「ワディ・エルグの砂丘」

 色鮮やかな青と赤のアラベスク模様の絨毯を持ち上げて、売り子が威勢良く呼びかけている。
 幾何学模様や花模様の絨毯が、通りの石畳にまではみ出して並べられていた。青や緑、ターコイズブルーにベージュ、黒や赤。くすんだ色から、鮮やかな色のものまで勢ぞろいだ。
 どの店でも、絨毯に香りをつけるためにお香を焚くので、「絨毯通り」中に樹皮のような匂いが漂っている。
 絨毯の間を通り抜けると、壷や細密画がずらりと並んだ骨董店通りだ。淡い花模様の布を頭に被った、青い目の女の陶器人形を目印に、角をくるっと曲がる。途端に、羊皮紙とインク、埃と黴の混じった独特の匂いが鼻を刺激した。
 ここは、巨大なスークの一角にひっそりとまぎれている、「古書店広場」だ。俺は、人通りの少ない路地をゆっくりと歩いて、一番奥の行き止まりに建っている薄汚れた古書店に向かった。
 通路に面した台の上に、古びた様々な本が並べられている。
 二週間前に来たときから、入れ替わった本はたったの三つ。古くから信仰されている唯一神〈全智の光〉の聖典が一つ。聖典の研究書が一つ。古い医学書が一つ。どれも、俺にとっては役に立たない本ばかりだ。
 奥のどっしりとした書棚の前で、書見台に本を置いて読んでいた古書店のおやじは顔をあげた。古びて縁が飴色に染まった丸眼鏡を、人差し指でずり上げる。
「おお? なんだ、お前さんか」
「ずいぶんなご挨拶だな。俺だって大切なお客様だぜ」
 俺は口を歪めて言いながら、頭に巻いたターバンを不器用な手つきで直した。おやじはにやりと笑って、灰色のあごひげを擦りながら言った。
「ターバンの被り方も、ずいぶんとさまになってきたみたいじゃな」
「まあな。あんたの教え方が良かったおかげで、しょっちゅう下がってくるけどな」
 おやじは声をあげて笑った。俺もつられて、久々に笑い声を出した。
 ひとしきり笑った後で、俺は真顔になって訊いた。
「最近はあまり、仕入れに歩いてないのか? 本が変わり映えしなさすぎじゃないかい」
「おや、おや。誰のせいで変わり映えがしないと?」
 おやじはそこで言葉を切ると、眼鏡の奥で悪戯っぽく笑って続けた。
「さて。お前さんの役に立ちそうな書物がやっとで手に入ったが、前の台に並べておけば良かったかな?」
「まさか! それを早く言ってくれ!」
 勢い込んで言うと、おやじはもったいぶった手つきで古びた革張りの本を取り出した。手ずれしたアラベスク文様が題字を取り巻いている。背表紙には、蛇がのたうち回るような文字で「ジャンビア」と型押ししてあった。
 おやじは俺に本を手渡しながら言った。
「どこの街かは判らんが、まだジャンビアが本物の武器だった頃のものじゃよ」
「へぇ」
 と、気の抜けた返事をすると、おやじは付け加えた。
「まあ、スークにジャンビア売りの店が幾つあったか、どんなジャンビアが売られていたかが書かれた、記録じゃな」
「なるほど。それは珍しい」
 俺は受け取った本をパラパラとめくってみた。細かな埃がページをめくるたびに舞い上がっる。変色した茶色の紙に、びっしりと文字と数字が書いてあった。片隅にジャンビアの小さな挿絵もある。刃先が優美に 湾曲して、柄が宝石で飾られた立派な短剣が雑に描かれていた。
「どうだ、役に立ちそうか?」
 おやじが誇らしげに言う。俺は本を閉じると、頷いて言った。
「ああ。ジャンビアの資料は探していなかったけれど、これはなかなか面白そうだ。で、幾らだ?」
「そうじゃな。お前さんは、よくわしの店に来てくれるから……。三十五ディナールってとこか」
 おやじは淡々と言った。
「ちょっと高すぎやしないか?」
