と掲げる。
「ほら、これを見て!」
 灯りに照らされて、漆黒の闇の中から無数の白いものが浮かび上がった。
 ふわふわと。
 円を描きながら。回転しながら。
 広がりながら乱れ舞う。
「…これが……。一つ一つが迫ってくる。吸いこまれそうだ」
 タリカの言葉に、ミシュトゥはうなずいて言った。
「こうして見上げていると、なんだか空に近いような気がするの」
「あぁ。ありがとう。こんな光景は見たことがないよ」
 それを聞いてミシュトゥは、小さなタリカを抱きしめた。
「気に入ってもらえると思った!」
 ミシュトゥの腕の中、白い布に包まれた小さな四角い塊は、青白い点滅を繰り返しながら答えた。
「長い眠りから起こしてくれてありがとう。名づけてくれてありがとう」
 ミシュトゥはタリカの目に当たる部分にうっすらと積もった雪を払うと、再び布で包みこんだ。
 小さなタリカを抱えて、ミシュトゥは雪を踏みしめながら歩いていった。二ヶ月前にタリカを偶然に見つけた、今は使われていない物置小屋へと向かって。

−end− 

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