Sofa−Cake

 黄色い太陽がぎらぎらと輝いて、灰色の街を炙っている。
 立ち上る熱気に、アスファルトの白線も、真新しいブロック塀も、何もかも揺らいでいる。
 湿気が全身を包みこみ、肌にべっとりとまとわりつく。
 気持ち悪い。
 私は首筋にべったり張り付いた髪の毛を、片手でまとめて持ち上げた。
 風があれば少しは涼しいのに。庭木の梢も、時間が止まったみたいに動かない。
 喘ぎながら、足を引きずるように動かした。胸がむかむかする。息が苦しい。
 なんて嫌な坂だろう。
 なんでこんな坂の上に家があるんだろう。
 私は坂を登りながら、首筋をタオルハンカチで拭いた。
 坂道は西に向かってゆるやかに上っていく。だらだらと続いている。私は陽光を真正面から浴びながら、ただひたすら歩いていくしかない。
 ずっしりと重い買い物袋を肩にかけなおして、私は顔をしかめた。
 牛乳、買ってこなければ良かった。ジャガイモだって、今日は使わないのに。……今日の献立は何だったろう?
 挽肉は何に使うんだったっけ?
 頭がくらくらする。何も考えられない。
 私は足元を見つめて、ただひたすら足を動かして前へ進んた。
 ワゴン車が黒い煙と熱気を撒き散らしながら、通り越していく。
 私はため息をついた。
 すぐ横の集合住宅で、室外機が一斉に動いている。嫌な熱気が吹き付けてくる。
 ほら、これだ。
 風が吹いたと思えば、熱風なんだから。
 こんなに街が暑いのは、みんながエアコンをつけているから。みんな、自分のことだけを考えて、外を歩く私たちのことなんて少しも考えていない。
 息苦しい。肩が重い。
 私は顔の汗を拭いて、もつれる足をひたすら前へ進めた。
 やがて、家が見えた。手前のどっしりとした屋根の向こうに、少しだけ見えているこげ茶色の屋根の端が我が家だ。
 五年前に三十年ローンで買った、小さな二階建ての建売住宅。敷地は狭いけれど、小さな花壇と一台分の駐車スペースがある。
 私は再び汗を拭くと、家へ向かって足を速めた。
 帰ったらすぐにエアコンをつけよう。娘の奈菜が帰ってくるまでの間、ソファで涼んでいよう。


 鍵を開けて玄関へ入った途端に、熱気が私を襲った。閉め切っていた家の中は、じめじめと蒸し暑い。
 廊下を通ってリビングダイニングの戸を開けると、ひんやりと冷たい空気が頬を撫でた。
 私は目を見張って、その場に立ち尽くした。
 正面の出窓から、レースのカーテン越しに明るい光がさんさんと射しこんでいる。
 部屋が冷えているなんて、まさか……?
 私は恐る恐る部屋の左奥を見つめた。
 TVはひっそりと静まり返っている。TVに向かい合う形で置いてある、三人がけのブルーのソファに人の姿はない。
 私はホッとしながら、目線をゆっくり右へ移していった。
 ピンク色のビーズクッション。サボテンの鉢植えとテディベアの乗ったサイドボード。楕円系のダイニングテーブルと、セットの四人分のチェア。ダイニングとキッチンの間のカウンター。キッチンの壁に並んだ食器棚と冷蔵庫。
 出かける前と違うところは見当たらない。
 私は首をひねって、出窓の横のエアコンを見あげた。やはり、緑色の運転ランプが点いている。
 タイマーにした覚えはないのに。消し忘れたんだろうか? 
 私は首をひねりながら、買い物袋を持ったままなことを思い出した。
 いくら氷と一緒に保冷バックに入れているとはいえ、肉や牛乳は早く冷蔵庫へ入れたほうがいいだろう。
 私はダイニングを横切って、下がり壁で仕切られたキッチンへ向かった。対面式キッチンの調理台の上へ買い物袋を置く。その途端に、廊下から戸の閉まる大きな音が響いた。
 私はぎょっとして、顔をあげた。
 カウンター越しに見えたのは、ダイニングの戸口を塞ぐように立っている、バスタオルを身体に巻いた姿の肥った女。
 ぶよぶよの白い太ももに、たるんだ二段腹。むちむちの二の腕に、左と右が離れた肉感たっぷりのバスト。
 濡れた長い黒髪がうねうねと顔に張り付き、まるでメデューサか、頭に昆布をかぶったトドみたいだ。
 女は私を見つめてにんまりと笑うと、フローリングの上にぽたぽたと雫をたらしながら部屋の中へ入ってきた。
「ちょうど良かった、オバサン。シャワー浴びたら喉かわいちゃった」
 女は太った手を出しながら、まるで、当たり前のことのように言う。
 私は腹の底からふつふつと怒りがわきあがって、わなわなと肩を震わせながらくるりと背を向けた。
 また、だ。
 また、私の居ない間に、誰も居ない間に、芙美江が家へ入った。
 勝手に合鍵で家の中に入って、勝手にエアコンをつけて、勝手にシャワーまで浴びて、まるで自分の家みたいに振舞っている。
 その上、何から何まで私にやらせて、自分では少しも動こうとしないのだ。
 何か言ってやりたいのに、わめきたいのに、言葉が一つも出てこない。
 芙美江の視線を背中に感じながら、私は震える手で冷蔵庫を開けた。一リットル入りのミックスジュースを取り出しながら、冷蔵庫の棚一つを白い大きな紙箱が占領しているのに気づいた。
 今まで入れていたバターやヨーグルト、浅漬けや野菜ジュースが他の棚にむりやり押しこんである。
「ああ、そうそう。お土産にケーキを買ってきたから」
 芙美江の声が近くで聞こえて、私はぎょっとして振り向いた。
 重たい身体をカウンターの上へのせるように押し付けて、芙美江が冷蔵庫の中を覗きこんでいた。二重顎に、横に広い鼻。手入れをしたことのないようなぼさぼさの眉毛の下から、小さな黒い目でじっとケーキの箱を凝視している。
 芙美江は、いつものように唇を突き出してまくし立てた。
「ケーキ屋では、ドライアイスを入れたから二時間は大丈夫だと太鼓判を押したのだけれど、箱の中にはほとんど隙間なくケーキが詰まっているわけで。この場合、箱の中の二箇所に置かれたドライアイスから発生する気体は……」
 私は芙美江の話を聞き流しながら、箱の中にはいったい何個のケーキが入っているのだろうかと考えた。
 大きめのホールケーキが横に並んで二つは入りそうな箱だ。ショートケーキなら、確実に一ダース以上入っているだろう。
 芙美江はまだ話し続けている。大学院に行っているからか、やたら難しそうな言葉をつらつらと並べ立てるので、私はいつも訊いているうちに意味が判らなくなる。
「……一定に保つには対流が生じる必要があるのだけれど、この場合はもっとも手っ取り早く確実な方法は……」
 扉を開けっ放しにしていたため、冷蔵庫が庫内の温度を冷やそうと、唸り音をあげはじめた。
 私は芙美江の話を断ち切るように冷蔵庫の扉を勢い良く閉めて、ミックスジュースを芙美江の前へずいっと突き出した。
 芙美江は少し驚いたように小さな目を瞬いて、いつものように無言で紙パックを受け取った。
「ケーキ、ありがとう。奈菜が帰ってきたらとても喜ぶわ」
 私の言葉に、芙美江は紙パックの口を開けながら、軽い調子で応じる。
「知ってる。奈菜ちゃん、甘いもの好きでしょ。どれがいいか迷ったから、お店にあった全種類のを買ってきたよ」
 私は呆気にとられて、芙美江を見つめた。
 知ってる?
 全種類……?
 芙美江はいつものように、直接紙パックに口をつけて喉を鳴らしながらジュースを飲んでいく。そのまま一気に飲み干して、カウンターへパックを置いた。
「髪を乾かさなきゃ」と、呟くように言いながら、芙美江は戸を開け放したまま洗面所へ戻って行く。
 私は芙美江の相撲とりみたいな体が廊下に消えるのを見送って、大きくため息をついた。
 芙美江には、たぶん悪気はない。
 我慢が苦手で、自己中心的で、図々しいだけなのだ。
 私のことを「オバサン」なんて呼ぶけれど、二十三歳の芙美江のほうが、体型も行動も「オバサン」じみている。
 そういえば、芙美江が初めて私を「オバサン」と呼んだとき、私はまだ二十三歳だった。