 俺は顔をしかめて言った。いくら顔なじみでも、相手は熟練の商人だ。言い値のままで買うわけにはいかない。
 おやじは眼鏡をずらして、路地を見つめながら言った。
「さて、さて。ここは行き止まりだから、チャイを頼もうにもチャイ売りが歩いていない。昔は違ったんだが、スークの外の家畜商めが、狭いとかなんとか言って外への通路を閉じてしまったんじゃよ」
 急に、おやじが話題を逸らしたのに苛立ちながら、ぶっきらぼうに返事をした。怒ったら負けだ。値段の交渉は我慢比べなのだ。
「その話なら、前にも聞いた」
 おやじは表情を変えずに、話を続けた。
「行き止まりになったおかげで、売り上げがガタ落ちでなぁ。それに、近ごろでは、古書を買っていくのは、お前さんみたいに酔狂な海の向こうの人だけなんじゃよ」
 俺は片眉を上げた。最近じゃあ、この町でも俺みたいな異教徒や他所者が増えている。しかし、この店でそういったお仲間に出会ったことは一度もない。きっと、他にも買い手がいるようなそぶりを見せて、俺に高く売りつける算段なのだろう。
「どうせ、そいつらは、もっと立派な古書を探しているんだろ、こんな擦り切れたやつじゃなくてさ。俺みたいに、興味半分で、珍書を集めている奴は他にいないぜ」
「ふうむ。そういうものかねぇ」
 おやじの反応に、俺は調子に乗った。
「そう、そう。そんな古書を買うのは、俺くらいのもんだ。だから、いくらか安くしてでも売ったほうがいいって。……そうだな、十五ディナールなら、出してもいいぜ」
「十五ディナール! それは、あんまりなお値段でしょう、挫折した絵描きどの!」
 おやじは大げさに叫んで、俺の手から本をもぎ取った。眼鏡を外して、袖でレンズを拭きはじめた。
「俺は挫折してなんかいない。周りによき理解者がいなくて、報われないだけだ!」
 思わず怒声をあげてから、俺は急にきまりが悪くなって、ため息混じりに言った。
「いや……。十八なら出してもいい」
「十八ディナール……」
 おやじは呟くように言って、黙りこんだ。
 俺はため息をついた。他に役に立ちそうな本がないかと、店の中を見回す。と、本棚の横の煤けたガラスケースの中に、本らしきものが入っているのが目に留まった。前に来たときには、あんなものはなかったはずだ。
「なあ、あの中に入ってるのは本だろう? 大事なものなのか?」
 俺の言葉に、おやじは瞬きをすると、ようやく眼鏡をかけた。俺の指し示す先を見たおやじは、曖昧に笑って、口を開いた。
「かなり古いものじゃよ。誰が書いたか判らない自叙伝でな、掘り出しものの珍書には違いないが、あいにくと欠けているページが多いんじゃ」
 俺は落ち着きなく、ガラスケースを見つめた。ガラスが汚れすぎていて、中はさっぱり見えない。俺はごくりと唾を飲みこんで訊いた。
「なあ、その本、見せてくれないか?」
「本当に買う気があるなら、見せるがね。なにせ、綴じがあまくて、またページが抜け落ちてしまうかもしれないんでな」
 俺は、頭の中で素早く計算した。最初の本を値下げさせるよりも、この本と抱き合わせにしたほうが得かもしれない。
「判った。じゃあ、さっきの『ジャンビア』とそのケースの中の本とで、二十五ディナールでどうだい?」
 俺の言葉に、おやじは首を振って言った。
「いいや、四十ディナール」
 俺は小さく咳払いをすると、口を開いた。
「じゃあ、三十だ。持ち合わせが少なくて、それ以上は出せないぜ」
 本当は倍以上のディナール銀貨を持ち合わせているが、黙っておく。
 おやじは、眼鏡の奥でじっと俺を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「よし。それで決まりだ」
 俺はほっとして、思わずにやりと笑った。


