蒼き相貌のトラヴェルソ

−今世紀、人は「見る」という病にとり憑かれていた−
ジェームス・フォート「幻惑の十九世紀」より

 

 オイルランプの赤味を帯びた光が、エール入りのグラスを赤銅色に輝かせている。
 私は羽根ペンを置くと、封筒を灯りにかざした。
『親愛なるウィークリープレイス編集長 ロバート・リーヴス殿』
 ロバートは今頃、何の報告もなくロンドンに戻ってこない特派員のことを、怠慢だと言って愚痴っているかもしれない。
 私は、いつものように唾を飛ばしながら喋っているロバートの赤ら顔を思い浮かべた。もう二度と彼に会うことはないだろう。
 どうか、この手紙が無事に届いて真実が明かされますように。
 誰かがこの手紙をみつけて、麓の町の郵便局かマンチェスターのポストまで届けてくれますように。
 私はありったけの切手を封筒に貼りながら、祈った。
 ため息をついてペンをインクに漬けると、私は一番下の空白に署名した。
『ノースイングランド特派員 ハブロット・コール』
 荒野から吹きおろす風が窓を叩きつけ、寂しげな唸り音を立てる。
 定期的に聞こえるヘンリーの寝息の合間に、暖炉の薪が小さな音を立ててはぜた。
 ロンドンで解剖学校の教師をしている、外科医のヘンリー・スノウ。そもそも、この男とマンチェスターで偶然再会したのが始まりだった。
 私は封筒を見つめながら、昨日から今日にかけての出来事を思い浮かべた。


 マンチェスターの金融街にパブ「ブラウントラウト・イン」がある。ユニコーンやキマイラの窓飾りとイスラム風唐草文様の陶板で飾られた、ゴシック様式風の凝った建物だ。
 店内は広く食事は美味で、少々値段が高いのを除けば居心地のいい店だ。
 鉄道橋近辺で取材を終えた私は、いつものように「ブラウントラウト・イン」に部屋をとり、パブのカウンターでビターを飲んでいた。
「フィズ?」
 太い声が言う。こんなところで、愛称で呼ぶ奴は誰だ?
 私は顔をしかめて振り向き、後ろに立っていた男を見た。フロックコートにシルクハット姿の、いかつい顔の男。大きな鞄を大事そうに抱えている。
「ヘンリー?」
 私は思わず立ち上がって、私よりも頭ひとつ分上背の高いヘンリーを見上げた。
「やあ、フィズ。こんなところで会えるとは思わなかった」
 ヘンリーはそう言って、帽子を脱いだ。鞄を足元に挟むようにして置き、私の隣の椅子にどっかりと腰かける。
 私は給仕に1パイントのスタウトを注文すると、まじまじとヘンリーを見つめながら訊いた。
「驚いたな。マンチェスターへは独りで来たのか?」
「ああ。さっきピカデリー駅に着いたばかりだ」
 そう言って、ヘンリーは自分の黒い髪を撫でた。
 給仕が黒褐色の液体がなみなみと入ったグラスを運んで来る。私は給仕からグラスを受け取ると、ヘンリーへ手渡した。
「おお。気が利くな」
 ヘンリーはニヤッと笑って言うと、喉を鳴らせながらスタウトを飲み干していく。やがて、半分ほど飲んでから、口を開いた。
「嫌な時代だよ、全く。飛ぶ鳥や工場の煙突の上を汽車で通るなんて、信じられん」
「まあね。ロンドンから来ると、あの鉄道橋を渡るからな」
 私の言葉に、ヘンリーはグラスを傾けたまましみじみと言う。
「お前みたいに、しょっちゅう鉄道を利用していれば平気なんだろうが、俺はもう懲り懲りだな」
「しかし、帰り道はどうするんだい、ヘンリー。ロンドンまで馬車で行くつもりか?」
 私が冗談めかして言うと、ヘンリーは途端に表情を曇らせた。思いつめたような表情で、じっとエール入りのグラスを見つめている。
「どうしたんだ、ヘンリー。らしくないじゃないか」
 私の問いに、ヘンリーは顔をあげて言った。
「汽車に乗ってる間にすっかり腹が減ったよ。何か美味いのはないかな」
 私は口を開いた。
「それじゃあ、トラウトフライで決まりだ。名物料理だから、食べといて損はないぜ」
 ヘンリーは口を歪めて笑いながら言う。
「ああ。いつもお前が言ってる料理だな。実は、俺もそれが試してみたくて、わざわざこの店まで来たんだぜ」
 やがてモルトビネガーをたっぷりかけたトラウトフライとチップスの皿が運ばれてきた。
 私が1パイントのエールを呑む間に、ヘンリーはぺろりと皿を平らげる。相変わらず早食いだ。
「なるほど。モルトが染みていて旨いな」
 ヘンリーはそう言いながら、更にミートパイとインディア・ピクルズの皿とジンを注文した。腹が減っていたというのは、どうやら本当らし
い。  私はエールを少しずつ飲みながら訊いた。
「ところで、ヘンリー。マンチェスターへはどんな用事があるんだい。金持ちの貴族の所にでも往診か?」
「いいや、違う。それより、フィズ。お前はどうなんだ」
 ヘンリーはわざとらしく話題を逸らすと、言葉を続けた。
「そういえば、昨日はメイデーだったな。祭の様子でも取材したのか?」
 私は眉を寄せて、ヘンリーを見ながら応えた。
「残念ながら、祭は見ていない。工業都市では、メイポールを立てる人もいないしね。今日取材してきたのは忙しいピアノ工場さ。中へ入れても貰えずに、細かな値段の話だけを長々と聞かされてきたよ」
 ヘンリーはため息をついて言う。
「お前もけっこう大変そうだな」
「そう言うお前さんもな。何か厄介ごとを抱えているんだろう?」
 私の言葉に、ヘンリーはごくりと唾を飲んで口を開いた。
「相変わらず鋭いな。記者の勘てやつか?」
「そんなものがあれば、とっくにウィークリープレイスを辞めてタイムズあたりに勤めているさ」
 私は淡々と言う。ヘンリーは唸るように訊いた。
「それじゃあ、何で分かるんだ?」
「さあね。で、厄介ごとの中身はなんだい?」
 私が逆に訊くと、ヘンリーは顔を赤らめて語気を強める。
「訊いているのは俺のほうだぞ」
「まあ、もっと飲めよ」
 私はヘンリーにジンを勧めた。ヘンリーは素直に頷いて、グラスに口をつける。
 ヘンリーの顔が赤く染まった頃を見計らって、私はもう一度訊ねた。
「で、厄介ごとのもとはなんだい。どこへ行って、何をしなけりゃならない?」
 ヘンリーはジンを舐めるように飲みながら言う。
「ピーク地方の小さな村へ行って、検死をするんだ。王立外科医協会から推薦されてしまった」
「推薦されたなら、名誉なことじゃないのか?」
 私の言葉を聞くと、ヘンリーは一気にまくし立てた。
「推薦とは言いながら、単に危険な仕事を押し付けようってだけだ。だいたい、本来なら中央保険局の管轄なんだぜ。それなのに、命に関わる厄介な仕事だからお偉いさんたちはみんな嫌がったんだろう。死体を切り刻むような下賎な仕事は、解剖学校の教師にでもやらせとけってな」
「命に関わるなんて、穏やかじゃないな。その村では一体何があったんだ?」
 ヘンリーは残りのジンを一気に呷って、口を開いた。
「全く、冗談じゃない。元気だった者たちが、一人を残して全員死亡したという村へ行って、『蒼い恐怖』に罹ったかもしれない死体を切り刻めってんだからな」
 「蒼い恐怖」は現在最も恐れられている疫病だ。致死率が際立って高く、症状の進行が極めて早く、非常な破壊力を持つ。
 原因が判らず、有効な治療法もない。インドで発生したという説と、元々ヨーロッパにあったのだという説がある。
 数年前に大流行してから殆ど終焉したかに見えていた疫病が、新たな流行の兆しを見せたとなると一大事だ。いち早く記事にすることができれば、スクープになる。
 私ははやる気持ちを抑えて、訊いた。
「村の名前は何だい?」
「オールドウェル」
 忌々しそうにヘンリーが言う。聞いたことのない名前だ。
「明日その村へ発つんだよな。同行してもいいか?」
 私がそう訊ねると、ヘンリーは大きな音を立てて椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
「俺の話を聞いてなかったのか。死ぬかもしれないんだぞ!」
 店内がざわめき、他の客たちから不躾な視線が送られる。
「まあ、落ち着けよ、ヘンリー。生き残った者がいるんだろ。それなら、その村へ行ったからって死ぬとは限らないじゃないか」
「……ああ、そうだな。それに、まだ『蒼い恐怖』だと決まったわけではない」
 ヘンリーは自分に言い聞かせるように呟くと、ぎこちない動作で椅子を起こした。ゆっくりと腰掛けて、口を開く。
「だが、何でお前がついて来るんだ?」
「それは、もちろん取材さ」
 私の言葉に、ヘンリーは首をひねった。
「何の取材だ?」
「だから、その『蒼い恐怖』かもしれない疫病と、村人の死の原因についてさ」
 ヘンリーはあからさまに顔をしかめて、口を開く。
「そんなもののために危険を冒すのか?」
「お前さんにとっては、『そんなもの』かもしれないけど、スクープのチャンスなんだ。これで取材しなかったら記者じゃないね」
「スクープって言ったって、お前のところはウィークリーだろう?」
 ヘンリーの言葉に、私はため息をついた。
「そう。ウィークリーゆえに、記事の半分以上はデイリータイムズやロンドンニュースの焼き直しさ」
「それじゃあ、発行までに他の新聞に発表されでもしたら、命がけで取材してもスクープにはならないんじゃないか?」
 ヘンリーは心配そうに眉を寄せて、痛いところを突いてくる。私はため息をついて、口を開いた。
「本当は、うちの『ウィークリープレイス』だって、デイリー目指してんだぜ。ただ、資金が無くてウィークリーにしかならないだけさ。だから、スクープでも何でもとって、とにかく販売数を増やすことが先なんだ」
「……そうなのか。全く、お互いに難儀な職に就いたものだな」
 ヘンリーが小声で呟く。私は黙ったまま、肩を竦めてみせた。 


