洞窟に向かうにつれ、裕樹の足は竦んだ。 それでも見栄をはって歩いていたが、 崖に浮かび上がるあの暗い穴を前にして、もう無理だと思った。 「ごめん。もう、行きたくない。」 「どうしてだよ?」 裕樹は口を閉ざす。それでも那央は引き下がろうとしない。 どんなに首を横に振っても、まるで受け付けようとはしない。 「理由を言えよ。」 泣き出しそうで、だだを捏ねる子供のようにまくし立てた。 「だって、もし、そこで竜を呼び出して、何もこなかったら? あれから誰一人として湖で竜を見た者はいない。 もしかしたら、あれは狐がついた嘘で、草太は今頃湖の藻屑になっていたとしたら?」 もし呼んでみて何も来なかったならば、自分は実の兄を殺した事になってしまう。 常識的に考えればそうだ。竜になって生きているだなんて信じる方がおかしいのだ。 「そんなの、呼んでみれば分かることだ。」 「嫌だ!分かりたくもない!」 そうだ。生きているか死んでいるかなんて、箱を開けるまでは分からない。 それは箱の中で半分生きている。だから、自分は殺人者ではない。 「草太は狐に騙されたりなんかしない。」 那央によって、否応無く兄の記憶が引き出される。 透視の力があった事。大人ぶって賢い振りをしていた事。 親の期待の上をいこうと努力していた事。 尊敬していた。可哀想な人だとも思っていた。 この人の助けになりたいと思っていた。 「裕樹、お前自分が草太を殺したとでも思ってるのか?」 一度弱音を吐いてしまうと、後はもう止まらなかった。 黙ってなんていられない。今しか、話す機会などない。 「――いつも同じ夢を見るんだ。あの儀式の前の晩の事。 あの時俺、どうしても眠れなくて、布団をでて厠に行った。 その時見たんだ。那央がうちに忍び込んでくるの。 直ぐに分ったよ。兄貴を連れ出すつもりだって。」 「じゃあ、あの時祭主がすぐに俺たちを追ってきたのは――。」 「俺が、爺さんに知らせたんだ。」 言ってしまった。胸の鼓動を抑え、恐る恐る那央の顔を伺う。 那央は裕樹を軽蔑の目で見ていた。 逃げ出したい。叫びたい。自分の嫌な面ばかりが浮き彫りになる。 「俺がしたことを知れば、兄貴は俺を恨む。」 「草太はそんな奴じゃなかっただろ。勝手にあいつを悪霊にするな。」 知っている。分かっている。兄はそんな器量の狭い人間ではなかった。 怯えるのは、こんな卑小な自分が許せないから。 「自分のしたことが許せないなら、あいつに土下座して許してもらえ。 これから一生、あいつの影に怯えて生きるよりマシだ。」 「――生きて、無かったら?」 「だったらあいつの霊を呼び出すだけだ。」 「簡単に言うなよ。俺は兄貴みたいな強い霊力がある訳じゃないんだ。」 やろうと思って霊を降ろすことなんて出来た試しが無い。 「出来るさ。俺が来て、お前が呼んでるんだから、来ないはずが無い。」 裕樹がその程度の事をずっと悔やんでいるだなんて意外だった。 まあ、本人にとっては重大なことなのだろうが 今の那央には、正直、どうでもいいことだった。 そんなものは所詮、取り返しのつかない過去のことで、 そんなものに囚われている裕樹に苛立った。 那央は、泣きべそをかいていた裕樹を引きずるようにして、洞窟を奥へと進む。 そこでは、先に来た博隆が待っていた。 「遅かったな。」 博隆は裕樹の顔を見ておやと思ったようだが、特に何も言わなかった。 「裕樹、草太の霊、その辺に見える?」 「分からないよ、そんなの。」 見えないではなく、分からない。裕樹は草太ほどにものが見えるわけではない。 「なら生きてるってことだ。博隆さん、呼んでくれ。」 那央が五十鈴を渡すと、博隆は静かにそれを打ち振るった。 博隆の足元に広がる水面が、風も無いのに小さな波を作って揺れる。 その波が次第に大きくなり、ゆらゆらと揺れる水底に、黒い影が現れる。 それは次第に大きくなり、鱗に包まれた長い首が水面を割った。 「竜・・・これが、兄貴?