「今日からオバサンね」
 ウエディングドレスを着た私の耳元で、フリルたっぷりのピンクのドレスを着た芙美江は笑いを含んだ声で言った。
 心地よい疲労と幸せな気持ちに酔いしれていた私は、頭から冷や水を浴びせられたように感じた。
 チュールで包んだドラジェ――砂糖でコーティングしたアーモンド菓子――を渡すのも忘れて、私は顔をこわばらせて芙美江を見つめた。
 芙美江は、場末のスナックのママみたいな濃い化粧をした顔に、薄ら笑いを浮かべて私をじっと見つめ返した。そうして、丸々と太った右腕を素早く伸ばし、私の持つカゴに入っていたドラジェの包みを全部鷲づかみにした。
 呆然と見送る私を残して、芙美江は私の横に立つ新郎――大輔の前へ動いた。
「大ちゃん、結婚おめでとう」
 芙美江は媚びたような甘え声で言うと、ドレスのフリルをゆらゆらと揺らしながら、右手にドラジェの包みを握りしめたまま、のっしのっしと立ち去ったのだ。
 私はショックで痺れたように、立ち尽くしていた。
 頭の中を「オバサン」という言葉がぐるぐると駆け巡り、つい先ほどまで感じていた幸せな気持ちを二度と取り戻せそうになかった。
 芙美江は、大輔の姉の娘だ。芙美江から見れば、確かに私は「叔母」にあたる。だから、彼女が私を「オバサン」と呼ぶのは関係上から考えれば間違っていない。
 けれど、六歳しか離れていないのに、まだ二十三歳なのに、「オバサン」と呼ばれるのはあんまりだ。
 結婚式から数日経って、新しい生活にも少し慣れた頃、私は大輔に悔しかった気持ちを伝えた。
 大輔は、黙って私を見つめた後、ぼそりと言った。
「しょうがないよ。実際に叔母さんなんだから」
「それじゃあ、なんであなたは『オジサン』って呼ばれないの? 不公平じゃない?」
 私の言葉に大輔は困ったように頭をぼりぼりとかいて、口を開いた。
「しょうがないよ。芙美江が生まれたときにはまだ俺は小学生だったし、子供のころから『大ちゃん』って呼ばれてるんだから」
「私は芙美江さんが生まれたときには、まだ六歳だったけど?」
 大輔は眉を寄せて、口の中でごにょごにょと言った。
「いや、それは関係ないだろ。とにかく、習慣なんだからしょうがない。だいたい、いつも顔を合わせるわけじゃないし、そのうちに慣れるよ」
「慣れるなんて、酷いこと言うのね」
 私が顔をしかめて言うと、大輔は「ごめん」と言った。
 判っていた。こんなことを言っても、彼を困らせるだけだってこと。
 けれど、悔しい気持ちを解って欲しかった。「オバサン」と呼ぶなんて酷い、と、共感して欲しかったのかもしれない。