 どこまでも続くなだらかな丘陵。若草色の上に点々と散った羊たちは、明るい陽射しに白く輝いている。
 土ぼこりを巻き上げながら白茶けた道を駆けていく二頭立ての馬車の中に、私はヘンリーと並んで座っていた。
「なあ、フィズ。あの羊たちを見ろよ。のどかな景色じゃないか」
 ヘンリーは帽子を軽く持ち上げて、辺りを見回しながらしみじみと言う。
「そりゃあね。村人に何が起ころうとも、餌があれば羊たちは平和そのもの、問題なしさ」
 私はそう言って、風に乱れた髪を撫で付けた。
 オールドウェルは、街道からやや外れた山中にある。村には教会もなく、訪れる人も少ない。
 ここ数年の間に小作農のほとんどが村を出て仕事を求めてマンチェスターへ移り住み、残った村人は十七人だったという。
「旦那方。オールドウェルに着きやしたぜ」
 貸し馬車の馭者の声に、私は顔をあげた。
 冷たそうな水の流れる川の向こうに、石造りの簡素な家々が並んでいる。
 馬車はがたごとと音を立てながら、古い石橋をゆっくりと渡っていった。
 ひしゃげたスレート葺きの屋根。曇ったガラスが嵌っている小さな窓。灰黒色の壁に這うように伸びた薔薇の若枝が、静かに風に揺れている。
 ヘンリーは村の中を見回すと、不機嫌に言った。
「ヘイフィールドの牧師が来ていることになっていたんだが、居ないようだな。仕方がない、このまま村の中を通り抜けてくれ」
 馬車はゆっくりと、村のメインストリートを走って行く。
 どの家も、窓も戸もぴったりと閉ざしている。通りを歩く者は誰もいない。嫌な静けさだ。
「誰も居やせんねえ。ここらに住んでる人がたは、みんなどこかへ集まっているんですかね?」
 馭者が首をひねって言う。
「さあね」
 私が軽く言うと、馭者はぶつぶつと呟いた。
「みんな都会にでも働きに出ちまったんかね。どこの村でも若い衆が減っちまって……嫌な時代に生まれたもんだ」
 白黒模様の牧羊犬が、物寂しい声で長く鳴いた。一軒の古びた家の前に、ぽつりと座っている。帰らぬ主人を待っているのだろうか。
 家々の間を真っ直ぐ貫いていた道は、古びた看板のかかっている家の前で緩やかに左へ曲がっている。白い鹿を描いたパブの看板だ。
 馭者は首をめぐらして看板を見ると、嬉しげに口笛を吹いた。
 角を曲がると、急に視界が開けた。ぽつりぽつりと建っている家々の先に、迫り出すようにそびえる黒々とした岩場。その先の、霧に霞む枯色の荒野。
「あれは!?」
 ヘンリーは半ば立ち上がるようにして叫んだ。
 荒野の一部が、赤く染まっている。私は息を呑んだ。
「あれは枯れ草か?」
 ヘンリーが震え声で訊く。私は首をひねって、応えた。
「それにしちゃあ、ずいぶんと鮮やかな色だな。きっと、ヘザーだろう」
 馭者は振り向いて、大きく頭を振って言う。
「旦那、ヘザーは夏の花でさあ。こんな五月の頭に咲くことなんかねぇんで」
「それじゃあ、何だと思う?」
 私が訊くと、馭者は頭をかいて言った。
「旦那にわからないのに、あっしにわかるはずがないでしょう」