本当に、生きて・・・」 竜は那央の姿に気づくと、目を細めて顔を伏せた。 草太は、かつて人であった頃にも、会いに来ないで欲しいと言っていた。 あれから時が経ち、那央は少年から青年になった。 この湖で時を止めた草太にとって、あれほど傍に居た那央が 自分を置いて変わっていくことは、何より辛い事だった。 「草太、お前に見せたいものがあるんだ。」 博隆は頷いて膝をつき、鈴をそっと水に入れた。 水の中、二度、三度打ち振るう。不安げに見守る裕樹と竜。 博隆はそれを無視し、指がすっかり冷たくなるまで鈴を振り続けた。 しばらくして、竜の草太が水の中に頭を静める。 その水の奥底に現れたのは、もう一匹の竜だった。 小さな竜が、博隆の前でバシャリと飛沫を上げて飛び上がる。 姿形こそ今の草太やかつての竜とそっくりだが、 大きさは人間の大人とさほど変わらない。 「こいつは博隆さんと前の竜との間に出来た子供なんだ。 ずっと向こうの沼に居たから、草太は気づいていなかったかもしれないけどね。」 仔竜は、博隆の手に頭を撫でられ、きょとんとしている。 この仔は、自分が人間の子供であることさえ知らないのだ。 「草太、俺たちが今日ここで竜を呼び出していることは、村の者には言ってない。 お前が人間に戻る事は、俺たちだけの秘密だ。 お前の家系は生贄になるための家系だ。 村に戻れば、いつまた俺はお前を殺すことになるとも限らない。 だったら、戻らない方がいいだろう。」 草太と最後に会った夜。あの日のことは、今でもたまに夢にでる。 それは那央にとって、深い心の傷となって残っている。 もう二度と繰り返させない。 「俺、いま町の学校に行ってて、もうすぐ卒業してそのまま向こうで就職する。 だから、人間に戻ったら、この村を出て俺のところへ来て欲しい。」 草太にとって、それはまさに晴天の霹靂で、俄かには信じがたい事だった。 驚きと興奮で、心臓はまだ早鐘のようになっている。 こんなことあっていいのだろうか。 だって自分はあれから何の行動もしていない。 しかし、裕樹の声と鏡の光は、草太の姿を変えていく。 自分の額から、竜の角が取れて落ちる。 自分の身体が小さくなる。落下する時に似た感覚。 今まで浸かっていたはずの水の冷たさに驚き、もがくと 突然強い力に身体を抱え上げられた。冷えた空気に身体を震わせる。 地面に下ろされ、すぐに何か乾いた布が掛けられた。 それが那央の上着だと気付いたのは、目を開けられるようになってからの事だった。 「全然変わってないんだな。」 無遠慮な視線が草太にまとわり付く。それが気持ち悪くて、精一杯身を縮めた。 草太からしてみれば、すっかり成長した那央の方が気味が悪い。 知らない人間に触れられているようで、不快だった。 「向こうで就職って、家継がないのか?」 「ああ。お前が居なくなってから弟が生まれたんだ。 それについては親たちも納得してる。」 そういえばあの頃、那央の父親は再婚して後妻を迎えたばかりだった。 その二人に子供が出来たとしても、なんら不思議は無い。 「で、どうすんだよ草太。俺と一緒に来るか、村に戻るか。」 行っていいのか判断できなくて、かつて弟であった裕樹を振り仰ぐ。 そう、草太が村を出れば、この先村に何かあった時、犠牲になるのは裕樹なのだ。 目が合うと、裕樹はなにも言えないままに目を反らす。 迷っているが、かといって止めることなど出来ないのだ。 草太も迷った。だが、このまま那央についていけば、 この村の因縁から開放され、自由になれるのだ。 もうこんな機会など二度とないに違いない。 新しい町で、那央と一緒に――。 「――ひとつ確認したい。その、一緒にっていうのは・・・」 どうしても気になって聞こうかと思ったが、 視界の端で、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる博隆を見つける。 楽しまれていると気付き、羞恥に耐えられず口を噤む。 「どうした?」 