 勢い良く戸の閉まる音に、私は顔をあげた。
 ウエストゴムのロングスカートとTシャツを着た芙美江が、のしのしとダイニングを横切って部屋の隅へ向かう。ソファにどっかりと腰をかけると、スプリングが悲鳴をあげた。
 芙美江の姿が、背もたれの陰に隠れた。いつものように横たわったのだろう。身長が百六十センチの芙美江は、横になるとちょうどソファの横幅にぴったりだ。
 ソファが凹んじゃうじゃない。フェザー入りの、ふわふわの座りごこちだったのに。
 TVのスイッチが入り、ボリュームが上がる。 
 少しは遠慮したらどうなの? あなたの家じゃないのよ。
 言えない台詞が心の中に厚く積み重なっていく。
 私は暫くソファを睨んだ後、調理台に載せたままの買い物袋に気づいた。
 あわてて中を開けて、保冷バックを取り出す。氷はすっかり融けて水になっていたけれど、なんとか冷気を保っていたようだ。
 挽肉と牛乳を素早く冷蔵庫へ入れ、融けた水をシンクへ流して、私は息をついた。
「ねぇ、オバサン。ちょうど三時だから、ケーキ食べよう」
 芙美江の声に、私はソファを見つめた。まるで誰も座っていないかのように、ソファの背もたれが見えている。芙美江は横になったままだ。
 持ってきて欲しいなら、そう言えばいいのに。
 私はずっしりと重いケーキの箱を取り出して、そのままガラステーブルへと運んだ。芙美江はまだソファに横になったまま、TVCMを見つめている。
 私はすぐにキッチンへ引き返して、ホールケーキがある場合に備えた大皿と、ケーキ皿、フォークを棚から出した。
「飲み物は何がいい? コーヒーとか紅茶にする?」
「いつものでいいよ。冷蔵庫に入れておいたから、冷えてるでしょ」
 私はぎょっとして、冷蔵庫を開けた。さっきはケーキの箱に気をとられて気づかなかったけれど、棚の一番下にミックスジュースが四本も入っている。
 適当に一本を取り出しながら、ふと気になって食料庫を開けてみた。
 やっぱり! 食料庫にストックしてあるミックスジュースが減っている。
 また、勝手に食料庫をいじったのね!
 私はむかむかしながら、皿とジュースを運んだ。
 芙美江はのっそりと身体を起こして、ケーキの箱の蓋を開けながら、得意げに言う。
「みてみて。キレイで可愛くて、美味しそうなのばかりだから!」
 箱には、びっちりとケーキが詰まっていた。
 イチゴショートに、ガトーショコラ、レアチーズケーキにモンブラン。ムースにタルト、プリンにミニロール。
 私はざっと見回して、その数に圧倒された。全部で二十五個も入っている。
「……すごい」
 私が思わず呟くと、芙美江は満足そうに頷いて言った。
「そうでしょ。やっぱりケーキは見た目も良くなきゃいけないわけ。どれも可愛くて迷っちゃう」
 芙美江は少し首を傾げてうねうねの髪の毛をかきあげると、箱の中のケーキを次々と指さしていく。
「そのモンブランとイチゴのババロアと抹茶タルトとガトーショコラ。それから……、バナナのミルフィーユと木苺のムース」
 私は芙美江の示すケーキを次々と大皿にのせた。
 一気に六個。芙美江なら軽く食べられる量だろう。
 前にシュークリームを続けて十個食べる姿を見ているから、私もこれくらいでは驚かない。
 芙美江はケーキの周りを覆っているフィルムを次々とはがすと、再びごろりとソファに横になった。
 モンブランを手にとって、フォークも使わずにかぶりつく。もぐもぐと咀しゃくしながら残りを一気に口に入れて、ごくりと呑みこんだ。大きな舌を出して、口の周りについたクリームをべろりと舐めとる。
 私は芙美江の、動物めいた食べ方を見ているうちにすっかり食欲をなくしていた。
「あ、オバサンはどれを食べる?」
 芙美江が、抹茶タルトを手につかんだまま、思い出したように訊く。私は反射的に応えた。
「あまり食欲がなくて……」
 芙美江は信じられないものでも見るように、小さな目を見開いて私を凝視している。私は慌てて付け足した。
「ごめんなさい。ちょっと夏バテ気味で、甘いもの食べられそうにないのよ」
「ふーん。オバサン、体力なさそうだもんね。でも、もっと肥ったほうがいいよ。大ちゃんは本当は、私みたいに胸の大きい女が好きなんだから」
 私は思わず頬がカーッと紅くなり、両手で押さえた。
 胸が大きいって言ったって、あなたのはアンダーでしょ。
 だいたい、胸よりも二段腹の方がずっと突き出ているじゃない!
 芙美江は私のほうなど気にも留めずに、抹茶タルトを口へ詰めている。
 私は「洗濯物を入れなきゃ」と呟いて、リビングを出た。

