因幡の白兎は
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西洋のハーブを生活に取り入れたのは最近のことですが、日本にも日本ならではの和製ハーブが薬草としてあり、古くから暮らしに役立ってきました。
例えば冬至の柚子湯など、身近な自然のハーブをお風呂に入れて健康に利用する「薬湯」文化は、平安時代の文献にも出ていますし、鎌倉時代には流行もしています。柚子湯だけでなく、菖蒲湯や土用のうちに桃の葉湯にはいると汗疹が治るといったようなものは、単なる「言い習わし」だけによるものでなく、ハーブに含まれる成分が清潔・温熱・保温・リラックス効果といった入浴の基本的効用を更に高め、様々な症状を的確に改善してくれるからでしょう。
現存する日本最古の歴史書『古事記』には、既にハジカミやニンニク等の和製ハーブの名前が登場。神話として有名な「因幡の白兎」の話では皮を剥かれた傷跡を、ガマという植物の力で治したとされていますが、このガマも言ってみればハーブの一種です。また縄文時代の青森の丸山遺跡から回虫の卵と蓬の葉が見つかり、言い伝えとして節句に草もちを食べないと腹に虫がわくがあります。 |
病気治療に
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紀元前から薬草の効用を認めていた中国医学が仏教伝来と共に伝わると、やがて日本でもハーブ類は病気治療薬として利用されるようになりました。
・7世紀、薬草を利用した施薬院(病院)を聖徳太子が四天王寺に建立、勅命で薬草採集し、山城に薬草園を作ります。
・『日本書紀』には、推古19年旧暦5月5日に天皇は奈良の莵田野ウダノにて薬猟(くすりがり)を行ない、菖蒲や蓬を摘んだとあります。
・『万葉集』にも茜さす 紫野行き 標野行き 野守はみずや 君が袖振ると紫紺染が書かれ、紫根は切り傷や火傷に使われていました。
・この時期に編纂された『風土記』にも、参・附子・黄連・甘草・葛・椒などが薬草として多数書かれています。
・804年『皇太神宮儀式帳』に七草を羹 [ 熱い吸い物 ] にして奉ったとあり、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろという現在の七草が食べられるようになったのは、室町時代以降といわれています。
・808年、勅命により『大同類聚方』が編集され、これは我が国初の薬局方ともいえるもので桔梗・夏枯草・当帰・朮おけら・山椒がみられます。
・この頃から貴族を中心に香りの文化が広まり、衣服や寝所に炊き込めるえび香 [白檀・丁子・沈香・麝香等の香りのある木片・樹脂を混ぜたもの]
+ 香り袋 + 香料を玉にして、錦の袋に入れた薬玉を魔よけに飾りました。
・10世紀頃になると、和製ハーブの利用だけでなくコリアンダー/フェンネル/サフラワー等、地中海から到来した西洋ハーブも日本初の本草書『本草和名』に薬草として記載されています。
・この頃、京の流行り病に対して、僧空也が煎じた茶に梅干と昆布を加えたものを大福茶として広めました。 |
織田信長が
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日本で初めてハーブ・ガーデンを誕生させた功労者は、織田信長と伝えられています。1568年、信長はポルトガル宣教師に薬草を栽培するための土地として、伊吹山の50町歩を与えました。その場所は不明ですが、宣教師はヨーロッパから薬草3000種類を移植したとの記録が、江戸時代に出版された通俗書『切支丹宗門朝記』『南蛮寺興廃記』にみられます。
持ち込まれた薬草は現存しませんが、当時薬草と共に紛れて入って来た雑草類キバナノレンリソウ/イブキノエンドウ/イブキカモジグサが伊吹山に残っていることから、信長と薬草園の関係は事実と思われます。
1638 薬草園が麻布と大塚に作られ、廃止後は小石川園に移設。
1647 京都に、
1680 長崎にも作られました。
1722 小石川には療養所も併設。
1805 医師華岡青洲が、ダツラを用いて乳癌手術を行ないました。
・1828年、ドイツ人医師・植物学者シーボルトが、日本の生きた植物2000種を持ち出そうとして国外追放になりましたが、彼のお陰で西洋医学が日本に・日本の植物が西洋のハーブ園に紹介されたのです。
・鎖国解除となってからオランダや中国から本草学が伝わり、薬の製造も行なわれるようになりました。
・1865年には神奈川奉行所が外国人の指導を元に、苺・玉葱・トマト・キャベツの試作を始めました。
・明治時代に入ると、西洋の野菜や薬草は次々と取り入れられたものの、一般家庭の食卓に西洋ハーブが上がる程の普及は見られませんでした。
・1886年、医療に関わる免許の登録が外科学・医学・薬学の試験合格者となり、田舎の本草屋や市民の医者によって、ハーブが薬草として使われていたものが統合されるようになりました。
...ここに脈々と、おばあちゃんの知恵や民間伝承としての薬草利用が息づいているのです。 |