5.我、渤海を往く


1999年9月1日(水)(続き)

 さて、天仁2号である。前々から日本の中古船であるという噂は聞いていたのだが確かにボロい。自分の3等?寝台に辿り着くと、毛布には「ARIMURA」の文字が。つまり有村=有村産業の中古船だということなのであった。因みに有村産業とは沖縄に本拠を持つ船会社で、台湾航路を運行していることで有名である。

 15時に出航するも10分程で停船。ここ仁川港周辺は潮の干満の差が激しく、港の出入口は閘門(こうもん)を設けることで港内の水位を一定に保っている。閘門というのはパナマ運河のようなものを考えてもらえればわかりやすい。画像があればよかったのだが、港は重要軍事施設でもあり、監視所もあったことから写真は取れなかった。
 閘門内で20分程で水位が10m以上も下がり、再び船が動き出す。港外は干潮だったというわけだ。船のすぐ横まで、干上がった浜が迫っていた。

 さて船内はというと、寝台区画はあまりやることもなく早くも周囲はお休みモード。17時頃に放送があり夕食だというので食堂に出向く。この放送から英語案内が入った。私のことを認識してくれているのか。
 窓口で食券(6,000W)を購入し、青島ビールもあったのでこれも追加する。1,200Wでこれは安いと思ったが、よくよく考えれば中国元に換算して6元以上もして高い。なお、船内の自販機のジュース類は600W前後、カップ式のコーヒーは300W。…食事は韓式と中国式とあるのだが、訳の分からぬうちに勝手に「中国式」にされていた。内容は肉と野菜の炒めものと、バイキング方式でカクテギなど数品のおかず。それと白飯、スープ。今一つ言葉も通じず、通貨もウォンで、中国式というのにカクテギが付いてくるなど、未だ船内は100%韓式のままである。

 食事が終った頃に丁度日没近くなり、船尾付近のラウンジに夕陽を見に行く。船はまだ朝鮮半島の西海岸特有の多島海をすり抜けるように走っている。食事時の残りのビールをやりながらのひととき。
 暗くなってきたところでシャワールームへ。壊れているものもあり状態はよくないが何とか使える程度。一応お湯は出る。周りの客は皆洗濯を同時に済ませており、外には洗濯物がたなびいていた。潮の匂いが付いてしまうのではないだろうか。

 夜も更けてきた頃、船尾のラウンジではカラオケ大会が始まった。大層賑やかである。眠れないので、韓国焼酎とカップを持ってオープンデッキへ。頭上には満天の星空が広がっていた。周りに光源もなく理想的な環境である。お湯割りに舌鼓をうちながら、流星或いは天の川をしばらく堪能した。


1999年9月2日(木)

 朝、朝食を取ろうとして起きたら、既に食堂は閉まっていた(涙)。おかしいなとうろうろしていたら、昨日仁川で声をかけてきたおばちゃんが「吃飯了[口馬]?没吃?食堂完了!」と教えてくれたのだ。ラーメン持ってるか?と言ってきたので、仁川で買ってあったカップ麺を思い出しそれを食べることに。ラウンジで侘びしく食べていると、先程のおばちゃんが来て、これを食べなよと豆御飯とキムチをくれた。これは嬉しかった。

 昼飯は何とか食堂でありつけた。5,000Wで同じような内容。食後にコーヒーを甲板で楽しんでいると、韓国人のお兄さんに声を掛けられた。彼と英語でお話する。曰く、チャリンコでシルクロードを抜け、次いで東南アジアまで周遊してくるということで何と4ヶ月の旅だそう。私が中国まで1週間、中国内で1週間という話をするとvery busyだって(笑)。その頃話題になっていたプロ野球の話、入国書類の書き方などの話をして時間を過ごす。

 14時過ぎ、天津の港(塘沽港)へ進入。いよいよ中国上陸である。仁川の数倍、下関の十数倍はあろうかという大きな港だ。五星紅旗を戴く船が見える。そして15時、接岸。久々に見る簡体字が懐かしい。
 入国手続は船内で。リーベンレン、リーベンレン(日本人だ)、と珍しがられる。船を降りてからも客運站(旅客ターミナル)で人をチェックしていて迷ってしまうが、また先程のおばちゃんに助けられて誘導して貰う。進んでいくと、そこには天津に留学中のゼミテンO君の姿があった。久々の再会である。

 

続きへ
旅行のトップへ戻る


last updated 4th Aug. 2002
sorry,Japanese only.
written by Makoto OHBA (dachang@xd5.so-net.ne.jp)