 空はまだ青い。
 じりじりと熱せられているベランダに出て、私は洗濯物を素早くとりこんだ。
 蒸し暑い寝室の中で、私は洗濯物をたたみながらため息をついた。
 今日は来てないと思ったのに。この間来たときから、まだ四日しか経ってないのに。
 芙美江が家に来るようになったのは、去年の春。芙美江が市内の大学院に入学してからだ。
 春の間は、だいたい二週間一度の割合で、家に食事をしに来ていた。そのうち、夕食後に泊まっていくようになった。
 勝手に家へ上がりこむようになったのは、去年の九月。今日みたいに酷く暑い日だった。
 幼稚園のお迎えに出て、奈菜を連れて帰ってきたら、玄関の鍵が開いていた。
 私はてっきり、鍵を閉め忘れて出かけてしまったのだと思った。
 けれど、家の中には芙美江がいた。ソファに座って、お菓子を食べながらTVを見ていた。
 それから芙美江は、一週間と空けずに何の前触れもなく、特に理由もなしに家にやってきて、泊まっていくようになった。
 平日でも休日でも芙美江はお構いなしにやってくる。おかげで、家族そろって出かける日がすっかり減ってしまった。
 私はたたんだ洗濯物をクローゼットへしまうと、深く息を吐き出した。
 芙美江は、私の知らない間に合鍵を手に入れていた。
 家に来たときに、こっそりと鍵を持ち出して複製していたのか、大輔が陰で手渡しておいたのか。
 義姉も義父母も、初めて一人暮らしをする芙美江を心配していた。
 義母なんて「大輔のところに下宿して通えばいいのに」なんて言っていたくらいだ。
 大学から少し離れていることと、余っている部屋がないおかげで下宿の話はナシになった。けれど、恐ろしいことに芙美江はかなり乗り気だったらしい。
 大輔は優しい。けれど、私や奈菜に対してだけじゃなく、義父母にも義姉にも、姪の芙美江にも優しい。
 つまり、気が弱い。相手に強く言われると、従ってしまうところがある。
 だから、私や奈菜の気持ちよりも、芙美江みたいに図々しい女の行動を優先してしまうのだ。