「いや、なんでもない。――お前の言うとおりにする。」 だがそう決意した瞬間、草太は見るべきでないものを見てしまった。 寸でのところで、驚きを声に出す事だけは食い止めた。 今ここで声をあげてはいけない。今ここで声をあげれば、裕樹に気づかれてしまう。 裕樹はまだ気づいていない。気づいていないからこそ止めないのだ。 だがここでそれに気づいたらどうするだろう。 ここでそれに気づいてしまった自分はどうすればいい。 「決めたなら行くぞ。博隆さん、竜を頼みます。」 那央の力強い腕が草太を促す。いけない。行っていい訳が無いのだ。 気ばかり焦って、足が震えている。 「風邪を引く。早く行こう。」 引きずられるようにして、半ば抱えられながら立ち上がった。 気づかれてはいけない。そうだ、今しかないんだ。 裕樹があれに気付かないうちに、早く逃げなければ。 那央の腕に捕まったまま、震える膝で歩き出す。 実際それはほとんど那央に引きずられていたのだけれど 半ば混乱していた草太は、それすらよく判っていなかった。 二人が洞窟から出て行くのを、裕樹はまだ信じられない思いで見送った。 博隆が、水底に落ちていた竜の角を拾い、手にとる。裕樹はその時、はたと気が付いた。 「博隆さん、その竜・・・」 先ほどからずっと感じていた違和感。虫の知らせ。動悸が、早くなる。 「どうした?」 「角がない。」 まさかと思った。祈るような気持ちで鏡を取り、鏡越しに、仔竜を覗き込む。 暗い鏡に目を凝らす。闇の中に映っていたそれは、竜の姿をしていなかった。 「狐・・・!」 裕樹の声に、博隆は片手で目元を覆った。気付かなければ良かったものを。 気付かない振りをしていればよかったものを。 だがもう遅い。蛍麻はため息を一つつき、変身を解いて狐の姿になった。 「騙して悪かった。でも僕は、これ以上人間が山を荒らすのをみていられない。 あの山はもともと禁忌の山。 こうでもしない限り、人間はあれから手を引くことはないと思ったんだ。」 それは人の言葉を喋った。化け狐だ。 だが事情を聞いている暇は無い。こうしている間にも、二人はどんどん遠ざかる。 裕樹が転がるように、洞窟を飛び出した。 今ならまだ遠くには行っていないはずと、そこに残っていた足跡を追う。 だがその足取りは次第に重くなっていった。 追いついたとして、一体自分はどうするつもりなのか。 また兄を湖に落として、永遠の孤独を強いるというのか。 あの夢に怯えていた。自分が許せなかった。 兄を監禁して、それから目を反らしている自分が嫌だった。 本当は、兄の味方で居たいと思っていたのに。 とぼとぼと坂道を登り切ると、視界が開けて川が見えた。 その川に浮かべた船の上に、あの二人が居た。 草太は既に、服を着ていた。あらかじめ舟に用意してあったのであろう。 最初から全部、計画されたことだったのだと改めて思う。 那央は自分が自立する時を待っていたのだ。 もう裕樹には草太を止める気力は残っていなかった。 これでよかったのだと、自分に言い聞かせた。 ほら、裕樹に気付きもせず、船の上で言葉を交わす二人は さながら天の川を渡る織女と牽牛のようではないか。 自分がこれ以上どんなに足掻こうと、お伽話を変える事なんて、出来るはずが無いのだ。 「思ったより聞き分けが良いんだな、お前。」 声にびっくりして振り返ると、博隆が立っていた。 そしてその傍らには、あの狐が居た。 「まあ、俺はまだあの竜に子供が居たことを諦めたわけじゃない。 運がよければそのうち本物に会えることもあるだろう。」 博隆の手にはまだあの五十鈴が握られている。 「あなたにそれはもう必要ない。」 そう言ったのは、狐だった。その時裕樹はおやと思った。 狐の様子が何か違う。狐の表情というのもおかしな話だが、 そう、確かに表情が、さっきまで見ていたそれと違うのだ。 「ああそうだったな。ここにまだ竜がいたら お前にとっては不都合だからな。でも俺は、返す気はないよ。」 