草太は、苦しいからと一人早めに床についた。その枕元で梛央と婆さんは話を続けていた。 あれからしばらく婆さんと語り合ったが、特に不審な素振りはなかった。 さっきの食事にも、特に、体調が変化したというようなことはない。 何事もなく夜は更けて行く。  体調の変化と言えるほどの物でもないが、梛央は、強い眠気を感じていた。 しかしそれも、歩き続けて来た疲れを考えたら当然の事だ。 「もう眠いかえ?」 あくびを漏らしたところを婆さんに見つかる。 「…うん…ちょっと疲れたから…」 「そうじゃな。明日のためにもゆっくり寝ておいた方がよい。 お前の布団は、あっちの部屋に敷いておいた。」 「あっちの部屋なのか?」 ふと、さっき草太に言われた言葉を思いだす。婆さんは、 意図的に自分たちを別々の部屋にしようとしているのかもしれないと邪推してしまう。 「一緒にいたら、風邪が移ってしまうじゃろ?それとも、一人じゃ寂しいかえ?」 「だ…誰が!」 「ほほほ…威勢のいいガキじゃ。その威勢があれば大丈夫じゃな。」 婆さんは、梛央を追い払うようにした。梛央は、隣の部屋に行った。  その夜、梛央は草太に揺り起こされた。目を開けると、真上に草太の顔があった。 まだ辺りは暗い。部屋の中には、微かに月の光が入り込んでいるだけだった。 「なんだよ草太…?」 「シッ」 草太が人差し指を口に当てる。 「来いよ。」 草太は、梛央の耳元で言った。梛央は、訳も分からないまま床から這い出た。 草太は、忍び足で梛央を台所の方へ引っ張って行った。 物置の戸の透き間から、光が漏れている。草太は、口に人差し指を当てたまま、 戸の節穴を示した。“覗いてみろ"というのだ。梛央が、その節穴から中をのぞき込む。 そして梛央は凍りついた。 「草太…これ…」 「静かに。」 婆さんの前には、老人の死体があり、婆さんはそれに齧り付いていたのだ。 クチャクチャと生々しい音を立て、肉をかじり、骨をしゃぶり、臓腑を挟る。 辺りに嫌な臭いが漂ってくる。梛央の喉に酸っぱいものが込み上げて来た。 それを、唾を飲み込んでこらえる。 「梛央、逃げよう。」 梛央は、一瞬それに反応できなかった。 婆さんの口元から滴る血の鮮やかさから、目を離せなくなっていた。 「梛央」 「…うん…」 不意に、婆さんがこちらを向く。食べかけの内臓を置いてこちらに近寄り バッと戸を開ける。婆さんが二人の前に立ちはだかる。 「ヌシら…見たな…」 「ひいっ!!」 恐ろしくて尻をつく。梛央は、そのままバタバタと後ずさった。 そのとき、壁に立て掛けてあった鍬が目に入った。それをとって立ち上がる。 「お前、ヤマンバだな!」 鍬を構えて婆さんの前に立ち、草太を背にして庇う。 「ほう…。面白い、ワシと戦うというのかえ?」 婆さんが口元の血を手で拭う。梛央は、構えたままじりじりと後ろへ下がった。 その時だ。一匹の犬がヤマンバの後ろに躍り出て、その肩に噛み付いたのだ。 「お前、タロウ!?」 婆さんは驚いたが、取り乱しはしなかった。その牙は婆さんの皮膚に深く食い込んでいる。 しかし、婆さんの顔に、痛みの色はでない。婆さんは、痛みを感じてはいなかった。 「いいかげん離れんか」 婆さんがタロウを引きはがす。肩の肉がタロウと一緒に引きはがされたが、 婆さんは、全く無頓着だった。タロウはそのまま投げ飛ばされ、柱にぶつけられた。 タロウが小さくキャン鳴く。 「これくらい痛くも痒くもないわ。」 婆さんの肩からは、真っ赤な肉が見え、どくどくと血が溢れている。 だが次に、その血が、ブクブクと吹き上がって泡を立てだす。 外側から、皮膚が修復されて行く。 「これでもワシを倒すと言うかえ?」 肩の傷は、見る間に消えて行こうとしている。梛央は、言葉を返せなかった。 「ふん、ワシはまだまだ死なぬぞ。ワシは食った人間の残りの命の分だけ長く生きる。 ワシはさっきこの人間を食ろうた。ワシの寿命はさらに5年ほど長くなったのじゃ。 お前らが殺した所で死ぬるようなワシではない。」 二人は、申し合わせるようにして頷き、小屋の勝手口から逃げようとした。 戸から外に出ようとする草太の肩を、婆さんが掴む。 「草太!」 梛央は、その手を掴んで草太の肩から引きはがした。足元の土を掴んで 婆さんに向かって投げ付ける。ヤマンバが土に怯んだところに、鍬を振り下ろす。 鈍い音がして、婆さんがつんのめるようにして倒れ、その白髪が赤黒いもので汚れた。 