コラム 沖縄と台湾


 台湾に旅行したことのある人で、日本への帰路、台北中正国際空港での表示を見て不思議に思ったことのある人はいないだろうか。現在7つの航空会社が日本の6空港に乗り入れているのだが、その空港の表示である。東京(羽田・成田)・名古屋・大阪・福岡・そして琉球。そう、那覇(沖縄)ではなく、琉球なのである。

 このことは空港の呼称だけでなく、台湾での沖縄への呼称全てにおいて当てはまっている。台湾で売られている中国の地図は首都が南京、北京が「北平」の呼称になっていたりと「中華民国」の全土支配をアピールしていて恰好のお土産だったりするのだが、更に精査して見てみると、与那国島と台湾との間にあるはずの国境線が記されていない。注意深い人は、沖縄の部分が日本とは別の色で塗られているのに気付くであろう。

 一説に、台湾は沖縄が日本の領土であることに不満を持っていると言われている。かつて沖縄が独立した琉球王国だったことはよく知られていることと思う。その独立国も江戸時代には薩摩藩の隷属を受けつつ清国への朝貢をも行い、いずれかの国への帰属を迫られる伏線を引くことになった。明治時代に入り、日本は所謂琉球処分・沖縄県設置を行い、沖縄の日本帰属を明確に宣言した。これに対して清は異を唱え、帰属問題を協議するように日本に迫った。しかし、この問題は日清戦争で台湾が日本に割譲されることで立消えになった。

 数々の外冦に屈した異民族支配王朝・清に対し、中華民族の復興を目指して革命を果たして成立したのが中華民国であった。樺太・朝鮮・台湾等を含めた諸領の放棄は1951年のサンフランシスコ平和条約で宣言されたが、中華民国はこの条約には参加しておらず、これらの項目は改めて日華平和条約で確認された。ここで興味深いのは、同条約では、台湾・澎湖諸島での日本の権利放棄の他に、南西諸島での権利放棄もわざわざ明文化されていることである。中華民国が台湾奪還の延長線上に沖縄問題を見据えていた証拠ともとれる出来事である。その沖縄は1972年にアメリカ合衆国の信託統治が終了し、日本に引き渡された。アメリカ合衆国が日本との二国間だけの協定で沖縄返還を行ったことに「不満を抱いて」(1995年1月、台湾外交部スポークスマン)いた台湾だったが、協議を申し入れようとした矢先の同年、日本は中共政府との国交樹立を宣言。台湾は日本と断交したことで、協議を行うルートを失ってしまったのである。

 協議のルートを失ったとはいえ、台湾が未だに沖縄を日本とは別扱いしていることは最初に書いたとおりである。実際、台湾は日本に設置している実務機関についても別扱いである。日本には、台湾在日大使館の機能を果たしている台北駐日経済文化代表處が4箇所あるが、これと別に那覇市には「中琉文化経済協会」がおかれている。一方、沖縄県側も1965年に中琉協会を設立。日本訪問ビザを発行できる機関ではないものの、単なる民間交流に留まらない事業を行っているのである。

 また、沖縄と台湾との関係で近年注目を浴びているのが石垣島の存在である。石垣島のある八重山列島は沖縄本島からの距離が400km(直線距離で東京〜大阪間位)、一方台湾からの距離は約250kmに位置する。台湾が日本統治下にあった時代には、八重山からサトウキビの収穫期に多くの出稼ぎ労働者が台湾に渡ったという。八重山と沖縄を一括して論議するのは些か乱暴であってここでは深くは触れないが、ともかく台湾が外国になってからは出稼ぎという経済的な繋がりも途切れた。

 再び八重山諸島が台湾との一種の経済関係を持ち出したのは、台湾の貿易政策の変化である。台湾は大陸との直接貿易を禁止していたが、1985年より輸出については第3国経由について解禁になった。そこで台湾・中国に近い石垣島が名目上の第3国寄港地としてクローズアップされたのである。実際には寄港せずに沖合の投錨地で書類審査をするだけ。これをクリアランス船と呼んでいる。クリアランス船は1989年に250隻だったのが2000年には約2100隻に急増している。石垣市には船舶のトン数に応じて徴収される特別トン税は2億円にまで達した。石垣市では思わぬ「タナボタ財源」に、投錨だけでなく接岸(=更に税収が入る)の整備を急いでいるという。

 とにもかくにも、沖縄、台湾、大陸、中国の関係は今後も要注目であると言えよう。


※参考文献
中川昌郎『中国と台湾:統一交渉か、実務交流か』中央公論社、1998年。
戴國[火軍]『台湾:人間・歴史・心性』岩波書店、1988年。
沖縄タイムス紙面

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last updated in 17th Jun. 2001
written by OHBA Makoto(dachang@xd5.so-net.ne.jp)
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