「違う、博隆さん。それ、さっきの狐じゃないよ。」 博隆が裕樹を見て眉を顰める。 可笑しなことを言っているのは自分でもわかっている。 説明をしなければと思ったとき、 何故だか唐突に、あの那央の言葉を思い出した。 ――俺が来て、お前が呼んでるんだから、来ないはずが無い―― そうだ。博隆さんがこの洞窟に来て、あの五十鈴を振ったんだ。 ならば、来ないはずが無いではないか。 「あの竜だ。あの先代の竜の霊が、今その狐に乗り移ってる!」 「まさか・・・本当に、カヤなのか?」 狐が頷いた。 そうだ。さっき五十鈴を鳴らした時、その音が、彼女の霊を引き寄せたのだ。 博隆が湧き上がる興奮を抑えながら、蛍麻の前に膝をついた。 しかし、再び逢えた喜びに浸る間はなかった。 「子供なんていない。」 その霊はいとも残酷に、博隆の希望を切って捨てた。 しかし次の言葉は、更に博隆を驚かせることとなった。 「いたけど、卵のうちに殺した。」 俄かには、信じられなかった。 いやしかしその子が竜であるならば、永遠の命を生まれながらに持っている。 自分の命がそう長くは続かないと誘ったカヤが、 永遠に独りで生きなければならないその子を哀れんで殺す事は むしろ当然の事なのかもしれない。 だが、自分が産んだ我が子をその手で殺すだなんて――。 「五年前、お前が俺を呼んだのは、その事を伝えるためだったのか。」 蛍麻は、小さく頷いた。 「ごめんなさい。」 深く、深く頭を下げる。それでも、後悔した目はしていない。 これが女性の強さというものなのだろう。 それに引き換え自分は、なんと情けない事だろう。 いつまでも、彼女の影を引きずって、それに縋って生きてる。 「――なんでそんな事教えに来るんだよ。 居るかもしれないって、期待していたかっただけなのに。」 それがどんなに虚しくても、何もしないより気が紛れる。 彼女を失った今、自分に残されているものは何も無い。 だから、幻と分かっていても、追っていた。 「今それを言われたら、俺は、これから何をすればいいのか分からないだろ。」 「私は過去の人間です。私の事は忘れてください。 あなたは、あなたの人生を――。」 蛍麻が、五十鈴を握っていた博隆の手にそっと頬を寄せる。 博隆は五十鈴を手放した。 蛍麻はその手に口付けをし、パタリと身体を横たえた。カヤの霊が抜けたのだ。 林が開けたそこは、湖から流れ出す川だった。 那央に促されて船に乗りこんだ時は、もう息が上がって咽がカラカラだった。 心臓が跳ね上がってどうにかなってしまいそうで、那央の腕に、両手で縋っていた。 「那央、なんなんだよあの狐!」 その声を遮るように、手ぬぐいが降ってくる。 舟に置いておいた物を那央が放って寄越したのだ。 那央は、草太の着替えも用意していた。その用意周到ぶりに舌を巻く。 「よくわかったな。あいつは例え草太の目だろうとバレないって言ってたけど・・・。」 「俺は騙せてもあの鏡は騙せない。本当の姿が映ってた。」 なるほど。確かにあの鏡は真実の姿を照らし出すものだ。 たとえ蛍麻の変身が草太や裕樹にバレなくても あの鏡を通せばバレてしまうのか。 「あれは蛍麻だよ。」 那央は櫂を取り舟を出しながら、蛍麻の事を、これまでの事を説明した。 あれから五年間。いろいろな事があった。 伝えたかった言葉も山ほどあった。 今まで独り言として呟いていたそれらが一度に胸に押し寄せて、話は迷走した。 「ところで草太、さっき何か聞こうとしてなかったか?」 「は?」 さっきとはいつか。何の事かと思いを馳せる。そしてある事に思い当たり、眉を顰めた。 あの時の博隆の下卑た笑みを思い出す。あの時口に出さなくて良かったと思う。 しかしだからといって今聞くのも憚られた。だってそうだろう。 それを問いただして、もしもそうだと言われたら。 成長した那央の姿を改めて見る。言い出しかねないから恐ろしい。 「勘違いだろ。」 そう、考えすぎだ。男同士で駆け落ちだなんて――。