暴論



第八百論:自分らしくサル宣言

言葉と言うものは面白いものである。
使ったときに思っていた意図と全く反対の意味に使われる事がしばしばある。


「自分らしく」


この言葉を自分に対して、よく使うやつはろくなやつがいない。
何故かこの言葉は自分から努力をしないやつ、自分の殻から出ようとしないやつ
絶対に自分の手を汚そうとしないような、根性のない連中が好んで使う。
確かに「自分らしく生きる」という言葉の響きは美しい響きである。
なんだかとても立派な事の様に聞こえる言葉である。
だからこの言葉を使うやつは絶対に折れない。
自分が放つ「自分らしく」の言葉に酔っているからだ。


この言葉は本来は世の中の流れに逆らって、あえて荊の道を行く時に
自分に対する「叱咤激励」の意味をこめて使うべき言葉だった筈である。
それがいつのまにか何も挑戦しない自分を慰める為の言葉になってしまっている。
最初にこの言葉を使った人は、一体今のこの使われかたをどう思っているのか?


確かにちょっと前までは「自分らしく」生きること自体がとても困難な時代だった。
奇人だ変人だと言われるだけでなく、社会そのものから排斥されかねない時代であった。
「自分らしく」を使うにはそれなりの意志と覚悟とが必要であったに違いない。
しかし今はまさに自由な時代である。「自分らしく」生きるのはそうむすかしくは無い。
無理に「自分らしく」なんて言葉を使わなくても「自分らしく」生きることが出きる時代だ。
でも「自分らしく」があまりにも綺麗でカッコイイ言葉だから、なんとなく使い続けた。
使ってみると「自分らしく」は思ったよりもいろんな事に使える事がわかってきた。
人と一緒のことをしたくない時にはこの「自分らしく」を使うととってももっともらしい。
「自分らしく」が都合の良い逃げ場所になってしまったのは恐らくそんな背景からだろう。



一番良くこの言葉を使いたがるのが10代20代のガキどもだ。
まだ成長途中なんだから「自分らしく」なんてモノが確立しているわけが無い。
それなのに何故なんだか「自分らしく」なんか使いたがる。
自分の成長に「自分らしく」なんていう枠をはめているようなものだ。
人間と言うのは成長し続けるものである。塾長だって今だ成長している。
昔の人は40歳を「不惑」と言った。昔の40歳というものは平均寿命である。
つまり「不惑」、迷わなくなるのは老人の一歩手前という事である。
つまり死ぬ直前まで人間は迷い続けて、葛藤しつづけるのである。
死ぬまで「自分」は何なのか悩み続けてこそ人間なのである。
成長しない事は人間にとって死と同じ意味なのである



「自分らしく」なんて言うのは、成長を止めること




つまりサル宣言







「自分らしい」人生なんてクソくらえだ

(2004/6/16)