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私・ありすが初めてエッセンシャルオイル(精油)を手にしたのは20年前、熊井明子さんのポプリからでした。当時「アロマテラピー」という言葉はまだ意識されず、花やハーブ植物の精油をポプリに入れたくて通信販売で手にした時の喜びは、忘れられません。瓶の蓋を開けて香りを嗅いだ時、「あれっ」と思いました。普段、嗅いでいる花の匂いと違和感があるのです。しかし、合成香料のポプリオイルが安価で同じ匂いのままであるのに比べ、天然の精油はすぐに鼻が慣れ、またブレンドによって深みを増すのに気づくと、いろいろ試したくなりました。
が、当時はハーブショップや精油を取り扱うお店は殆どありませんでした。「陶光」という陶器店がハーブやポプリを扱うようになり、銀座プランタンでフランスのハーブやオイルを置き始め、扱うお店も増えていくのに従って、ハーブやポプリという言葉も雑誌・TVでが聞かれるようになったと思います。そして、もっとハーブを勉強したくなって、通い出したハーブスクールで「アロマテラピー講座が始まる」と聞いて早速、申し込んでみたのです。
当時、仕事を辞めて長男のアレルギーに悩んでいた私にとって、ポプリやハーブを育てることは、とても素敵な気分転換でした。大好きな花の匂いを嗅ぐと、嫌な事ことも「何となくいいよね」という感じになったのです。それがアロマテラピーであると知った時、どんなものか知りたくて、でも勉強したくとも本も場所もなく唯一「フレグランスジャーナル社」という香粧品と香粧品科学の研究開発専門の出版社があるのみでした。
受講した講座でイギリスのアロマテラピーを学び「渡英して、セラビストの資格を取るのがよい」とアドバイスを受けましたが、一介の主婦にはちょっと夢のような話、できなかったことですが、今では後悔しています。 |
その後、大手エステサロンがアロマテラピー・トリートメントを大々的に宣伝し、マスコミの力で世間一般にもアロマテラピーという言葉が浸透。ホテルのエステサロンやリラクセーション施設の中にも取り入られたり、温泉施設の脇にサロンができたり。
「美しくなる・リラックスできる」というストレス解消法としての紹介から、ドイツ・フランス等での取り入れ方も始まり、日本の優れた医療従事者や研究者が次々と精油の持つ科学的作用を立証し、学会で発表も相次ぎました。
そのため、ハーブ研究家・講師やエステシャン・ハーブショップ経営者等の民間レベルでのアロマテラピーの紹介と、医療関係者の取り組みでは、精油が一部は医薬品として認められているものも、現在その殆どが雑貨として輸入・販売され、薬事法に抵触する恐れのある効能効果を標榜しています。
そして、表示や口頭で説明等して「販売をしてはいけない」と薬事法にあるのにも拘らず、学会では効能を発表している...という二律背反の現状が生まれてしまったのです。 |
'96年4月1日に個人会員477名・法人会員35社から始まった【日本アロマテラピー協会】は、個人会員2120名・法人会員46社
[ '98年11月9日現在 ] と増えています。法人会員一覧をみても、東京だけに集中してはいません。国産の精油の開発に地方のハーブ園も取り組み始め、国産有機無農薬栽培の精油をインターネット上で販売しています。
「紫蘇の熱水抽出物に抗アレルギー作用がある」ことが日本ならではとして報告され、東京農工大学で研究されていたり、岐阜薬科大学では、ヒバ等に含まれるヒノキチオールの抗活性酵素作用・発ガン物質のDNA損傷に対する防御作用を報告しています。
現在、日本でアロマテラピー関係の協会・団体は沢山あります。年々増えている現状は、アロマテラピーの可能性への期待からでしょうか。今、求められるものとして、この医学的アプローチとエステ等の民間療法との融合ではないでしょうか。
ヨーロッパの温泉の多くは、宿泊施設内に医師を常駐させ、体調に合った温泉療法をプログラムしてくれます。「医者しかアロマテラピーは使えない」とか「エステサロンは女性のもの」という今までの概念を取り払い、ドイツのクナイプ療法のような温泉と病院とエステサロンとハーブや水に拘ったレストラン等の付いた宿泊施設。そして、自然治癒力を高める知識を学べ、資格等も取得できる学校等もある一大リラクセーションゾーン。
水と自然の美しい北海道等で、できないものでしょうか。 |
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「ハーブ」という言葉を聞いてまず頭に浮かぶものは、ラベンダーの花ではないでしようか。ラテン語の「ヘルバ」herba つまり「草」からきたこの言葉は、英語の「ハーブ」herb となり、私達の生活に役立つ香りを持つ有用植物の総称として、また「香草」「薬草」「香味野菜」と訳されています。