「くっ…」 長い爪を生やした手が、それでもまだ梛央の足を掴もうとする。 梛央は、何も考えられなくなっていた。倒れているヤマンバに対し、 何度も何度も鍬を振り下ろした。 「梛央!」 草太が梛央の腕を掴む。梛央の目は、血走っていた。 「梛央、もうやめろ!」 「草太…」 梛央が手を止め、荒くなった呼吸を整えようとする。 足元の白髪頭は、中身の桃色の物まで飛び出、更にそれも潰され、血が滴っている。 見下ろした手の先の鍬は、赤黒く汚れている。 カの入り過ぎた手は、痺れてそれを手放せなくなっていた。 「梛央、逃げよう。」 梛央は、自分がこんな酷い事をやったという事実を認識するのに戸惑っていた。 「ああ…」 草太の声に梛央は薄い反応を示した。錯乱しているが、それでも梛央はギリギリの所で 正気を保っていた。草太は、梛央の左の腕を掴み、引きずるようにして走りだした。 走りながら後方を見る。ヤマンバの体は、もう自動修復が始まっていた。  後方から、あの婆さんが、老人とは思えぬほどよく回転する足で追ってくる。 椰央は、草太を背負って走った。山の中に入ったら、また出るのに苦労する事は 目に見えていた。梛央は、草を踏み分けながら、丘の上の方に逃げた。 あの一番高いところからなら、麓の様子が見えるかもしれないと思った。 息を切らしながらそこに登る。そこから先に、今まで丘の上に生い茂ってた 丈の長い草はなかった。剥き出しの地面。そのところどころ、少しだけ土を盛り上げて 木の杭が打ち付けてある。それは、簡素ではあったが、墓だった。 その簡素な墓が、眼下一面に無数と広がっているのだ。 「これは…」 梛央が思わず足を止める。 「驚いたかえ?」 梛央が振り向く。もうすぐそこには、あの婆さんが、平然と立っていた。 なんという足の速さと回復力だろう。椰央は、もう一度、強く鍬を握った。 「これ…あんたが食った人達の墓なのか…?」 「そうじゃ。ここに埋められている者達は、みんなワシが食った。 …ワシは、爺さんと一緒にこの山に捨てられた。そう、ワシも最初は、 捨てられる側だった。ワシらは、この山に来て、それでも生き延びようと、 小屋を建てた。そして、山菜を採って暮らし出した…。だが、間もなく爺さんは 死んじまった。ワシはその時、初めて人間の肉を食ったんじゃ。」 「自分の旦那を・・?」 「そうさ。そうしてワシは生き残ったんじゃ。今日食っていたあの爺さんも、 一週間後にはここに埋まってるのさ」 婆さんが、狂ったように笑い出す。血に塗れた髪が張り付いた顔を引きつらせ、 甲高い声で笑い声をあげる。梛央は、恐ろしくなった。 「…梛央、降ろしてくれ。」 梛央がぼうっとしていると、草太は白分で梛央の背から降りた。 そして、熱に浮かされふらつく足で、墓の方に歩きだした。 「草太…?」 梛央が呼んでも反応しない。婆さんの方にも見向きもしない。草太は、 一つの墓へと真っすぐ向かって行った。一番手前、一番高くて、 一番見晴らしのいい場所に、一番古くて一番手入れの行き届いている墓があった。 草太は、その前に立って言った。 「旦那さんてこの人だろ?」 「ええ!?」 梛央は、その言葉に心底驚いた。それは婆さんも同じだった。 草太の言葉に目を丸くし、一時言葉を失った。 「…よく分かったのう…。」 「この人だけ、成仏してない。この辺りの古い墓に住んでる人達は、 皆、もうどこかへ流れて行ってるのに…この人だけ…」 「なんと…?」 草太が、慰めるような、優しい目で、墓を見つめる。婆さんが、その隣へと歩み寄る。 そして、墓を見つめる。 「まだ…まだ爺さんがそこにいると言うのかえ!?」 これには、婆さんも驚きを隠せなかった。丘一面に建てられた墓標。 こうなるまでに、何百年の時を費やしたろう…。その、一番最初の霊が、 まだそこにいると言うのだ。何百年という悠久の時、 ずっとそこで、自分を見守っていたというのだ。 「ここに…いる…。」 草太が、その墓標にそっと触れる。その瞬間、草太の身体から発せられる空気が、 全く別のものになった。草太の中に、その霊が入り込んだのだ。 「草太…」 霊に取り付かれた草太の口元が、微かに動く。幾つかの言葉を、繰り返す。 「……す…まん…。菊さん…。菊さん…。ワシのせいで…」 婆さんは、目を見張った。その名前は、草太が知っているはずのないものだった。 そしてその口調は、死んだ人間のものと、まったく同じだった。 