 部屋に戻った俺は、閉めきっていた窓の鎧戸を開いた。隣りの集合住宅の向こうに、礼拝所の尖塔が見えている。
 俺は古びた絨毯の上に直接座ると、ターバンを解いた。こぼれ落ちた髪の間を、風が梳いていく。
 覆っていた布を解くのももどかしく、俺は買ったばかりの古書を取り出した。早く、中を読んでみたくてしょうがない。特に、自叙伝のほうは、中を全く見ないうちに買わされてしまった品だ。
 俺は『ジャンビア』を脇に置いて、薄茶色に変色した自叙伝を膝に載せた。自叙伝は表紙が無いためか、染みが所々につき、紙が折れ曲がって痛んでいる。
 俺はそっとページをめくった。
 薄くて不鮮明な文字が、びっしりと紙を埋め尽くしている。どうやら、文字は茶色の顔料らしきもので書かれているようだ。
「ずいぶんと珍しいな」
 俺は興奮を抑えきれずに呟くと、文字を追いはじめた。


 へ向かう隊商に参加して、二十三日目。
 最後まで一緒に歩いていたガビーも、とうとう砂丘の上から一歩も動かなくなってしまった。


 俺は自叙伝から顔をあげた。
 途中からいきなり文が始まっている。どこへ向かう隊商か書いてなければ、資料としてあまり意味がない。
 俺はゆっくりとページをめくり戻した。思ったとおり、表の紙に文字の書いてあった痕らしきものが残っている。だが、顔料がすっかり落ちてしまっていて読めない。
 俺は窓に自叙伝をかざしてみた。かろうじて読めた言葉は「井戸」と「方角」だけだ。
 俺はため息をつくと、再びページをめくって続きを読みはじめた。


