10年目の春を訪ね歩く


 この文が執筆されたのは97年4月。大学のサークルの部内誌に掲載したものです。JRが発足して10周年記念で全国3日間乗り放題の切符が発売され、これを利用して旅行をした時の様子を書いたものです。転載するにあたり、時制はそのままにしましたが、分かりにくい言葉についてはすこし書き足しをしました。写真を捜したんですが見つからないので(笑)今の所テキストべったりですが、良かったら読んで下さい。

0.旅立ち

 国鉄が民営化されて今年の4月で丸10年である(※注参照)。だからといって私は国鉄を懐かしんだりすることもなく、JRに潜む諸問題に敏感になったりでもない。当時小学校5〜6年生だった私は、当時の風景をテレビ越しにしか経験していない。国鉄消滅の瞬間を見ようと生まれて初めて午前零時まで起きていたこと、何の面白みもない鶴見駅の自販機の入場券を買って興奮していた位だろう。

 国鉄最後の日に出た、全線乗車有効な謝恩フリーきっぷ。10周年の謝恩フリーきっぷが発売されるという情報が入ったのは2月末だった。大きな駅でしか買えない旨があり、3月の半ばに道東を旅していたときに根室で買おうとしたところ、ここでは売れないと返され、余程気合を入れた特別なデザインの切符が出てくると期待していた。釧路で求めたそれは、ただの機械発券の、やはり味気ない券だった。デザイン(以前は特別)にしろ、三日有効で三万円という費用対効果 (以前はこんなに高くなかった)にしろ、惰性で売っている気がし、冬の北海道とはまた異質な虚しさを感じた。

1.みちのく

 大学近くの定食屋でちんたら夕食をとっていて時間がなくなってしまったので上野駅に直行する。うすら寒い。発車30分前に入線した青森行臨時夜行急行の「津軽」は、春休み中というのにボックス席一区画当り一人でかなり驚いた。しかし更に驚いたのは、高校時代の鉄研の後輩であるIがいたことである。彼は現役で志望通りの大学に進学したという。これから北海道へ行くという彼から、久々に高校の話を聞いたが、もはや私が関与するところでもなかった。彼は大学では鉄研には行かないと言った。

 翌朝、大曲で「津軽」、それにIと別れる。客車列車が放置されていたかつての留置線に造られた頭端式の秋田新幹線ホームは、朝ということもあるが開業後1週間とは思えないひっそりぶりである。「こまち22号」は指定席は既にほぼ満員であるが、自由席は空いていた。改軌された田沢湖線の各駅は輝いているかのようである。しかしこの路線の効率の悪さには閉口する。客扱いなしの交換待ちが多い。実際乗ると、新幹線・在来線直通方式は乗り換えが無いだけしか利点が見いだせない。盛岡での併合も実際は5分程かかっている。ただ新車には違いない。盛岡〜仙台では表定速度270km/hは出ていたが快適に過ごせた。

 仙台から利府に向かう。こんな豪華な切符を使っているのに、結局乗り潰しをする自分が悲しい。何の変哲もないキックターンだった筈の利府では、不要になった様々な、ボロボロの機関車が留置してあった。一体どうするんだろうか。正直、私はその交流用だという機関車があれ程種類があるとは知らなかった。現在と言えば、交流区間は諸問題を克服して機関車は一種にまとめられているらしい。あの沢山のボロ電機は、東北の難条件線区に立ち向かった先人の軌跡だったが、それが放置されているのは何だか悲しい気持ちになる。

 夜行の疲れで仙山線(山形〜仙台間)の景色を見るまでもなく北山形に着いた。左沢(あてらざわ)線が分岐する同駅は本線のホームと左沢線のそれがやや離れている。接続待ちをしていた左沢行は例によって軽そうな新型軽快気動車だった。土曜日ということで学生でごった返している車内も寒河江を過ぎるとぐっとローカル味を帯びる。終点の左沢は地名としてはむしろ大江として知られ、かつては最上川水運の中継地で栄えた町である。しかし駅の周辺の様子はその片鱗もない。キヨスクで左沢煎餅なるものを買う。銭形の煎餅で藁で一括りにしてあり、「最上川をいく商人が近辺の鎮守に奉納した」ものを似せたそうである。

 山形から南下し、かみのやま温泉駅で下車し、上ノ山温泉の公衆浴場に行く。後から思えばこれが仇にはなるのだが、上ノ山では以前から公衆浴場巡りを継続していたのでやむを得ないか。何も用意しないで出発しタオルでさえ仙台で買い求めたという有様だったが、管理人のおばちゃんはシャンプーを貸してくれ、夜行での汗を流すことが出来た。