 玄関の戸の開く音と、可愛らしい元気な声が響いた。
「ただいまー!」
 奈菜だ。
 私は急いで立ち上がると、階段を下りていった。
 戸を開けてリビングへ入ると、ソファの横にランドセルを背負ったままの奈菜が立っていた。
「わぁ、すっごい。たっくさんだねぇ!」
 ケーキの箱を覗きこむように見ながら、奈菜が嬉しそうに言う。
「でしょ。奈菜ちゃんが喜ぶと思って、いろんなの買ってきたよ」
 芙美江がソファに横たわったまま、得意げに応じた。
「ありがと。ふみえちゃん、だいすき!」
 奈菜は芙美江のでっぱったお腹に飛びついた。芙美江はニヤニヤしながら、芋虫みたいな太い指で奈菜のサラサラの短い髪を撫で回している。
 私はイライラしながら、二人の側へ近づいて行った。
 芙美江は家に訪ねてくるとき、奈菜へぬいぐるみやおもちゃを持ってくる。そして、毎回のように甘いお菓子を山ほど買ってくる。
 だから奈菜は、すっかり芙美江になついていた。
 奈菜がケーキの箱に手を伸ばす。私は思わず、強い調子で言った。
「手は洗ったの? ランドセルだって、まだ下ろしてないじゃない」
 奈菜はビクッと肩を震わせて、顔をあげた。子供らしいふっくらとした頬に、大きな二重の目。賢そうな広い額に、形のいい鼻。とても可愛らしい顔立ちだ。
 芙美江がすぐに口を挟んだ。
「いきなり怒らなくてもいいでしょ、オバサン。奈菜ちゃんに『お帰りなさい』も言ってあげないなんて、かわいそう」
「そうだよ、ママ。おこらなくてもいいでしょ」
 奈菜がすぐに調子に乗って、芙美江の口調を真似る。私はムカムカしながら、なるべく柔らかい声で言った。
「お帰りなさい、奈菜。ランドセルはお部屋に置いてらっしゃい。そして、手を洗ったらケーキを食べてもいいわよ」
「はーい」
 芙美江はおっくうそうな声を出して、廊下へ出た。続いて、勢い良く階段を駆け上る音が響いてくる。
 芙美江はじろりと私を睨んで、言った。
「オバサン。このケーキを買ってきたのは、私なので。『食べていい』って言っていいのは、オバサンじゃなくて、私なわけ」
 私は呆気にとられて、芙美江を見た。
 いきなり何を言うの?
 あなたは家のものを何でも勝手に使うじゃない。「使っていい」かどうかも訊かずに。
 それなのに、自分のものにだけ権利をつけようとするのね。それも、お土産として家に持ってきたものなのに。
 私は心の中で呟きながら、別の言葉を口にしていた。
「ごめんなさいね、芙美江さん」
「いーえ。わかれば結構」
 芙美江は鼻を鳴らしながら言い放つ。
 私はムッとして、顔をしかめた。
 いったい、何様のつもり?
 階段を下りる音に続いて、洗面所の戸が勢い良く開く音が響いた。指先から雫を垂らしながら、奈菜がリビングへ戻ってきた。
「う〜ん。どれにしよっかなぁ」
 奈菜はさっそく、大きな目を輝かせてケーキの箱を見まわしはじめた。
 箱の中にはずいぶんと隙間が出来ている。芙美江はさっきの六個じゃ足りなくて、続けて食べていたようだ。
「イチゴかわいい。チョコレートもおいしそう。でも、やっぱりチーズケーキかな」
「食べたいのは、みんな食べればいいよ。そのためにいっぱい買ってきたんだから」
 芙美江がなんでもないことのように言った。
「ホント?」
 奈菜は嬉しそうに、お皿にケーキを三つのせた。
「そんなにたくさん食べたら、お夕飯が食べれなくなってしまうわよ」
 私の言葉に、奈菜はあからさまに顔をしかめる。
「えーー!」
「大丈夫、奈菜ちゃん。ケーキは、入るところが違うから。別腹っていうんだけどね」
 私はぎょっとして、芙美江を見た。
「べつばら?」
 奈菜が首を傾げて聞くと、芙美江は大きく頷いて続けた。
「そう。これはね、女の子のための、女の子だけに許された特権ってわけなので。男の人には少々理解しがたい現象でもあるわけで。でも奈菜ちゃんは女の子だから、実際に食べてみればすぐに判るわけ。簡単に言うと、お肉やご飯の入る場所と、甘いお菓子やケーキの入る場所は別になっていて、お腹いっぱいご飯を食べても、女の子はケーキやデザートは『別腹よ』なんて言って、食べることが出来たりするわけ」
「ふ〜ん?」
 奈菜は首をひねりながら、生クリームつきのイチゴにフォークを刺した。
「だから、私も別腹ってことで、どれか食べようかな」
 芙美江は箱からマンゴーの果肉がたっぷり入ったミニロールを取り出した。
「別のお腹だなんて、そんな……ウシじゃないんだから」
 ぽつりと漏れた私の言葉は、思っていたよりも大きく響いた。
 芙美江はちらりと私を一瞥すると、ソファに横たわりながら言う。
「オバサン、発想が単純ね。別のお腹だからといって、ウシとは限らないわけで。同じ仕組みの胃袋を持つ羊や山羊の立場はいったいどうなるのかと思うわけ。で、正確に言うと、ウシや羊や山羊は反芻動物といって胃袋が四つあるんで、ただ単にお腹が別にあるというのが反芻動物のことを指すというのは、かなりどうかと思うわけ」
 また、関係ない理屈を長々と言う。
 私は聞いているふりをしながら、芙美江の話が終わるのを待っていた。
 奈菜はビーズクッションに座ると、イチゴを刺したフォークを持ったままころんと横になった。ちょうど芙美江と鏡のように同じ姿勢で、左腕を枕代わりにしている。
 奈菜はクッションからはみ出た足をリズムをとるように揺らしながら、イチゴをかじった。
「止めなさい、奈菜。お行儀が悪いわよ!」
 私は叫んでから息を呑んだ。芙美江も奈菜とすっかり同じポーズをしていることを思い出した。
 恐る恐る顔色を伺うと、芙美江は目を細めてテーブルを見つめていた。
 やがて、顔をあげると芙美江は大きな口を開いた。
「オバサンは知らないかもしれないけど、これはローマ式の正式のスタイルなわけ。だから、ぜんぜん行儀が悪くなんかないわけで。むしろ、台の上にこんな風に身体を横たえて食事をすることこそが、ローマの貴族としてのマナーだったわけ。したがって、現代人の偏った見方で行儀が悪いなんて言うことは、過去の伝統や様式を歪んだ見方で非難することにつながるわけで」
 一気にまくし立てると、芙美江は奈菜を見て付け足した。
「つまり、奈菜ちゃん。このスタイルは、ローマ式ってこと」
「ローマしき!」
 奈菜は嬉しそうに繰りかえすと、足をばたばたと動かした。
 前にも似たようなことを聞いたような気がするけど。
 だいたい、なんでわざわざローマ式にしなきゃないの? 必然性が説明されてないじゃない。
 やめてよね、奈菜が変な影響を受けちゃうじゃないの。
 私は奈菜に、ローマ式とやらを止めさせたくて言った。
「でも、消化に悪いわよ。奈菜はまだ子供なのだし、心配だわ」
「どうして消化に悪いなんて思うんだろ。オバサンってホントに何にも知らないわけね」
 呆れたように芙美江は言う。わたしがムッとして見ていると、芙美江は続けた。
「オバサン、釈迦如来像って見たことある? お釈迦様の像。あれは、横に寝そべってる姿をしてるわけで、ああいう格好を『涅槃』あるいは『臥像』って言うわけで……」
 お釈迦様? ガゾウ? 仏教?
 いったい何の話が始まったのだろう。
 芙美江は涅槃がどうの大乗仏教がどうのと延々話をしている。
 その間に奈菜は寝そべった姿勢のまま、ケーキを一つ平らげていた。
「……そうすると右脇が下になるわけ。で、右側ってのは胃袋があるわけ。つまり、右脇を下にして休むということは、お釈迦様が入涅槃したときの身体に負担をかけない無理のない姿勢と同じってこと」
 芙美江はそこで言葉を切ると、横になったまま腕をケーキの箱に伸ばした。イチジクのタルトを取りながら続ける。
「だからまあ、奈菜ちゃんは反対向き。右を下にして横になるといいよ」
 奈菜は芙美江に言われるまま、右を下にして横になった。
「そうそう、それでいいよ。それが消化を助ける究極のスタイルってわけ」
 芙美江はにんまりと笑いながら言って、タルトをかじった。
「きゅうきょくのスタイルーー」
 奈菜は調子に乗って言いながらチーズケーキを口へ運んだ。大きく開けた口へケーキを詰めこみ、口を半開きにしながらむしゃむしゃと咀しゃくしている。
 全く、何てことだろう。
 奈菜の食べ方は、いつの間にか芙美江そっくりになってしまった。
 前はケーキを一気に二個なんて食べられなかったはずなのに。胃袋まで大きくなってしまったんだろうか。
 頬や手足も、前よりもふっくらしてきたような気がするし……。このまま肥って、芙美江みたいになってしまうんじゃないだろうか。
 私はまたもやイライラしてきて、口を開いた。
「奈菜、宿題は?」
 ちらりと私の顔を見て、奈菜はそっけなく言った。
「ないよ」
「それじゃあ、ご本でも読んだら?」
 私の言葉に、奈菜は顔をあげずに言う。
「あーとーで」
 私は奈菜をどうしても芙美江から引き離したくて、また言った。
「おもちゃがだしっぱなしだったわよ。片付けなきゃね」
「えー。なんでぇ?」
 奈菜は鼻に皺を寄せて言うと、指についていたクリームを思い出したようにぺろりと舐めた。
「だめ!」
 私は叫びながら、奈菜の手をぴしゃりと叩いていた。
 奈菜はびくっと身体を震わせて、赤くなった手を反対の手で押さえると、潤んだ目で私を見上げる。
 叩くつもりなんてなかった私は、自分の行動に驚きながらかすれ声で言った。
「ごめんね。でも、舐めたりしちゃだめよ。ね」
 さすってあげようと思って差し出した私の手を、奈菜は身体をひねって避けた。
「奈菜ちゃん、どうしたの?」
 芙美江がのんびりと訊く。奈菜は素早く起き上がると、泣きながら芙美江の側へ駆け寄って言った。
「ママが……たたいたの」
「あーあ、かわいそうにぃ。奈菜ちゃん、まだ小さいのに。叩くなんて、酷いママだねぇ」
 芙美江は奈菜の頭を撫でながら、勝ち誇ったような顔で私を見た。
 私はかっと顔が熱くなって、逃げるようにリビングを飛び出した。


