top_logo.gif

index
■空腹版
解読地獄の黙示録 特別完全版
全目次

■第一部 解読「地獄の黙示録 特別完全版」

序章

第一章 <新たなる53分とは?(追加・変更されたシーンについて)>

第二章 <「ミリアス版」のエンディング>

第三章 <「黙示録」を読み解くためのもうひとつのテキスト> 前編

第三章 <「黙示録」を読み解くためのもうひとつのテキスト> 後編

第四章 <今、「完全版」をどう観るか?=日本公開「不完全版」>

終 章 <エピローグ=後日談>

■第二部 空腹版 解読『地獄の黙示録』補記

序章

サイケデリック・ソルジャー

作戦名:apocalypse now(今こそ、黙示録を)

もうひとつの「闇の奥」

実在のカーツたち

アウトサイダー

付録1

付録2

後記・参考文献

フォトギャラリー

■第三部 空腹版「解読 地獄の黙示録 特別完全版」最終報告

全一回


body_top.gif

■空腹版「解読地獄の黙示録 補記」

※付録2)アメリカ文学版「闇の奥」

 「黙示録」の奥に潜む文学作品をこれまでいくつか探ってきた。立花版では、コンラッドの「闇の奥」やフレイザー「金枝篇」、エリオットの詩、さらに拙作ではマルロオ「王道」を検証したが、実はどれもイギリス文学、フランス文学である。しかし、「黙示録」はアメリカ人によるアメリカの映画である。「黙示録」を解読するにもかかわらず、アメリカ文学の流れとしてこの映画を読むことをまだ試みてはいなかった。そこで今回、アメリカ文学という見地から見てみたいと考える。
 果たしてこの作品が「黙示録」を作るにあたって参考にしたかどうかは新解釈としても弱いとは思うが、少なくともアメリカ人の他者(外部)への行動観として見る上では非常に興味深い文学作品である。そんな作品を紹介しようと思う。
 そもそもアメリカ人にとっての冒険小説は「ハックルベリー・フィンの冒険」にすべての原点があるとも言われている。現在あるアメリカ文学の青春小説、冒険小説は「ハックルベリー」の様々なバリエーションに過ぎない。そんな中で、一風変わった冒険譚の物語がある。ノーベル文学賞受賞作家ソール・ベローの「雨の王ヘンダソン」である。この作品を「闇の奥」と対比させることはかなり無理がある。それは充分に承知している。アフリカの奥地に白人が分け入っていくという以外何も共通点はない。しかも、「闇の奥」は異様な暗さと重々しさに包まれているが、「ヘンダソン」はどこか明るく滑稽さに彩られている。ある種「ハックルベリー・フィン」が無邪気にアフリカまで出かけていったような物語である。
 「シタイ、シタイ、シタイ!(I want!)」と心の欲望の声に迫られながら、実際のところは「何がしたいのかわからない」男の冒険譚である。何不自由ない、名門出身の金持ちヘンダソンは、肥満した巨体を揺らしながら、何かにつけ「欲しい」「やりたい」「何かやらなきゃ」「何とかしなきゃ」という強迫観念めいた欲求に責め立てられている。それが、アフリカの奥地まで出かけていってひと騒動(幾騒動も)巻き起こす原因である。そんな衝動に突き動かされて、すぐさま行動を起こす彼が主人公である。
 「狂気の時代においては、狂気におかされまいと望むこと自体が、一種の狂気に違いない。だが、正気の追求もまた、一種の狂気ではないか」
 ヘンダソン本人もそんな自分の異常さに気づいてはいるが、その衝動を抑えることは出来ないのだ。無邪気なまでに自分の欲求の正しさを信じている。困ったものだ。無論、そんな男に勝手に来られたほうにとっては迷惑な話だ。言うなればお節介のかたまりである。しかも信念をもってお節介をしに来ているのだからたまらない。それがアメリカ人という訳だ。
 アフリカの未開の地まで来て、自分が何かをしなければならないという得体の知れない義務感にとらわれ、ヘンダソンはひょんなことから雨蛙退治に乗り出す。やがて、彼は「雨の王」と呼ばれ、部族の王の信頼を得るに至る。やがて、その王の死期が迫ると、王を助けようとするものの、ヘンダソンは奇跡を起こすことはなく、ただ王を看取る。王の死後、部族の王の座さえ彼に転がり込んでくるが、実際に王の後継者となる寸前まで来ると、「I want」の衝動はどこかに失せ、大慌てでヘンダソンはライオンの子を抱えてアメリカへと逃げるように帰っていく・・・・・。
 ヘンダソンは語る。
「・・・・・・白人のプロテスタンティズム、アメリカ憲法、南北戦争、資本主義、西部の征服など考えて見給え。重要な課題、大いなる征服は、いっさいぼくらの時代以前に片がついてしまった。その結果、残されている最大の問題、死と対決する、というやつだ。こいつを何とかしなくちゃならならん。ぼくだけの話じゃないんだ。幾百万というアメリカ人が、戦争以来、現在を取り戻し、未来を発見するために、出かけているよ。・・・・・・・世界に飛び出して、人生の叡智を発見しようと努めるというのが、ぼくの世代のアメリカ人の運命なんだ。そこだよ、問題は。いったい、ぼくが何のためにやってきていると思う?・・・・・・・・自分の魂の死を認めたくないからさ」

「シタイ、シタイ、シタイ!」という妄想(ヴィジョン)に取り憑かれてはいるものの、明確な形(目的)を成さないがために頓珍漢な結果に見舞われ、ドタバタ喜劇となる。どこかアメリカがベトナムに(あるいは今では「民主主義の警察」と称して世界中至る所に)侵攻して、泥沼に足をとられている様を自虐的に風刺しているようである。もっとも「雨の王ヘンダソン」が書かれたのは1959年であり、まだアメリカはベトナム戦争に介入する以前なのだが、アメリカ人という気質を充分に醸し出している作品である。お節介なアメリカ人が未開の地に足を踏み入れ、もっともらしいことを語っている様は、どこかカーツを(あるいは軍の上層部、さらにはアメリカそのものを)思わせるではないか。言うなれば、脅迫観念に支配された実体のない義務感、これがアメリカ人の行動規範なのである。そう言った意味では、「雨の王ヘンダソン」は、「黙示録」の解読テキストというよりも、むしろアメリカのベトナム戦争介入(あるいは他国への介入)の根底に潜むアメリカ人の特異体質を理解する上での参考テキストとして有用であると考える。

body_top.gif



foot_logo.gif