暴論



第弐千弐百弐拾六論:幸せに対する誤解

貧困とかセーフティーネットの問題を聞いていると、我々が重要な
ポイントを見落としている事に気がつく。それは「何が幸せか?」
という基本的な問いに答えていない事である。確かに生存できない
ほどの貧困では幸せを感じる事は難しいが、日本において絶対的に
貧困であると言う状態はほとんどない。ホームレスになっても残飯は
存在するし「何をやっても生きていけない」というアフリカ諸国の
ような貧困は無い。日本の場合は物理的な貧困ではなく「もうだめだ」
という絶望感、つまり精神的な状況が餓死者を生み出しているといって
も良いくらいだ。それでも日本の世論は「物理的な満足が幸せ」という
観点で議論を繰り返している。生活保護を充実させて金さえあげれば
解決するかのような意見を繰り返すマスコミや、森永卓郎みたいに
「とにかく会社にしがみつけ」なんていうトンデモさんも出てきている。
しかし「金だけもらって生きさせてもらう人生」や「不要な存在のまま
定年まで過ごす人生が本当に幸せなのか、冷静に考え直す必要がある。br>

高度成長期に「日本が幸福だった」と郷愁を抱く人たちがいる。しかし
あの時代は過剰労働や低賃金、サービス残業どころか残業の概念も無く
経営者に嫌われればすぐにクビになる非常に厳しい時代であった。だが
それでも、あの時代に希望があったのは何なのか?「希望があった」と
言う人かもしれないがエリートとそうでない人の区別が明確だった時代に
すべての人が「俺は出世して豊かになる」なんて思っていたはずは無い。
あの時代にあったのは「戦後日本を築いている」という、いわば自分が
必要とされている感覚だったのである。自分が必要な存在と思えたから
こそ、今よりも歯車のごとく働かされた時代でも幸福感を得られたのだ。



「金さえもらえれば自分は幸せ」という人もいるだろう。国から金を騙し
取って「自分は得な人生」と思っている人もいるであろう。しかしながら
人間にとってそれは決して幸福な状況ではない。その事を知らずに死んで
行くのは一見得な様に見えるが、本当はものすごく不幸な事なのである。
やはり人間は「社会を形成する生物」であり「自分が必要とされる幸せ」
こそが必要な「幸せ」なのである。一時的に嫌がられるかもしれないが
基本的にセーフティネットはその方向で考えていくべきである。



(2009/5/11)