 どこまでも、どこまでも、なだらかな砂丘が広がっている。どこまでも続く砂色の世界に、動くものの姿は何一つない。
 最後のラクダを奪ったイブン・ムアッリムの姿もない。彼は、一族の井戸の場所を知らなかったのだから、ラクダに乗っていても決して水場にはたどり着けないだろう。
 他のラクダは既に砂の下。流砂に飲まれて、積荷の乳香や隊商の仲間と一緒に埋もれてしまった。
 私の身体も砂に埋もれているのではと思えるほど重く、砂にまみれている。口の中も砂だらけ。目をあけることもできない。
 当時の私は初めての隊商に参加したばかりで、星を読んで方角を知る方法も、一族の井戸の目印すらも判らなかった。あてもなく砂漠を彷徨うよりは、静かに横たわって運命の時を待つほうがずっと楽に思えた。
 どのくらい横になっていただろうか。私の耳は、砂を踏む足音を確かに聞いた。
「死んでいるのか?」
 低い男の声が、頭上から響いた。私は声を出したかったけれど、砂を吐き出すことしかできなかった。
「生きているなら良い」
 男はそう言いながら、私の埋もれかけた腕を乱暴に引き抜いた。腕が自由になって、私は急いで顔の砂を払った。
 いつの間にか夜が明けて、太陽がじりじりと砂を熱していた。もしも、あのまま横たわっていたら、私はすっかり干からびて、そのうち骨だけになっていたことだろう。
「ありがとうございます」
 私はかろうじて起き上がると、咳き込みながら男に礼を言った。口の中がやけに乾いていて、喋るたびに喉の奥がひりひりと痛み、砂粒が舌に当たる。
 男は高い鼻梁と引っこんだ鷹のような目元だけを覗かせて、頭から全身を黒い布で覆っていた。側にラクダもなく、他の人もいない。それなのに、荷物は腰に下げている細長い革筒だけのようだ。
 てっきり隊商の一員に助けられたと思っていた私は、信じられない気持ちで男を見つめていた。この男は、水袋すら持っていないように見える。
「さて。おまえが干からびてしまう前に、済ませなければな」
 男はそう呟きながら、腰の革筒から巻いた紙を取り出した。紙の白さが眩しくて、私は思わず目を覆った。
 男は続けて、筒の中から真っ直ぐな木の枝のようなものを数本取り出した。棒の先には、青や緑、赤い色がついている。
「出来上がったら見せるから、それまで待っていろよ」  男はそう言いながら紙を広げると、棒を素早く動かしてなにやら描きはじめた。
 私は何が起きているのか判らずに、必死に夢を見ているのだと思い込もうとしていた。
 やがて、男は満足そうに頷くと、私に向かって紙を広げた。
 描かれていたのは、椰子の木が立ち並び、その下で色とりどりの花が咲き乱れている、まるで楽園のようなオアシスだった。だが、それは絵だ。どんなに素晴らしくても、紙の上にしか存在しない。
 私がいますぐ欲しいのは、喉を潤す水と、涼しい木陰。
「どうだ?」
 男がぶっきらぼうに訊く。私は思ったままを素直に口に出した。
「こんな風なオアシスが、いまここにあればいいのに」
 男が目を細めて笑うのと同時に、白い煙が立ち昇った。私は思わず目を閉じた。
 すぐ側で、水音が聞こえる。風にそよぐ、椰子の葉がこすれ合う音も。
 私は信じられない気持ちで、ゆっくりと目を開けた。
 果たして、私の目の前には、絵で見たとおりの光景が広がっていた。軽く波打つ水の際に、私の足があった。
「おい。早く水を飲んで、身体の砂を落としておけよ」
 椰子の木陰に、あの男が座っていた。頭に被っていた布を外して、赤茶色の長い髪を風になびかせている。陽に焼けた顔は、若いようにも、中年のようにも見えた。
 私はごくりと唾と一緒に砂粒を飲みこんで、掠れ声で訊いた。
「これは、どうなっているんですか? あなたは、魔法使いですか?」
「俺が? まさか」
 男はそう言って笑いながら、ゆらりと立ち上がった。驚いている私に近づくと、男は私の頭をわしづかみにして、ぐいっと力をこめた。
 私は抵抗する間もなく前へつんのめり、水の中へ頭から沈められた。男は私の頭を放しながら、淡々と言った。
「ほら、本物の水だと判ったろう? さあ、飲め!」
 私は雫を滴らせながら、顔を顰めて水からあがった。鼻の奥が痛い。男に押さえつけられていた間に、水を吸い込んでしまったのだ。
 私は濡れて重くなった上着や靴を脱ぎながら、口を開いた。
「先ほどあなたが描いた絵と、今起こったことは何か関係があるのでしょう? あの絵はどこですか?」
 男は白い紙を広げて見せた。
「これが、さっきの紙さ。絵はもうない。オアシスになっちまったからな」
「まさか!」
 私は信じられない気持ちで、白い紙と男の顔を見比べた。男はにやりと笑って、言った。
「まあ、いいさ。ちょうど時間も木陰もある。話してやるよ」
 男は再び椰子の根元に座り込むと、私が座るのを待って語りはじめた。


 町の名前は……。そんなものは、まあ、いいさ。重要じゃない。
 とにかく、当時あの町では、人物画を描くのが禁止されていた。偶像崇拝に繋がるとか言ってな。
 だが、旅人だった俺は、禁止されていることなど知らずに人の絵を描いちまって、とにかく牢屋にぶちこまれたってわけだ。
 俺の入れられた石牢の片隅に、一人の爺さんが縮こまって座っていた。暗がりの中で、爺さんの眼鏡の縁が光って見えた。
 爺さんは眼鏡をずりあげると、嬉しそうに言いやがった。
「ありがたや。一人で退屈しておったところですぞ」
 俺は黙って冷たい床に座りこみ、慣れないターバンを直した。爺さんはまた、話しかけてきた。
「お前さまは、いったい何をしでかしたのです?」
 俺は憮然と答えた。
「何もしでかしちゃいない。ただ絵を描いただけだ」
 爺さんは異様なほど目を輝かせて、震え声で叫んだ。
「おお、ありがたや! ぜひともお前さまに絵を描いてもらわねば」
 俺は爺さんの勢いに気おされながらも言った。
「絵描き道具はみんな取り上げられちまったぜ。どうするつもりだ?」
 爺さんは牢屋の隅に手を伸ばすと、布袋を取り出した。骨ばった手で袋を開けて、小さな紙切れとこいつを取り出したのさ。