 馬車を降りた私とヘンリーは、岩場へと続く細い道を上って行った。
 湿り気のある風が吹きこみ、白霧が岩を覆い隠していく。
 私の前を歩くヘンリーが、口を開いた。
「あの馭者、パブへ行くと言っていたが、どうしただろうな」
「さあね。誰も居ないのをいいことに、好きなだけ飲んでいるんじゃないのか」
「ああ、なるほど。そりゃあいいな」
 ヘンリーはそう言って、耳障りな乾いた笑い声を立てた。
「ところで、ずっと気になっていたんだが、人々が倒れていたのはどこなんだ。村の中じゃないのか?」
 黒光りする岩の間を通りながら訊く。ヘンリーはちらりと振り返ると、淡々と告げた。
「さっき見えただろう。この岩場の先の、赤く見えていた荒地だ」
「それじゃあ……」
 私にみなまで言わせずに、ヘンリーが言う。
「いいや、血じゃあない。もし血だったら、時間が経っているからもっと黒ずんで見えるはずだ」
「なるほど。でも、なぜ、こんな場所で?」
 私は滑りやすい岩の上を歩きながら訊いた。どう考えても、普段からこんな歩きにくい場所に行っていたとは思えない。
「さあ。詳しく聞いていないから分からんが、たぶん、メイデーの準備でもしていたんだろう」
「そういえば、生き残った村人はどうしたんだ?」
 私が訊くと、ヘンリーは首を振って言った。
「少年だって話だから、牧師がヘイフィールドにでも連れて行ったんだろうな」
 私は頷きながら応えた。
「ああ、そうか。教会は、身寄りのない子供たちを集めてカナダへ送りこんでいるんだったな」
 岩場を抜けて、私たちは白霧に包まれた広い場所へ出た。足が深々と、柔らかな草に埋まる。
「これじゃあ、何も見えないじゃないか」
 私の言葉に、ヘンリーが脅かすように言う。
「ああ。死体を踏まないように気をつけろよ」
 私は思わず身体を屈めて、自分の足元をまじまじと見つめた。私の革靴の下は枯れ草だ。
 急に悲しげな音を立てて風が吹きすさび、白霧が滲むように揺れた。風に吹き飛ばされて、霧がゆっくりと眼前を流れていく。
 途端に、どぎつい赤紫が目に飛びこんで来た。細い枝をびっしりと覆っている、小さな釣鐘型のヘザーの花色。
 もっとよく見ようとして、しゃがみこんだ私は息を呑んだ。
 鮮やかな花の中に半ば埋もれるように、干乾びた腕がある。干乾びたしわしわの皮が骨に張り付いているような掌。皮が引きつったような瘤がいくつも覆っている細い蒼ざめた腕。
 声も出せない私の横で、ヘンリーが淡々と言った。
「意外と近くだったんだな。霧が晴れて良かったよ、全く」
 私は、見たくないと思いながらも、少しずつ視線をずらしていった。捲り上げた袖。茶色の服を纏った、僅かに膨らんだ胸。胸元の飾りボタンに留めた淡い水色の小さな花。フリルつきの白い襟。そして、……首。
 かつてふっくらとしていたであろう頬はげっそりとこけ、額には奇妙な瘤が盛り上がり、唇は灰紫色。顔かたちは幼いままだというのに、まるで一晩で一気に歳を重ねて老婆になってしまったかのような奇妙な姿の少女。
 軽くうねる長い金髪を花の中に垂らし、空色の瞳でじっと虚空を見つめている。
 目を逸らしたいのに、私は少女を見つめ続けた。
 風が視界の霧を少しずつ消していく。私は霧の下から現れた男を見つめた。割れた酒瓶の横で、薄汚れた帽子と擦り切れた上着を身につけている。……二人目。
 霧が山際に押しやられるたびに、一人、また一人と倒れている村人の姿が現れる。
 萎れた花飾りのついた帽子を骨ばった手にした、恰幅のいい夫人。鉛色の指できつくパイプを握りしめたままの老人。これで四人。
 老人の、暗い淵のような黒い瞳を覗きこんで、私はごくりと唾を飲みこんだ。この場から離れたいのに、足が言うことを聞かない。
 私はやっとのことで目を離すと、助けを求めるようにヘンリーを探した。
 ヘンリーは私の左方で、こちらに背中を向けて屈みこんでいた。ヘンリーの大きな黒い背中の向こうに、茶色いブーツを履いた二本の脚が見える。
 私は強張った足を動かして、ヘンリーの側へ行った。
 ヘンリーは慣れた手つきで、黙々と器具を動かしていた。横たわっているのは、若い村人。五人目だ。
 大きく開いたヘンリーの鞄の中から、ぎらぎらと光る金属棒や薬瓶、ガラスの筒が覗いている。
 私はヘンリーの邪魔にならないように、二歩ほど後ろへ下がった。
 いつの間にか霧がすっかり晴れて、遠くに霞むような青い山々が見えている。
 所々に黒い石が突き出した荒野は、一面の枯色。ヘザーの花が咲いているのは、ここだけのようだ。
 私は再び、倒れている村人たちを見つめた。
 若い男の横に、割れた酒瓶を小脇に抱えて仰向けに倒れている老人が一人。これで、六人。
 二人の男が交差するように倒れている横に、人の背丈ほどの細木が一本横倒しになっている。少々細いし枝がついたままだが、赤い花と白いリボンで飾られているところをみると、メイポールだろう。
 メイポールから長々と伸びたリボンの端をつかんだまま、倒れている若い娘が一人。合わせて、九人。
 ヘンリーの予想どおり、村人たちはここで祭の準備をしていたようだ。
 脱げて転がっている穴の開いた革靴。その横に倒れている少年。ステッキを振り上げた腕が妙に捩れている男。
 転がってひっくり返っている藤かご。その傍に倒れている女性。小さな花輪をしっかりと胸に抱いている幼女。
 結い上げていた髪を乱した前掛け姿の夫人が二人、横に並んで倒れている。やや離れた場所に灰色の髪の老婆が一人。……全部で十六人。
 その誰もが鮮やかな花に囲まれて、どんな姿勢をしていようとも必ず顔だけは空へ向け、目を大きく見開いている。まるで「何か」を凝視しているかのようだ。
 ……彼らは何を見ている?
 死の間際に、何を見たんだ?
 風に乗って低いメロディが流れてきた。メイデーを祝う陽気な春の歌のはずなのに、調子はずれで物悲しく聞こえる。
 私はぞくりとして、ヘンリーを見た。
 ヘンリーは、鼻歌を歌いながら老人の側にうずくまっていた。こげ茶色の虚ろな瞳で無表情に腕を動かしている。
 ぱっくりと開いた傷口に、ぎらりと光るメス。
「違う!」
 ヘンリーがとつぜん叫んだ。
「……ヘンリー?」
 私が恐る恐る呼びかけると、ヘンリーはメスを持ったままくるりと振り向いた。どす黒い血で濡れた切っ先を私に向けたまま、生気のない瞳で私を見つめる。
「ヘンリー!」
 私は後ろに下がりながら、やや強い口調で叫んだ。
「やあ、フィズ」
 ヘンリーは強張った笑顔を浮かべて、一息に続ける。
「ここに倒れている者たちは『蒼い恐怖』に罹った末期の者のような形相だ。だが、明らかに『蒼い恐怖』ではない」
「どういうことなんだ?」
 私が問うと、ヘンリーはようやくメスを下ろして続けた。
「だいたい、『蒼い恐怖』なら、もっともがき苦しんだ跡があるはずだし、体力の異なる者が一斉に亡くなるなんてあり得ない。それに、決定的なのは『蒼い恐怖』の患者に特徴的な血液の変化が全く起きていない点だ」
「それじゃあ、これは何だ?」
 私は倒れている村人たちを示しながら訊いた。
 ヘンリーは笑顔を浮かべたまま言う。
「恐らく、何らかの未知の疫病だろう。あるいは、何らかの毒か。こんな風に大勢の者が一度に短時間で死ぬなんて聞いたこともない。が、未知の疫病だとしたら『蒼い恐怖』を上回る恐ろしい疫病かもしれない」
 私はごくりと唾を飲みこんで、訊いた。
「疫病が花を咲かせるのか?」
 ヘンリーは眉間にしわを寄せて問い返す。
「何のことだ?」
「ヘザーさ。倒れている村人たちの周りだけ、花が咲いている」
 私が示すと、ヘンリーは興味なさそうに呟いた。
「変種だろう」