 勢いよく階段を駆け上がり、蒸し暑い寝室へ飛びこむ。
 どうして、こんなにトゲトゲした気持ちになってしまうんだろう。
 眩暈がする。息苦しい。
 私はふらふらと壁に寄りかかって、息を吐いた。
 部屋は静かだ。ベッドの枕もとに置いた時計の針の音だけが規則正しく響いている。
 顔をあげると、正面の鏡に冴えない表情の女が映っていた。唇には艶がなく、口角が下がっている。頬はげっそりとこけ、顔色は土気色。眉間には皺が刻まれ、瞳には生気がない。
 なんて酷い顔。いつのまに、こんな顔になったんだろう。
 私は鏡に近づいて、ベッドの縁に腰かけた。
 鏡を覗きこむようにしながら、眉間の皺を手で伸ばしてみる。この皺のおかげで、五歳は老けて見えると思う。
 口元に力を入れて、口角を上げてみた。ああ、これではだめだ。自然に口角を引き上げるようにしないと、皺ができてしまう。
 手を離して、鏡に向かって笑ってみた。上手く笑えない。引きつったような、厭な顔にしかならない。
 きっと、いつもイライラしているからこんな顔になってしまったんだろう。
 芙美江が何をしても気にしないでいられたらいいのに。
 もっとゆったりした気持ちで過ごせたらいいのに。
 ため息を一つ。
 鏡の中の私も疲れきった顔でため息をついた。


 蒸し暑い寝室のベッドに、私と大輔は並んで横になっていた。
  「ねぇ」
 私が声をかけると大輔が身じろぎをした。暗くて姿は見えないけれど、まだ、起きているみたいだ。
「芙美江さん、しょっちゅう来るでしょ。奈菜ったら影響を受けているのよ。なんだか芙美江さんに似てきたみたい」
 私は一気に言って、大輔の反応を待った。
「……そうか。芙美江みたいに勉強好きの娘になればいいな」
 大輔がぼそぼそと言う。私は思わず声を荒げた。
「冗談でしょ?」
 大輔は黙りこんだ。
「あなた、本当に、奈菜が芙美江さんみたいに肥った体格になればいいと思っているの?」
「まさか。だいたい、奈菜は少しぽっちゃりしているだけだろう」
「でも、最近食べ方まで似てきてるの。どんどん肥っていくんじゃないかって思うと、本当にぞっとする」
 私の言葉に、大輔は眠そうに答えた。
「考えすぎだよ。だいたい、君が食べなさすぎるんだ。もう少し太ればいいよ」
 私は頭に血が上りすぎて、すぐには何も言えなかった。
 ぐるぐると考えが頭の中を駆け巡る。
 太ればいいですって? 芙美江と同じ台詞じゃない。本当は肥った女が好きなのね。
 胸の大きい女が好みなんですってね。それじゃあ、なんで私と結婚したのよ。
 奈菜のことも肥ればいいと思っているのね。肥満児になってもいいと思っているのね。変態よ。
 なんと言ってやろうかと思っているうちに、大輔のいびきが聞こえてきた。

 芙美江はいつも、家族がみんな出かけている間に勝手に入りこむ。
 だから、家に居ればいい。チェーンをかけていればいい。そうすれば、いくら合鍵があっても芙美江は入れない。
 奈菜がプールへ行きたがったけれど、我慢してもらおう。
 私は廊下を通るたびに、チェーンがかかっているかどうか玄関を確認した。
 洗濯物の入ったカゴを抱えたまま、私は玄関を見た。
 大丈夫。チェーンはしっかりかかっている。
 それでも、今にも芙美江が合鍵で玄関を開けようとするような気がして、ドアから目が離せなかった。
 鍵が開いて、ドアの僅かな隙間から芋虫みたいな芙美江の指が覗くかもしれない。チェーンを外そうと、太い指がのた打ち回るような気がした。
 ドアノブが高い音を立てた。誰かが、外でドアを開けようとしている。
 私は思わずカゴを床に落とした。
 いけない。中に人が居るのが判ってしまう。
 私は息を潜めて、ドアを見つめた。
 チャイムが鳴った。また、ドアを開けようとする音が聞こえる。
 再びチャイム。
 どうして、合鍵で開けようとしないんだろう?
 中に居る気配を察して、チャイムを鳴らしているのだろうか。
 チャイムと共に、ドンドンとドアを叩く音がした。
「あけて。あけて!」
 芙美江の声ではない。
「ママ。居ないの?」
 私はハッとして、チェーンを外して鍵を開けた。
「ママ。どうしてしめちゃったの?」
 奈菜が真っ赤な顔をして泣きながら私の胸に飛びこんで来た。
 どうして奈菜が外に? 
 私は奈菜の髪を撫でながら訊いた。
「奈菜ったら、いつのまに、外に出ていたの?」
 私の言葉に、奈菜は顔をあげて口を開いた。
「さっき、おそとへいくっていったよ」
 私は首をひねった。全然覚えがないのだけど……。
「そうだったの。ごめんね」
 私が言うと、奈菜は眉を寄せて私をじっと見た。こういう表情をすると、奈菜は大輔に良く似ている。
「ママ。どうしたの?」
「なんでもないわよ」
 私は再び玄関の鍵をかけて、チェーンをかけた。
 今度こそ大丈夫。芙美江は中に入って来られない。