 男はそう言って、先ほど絵を描くのに使った棒状のものを私に見せた。
「こいつが『色鉛筆』だ」
 男は色鉛筆を革筒へ仕舞うと、再び語りはじめた。


 爺さんは「色鉛筆」と紙切れを差し出しながら、俺に頼んだ。
「偉大な絵描きどの。これで、鍵の絵を描いてくれませぬか?」
「どういうことだ?」
 俺が訊くと、爺さんは薄い唇を歪めて言った。
「お前さまは、牢屋の鍵を見ましたかの?」
 俺は牢番が持っていた鍵束を思い浮かべながら答えた。
「少しだけなら見たぜ」
「では、似ていなくとも良いので、お前さまが『牢屋の鍵だ』と思う絵を描いてもらいたいのです」
 俺は妙な話だと思いながらも、結局絵を描いた。
 絵を描くのは嫌じゃなかったし、退屈しのぎになる。それに、初めて見た「色鉛筆」ってやつを良く見てみたいと思ったんだ。
 「色鉛筆」は、どうやら顔料を棒状に固めて木で挟んだ道具らしい。顔料はやけに硬いのに、紙の上に柔らかく色がのり、滑らかな描き心地に俺は夢中になった。
 やがて、凝った飾りのついた、古びて錆が滲んだ鍵が描きあがった。俺は自分でも、とても、いい出来栄えだと思った。鍵束の鍵には全く似ていないんだが、色は牢の鉄格子にそっくりで、俺には牢屋にとてもふさわしく思えた。
 爺さんは俺が見せた絵を見て、やたら嬉しそうに言った。
「なんと、素晴らしい。ここの牢屋にぴったりの鍵ですな!」
 爺さんがそう言った途端に、俺の描いた絵から真っ白な煙が一筋立ち昇った。あっという間に、爺さんは古びた牢屋の鍵を手に持っていて、俺の描いた絵は跡形もなく消えていた。
「ま、魔法か?」
 俺は驚きすぎていて、そう訊くのがやっとだった。
 爺さんは俺に背中を向けると、鉄格子の間に腕を入れながら言った。
「東方伝来の魔法の品でしてな、絵に描いたものを本物にする力があるのですよ」
 俺は思わず、叫んでいた。
「でも、俺が描いた鍵と違うぜ」
 爺さんはくるっと振り向いて、ニマッと笑って言った。
「さて、鍵が開きましたぞ。詳しい話は、逃げ延びてからのほうがよろしいでしょうな」
 こうして、俺と爺さんは牢屋からおさらばしたって訳だ。
 町の外れまで逃げた俺は、次々と食べ物の絵を描いた。何を描いたかまでは忘れたがな。とにかく、俺も爺さんも腹が減っていた。
 それから、爺さんは約束どおり「色鉛筆」の魔法について俺に話した。難しい話は良く判らんが、とにかく、絵を本物にするには、絵を見る奴が必要らしい。
 まあ、俺が必死に描いた傑作な鍵の絵も、結局ただの牢屋の鍵に変わっちまった。本物になるものは、絵そのものよりも、絵を見た奴がどう受け止めるかに左右されるってことだ。