 村のパブへ行くと、ジンをたらふく飲んだ馭者はすっかり酔いつぶれていた。
「困ったな。早いとこ記事にしてロンドンへ届けないと、今週号に載らないじゃないか」
 私は焦って、馭者を起こそうとして揺すった。落ち着き払ったヘンリーが言う。
「こんな状態の奴に任せたら、山道だし、きっと途中で転覆するぞ。今日は諦めたほうがいい」
「しかし、ここに長く居たら、私たちも病気になるかもしれないじゃないか!」
 私がそう叫ぶと、ヘンリーは大きく頷いて言った。
「それが問題なんだよ、フィズ。もしも、俺たちが既に感染しているとしたら、うかつに山を降りるわけにはいかない。疫病の流行を広めてしまうことになるからな」
 私は呆気にとられて、ヘンリーをまじまじと見つめた。ヘンリーは軽く笑って、口を開く。
「別に、いつまでもここに居ろって言うんじゃない。だいぶ短期間で発病するみたいだから、黙って明日まで待っていればいいだけだ」
「しかし、それは疫病の場合だろう? もしも毒だったらどうする? 何も食べず飲まずで待っている気か?」
 私が叫ぶと、ヘンリーはため息をついて言った。
「全員が何かを飲み食いしたような跡はどこにもなかっただろう?」
 私は酒瓶を持った男が居たことを思い浮かべた。ヘンリーが続けて言う。
「元々全員で自殺する気だったならともかく、皆が同じ場所で死んでいるなんて考えられんな。大体、あの村人たちには苦しんだ跡がなかっただろう?」
 私は、全員が「何か」を見つめるように仰向けに倒れていたことを思い出した。
「まあ、のんびり待つことにしよう。苦しまずに死ぬのなら、『蒼い恐怖』に罹るよりはマシだからな」
 ヘンリーはそう言うと、パブのカウンターに入りこんた。天井の梁に吊るされたジョッキを二つとって、オーク樽から勝手にエールをなみなみと注ぐ。
「ヘイフィールドの牧師とやらはどうなんだ? 最初に見つけたって言う郵便配達人は、大丈夫だったのか?」
 私がたたみかけるように言うと、ヘンリーはグラスを差し出しながら口を開いた。
「連中は、死体の側にいつまでも居なかっただろうな。学校で死体に慣れている俺はともかく、あんな場所に長く居るのはお前のような物好きくらいだな、フィズ」
「物好きな奴じゃなけりゃ、記者にはなれないのさ」
 私はそう言って、ヘンリーを横目で見ながらエールをあおった。


 遠くで物悲しい吠え声がした。主の居ない家の前に佇んでいた犬が、腹を空かせて鳴いているのだろうか。
 長い、長い夜だ。待っている時間は、なぜ、こんなにも長く感じるのだろう。
 私はため息をついて、立ち上がった。暖炉の前へ行き、薪をくべて炎を強める。
 煙に疫病を追い払う力があると言ったのは、中世の医者だったか。それとも、アメリカの原住民だったろうか。
 どっちにしろ、ただの気休めだろう。
 私はシガレットを咥えると、マッチで火をつけた。
 唸り声のようなくぐもった音が鳴り響く。ヘンリーがいびきをかきはじめたようだ。
 パブの食料庫からショルダーベーコンの塊とハードチーズを探し出してきたヘンリーは、食欲の湧かない私を尻目に、エールの飲みながら腹へたらふく詰めこんだ。
 それから、大きな身体を長椅子の上へむりやり横たえて、身体にフロックコートをかけたと思ったら、あっという間に眠りこんだようだ。
 私はシガレットを吸いながら、目を細めて、ヘンリーを見た。
 長椅子からはみ出した脚が、床に着いている。赤味を帯びた顔に満ち足りた表情を浮かべて、高いびきだ。
 大した奴だな、全く。このくらい神経が太くなければ、きっと、解剖学校の教師は務まらないんだろう。
 私は白い煙を吐きながら、ヘンリーをじっくりと見た。今はまだ、外見的な変化はない。
 私は椅子に戻ると、便箋を取り出した。
 もしも、私の身体かヘンリーに症状が起きたなら、即座に書き記すつもりだ。
 私はシガレットから細い煙を立ち上らせながら、便箋の空欄を見つめた。