「…す…まん…。すま…ん…。許しておくれ…。」 霊は、ひたすら謝罪の言葉を並べていた。草太の目から、一筋の涙が頬を伝う。 草太は、モゴモゴと言葉を繰り返しつつ、その場に座り込み、項垂れて、 地面につっぷした。そして、動かなくなる。そうしていつしか、 何もしゃべらなくなっていた。 「草太!」 梛央が草太を抱え起こす。草太の身体は異常に火照っていた。 熱が上がっている上に、霊を入れたせいで疲労が激しいのだ。 「草太!!」 草太は、半目を開けて、微かに反応を示すだけだった。梛央があんまりにも騒ぐので、 見かねた婆さんは言った。 「…すぐにその子をうちの小屋に運びな。」 梛央は、アッケに取られつつも、それに従った。  二人は、草太を小屋の中に運び、布団に横たえた。 草太は、無防備な姿でか細い呼吸を繰り返していた。 台所から出て来た婆さんは、手に包丁を持っていた。 梛央は警戒し、婆さんが草太に近づこうとする間に割って入った。 「何するつもりだよ?」 「ヒッヒッヒ…そう身構えなさんな。何も今更取って食ったりはせん。」 それでも梛央はそこをどこうとしない。婆さんは薄く笑うと、包丁で白分の腕に当てた。 そして、自ら腕の肉をそぎ落とした。 「何を…!?」 婆さんは、梛央を押しのけると、大きさにして一口ほどの自分の肉を、 草太の口にほうり込むようにして食らわせた。 「ワシの肉はな、ちょっとした万能薬なのさ。これくらいの風邪なら、 ケロリと治してしまうわい。」 婆さんの腕は既に修復が始まっており、見ている間にも、どんどん傷は消えて行く。 「フン…。もともとワシは、ヌシらを食うつもりなどない。ワシが食うのは ヌシらが捨てた老人と赤子だけじゃ。ヌシらは聞いとらんのか?ヌシらの村ではな、 いまだに子返しやら姥捨てやらをしとるのさ。それをワシが拾って食ってやってるのさ。 ヌシらは、正体を知られたから始末しようとしただけじゃ。」 そう言われて、梛央は、婆さんが食っていた死体を思い出した。思えば、あの死体は、 里中の爺さんの風貌に似ていた。里中の爺さんは、この山に捨てられたのだ。 タロウは、爺さんを追ってここまで一来ていたのだ。 「さ、気が済んだら早く布団に入ることじゃ。それとも、こいつが元気になるまで 付き添うつもりかえ?」 婆さんが聞いてくる。梛央は、少しだけ迷った後、寝ると言って立ち上がった。 もうこれ以上婆さんを疑ってもしょうがないと思ったのだ。 「…そうだ婆さん、草太の身体を借りて、爺さんはひたすらあんたに謝ってたけど、 あれってどういう事だったんだ?」 その爺さんは、草太にとりついて、“スマン'と、何度も繰り返し、泣いていた。 「ああ…アレか…」 婆さんは、薄く笑った。 「うちの爺さんはな、自分の肉を食って生き延びて欲しい…そう言って死んでいった。 大方、まだそれを気にしているんじゃろう。」 自分の遺言のせいで、女房は、妖怪となってしまった。死なない体になってしまった。 自分のせいで、寂しい思いをさせてしまっている。申し訳ない。その想いが、 未だ現世に魂をとどめさせていた。 「…馬鹿なヤツじゃ。」 そう言った婆さんは、少し嬉しそうだった。 「今日見た事は、村の者には、言わん事じゃ。」 そうして婆さんは、台所へと消えて行った。おそらく、食事の続きをしに行ったのだろう。 予想はついたが、とても見に行く気にはならなかった。 梛央は、襖を開けて隣の部屋へと入り布団に横になった。  翌日、タロウは家の外につながれていた。なんでも、二人と婆さんが争っている間、 ずっと里中の爺さんの傍にいたらしい。婆さんが帰ってきたとき、タロウは眠っていた。 婆さんは、起きて暴れられると厄介なので、タロウを外の木につないでおいたのだ。  草太は、昨日ぐったりしていたのが嘘のように、元気になっていた。 二人は、婆さんにお礼を言い、タロウを連れて、山を降りた。  二人が村に帰った日、里中の爺さんの家では通夜が行われた。 縁側に仏壇が設けられ、訪れた人々が、手を合わせて行く。草太と梛央もそれに倣い、 手を合わせ、焼香をした。 「あの婆さん…あと何年生きるんだろうな…」 梛央が、ぽつりと言った。 「たぶん、あの婆さんが死んだ時、あの爺さんは成仏できるんだろうな…」 「…あの婆さん、死にたいのかな…」 「どうだろうな…。」 「…どっちにしろ…当分は死なないんだろうな」