 男は語り終えると、水の向こうに広がる広大な砂原を見つめた。どこか物寂しそうな横顔だった。
 私は、きっと男が老人から魔法の「色鉛筆」を盗んだに違いないと思った。


 ページの真ん中で紙が破りとられている。偶然なのか、故意なのか。
 俺は紙の破れ目を見ながら首をひねった。
 古書店のおやじは、この自叙伝をかなり古いものだと言ったが、どうも妙だ。紙は張りがあるうえに、厚さが一定だ。もしかしたら、古いものに見せるために、わざと汚しているのかもしれない。
 俺は舌打ちすると、破れた紙をめくった。
 
 
 男の言ったとおりだった。
 オアシスが本物になったばかりのときには、水は花畑のすぐ側まであったのだ。それなのに、日が暮れた今ではもう小さな水溜りのようになってしまっている。
「だから言っただろう? このオアシスは、明日の朝には消えてるぜ」
 男の言葉に、私は黙って頷いた。私も認めざるをえなかった。
 ここは、もともとオアシスができるような場所ではない。砂の下に岩がある場所でも、涸れ谷の底でもない、砂丘の上だ。水はどんどんと砂に吸い込まれて、消えていってしまう。
「何という、水の無駄」
 私は思わず呟いていた。
 なにせ、男も私も、水袋を持ち合わせていなかった。せっかくの水を、体内に取り込む以外に、取っておく方法がないのだ。
「仕方がないだろう? これは、そういうものだ。万能じゃあない」
 男はそう言って、色鉛筆の入った筒を撫でた。
 煌々と照らす月明かりが辺りを照らす中、男と私はオアシスを出た。男の言葉を借りると、「夜のうちにもう少しましな場所へ動く」ということだ。
 暫く歩いてから振り返ると、砂丘に突き出た椰子の木々は、蜃気楼のように揺らいで見えた。
 あの椰子の木も、いずれ干からびて砂に埋もれてしまうのだろう。


 ページをめくった途端に、するりと紙が滑り落ちた。窓から吹き込む風に乗って、ふわりと飛んでいく。
 俺は自叙伝を絨毯の上におくと、ため息をついた。
 ゆっくりと立ち上がって、部屋の隅まで歩いていく。薄茶色の紙を拾いあげると、顔料が擦れていて、かろうじて読めるのは端に書かれた、たったの二行だけだった。


 彼女は、作り物かもしれない。
 いや、この私こそが、作られた物なのかも……。


 擦れて消えてしまった部分には、何が書いてあったのだろう?
 この紙は、いったいどこのページに入るものなのだろう?
 俺は自叙伝のところへ戻ると、再び座って続きのページを見つめた。
 ずいぶんと紙が抜けているようだ。急に話が飛んでいる。しかも、話者は自叙伝の著者ではなく、どうやら絵描きの男のようだ。