日本では古来より中国薬用植物(ハーブ)療法を取り入れ、「漢方薬」として使用してきた歴史があり、世界的に見ても漢方薬を保険薬と認めている数少ない国の一つです。また、鍼灸・柔道整復等の東洋医学も保険適用となっていて、多くの患者が日常的に利用しています。一方、アメリカにおいて鍼が医療器具として認められたのはつい最近のことです。
近代医学薬学でさえ、原点に返ると古代エジプト文明からハーブを医療・宗教儀式・生活に取り入れたという記述が残っています。木やハーブ等を燃やして、香りを出した香煙に乗って、魂が天国に導かれるように、大陽神Ra(ラー)に祈りの儀式が行なわれ、日の出に乳香(フランキンセンス)/正午に没薬(ミルラ)/日没にキフィ(キピ)/ミイラの腹部にはミルラと肉桂を詰め、シダーウッドに浸した包帯を巻く...といったハーブの利用法が、紀元前1500年初めから書かれた『エーベルス文書』に載っていました。
世界三大伝承医学のひとつ、インド・ヒンズー教を基盤とした「アーユルヴェーダ」はサンスクリット語で【生命の知恵】という意味で、ヨガと瞑想・500種に及ぶハーブを使い、食・ハーブから取った精油を入れたオイルマッサージや香を用います。もうひとつ、イスラム教を基盤とした「ユナニ医学」はヒポクラテスの知識を受け継ぎ、ペルシャのジュンジャプールで学んだアビセンナ(イブンシーナ)が体系的に確立させました。バラの蒸留法の発明や植物と使用法の明記・マッサージの効用も記した『医学の正典』Canon medicine は後にラテン語に訳され、17世紀まで大学で使われていました。
日本でも認められた中国医学は、陰陽五行説という考えを元に『神農本草経』にはハーブ252種を含む365種の薬物が書かれています。後の『本草綱目』では1900種のハーブを収載し、植物療法の中国の最高法典と賞賛されています。
西洋医学の原点といわれる「医学の父」ヒポクラテスは呪術と医学を分けて自然治癒力を唱え、四体液と四気質の相関図を作り、調和を図るための体内浄化に270種の薬草の使用法を唱え病気は自然が治してくれると記しました。紀元前4世紀のギリシャの哲学者テオフラストスは、「植物学の祖」として植物の分類をした上で500種のハーブを『植物誌』として残しました。
紀元1世紀、古代ローマのギリシャ人の軍医ディオスコリデスは「薬学の祖」といわれ、 『薬物誌 マティリアル・メディカ』に600種のハーブを自分で実地検分して、5巻にまとめました。今でも、ウィーン写本に載っている処方が使われています。同時期の軍人プリニウスによる『博物誌』では、その半分にハーブとその医薬的利用が書かれ、香油の流行と製法・保存等の記述があり、バラ油の効用や土の香りにもページを割いてます。
中世に入り、ハーブは主として修道院で栽培され10世紀に『バルドの医者の本』という日常語で書かれた最初のハーブの本が作られました。ヨーロッパ医科大学の発祥地サレルノはヒポクラテスの町として有名であり、12世紀頃から書かれた『サレルノ養生訓』は、リズムに載って多くのハーブと生活について歌い上げた当時の大ベストセラーでした。これはまた、『健康指針一覧表』に描かれた美しいハーブの図譜と共鳴しています。 |
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800年後の現代、その業績が見直されてきた12世紀の聖女「ヒルデガルド」はドイツの生んだ預言者であり、博物学者でした。200種に及ぶハーブの薬効をまとめ、ヨーロッパに初めて「ラベンダーの」という言葉と薬効を紹介しました。
【緑の治癒力 ウィリディタス】
'79年、ヒルデガルドルネッサンスとして法王ヨハネス−パウロ1世が、聖ヒルデガルドによせて『観よ。そして正しき道に変えよ』という言葉に導かれますように
というメッセージを捧げました。そして「ヒルデガルド」の名がつく薬用酒・タイムとローズマリーとリンデンのハーブで作られた化粧水・「緑の力が入った」と称する丸薬が発売されたのです。 |
ヒルデガルド・フォン・ビンゲン(ビンゲンのヒルデガルド)は、ライン河流域ヘッセンに程近いアルツァイの裕福な領主、ベルマースハイムのヒルデベルトの10番目の子として生まれました。7歳の時、ベネディクトゥス修道士会の傘下としてシュパンハイム伯の寄進したディジボーゼンベルク修道院のクラウゼに、習練士として入りました。伯は、そこに娘(通称「麗しのユッタ」)を送り、同盟又は臣従関係にあった領主ヒルデベルトの希望を容れて、これに幼いヒルデガルトを付け添えたのでした。