 ……フィズ。
 呼び声が聞こえる。なんだ、うるさいな。
「起きろよ、フィズ!」
 肩を乱暴に揺すられて、私はゆっくりと目を開けた。蒼い顔をしたヘンリーが見えた。
「ああ、やっと起きたな。呼んでも起きないから、焦ったぞ」
 ヘンリーはそう言って、ぎこちなく笑った。
「あれ……?」
 私は顔を上げて、辺りを見回した。
 まだ灯りが点いたままのランプ。飲みかけのエールの入ったグラス。インク壷に封筒。
 便箋は腕の下でしわくちゃになっている。いつの間にか、テーブルに突っ伏して眠ってしまったようだ。
「ここは薄暗くて分かりにくいが、もう昼近い時間だぞ」
 そう言ってヘンリーは、私に懐中時計を見せた。
 私はヘンリーの手から顔へ目線を向けて、次いで自分の手を見つめた。肌も爪も、大丈夫。
「ああ。そうか。結局何ともなかったわけか」
 私がため息まじりに言うと、ヘンリーが大げさに顔をしかめた。
「おい。がっかりしたように言うなよ」
 私はヘンリーを無視して、便箋をつまみあげた。
「結局、これも無駄になったな」
 しわしわの便箋を伸ばしながら続ける。
「こうして何事もなく朝になってみると、昨夜の自分が滑稽に思えてくるね」
「しかしな、医療に携わるものとして、疫病を野放しにするわけにはいかない」
 ヘンリーは力なく呟くように言う。
「元気がないな、どうした?」
 私は訊きながら、ヘンリーを見た。やけに顔色が悪い。目の下にはクマがあり、酷くやつれているようだ。
 ヘンリーは寝癖のついた黒髪をかきあげて口を開いた。
「夕べ妙にリアルな夢を見たんで、どうも、寝た気がしないんだよ」
「そうか。こっちが起きていたときには、気持ちよさそうにいびきをかいてたけどな」
 私の言葉に、ヘンリーは目をしょぼつかせた。
「あの荒野に横たわっていた村人たちが、あの干乾びたような姿のままで起き上がって降りてくる夢を見たんだ」
 ヘンリーはそこでため息をつくと、かすれ声で続けた。
「俺が腕を切開した老人も、胸を切り開いた男も、その傷口をさらしたまま降りてきて、村人全員でここの戸口を叩くんだ」
 私はまじまじとヘンリーを見つめた。
 いつもは、解剖学校で起きた恐怖譚や幽霊話を語って皆を怖がらせるのが好きな男が、ここまで怖がるとは。
 その時、コツ、コツと、誰かがパブの扉をノックした。
 ヘンリーは目を見開いて扉を凝視しながら、じりじりと後ろに下がる。
 私はその場に立ったまま、問いかけた。
「誰だ?」
 パブの扉が勢い良く開いて、眩い光が室内に射す。
 光の中に浮かび上がった男は、張り切った声で言った。
「旦那方。馬車の用意が出来やした」
 よれよれのコートに、薄汚れたシルクハットをかぶった、貸し馬車の馭者だ。
   ヘンリーはへなへなとその場にしゃがみこむ。
 私は便箋や封筒をかき集めると、ヘンリーの肩をつかんで言った。
「早いとこ、出よう」
 ヘンリーは蒼い顔をしたまま、のろのろと立ち上がる。
 ふと、床を見ると、吸殻とペンが落ちていた。もしも石床でなく木だったら、あるいは燃えやすい織物でも敷いてあれば、火事になっていたかもしれない。
 私はヘンリーと同じくらい蒼ざめて、パブを出た。

 