 そこは、ワディ・エルグと呼ばれていた。まあ、よくある涸れ谷だな。
 谷の周りは赤茶けた岩山に囲まれて、砂が飛んでくるのを遮っていた。
 よくあるオアシスがそうなように、そこも谷底に僅かに水が溜まっていて、その側に大きな町ができていたのさ。
 俺はそこで、運命の出会いをした。まあ、簡単に言うと、女と出会ったわけだ。
 大きな青い目が印象的な、美しい娘だった。もちろん、頭からすっぽりと淡い花柄の薄絹を被って、口元も布で隠していたさ。けれど、見えない部分の美しさもにじみ出ているっていう感じだったな。笑い声は涼やかで、柔らかく響いた。
 まあ、身分違いだったけどな。
 向こうは町の有力者の娘で、ワディ・エルグの姫君みたいなものだ。町で一番高い塔のような家の、最上階に住んでいる。
 それに対してこっちは、家から一歩も出たことのない姫君に、様々な絵を見せる役目を仰せつかった、ただの流れ者の絵描きさ。
 俺は、様々な絵を描いて彼女に見せた。沙漠で暮らす小動物の絵や、スークの様子、他の町の立派な礼拝所などを。
 描くのに使ったのは、あの魔法の色鉛筆だ。かわいらしい小動物が飛び出せば、彼女を喜ばせられると思ったのさ。
 だがな、魔法は起こらなかった。彼女はその動物を知らなかったわけだ。だから、絵も本物にならなかった。
 それでもまあ、彼女は俺の絵を気に入ってくれた。あの色鉛筆で描く、淡い色合いがいいのだという。
 魔法の「色鉛筆」の減りが早いのはもったいなかったけどな。でもまあ、あの時はどうしても彼女の関心を惹きたかったのさ。
 ある日、彼女は、可愛らしい声でこう言った。
「わたし、砂丘を一度も見たことがないの。だから、見てみたいわ」
 俺はすぐさま、「色鉛筆」で描きはじめた。彼女に渡された大きな紙いっぱいに、風が生み出す細かなうねりまで描いた、かなりの力作だった。
 俺が出来上がった絵を見せると、彼女は大喜びで叫んだ。
「なんてすてき! こんな砂丘が、この部屋から見られたらいいのに」
 とたんに、絵から白い煙が立ち昇った。
 しまったと思った時には、もう遅い。
 ワディ・エルグは一瞬にして消えてしまった。おびただしい砂に埋め尽くされてしまったってわけだ。
 オアシスも、町もすっぽりと砂に飲まれた。残ったのは、俺と彼女のいた部屋だけだ。
 どこまでも、どこまでも続く不毛の砂の地に、俺と彼女だけが取り残されちまったのさ。


 男はそこで言葉を切ると、小さくため息をついた。城壁に背中を向けて、荒涼と続く砂丘を見つめる。
 私は身じろぎ一つせずに、男が口を開くのを待ち続けた。
 街へ入る門が開くには、まだまだ時間がある。空は夜明け前の濃い藍色に染まっていた。
 男はぽつりと、私の方を見もせずに言った。
「実はな、お前を見つけた場所は、もともとワディ・エルグがあったところなのさ」
 私が驚いていると、男は話を続けた。


 俺は何度も、彼女を説得した。死なせたくなかったし、絵を見せる相手さえいれば、二人とも生き延びられると思った。
 でもな、彼女は結局、俺の話を信じなかった。
 周りに見えているものは、夢だと言い切った。いや、そう思いこもうとしていただけかもな。
 とにかく、彼女は部屋から出ようとしなかった。俺が窓から外へ出ても、砂を持ちこんで触らせても、彼女は反応しなかった。
 とにかく、水と食料が必要だ。だから、俺は食べ物の絵や、オアシスの絵を彼女に見せた。
 だが、絵は本物にならなかった。頑なに夢だと信じている彼女には、どちらも必要のないものだったんだ。
 次の日になると、彼女はひたすら眠り続けた。次に目覚めたときには絶対に、いつものワディ・エルグの町並みが戻っていると、日常が戻っていると信じて。
 夜になると風が部屋に吹きこんで、床が砂に覆われた。この部屋も、じきに砂に飲みこまれてしまうだろう。
 いつまでも眠り続ける彼女を残して、俺は部屋を出た。歩き出すと、飢えと渇きが酷くて、俺も大勢の人々を殺してしまった罪で死ぬんだと思った。けど、死ななかったわけだ。こうして今、いるんだからな。
 俺は、いつもワディ・エルグのあった辺りに行って、「こんどこそ死のう」と決心するんだ。だがな、飢えや渇きが酷くなると、ついつい他の奴を探して「生きよう」としてしまう。
 助けるのが目的じゃないのに、ついつい行き倒れを助けちまうんだ。


 ページがごっそりと抜け落ちているのか、本はここで終わっていた。
 俺はため息をついた。
 著者がどうなったのか、何も判らない。
 それよりも、これを書くのに使われている道具は……?
 俺は、最後の文字をそっとなぞった。


 あの絵描きは今も、砂漠を彷徨っているのだろうか。

-end-

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