しかし彼女は生来、非常に病弱な体質で、終生自由に歩くことにも困難を極めた程だったといわれ、その一方で彼女の『自伝』の作者、修道士ゴドフリートは「早くから予知を伴う特殊な幻視能力に目覚めていた」と伝えています。ヒルデガルトの病気が現代でいうどんな種類のものだったかについては様々な見解がありますが、ひとつ注目されるのは「ヴィジョンは、しばしば病に苦しんでいる最中に現れ、ヴィジョンを筆記したり口述することが、ヒルデガルトの健康をその都度、見違えるように回復させた」という記録です。このエピソードは、彼女が獲得したこの特別な能力が、おそらく生涯にわたる病という彼女に宿った負の属性と、完全に表裏一体であったに違いないことをありありと教えてくれます。
ヴィジョンを見ている限り、悲哀と不安が悉く身内から去り、自分が老女ではなくて、単純な幼い女の子のように感じられました。
――『自伝』 p.19 ヒルデガルト晩年の書簡
というのも、この女性(ヒルデガルト)は、この世に生まれた日以来、網の中に巻き込まれているように辛い病気の数々に悩まされ、そのため血脈といわず髄といわず肉といわず、絶えず苦痛に苛れているのである。けれども主は今に至るまで、彼女をこの世から放してやるおつもりはなかった。なぜなら、彼女がその分別を弁えた魂の容器を通じて神の特定の秘密の数々を、精神的なあり方で幻視することを望まれたからである。
――同 p.386 「神の御業」エピローグより
いずれにせよ注目すべきは、女医ヒルデガルトが病人でもあったという、同一人物における治療者と病人の共存の事実である。医者であって患者、自分が(病気にも)汚染され穢されているからこそ、福音宣伝において、自分をも世界をも治療しなければならない。
――同 p.280
1115年、彼女は17歳で正式な修道女となりました。1136年にはその修道院の院長に選ばれますが、やがてそこが手狭になったため、1151年、ライン河畔ビンゲン近郊のルーパーツベルクに独立した女子修道院を建立し、18人の修道女と共に院長として移り住み、1179年にその地で没しています。
当時、ヒルデガルドは予言の力や啓示によって知られ、政治や外交にも手腕を揮ったようです。そして、彼女が「汝が見聞きしたことを延べ記せ」という天啓を受けて著したという26の幻視を記述した『道を弁えよ
Scivias シヴィアス』は、「宗教界に論争を巻き起こした」といわれます。彼女が活躍した時代は、トロープスとセクエンツィアの最盛期でした。自分の修道院のためにトロープスやセクエンツィアも含めて、聖務日課用とミサ聖祭用に77の作品と非典礼用の宗教音楽劇である『道徳の諸秩序
Ordo virtutum オルド・ヴィルトゥトゥム』を残しています。
当時の聖職者で、宗教曲の作詞をする人間は珍しくなかったようですが、曲作りは職業的な作曲家が行なうという分業制が一般的でした。ヒルデガルドの場合は、詩だけでなく旋律も創作した点で、当時としても非常に際立った存在だったと言えるでしょう。彼女の音楽は全てが単旋律ですが、音域が普通の聖歌より広く旋律も変化に富んでいることから、当時の一般的な音楽に比べると「どことなく奔放で幻想的な感じがする」といわれています。 |
『自然学 Phisica』 『病因と治療 Causae et Curae』という著作が書き始められたのは、『道を弁えよ
Scivias シヴィアス』の完成直後とされており、1158年には既にその大半が仕上げられていました。ヒルデガルトがそこに記述する自然・宇宙と人体の法則的な諸関係・植物に関する薬学的視点等からの知識には、キリスト教以前から存在した、土着的な古代宗教が見え隠れしています。
終生「無学」「塵」を自称した、敬虔なカトリック修道女ヒルデガルトが当人が気づいていたか否かとは全く無関係に、あまりにもグノーシス的な思想家だったことがより顕著に解るのは、『自然学』『病因と治療』という直接的な神学の問題から幾許かの距離を置いた、この2書においてなのですが、それはもう一方の12世紀ヨーロッパを代表する思想家、聖ベルナール・ド・クレルヴォー
Bernard deClairvaux が「実際は極めてドルイド的なキリスト者であった」という中沢新一の考察とも、むしろ明白かつ密接な対応関係を持つと思われます。
◆ヒルデガルトの『自然学』 全9(または8)巻
1
2
3
3(4)
4(5)
5(6)
6(7)
7(8)
8(9) |
植物の書
元素
=または「ドイツの河川」
樹木
石
魚
鳥
(他の有翼動物を含む)
動物
爬虫類
鉱物 |
De plantis
De elemensis