 屋根まで人で溢れた真っ赤な乗り合い馬車が、リージェント・ストリートの石畳を駆け抜ける。
 私は洒落たコーヒーハウスで、ヘンリー・スノウを待ちながら窓の外を見ていた。
 樽や箱をいくつも積んだ荷馬車や、小さなパラソルを差した女やシルクハットの男を乗せた無蓋馬車が忙しく行き交う。
 対面の店は衣料品店のようだ。ショーウィンドウに、色鮮やかな紫やピンクのスカーフやショールが飾られ、数人の女性が足を止めて見入っている。
 衣料品店の隣は、版画店だ。窓の一面に風刺版画や絵葉書が飾られ、大勢の人々が店の前に集まっている。
 ある女性は、ドーム状に大きく膨らんだスカートで三人分の幅をとって、ある男は、ステッキに寄りかかって気取ったポーズで、絵を食い入るように見つめている。
「やあ、フィズ。待たせてしまったな」
 頭の上から声をかけられて、私は振り向いた。見あげると、黒いモーニング姿のヘンリーが立っていた。二週間会わない間に口ひげが生え、頬がこけて精悍な顔になっている。
「やあ、ヘンリー。別に待ってなどいないさ。道ゆく人々を観察するのも、記者の仕事みないなものだからね」
「なるほど、眺めがいい席だな」
 ヘンリーはちらりと窓の外を見ると、猫足の華奢な椅子を引いて、私の対面にどっかりと腰をおろした。
「ずいぶんと印象が変ったじゃないか。どういった心境の変化だい?」
 私の言葉に、ヘンリーは口ひげをこすった。
「別に……。ただ、単に、疫病の『保菌者』かもしれないってんで『十四日間の検疫と隔離』を適用されていただけだ」
「隔離だって?」
「そう。中央保険局に報告に行ったまま、家へも帰れず二週間だ。おまけに、解剖学校に連絡が行っていなかったおかげで、教授や学生には『死人が生き返った』と大騒ぎされてしまった」
 ヘンリーはそう言って、大きくため息をついた。
 私は大騒ぎする解剖学校の様子を思い浮かべて、思わずにやけながら口を開く。
「それは、大変な目にあったな」
「ああ。全くだ」
 ヘンリーは大きく頷いた。
 給仕にコーヒーとクランペットを二つずつ注文すると、ヘンリーは椅子を軋ませながら話を続ける。
「それも、ただの隔離じゃなくて、まるで綿花や絨毯にやるみたいに、洗浄と消毒と燻蒸だ。ベーコンにでもされるかと思ったね」
 私は驚いて、口を開いた。
「へぇ。煙で燻すなんて、迷信かと思っていた。本当にやるんだな」
 ヘンリーは鼻にしわを寄せて言う。
「ああ。おかげでこっちは、コートも帽子も消毒と煙臭さが染み付いて大変だ。服は買いなおしたんだが、今もまだ煙の匂いが鼻に残っているんだ」
 給仕が湯気を立てるコーヒーと、ジャムとバターを添えた熱々のクランペットを運んできた。
 ヘンリーは早速コーヒーに砂糖を二杯も入れて、スプーンでかき混ぜる。私はそのままカップを持って、コーヒーを一口飲むと、窓の外を見つめた。
 店のすぐ前を、パラソルを差して鮮やかな紫の服を着た女性たちが通り過ぎる。昨今の人工染料流行で、帽子についた羽飾りから、ショール、手袋、たっぷりと広がったスカート、靴に至るまで、目に痛いほどの紫色だ。
 近ごろでは人工染料のバリエーションが増えて、これまた鮮やかな青色や赤紫、緑、ピンク色も出回ってきているという。 
「なあ、フィズ」
 呼びかけられて、私はヘンリーを見た。ヘンリーはコーヒーをすすりながら言う。
「お前の書いたあの記事を読んだよ。俺はあの時、村人たちの視線にまでは気づかなかったな」
 村人たちの視線……。
 ふいに、色鮮やかなヘザーの花に囲まれて倒れていた金髪の少女の姿が思い浮かんだ。空色の瞳で虚空を見つめていた少女。あの瞳には、何が映っていたのだろう?
「フィズ?」
 ヘンリーが訝しげに訊く。現実に戻された私は、カップを置くと、顔をしかめて言った。
「オールドウェルの記事を書いたって、誰も興味を持たないって新聞社の奴らに言われた」
「辺ぴなところにある村だからな」
 ヘンリーが頷いて言う。私はクランペットにバターをたっぷり塗りながら口を開いた。
「こっちはスクープだと思って書いたってのに、『そういうでっち上げ記事を載せるわけにいかない』なんていう奴もいて、散々さ」
「そうか。お前も大変だったんだな」
 ヘンリーがしみじみと言う。私は一気にまくし立てた。
「ああ、そうさ。みんなが本気にしないもんだから、また、わざわざピーク地方まで行ったんだぜ。で、第一発見者の郵便配達人を探し出して、聞いた話を記事にしたんだ。なのに、今度はロバートの奴が『載せられない』って言うのさ」
「またピーク地方へ行っただって?」
 ヘンリーが目を見開いて訊く。私はため息混じりに言った。
「そう。まあ、編集長の言うとおり、一つの事件にこだわりすぎているのかもしれないけどね」
「で、どんな話を聞いたんだ?」
「村人みんなが倒れていたってのと、長い棒のようなものを持った少年が一人ぼんやりと立っていたってだけさ。それも、パブへ連れて行って高いウイスキーをおごってむりやり聞き出したんだ」
 私は言い終えると、クランペットを口へ入れた。
 ヘンリーはクランペットを手に取ると、ちらりと私を見た。それから、アップルジャムをたっぷりとクランペットに塗りたくり、咳払いをして口を開く。
「ところでな、隔離されている間、古い本や新聞を読んで過ごしたんだが、その中にオールドウェルに関する記事があったんだよ」
「オールドウェルの記事だって?」
「そう」
 ヘンリーは短く言うと、クランペットに更にバターを塗りかさねて口へ運んだ。私はヘンリーが食べ終わるのを待って、口を開いた。
「どんな記事なんだ?」
「まあ、焦るなよ」
 ヘンリーはそう言って、ゆっくりとカップを持ち上げた。もったいぶったように、カップを手の中でもてあそぶ。
 私はクランペットの残りを口へ放りこんで、ヘンリーが話し始めるのを待った。
「ところで、フィズ。『ベルティナ』と呼ばれる日があるのを知っているか?」
 ヘンリーはカップを見つめたまま、ぽつりと訊く。私は、訊きなれない言葉に首を傾げた。
「いいや。知らない」
「そうか。俺の調べた古い文献によるとだな、四月三十日のことを言うらしい」
 私はじれったくなって、訊いた。
「なあ、ヘンリー。それが、オールドウェルとどんな関係があるんだい?」
 ヘンリーは肩眉を上げると、こげ茶色の瞳でじっと私を見ながら口を開く。
「オールドウェルには、こんな伝説があるんだ」
 ヘンリーはそこでコーヒーを喉へ流しこむと、声色を低く変えて続けた。
「『ベルティナの夜、蒼い馬に乗った盲の騎士が、物悲しい口笛を吹きながら荒野を駆けまわる。その音色を聞いた者は、無残な死を遂げるのだという』」
 私はオールドウェルの荒野に累々と横たわる村人を思い浮かべた。枯野を渡る風に混じって、物悲しい旋律が聞こえてきそうな気がした。
「無残な死、か。あの死に方は、まさしくそれだな」
 私の言葉に、ヘンリーは首をひねって言う。
「どうだろうな。それに、村人たちが倒れたのは五月一日のことだから、日付がずれている」
「ああ、そうか……」
 私は大きく頷いた。
 ヘンリーはコーヒーの残りを飲み干すと、顔をしかめて口を開く。
「リージェント・ストリートの店だから期待していたのに、やっぱりコーヒーは不味いな」
「まあね。最近のコーヒーは特に混ぜ物が多いからな。焙ったチコリの根が半分くらい入っているんだろう」
 私の言葉に、ヘンリーは大きく頷いて言った。
「きっと、そうだと思ったよ」
 私はコーヒーの残りに砂糖を入れながら言った。
「実は、ヘイフィールドの牧師にも話を聞きに行ったんだ。生き残った少年フィリップ・ロウが居たら、話を聞きたいと思ってね」
「どうだったんだ?」
 フィリップが顔をあげて言う。私は残りのコーヒーを飲み干すと、淡々と言った。
「無駄足だ。『フィリップ少年はここに居ない』の一点張りで、何も教えてもらえなかった」
  「そうか」
 フィリップは大きく頷くと、続けて言った。
「中央保険局でも、少年に詳しい話を聞きたくてヘイフィールドまで出向いたんだ。だが、既に後見人に引き取られた後だった」
「後見人……。親類か?」
「さあ。詳しいことまでは分からんが、フィリップ少年の家は、オールドウェルの中では裕福な部類に入る農家だったようだな」
「調べればその後見人が分かるんだろう?」
 私が食い下がると、ヘンリーは眉をひそめて首をひねった。
「それは、まあ、中央保険局を通してヘイフィールドの牧師にでも問い合わせれば分かるだろうが……。まだ、この件を追うつもりなのか?」
「ああ、もちろん。事件の唯一の生存者にも、話を聞いておきたいね」
「しかしな、編集長にも言われているんだろう?」
 ヘンリーが眉を寄せて言う。
「事件の真相が分かれば、編集長の態度も変わるだろう」
 私の言葉に、ヘンリーはゆっくりと首を振って言う。
「真相が分かればな。だが、無理だ」
 私は半ば椅子から立ち上がるように身を乗り出して、叫んだ。
「何故だ?」
「牧師の話によると、フィリップ少年はメイデー前後の出来事を全く覚えていなかったそうだ」

