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■空腹版
解読地獄の黙示録 特別完全版
全目次

■第一部 解読「地獄の黙示録 特別完全版」

序章

第一章 <新たなる53分とは?(追加・変更されたシーンについて)>

第二章 <「ミリアス版」のエンディング>

第三章 <「黙示録」を読み解くためのもうひとつのテキスト> 前編

第三章 <「黙示録」を読み解くためのもうひとつのテキスト> 後編

第四章 <今、「完全版」をどう観るか?=日本公開「不完全版」>

終 章 <エピローグ=後日談>

■第二部 空腹版 解読『地獄の黙示録』補記

序章

サイケデリック・ソルジャー

作戦名:apocalypse now(今こそ、黙示録を)

もうひとつの「闇の奥」

実在のカーツたち

アウトサイダー

付録1

付録2

後記・参考文献

フォトギャラリー

■第三部 空腹版「解読 地獄の黙示録 特別完全版」最終報告

全一回


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■空腹版「解読 地獄の黙示録 特別完全版」

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オザワカヲル

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長く夢を見続ける者は、
おのれの影に似てくる

(インド・マラバール地方の諺)

 

 「地獄の黙示録 特別完全版 apocalypse now−redux−」を観た。カンヌで初めて公開されて四半世紀近く経て、その全貌が明らかになった。久々に大画面でオープニングの「ジ・エンド」が流れる中、密林が炎上するシーン、そして、「ワルキューレの騎行」に乗って乱舞するヘリ軍団を目にすると身体が震えた。それ以上に、「完全版」からはかつての違和感や難解さが見事なまでに消えていた。どこかすんなりと受け入れられる映画に変わっていたのだ。それは映像が追加・変更されたことで変わったばかりではない。時代が映画に追いついたなどともっともらしい表現はここでは避けたい。ただ「黙示録」をことあるたびに見返してきた観客がこの22年間に自己流でもこの映画から何かを見出そうとしてきた結果、「光が見えてきた」ことに他ならないであろう。

 この「完全版」に関しては、立花隆氏の映画評(ほとんど論文である「地獄の黙示録」22年目の衝撃」=「文芸春秋」2002年2月号)に詳しいので、今回は立花氏とは別の観点から「完全版」を観ていきたいと考える。

 立花氏は日本初公開時(「オリジナル版」1980年)と今回(「完全版」2002年)の2度にわたり、「黙示録」の研究を行っている。オリジナル版の際は、エンディングの難解さを「闇の奥(コンラッド)」、「金枝篇(J.フレイザーの民俗学古典的名著)」、「うつろなる人間」「荒地」(T・S・エリオットの詩集)、J・ウェストン「儀式からロマンスへ(聖杯伝説の研究書)」さらにドアーズの「ジ・エンド」をキーワードに解読しようとしたものであった。今回のレポートでは、コッポラの妻エレノアの「撮影全記録(ノーツ)」を織り交ぜながら、追加編集されたシーンを手がかりに「黙示録」のメッセージを解き明かそうとするものである。確かに読み応えはあるが、「ノーツ」とメイキング記録映画「ハート・オブ・ダークネス」をすでに見、「完全版」を見てしまった側からすれば、真新しい解釈や説明はほとんどない。むしろ、付録の資料としての「オリジナル版」公開時の論文の方がいかにも「深読みし過ぎの立花流」解釈で興味深い。

 「地獄の黙示録」のストーリーはそもそも単純である。特殊任務を帯びた一人の兵士(ウィラード=マーチン・シーン)が哨戒艇(PBR)に乗り込み、4人のクルー(チーフ、シェフ、ランス、クリーン)とともにナン川を遡り、密林の奥に自らの王国を築いてしまった男(カーツ大佐=マーロン・ブランド)を暗殺するという話である。

 これはもともとジョン・ミリアスがコンラッドの「闇の奥 heart of darkness」を下敷きにベトナム戦争を背景に描いたドラマ(脚本)であった。

 しかし、実際の映画として完成された物語には、「闇の奥」を除き、前述した「黙示録」を支えるそれら物語・詩・伝説(オリジナルにはなく、コッポラが撮影以降に持ち込んだもの)が大きな影を落としている。エンディングに関してはほとんど即興で撮影を進めていったコッポラは、決定的な結末が出来ないことに頭を痛め、カーツが手にしそうなものを片っ端から集め、それを映像に織り込んだのである。王国のカーツの人物像を固めるための小道具として「金枝篇」「儀式からロマンスへ」を彼の部屋に配置し、カーツ自らにエリオットの詩を朗読させる(もっともエリオットの「うつろなる人間」はその巻頭に「闇の奥」からの引用がエピグラフとして掲げられているのだから、厳密に言えば、コッポラが独自に持ち込んだものではない)。さらに、撮影中の偶然から本編に挿入されることになった「水牛殺しの儀式」のシーンと、テーマ曲として「オイデュプス神話」をモチーフにしたドアーズ「ジ・エンド」が象徴的にクライマックスを飾る。

 しかし、その結果、完成された「オリジナル版」はカーツの闇の部分に深みを付加させることには成功したが、一方で賛否両論、毀誉褒貶に富み、難解だと議論された訳である。コッポラの混乱が映画の混乱を生み出したのである。それがこの22年間続いていたのである。そして、今その「黙示録」神話にようやくこの「完全版」で終止符が打たれようとしている。

 初公開当時、立花氏は劇場プログラムにこんな言葉を寄せている。

 「ロスで二晩続けて「地獄の黙示録」を観た。そして、二晩続けて深夜まで一人酒を飲み続けた。二晩の孤独な反芻が必要な映画だった」

 それは今も変わっていない。「オリジナル版」以来22年間、マイ・モスト・フェバリット・フィルムであるこの映画について反芻を続けてきた一人の観客(私)が、今再びこの映画について反芻し(時に酒を飲み、時に混乱しながら)、「新たな追加シーン」「オリジナル脚本での結末」「「黙示録」を解読するためのもうひとつのテキスト」そして、「今、完全版をどう見るか」という4点を中心に今ひとたび「地獄の黙示録 特別完全版」に込められたメッセージを検証していきたいと思う。

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