De fluminibus
De arboribus
De lapidibus
De piscibus
De avibus
volantilibus
De animalibus
De vermibus, De reptilibus
De metallis |
――種村 前掲書 p.218
『自然学』全9巻の構成はキリスト教文化とは異なる、二つの文化伝統の干渉によるものだった。ひとつはプリニウスや『フィジオロゴス』といった古代博物誌からの、もう一つは、原ゲルマン的土着的民間伝承からの干渉である。
――同 p.219
今、正に私達の視るビンゲンの聖女ヒルデガルトのヴィジョン乃至テクストは正しくそれであり、その傍らには大地と天空に対し、恰も沈黙の如き、波動の如き祈りを捧げるクレルヴォーの修道士ベルナールがいる。キリストにおいて愛されたる娘ヒルデガルトに対し、ひとりの罪人の祈りが何事かをなし得るのであれば、クレルヴォーの修道士と名乗る兄弟ベルナール、ここに祈りを捧げる。
――同 p.70 ベルナールによるヒルデガルトへの書簡
知るためにのみ知ろうとする者が少なくない。これは唾棄すべき好奇心である。また知られるために知ろうとする者がいる。これは唾棄すべき虚栄である。更にまた、金と名誉のために知識を買おうとする者もいる。これは唾棄すべき商行為である。しかしながら、建設するために知ろうとする者もいる。これは愛である。また建設されるために知ろうとする者もいる。これは賢さである。最後の二つの意図のみが、知識を善きものたらしめるのだ。
――同 p.73 ベルナール「省察録」
『植物の書』を紐解くと、同書は薬用植物辞典であると共に料理法も細かく記しています。そして、ヒポクラテスの4体液気質に通ずる「温・冷・乾・湿」が必ずあることに注目できます。ヒルデガルドのガルドが「庭園」の意であるように、彼女の庭でもまた薬草のみならず、ベラドンナやマンドラゴラといった悪魔の草について述べています。
ドイツ名「アルラウネ」は「温」であり、根が人間に似ているため、悪魔の囁きを受け易く、掘り出したら一昼夜、清泉に浸すとよい
とあり、また
反媚薬として、これを持ち歩いて興奮を鎮めよ
とあるのが興味深いところです。
1158年に書き始められたという『価値のある生の書 Liber vitae
meritorum』と、それに続くヒルデガルト最後の書『神の御業の書 Liber divinorum operum』では、再び神学的なテーマに基づく、様々なヴィジョンが綴られています。種村李弘著『ビンゲンのヒルデガルトの世界』の年譜には、同年のこととして
長期の病床生活を押して説教旅行に立つ。マイン河沿いの第一次旅行の主な寄宿地は、マインツ、ヴェルトハイム、ヴェルツブルク、バンベルク
――同書 p.398
と記されており、更に1160年にはフランス国境近くのロトリンゲン地方への第2次説教旅行、翌61-63年にはライン水系を南下する行程の第3次と矢継ぎ早のスケジュールが続き、その多忙ぶりと、絶え間なく襲いかかる病をものともしない些か異様なまでの活発さには、悉く目を見張らせるものがあるのです。
興味深いことには、同じ1158-63年ヨーロッパでは皇帝ハインリヒ1世バルバロッサによる第2-3次イタリア進軍が始まっていて、神聖ローマ帝国が長年の宿敵ローマ教皇庁を実力で屈服させるべく、イタリア諸都市を蹂躙していた頃と同時期です。
すなわちヒルデガルトの生産活動の最も精力的であった一時期、母国ドイツは抜き差しならぬ戦争状態の最中でした。他方では、彼女自身の内部でもちょうど恰もそんな状況とシンクロするかのように、牙を剥き猛威を振るう病との「戦争」 (という表現が適切であるかどうかは別としても)、通常では到底考えられない強度の高さを伴う激越な何事かが、なぜか同時的に起きていたのです。 |
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16世紀 ウィリアム・ターナー
17世紀 ジェラルド/パーキンソン/カルペッパー/特徴表示説のバラケルスス
そして、1921年フランスに生まれ、メッセゲ家で400年の歴史をもつ植物研究を集大成して波瀾の人生から植物療法の世界的第一人者になった、ヨーロッパの自然保護運動のリーダーであるモーリス・メッセゲ氏。彼は南仏フルーランス市長を16年間にわたって務め、そこでも無農薬の農産物を栽培し、地道な努力によって世界中の科学者・芸術家・文化人からも熱く支持されています。
今日まで、優れたハーバリストが活躍しているのです。
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