 かみのやま温泉から乗った山形新幹線「つばさ」は100%の乗車率で、何と郡山まで座れず。「つばさ」はもはや山形への足として定着した感がある。この車内と次の東海道新幹線で、先程の温泉の湯冷めをしてしまったらしく、鼻の調子がおかしくなってきた。「ひかり」では名古屋までデッキ座り込みを余儀無くされる程混雑していたのである。

2.周防長門

 京都で降りた時には雨が振っていた。同志社に行っている高校時代の同輩(といっても彼は現役で進学したので今3年である)であるTと会おうかと思っていたのだが、雨だし夜9時では迷惑だろう、と思い連絡は改めてはしなかった。在来線ホームに行くと、Tと会うどころではなく、京都始発博多行の臨時夜行快速の「ムーンライト九州」に列ぶ自由席の列がズラッと出来ている。慌てて列んだ目の前に停車した車輛は喫煙車で、これはまずいと思ったがもはや時遅し。荷物を置いてみどりの窓口へ走ったが、さすがに指定席はなかった。

 翌朝、まだ暗い厚狭(山口県)で下車した乗客が三分の一もいたので驚いた。何せまだ5時。一様に美祢線ホームへ向かうのである。1番線に美祢線と書いてあり、ディーゼルカーが停車しているので荷物を置いてブラブラする。突然笛が鳴り、まだ発車には早いと思いながら乗ると、しばらくして同列車は下関行だったのに気付いた。乗り間違えたらしい。時刻表を見ると、早めに降りれば余裕を持って折り返して予定通りの美祢線に乗れそうである。結局小月で下車して戻り、事なきを得たが、怪我の功名で小月では徒歩3分のところにコンビニを見つけ食料を確保出来た。厚狭にはコンビニはなかったらしい。

 1輛増結して2輛となった美祢線の客の行き先は、やはり廃止目前の南大嶺〜大嶺間であった。本線とは対照的な古いキハが走る同区間を、炭田の撤退で何もない山中をしばらく走り、そして止まった。廃止になる線区に相応しく、惜別の言葉を書き記すノートが置かれていた。多くの鉄道愛好の士が様々な感想を並べ立てている。その中で印象的だったのは、「こういうノートが置かれている時点で残念だ」という感想であった。では置いていない事態がどうだというのか。おしらく、マニアの玩具になってしまった鉄道の姿を否定しようとしているのだろうか。同地区は既に町としての存在は希薄である。炭田という基幹産業を失った町に田畑は残っていたが、これを生活基盤にしたコミュニティーに過大な交通需要は望めない。こうした鉄道敷設から撤退までの社会構造の変化との関連にも目を配り、興味を持って調べるというのが、本来あるべき鉄道研究の徒の姿ではなかろうか。しかしその感想を書いた人がそこまで考えているかは謎である。

 更に美祢線を北上するが、幹線に分類されているだけあって線路規格は抜群にいい。3月初頭に陰陽連絡線を数多く訪れたが、ここまでの乗り心地は得られない。沿線には炭田は無くなったものの石灰石の運搬は行われているようで、大方その為であろう。その乗り心地を仙崎まで楽しみ、長門市に戻った。

 久々に九州に足を踏み入れたいと思う。山陰線の末端を下っていく。ことのほか海は穏やかで、小二時間ほどうたた寝を楽しむ。さすがに日本中を旅するのは疲れる。

3.筑前

 4、5年振りのJR九州は、一変していた。当時でも他のJR5社と比べてCI(Cooperate Identity)の改良が強力に押し進められていた同社だが、小倉の駅改良から始まり、そして「ソニック」とやらで打止めである。小倉〜博多間は特急の乗車率は凄いの一言。乗り放題なら新幹線に乗ればよかったかもしれない。

 で、結局博多南には新幹線で行く(笑)。春日市の西端に位置する同駅周辺は、立地の趣からすれば昨日の利府と同等だが、関東近辺で見なれた田園都市計画そのものである。ただ、途中で建設が中断している九州新幹線の高架部がそびえ立っている。ここから途切れた高架は、やがて延びるのであろうが、そうなれば博多南の存在はどうなるのか。

 博多へ戻り、窓口で本日の宿である上りの「ムーンライト九州」の指定席券(でも喫煙車)を取れたので、俄然元気が出てきた。そこで、篠栗・香椎線とさくさく乗る。香椎線は海の中道線とも言うそうだが、途中から砂嘴上を走り、博多湾内を一望できるというなかなかお勧めの路線ではある。宇美では早くも桜が咲いていた。