 私は掃除機をかけていた。
 掃除機のノズルを交換してソファの青い生地を吸いはじめる。と、すぐに乾いた菓子片がホースを通っていく音がした。
 座面には、パイの細かな欠片がたっぷり落ちている。きっと、ミルフィーユを食べるときにでも落としたのだろう。
 ソファ表面の織地に、尖った破片が刺さっている。べとべとしたクリームが背もたれにくっついている。
 私は何度も何度も生地に掃除機をかけて、洗剤をつけた布巾で繰り返し拭いた。
 取れない。取れない。なんて取れにくいんだろう。
 落ちない。落ちない。なんて落ちにくいんだろう。
 取れない。取れない。取れない。芙美江が取れない。
 落ちない。落ちない。落ちない。芙美江が落ちない。
 何かが床に落ちる物音に、私は顔をあげた。
 奈菜が、大きな目を見開いて、ひどく驚いたような顔で私を見ていた。
 私は奈菜の表情に違和感を感じて、じっと奈菜の蒼い顔を見つめた。
「……ママ」
 奈菜がぽつりと言う。
 私は奈菜の足元を見た。数冊の本と練習帳、ペンケースと鉛筆が散らばっている。
「あら、奈菜。落っことしちゃったのね」
 私が言うと、奈菜はしゃがんでペンケースの中身を拾った。私が本を拾って渡してやると、奈菜はほっとした顔をして首を傾げて訊いた。
「ねぇ、ママ。何をしていたの?」
 私はソファを振り返って言った。
「何って、お掃除よ」
 奈菜が首を傾げたままなので、私は言い足した。
「ソファをキレイにしようとしていたの」
 奈菜は困ったように眉を寄せて、口を開いた
。 「でも、ママ……」
 私は奈菜の視線を辿って、掃除機から出ているコードを見た。床をのたうつコードの先にブラグがあった。
「あら、いつの間にか抜けちゃったのね」
 私が言うと、奈菜は少し困ったような大輔そっくりの顔で私を見た後、リビングを出て行った。
 私は奈菜の小さな背中を見送った後、再びソファを掃除し始めた。


 TVは高いボリュームで、私にはほとんど区別のつかない女の子たちの歌を流している。
 私はキッチンで皿を洗いながら、時々顔をあげてカウンター越しにTVを見た。TVの方を見ようとすると、どうしても皆の姿が目に入ってしまう。
 大輔はいつものように、ダイニングテーブルの椅子をTVに向けて座っている。私には丸い猫背と、ピスタチオナッツに向けて伸ばす手だけが見えている。今日は手酌でビールをちびちびと飲んでいるはずだ。
 奈菜はリビングで、お気に入りのビーズクッションに仰向けに寝転がっている。TVを逆さまに見あげて、足をじたじたと動かす。
 芙美江の姿はソファの背もたれの陰で見えない。アイドルの女の子たちに向けたぶつぶつという文句と、菓子を貪り食う音だけが聞こえてくる。
 きっと、お馴染みの釈迦如来の涅槃とかいう姿勢で横になっているのだろう。
 私は皿を洗い終えて、布巾で手を拭いた。後は、寝る前に食器乾燥機のスイッチを入れるだけだ。
 芙美江と奈菜の嬌声が聞こえてきた。
 私はちらりとリビングを見て、小さくため息をついた。
 対面式キッチンじゃなければ良かったのに。奈菜が芙美江の真似をしているところなんて、見えなければいいのに。
 大輔はほろ酔い加減なのだろう。芙美江に何か言って笑わせている。
 私はため息をついた。
 作業が終わったというのに、私はキッチンに立ったまま。座る場所も見つけられずにいる。
 芙美江のおかげで、私たちはばらばらだ。
 私たち家族はばらばらになって、このばらばらな状態に慣れてしまった。
 だから、芙美江が来ていても来ていなくても、大輔はダイニングテーブルの椅子に座るし、奈菜はビーズクッションに座る。
 私はごくりと唾を飲みこんで、ソファを見つめた。
 青い布製のソファ。
 奈菜が大きくなっても家族三人で座れるように、三人がけのソファを選んだ。
 縫いぐるみを抱えた奈菜を真ん中に、いつも三人で並んで座っていた。
 芙美江の膨れたお尻とお腹を支えているうちに、布地が伸びてフェザーがつぶれてしまった。ウレタンもきっと凹んでいるに違いない。
 私はソファを見ているうちに悲しくなって、キッチンにしゃがみこんだまま一人涙を流した。