 

 海のように広い川面は、空を映して静かに波打っていた。
 ドックに停泊したカナダ行きの船は、高々とユニオン・フラッグを掲げ、移民たちが乗りこむのを待っている。
 私は船着場に程近い倉庫の前で、レンガ壁に寄りかかりながら川を見つめていた。
 あれからもう、ひと月以上経つというのに、私は今でもオールドウェルに執着している。
 あの村人たちが大きく目を見開いて何を見ていたのか、どうしても知りたいのだ。
 船のほうで歓声が上がった。乗船が始まったようだ。
 ひらひらとはためくフラッグの向こうに、オレンジ色に染まった空が見える。夕暮れだ。
 私は壁から離れると、レンガ造りの建物が並ぶ前を歩き始めた。
 今日こそ、疑問が解消されるかもしれない。それとも、何も分からずに、失望するだけかもしれない。
 オールドウェルでただ一人生き残った少年、フィリップ・ロウ。まだ十歳の彼は、自らの希望でヨーク郊外にある後見人の家を出て、ここリヴァプールの職人街で、弦楽器作りの見習いをしている。
 私は歩きながら、フィリップの後見人を思い浮かべた。
 痩せぎすの身体を狩猟用の服に包んだ、禿頭の男。訪ねて行った私を落ち窪んだ灰色の瞳でジロジロ見ながら、「フィリップは自分の意思でリヴァプールへ行った」と、何度も繰りかえした。
 あの、獲物を品定めするような目つき。あのときの居心地の悪さを思い出して、私は思わず身体を震わせた。
 阿片チンキの薬瓶の並ぶ薬品店の前を通り過ぎると、木製のベンチの並ぶ空き地がある。通りに面した場所には、紅茶を買う人々でにぎわっているティー・ストールが出ている。
 私はティー・ストールの前に並ぶ人々の間を横切って、空き地の奥へ行った。
 薬品店のレンガ壁に沿って二つ、それに向かい合うように三つのベンチが並び、奥には川が見えている。フィリップ少年と約束した場所だ。
 私は少年が来たらすぐにわかるように、通りに一番近いベンチに腰を下ろした。
 ティー・ストールはやけに繁盛していて、お湯を沸かすのが間に合わないほどだ。通りを挟んだ向かい側のパブも、やけに混雑している。
 ああ、そういえば今日は聖ヨハネの日。田舎から出てきた迷信深い連中は、一晩中眠らずに酒を飲んで大騒ぎをするつもりなんだろう。
 私は首をめぐらせて、川を見つめた。
 黄色に輝く太陽が、川面に金のきらめきを散りばめながら対岸に沈んでいく。
 長い竿を持った点灯夫がやって来て、私の向かい側のベンチの横に立つガス灯を点した。赤味を帯びた光が煌々とレンガ壁を照らし出す。
 薬品店の壁の角から、一人の金髪の少年がひょいっと顔を覗かせた。ヘイゼルの大きな瞳で、きょろきょろと辺りを見回す。
 私はベンチから立ち上がって、少年に呼びかけた。
「フィリップ君かい?」
 少年はハッとしたように私を見つめると、すぐに駆け寄ってきた。陶器のような白い顔を、癖のある柔らかそうな金髪が取り囲んでいる。秀でた額。細いあご。鼻にはそばかすが少し。だぶだぶの白いシャツに黒いベストとズボン、茶色く汚れた大きなエプロンを着ている。
 フィリップは甲高い声で訊いた。
「あなたが記者のかたですか?」 
「そうだよ。初めまして、フィリップ。私はウィークリープレイスの記者をしている、ハブロット・コール」
 私が帽子を脱いで右手を差し出すと、フィリップは小さな右手をエプロンにこすりつけてから、差し出して握手をした。
「初めまして、コールさん。僕はフィリップ。フィリップ・ロウです」
 フィリップは軽く首を傾げると、クセのある柔らかそうな金髪を撫で付けながら続ける。
「親方に言われて来たけれど、記者のかたが僕に何の用ですか?」
 私はなるべく親しみやすく見えるような笑みを浮かべて言う。
「君に少し聞きたいことがあるんだ。紅茶でも飲みながら、答えてくれないかな?」
 フィリップはちらりとティー・ストールを見た。私は畳みかけるように言う。
「砂糖たっぷりの甘い紅茶に、マーマレードつきスコーンで、どうだい?」
 フィリップは目を輝かせて大きく頷いた。
 辺りが少しずつ暮れていく中、ガス灯に照らされたティー・ストールは若い男女でにぎわっている。
 私は若い店員から紅茶とスコーンを買って、フィリップへ手渡した。
 レンガを背にしてベンチに座ったフィリップは、早速嬉しそうにスコーンを食べ始める。
 私はフィリップの向かい側のベンチに腰掛けて、紅茶を飲みながら通りを見つめた。
 ジョッキを手にした男たちがパブの外にまで溢れ出て、陽気な笑い声を響かせている。
 薄いスカーフを羽織り、帽子を被った若い女性たちは、口元を隠してくすくすと笑いながら通りを歩いていく。
 やがてフィリップはスコーンを食べ終わり、紅茶のカップを両手で持った。
 私はなるべく、さりげない口調で訊いた。
「君は、オールドウェル出身なんだってね」
 フィリップは両手で紅茶のカップを持つと、ヘイゼルの瞳で真っ直ぐに私を見て言う。
「メイデーのことなら、僕、何も覚えてないんです。ただ、みんなで歌いながら花を集めていて、ポールを立てようとしてただけで」
 私は目を見開いてフィリップを見つめながら、急いで言った。
「その時、ヘザーは咲いていたのかい?」
 フィリップは、用心深い目つきで私を見ながら言う。
「咲いてなかったです。だって、まだ咲くわけがないじゃないですか」
「そうだよね。それじゃあ、その時のことをもっと詳しく話してくれないかい?」
 私が訊くと、フィリップは紅茶を一気に飲み干した。カップをベンチの上へ置き、眉間にしわを寄せて言う。
「本当に、村のみんなでお祭を楽しんでいただけです。……それから、気がついたら、僕だけ立っていました。みんな倒れてて、僕だけが何ともなかった……」