 夕方、原田(はるだ)から筑豊本線を訪れた。原田〜桂川(けいせん)間は一日数往復しかない。筑豊本線も車窓にボタ山の見える、炭田のある路線だった。美祢線と違うのは飯塚や直方が、博多や小倉といった大都市のdormitory townとしての機能を持ちはじめ、近郊路線として再生したことである。桂川から博多まで篠栗線が出来たことで、原田〜桂川間は捨てられたといってもいい。

 桂川では時間があったので、駅から10分程のところにある古墳を見ることが出来た。北九州は、邪馬台国や太宰府など古代からの歴史が残る場所でもある。登って遊んでいるうちに、日が暮れていった。  古墳に登ってばちがあたったのか、若松まで来て市営の渡船に乗ろうとしたら20分待ちだった。ここの渡船は時刻表を見ていて前から気になっていた。所要時間が僅か5分であることや市営であることもさることながら、何といっても料金が20円(子ども10円)というのに興味を惹かれたものである。数年前から50円(同20円)には値上げされたが。実際に乗った感想は、「あまりにもあっけない」ということであった。もっとも、不毛なターンをしなくて済む点は賞賛したいと思う。

 小倉で銭湯に寄り身を浄めてから、「ムーンライト九州」に乗った。滞在僅か12時間前後の九州であった。

4.越中

 神戸辺りで目が覚めた。喉が猛烈に痛い。吸いたくもないヤニを吸ったからか、またまた小倉で湯冷めしたのか。はたまた古墳のバチでもあたったか、このままでは倒れてしまいそうだ。でも、当初決めた予定はきっちりこなしたい。富山には何としても行きたい。本当は京都まで行ってそこから北陸へ向かおうとしたのだが、特急の席を確保する為に大阪でゲショ、じゃなかった下車した。

 この選択は正解だった。大阪・新大阪・京都とも特急「サンダーバード」への列は長かった。辛うじて大阪で禁煙席を確保し、湖西線初乗りの風景も休養を取る為に諦め、ひたすら高岡までじっとしていた。それにしても「サンダーバード」は京都の次は福井まで停車せず、早いものである。

 高岡で降りて、氷見線ホームへ向かう。今回3度目の海が見える。源義経が雨をしのいだという岩も残る名勝・雨晴海岸をひたすら列車は走る。そして、高岡まで戻り、城端線に乗ろうとしたが、体調不良がピークに達し、ここで薬を買っって少し休養した。その為、眠くなってしまい、城端線の風景はあまり憶えていない。砺波平野の平凡かつ典型的な散村としか印象がない。

 薬が効いてきたのか、富山港線に乗る頃には体調も少し安定してきた。同線は、港へ向かう線形といい、昔旧型国電が走っていたことといい、地元の鶴見線のようなイメージを抱いていたが、実際は違った。昼間で客がいないのは同じだが、走っているのは近郊形の電車だし、富山市内の国道沿いを走っているだけで周りは住宅というか街である。終点の岩瀬浜に着いても浜は見えない。折返し電車に乗る人は、私ともうひとりいた鉄以外には3人位しかいなかった。車掌が笛を吹くまで、時が止まったかのような錯覚を受けた。

 2時間も待って万全を期して最前列に着席した「ひだ16号」はたった3両しか連結していない。しかもJR西日本の運ちゃんは出発直前まで本を読んだり、発車しても帽子を触ったりブレーキ弁から手を離したりで、見ていて恐い。その運ちゃんも猪谷までで、ここからは東海会社線に代わる。ところで、周りが暗くなっても運転席のカーテンが閉められる形跡はない。そんなことをしていたら前方の視界はガラスに反射しちゃって見にくいのではないかと思うのだが…。(筆者後記。前面ガラスがカーブしているので写らないそうです。)

 高山からは前に5両も連結した。私がいた車輛は喫煙席(富山行編成は禁煙席は指定席にしかない)だったので移って、前の席を返して大の字で寝て名古屋まで過ごした。それにしても、平日の観光地特急はこれほどまでに空いているのだろうか。

 名古屋からはさくっと新横浜まで新幹線で帰った。ここでは特記する事項といえばのぞみ型「ひかり」だったこと位で、おとなしく寝ていたのである。(筆者後記。昔日の感があります。)

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以上が今回の顛末だが、「全線乗れる!」の魔力に惹かれ、体がついていかないのを承知で決行したのは反省せねばならない。でもたった3日で日本のかなりの部分を見られたのは良かったと思う。東北ではまだ雪が残っている一方で、九州では桜が開花している。この妙を一気に味わうのは面白かった。また10年経って20周年の切符が出たら、同じルートではなくとも、またマクロ的に日本を訪れてみたい、と思う。(終)



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last updated 20th Aug. 1999
written by OHBA, Makoto(dachang@xd5.so-net.ne.jp)