 暗闇の中、私と大輔は並んで横になっていた。
  「ねぇ」
 私が声をかけるとベッドが揺れた。大輔が身じろぎをしたのだろう。まだ起きているみたいだ。
「大学はもうすぐ夏休みでしょ。芙美江さん、いつ頃家へ帰るの?」
「……研究で忙しくて、院生に夏休みはないって言ってたな。お盆にも帰れないかもしれないみたいだ」
 忙しい?
 いつも、TVをつけてお菓子を食べながらソファでごろごろしているのに?
 私が黙ったまま次の言葉を考えていると、大輔が言った。
「なあ、この前もお前、同じことを訊いたぞ。芙美江のことを気にしすぎなんだよ」
「しょうがないじゃない。あなたにとっては、子供の頃から知っている気を使わなくていい相手かもしれないけれど、私にとっては違うんだから」
「でも、気を使っているのはお前だけじゃないよ。芙美江だってお土産を買って来て、あいつなりに気を使っている」
 私は肩を震わせながら言った。
「気を使うくらいなら、来なきゃいいのよ。今日だって、あんなにいっぱいケーキを買ってきて、結局ほとんど芙美江さんが食べたんじゃないの!」
 大輔が息を呑む音が聞こえた。大輔の手が伸びてきて、私の腕をつかんだ。
「なあ、落ち着けよ」
 私は腕をねじって大輔の手を払うと、口を開いた。
「時々だったらまだいいけど、最近は毎日来ているじゃない。今日だって、芙美江さんがソファにいるから、私は座るところがなくてキッチンにいたのに。誰も、私がどこに居るかなんて、気にかけないじゃない。私はただ、前みたいに家族三人で過ごしたいだけなのに!」
 一息に言い終えると、顔から汗がふきだした。
 なんだろう、胸がざわざわする。気持ち悪い。
 大輔は何も答えない。私は大輔が前みたいに寝てしまったのかと思った。
 しばらく経ってから、大輔がぽつりと言った。
「あのさ」
「なに?」
「芙美江は毎日来ていないし、今日だって来ていない」
 私は何のことを言われているのか判らずに、大輔の方を見ていた。
 大輔の声が、淡々と告げる。
「芙美江が家に来たのは三日前だし、ケーキを買って来たのは十日前だ」
「嘘?」
 私は思わず身体を起こしていた。
「芙美江さん、いつもみたいにソファに横になっていたじゃない」
「いいや、居なかった。それに今日は、お前がソファに座って縫い物をしていたじゃないか」
「嘘。私は座っていないわよ。芙美江さんが居たのよ」
 大輔の手が伸びて、ぐいっと私の肩をつかんだ。
「きっと疲れているんだよ。早く休めよ」
 私は引っぱられるままベッドに横たわる。と、すぐに、大輔の寝息が聞こえてきた。
 私は闇の中で目を開いていた。
 疲れている?
 確かに、このごろずっと疲れているかもしれない。
 頭は痛いし、しょっちゅう眩暈がする。
 でも、どうして大輔は、芙美江が来ていなかったなんて言うんだろう。
 ケーキを買ってきたのは、今日じゃなかったかもしれない。どっちにしろ、私はケーキを食べないから、良く判らない。
 でも、芙美江は今日もソファに居たのに。
 TVを見ながら何かぶつぶつと話している声が聞こえた。いつもみたいに、訳の判らない講釈を長々と言っていた。
 芙美江は昨日だって来ていた。今日と同じように、やっぱりソファに横になっていた。
 キッチンからソファの背もたれしか見えないと思って、私を騙そうとしているんじゃないだろうか。
 でも、どうして?
 芙美江が居るかどうかなんて、そんなのすぐに判るじゃない。
 前みたいに家族三人で仲良く過ごしたいと思っているのは、私だけなの?
 私と居るより、芙美江と居たほうが楽しいの?
 考えているうちに、すっかり頭が冴えた。目を瞑っても眠れそうにない。
 私は闇の中、寝息を立てている大輔の方をみた。
 すぐにでも大輔を起こして問いただしたい気持ちと、何も知りたくない気持ちがない交ぜになって、私は身体を起こした。
 だめだ。じっとしていられない。
 私はそっとベッドから降りて、寝室を出た。


 暗闇と静寂が、家の中を覆っている。
 私は壁を伝いながらゆっくりと階段を下りた。
 戸をそっと開けて、部屋の中へ入る。
 エアコンの冷気がまだ残っているのだろう。ひんやりと冷えた空気が肌を撫でた。
 月の光がカーテン越しに届いている。
 ぼんやりと見えるリビングの中、ソファがほの白く浮き上がって見えていた。
 私は足音を忍ばせて、ソファに近づいて行った。
 ほら、芙美江が居る。
 菓子を食い散らかす音がするじゃない。
 ぶつぶつ文句を言っているじゃない。
 息が苦しい。ムカムカする。
 私はソファの横に回った。
 ほら、芙美江が居る。
 大きな尻の形につぶれているじゃない。
 スプリングが軋んでいるじゃない。
 気持ち悪い。目が回りそう。
 私は顔にまとわりつく髪の毛をかきあげた。
 奈菜のためにも、私のためにも、居ないほうがいいのよ。
 私は素早くテーブルから裁ち鋏を取り上げると、右手に持って高く振りかざした。
 息を止めて、弛んだ腹に向かって振り下ろす。
 ぐさりと刺してから、縦に大きく切り裂いた。
 悲鳴のような音と共に、何かが辺りに飛び散る。
 私は大きく息を吐き出して、再び右手を振り上げた。
 何度も何度も右手を振るって、穴を開けていく。切り裂いていく。
 傷口に左手を差し入れて、中身をかき回した。柔らかいモノをえぐり出し、引きずり出して撒き散らす。
 私は床にぺたりと座り込んで、荒い息を吐きながら腕で額をぬぐった。顔に張り付いていたウレタンの欠片がぽろりと床に落ちた。
 胸の中がスーッとして、ふわりと軽くなった気がした。
 私はウレタンと羽根が散っている床を這い進み、エアコンのスイッチを入れた。
 涼しい風が吹いて、羽根がふわりと舞い上がる。
 心地よい風を受けながら、私は手を動かし続けた。
 もっと細かく裂いて、裂いて。
 もっと小さく千切って、千切って。
 私は嬉しくて、いつの間にか笑い出していた。
 細かく、細かく、細かく、細かく。
 小さく、小さく、小さく、小さく。
 舞い上がった白い羽根が、雪のように降り注ぐ。
 風で巻き上げられて、ふわふわと漂って、煌めきながら闇の中に降りていく。
 私はいつまでも、いつまでも、青い月の光に手を浸しつづけた。
 ぽたぽたと雫が滴る音が響き、錆びた鉄の臭いが家に満ちていた。

-end-

 

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