 私はごくりと唾を飲みこんだ。荒野に佇んでいる少年の姿が脳裏に思い浮かぶ。
 これ以上この幼い少年に訊くのは、酷かもしれない。だが、私はどうしても好奇心には勝てず、更に訊ねた。
「お祭のときにどんなことがあったのか、ちょっとしたことでいいから、もう少し教えてくれないかな」
「……お祭の様子」
 フィリップは小声で呟くと、眉間にしわを寄せた。私は思い出させようと、口を挟む。
「ほら、みんなで花を集めながら、歌ったりしてたんだろう?」
 フィリップは頷きながら言った。
「お祭の時には、必ず演奏する騒々しいくせに変に陰気な曲があるんです。僕のお父さんが、演奏するのが得意だったんだったそうです。でも、今ではもう演奏できる人がいなくて、みんなメロディーをただ歌ってました」
「そうか。どんな曲なんだい?」
 フィリップは眉を寄せてうつむいた。金の髪が、ガス灯に照らされて、やけにぎらぎらと輝く。
 フィリップは立ち上がると、エプロンの横からズボンのポケットに手を突っこんだ。
「聴かせられないです。僕、歌がへただから」
 フィリップはそう言いながら、淡いクリーム色の細長いものを三つ取り出すと、組み合わせて一つの棒状にした。横笛だ。
「僕は演奏家になりたいんです。これ、前に屋根裏で見つけて、いつも持ち歩いてる笛です」
 そう言ってフィリップは、私に向かって笛を差し出した。私は立ち上がって、受け取った笛をガス灯にかざした。
 全体が鈍く飴色に輝いている。滑々としていて冷たい。適度な重さと、筋状の黒い筋。石ではないようだし、もしかしたら動物の骨で出来ているかもしれない。
「その笛は、蓋にいろんな模様がついていて、留め金が目玉みたいに見える外国製の箱に入っていました。だから、きっとお父さんの笛なんです。お父さんは外国にも演奏しに行っていたっていう話ですから」
「へぇ。すごいね。それじゃあ、そのお祭の曲を吹いてもらえるかい?」
 私はフィリップへ笛を返しながら訊いた。フィリップは頬を赤らめて、ため息混じりに言う。
「いいえ。他の笛でなら吹けるんですけど……。この笛は、どうしても吹けないんです」
「でも、音くらいは出るんだろう。ちょっとだけでいいから」
 私が頼みこむと、フィリップは顔を上げた。ヘイゼルの瞳でじっと私を見つめながら首を傾げる。
「吹いてみてもいいけど、たぶん何も聞こえないと思いますよ」
 私は軽く微笑んで言った。
「それでもいいよ」
 フィリップは頷くと、ガス灯に照らされた壁際のベンチにすとんと腰を下ろした。
 辺りは既に薄暗く、灯りの届かないベンチも壁も闇に溶けこんでいる。
 通りに見える赤い光は、酔っ払いたちが焚いた祝いの火。炎を取り囲むようにして、男も女も、老人も子供も、浮かれ騒ぎ、けたたましい笑い声を立てている。
 私はフィリップの向かい側のベンチに座って、なるべく喧騒を意識しないようにしながらフィリップを見つめた。
 フィリップは首を少し傾げて、静かに笛を唇に押し当てた。
 頬を膨らませて、細い指をしなやかに動かしながら、笛を吹く。
 私は聞き耳を立てた。
 音が出ない。
 空気の漏れる音すらしない。
 それなのに、フィリップはまるで音色が聞こえているかのように、目を細めて笛を吹く。
 私は、聞こえない音楽に耳を澄ませた。
 周囲の喧騒が次第に遠のいていく。
 ふっと、音が消えた。
 え?
 私は顔を上げて、ティー・ストールを見つめた。
 女性の客が一人、ちょうど紅茶のカップを受け取っている。ガス灯に照らされた顔色は悪く、肌はしわしわ。
 私は思わず、店員を見た。若い店員は、ぎらぎらと煌めく安っぽいティーポットで、カップに紅茶を注いでいる。ポートレイトのようにどこか薄っぺらでぎこちない光景。
 私は再び、フィリップを見つめた。
 人形のように同じ姿勢で座ったまま、一心不乱に、音色の聞こえない笛を吹き続けている。
 私は顔を上げて、再びティー・ストールの店員を見つめた。
 店員は手を止めて、ふと私のほうを見た。一瞬、目が合う。店員はすぐに顔を逸らして、紅茶を買いに来た女性を見た。顔を見合わせると、すぐに女性は目を逸らして、ティーカップを返しに来た少女と目を合わせた。
 少女は通りを歩く船員の男と目を合わせ、男は赤ら顔の酔っ払いと目を合わせ、酔っ払いは道を歩く若い女性と目を合わせ、若い女性は鳥打帽を被った紳士と目を合わせ……。
 目を合わせた人々は、次の視線の先を追っていく。まるで感染したかのように次々と目を合わせていく。
 やがて、視線を追っていた私たちは、酒瓶片手に道端に座りこんでいた老人と共に、一斉にフィリップを見た。
 どこか風の吹きぬける音のような、遠くから聞こえる口笛のような微かな音が耳に響く。
 フィリップの背後のレンガ壁が、ぐにゃりと歪んだ。人の顔ほどの大きさの半球状の出っ張りがいくつも現れて、壁に無数の影を落とす。
 その、半球状の出っ張りの全てに、黒い線のようなものがすっと現れた。線の部分は震えるように波うち、上下にめくれるようにゆっくりと開いていく。まるで、目蓋が開くように。
 壁を埋め尽くすように現れたのは、黄色く濁った白目。青い血管がいくつも浮き、血走っている。
 大きく見開かれた目蓋の中で、眼球が一斉にぐるりと動いた。
 現れた無数の瞳――あの少女のような空色の瞳――が、私を射るようにぎょろりと見つめた。

-end-

 

・参考文献
「コレラの世界史」見市 雅俊 晶文社
「図説ヴィクトリア朝百科事典」谷田 博幸 河出書房新社

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