ともかく草太は、椰央を追いかける事にした。翔子は自分も行くといったが、 草太は承知しなかった。翔子はまだ山道に疎いし、足が強いわけでもない。 はぐれてしまうことがあったら大変だ。それに、こんな遅い時間に女の子を 連れ出すわけには行かない。草太は翔子に、大人たちには何も言わないように 硬く口止めした。  草太は、椰央のように山越えの支度をする余裕なんてなかった。そのままの格好で 山を登るしかなかった。しかし、三十分経つとさすがに下駄は辛くなり、すぐに 脱いでしまった。足袋だけでは少し足が痛いが、峠の山小屋までいけば、そこに 必要なものは置いてある。  翔子の話で、椰央の持って行ったものから、椰央が山を越えるということは 察しがついた。普通町まで行くときは、隣村まで来るバスを利用するのだが、 明るくなってからバスを待ってもすぐに見つかって連れ戻されてしまう。 町はちょうど山の向こう側にあることだし、歩きなら山を越えたほうが早い。  村を出たときは月明かりで明るかったのだが、道が細くなるに従って木の枝が 折り重なり、月の光は届かなくなってしまった。真っ暗な道を記憶と勘で抜けて行き、 迷いながらもなんとか峠の山小屋まで行く事ができた。  椰央は、歩き続けた足をしばし休め、うとうとと短い眠りについていた。その眠りは 山小屋の扉が開く音で断ち切られた。 「誰だ?」 慌てて飛び起きる。村のものが追ってきたのかとドキリとした。しかし返ってきた声は 草太のものだった。 「椰央、いたのか。」 「草太…」 椰央は、ランプに火をつけ草太を中へ入れた。椰央は荷物の中を探って草太に 水筒を渡した。草太がそれを受け取り、土間に座って一口飲む。 「―――翔子に聞いたんだ。翔子には口止めしておいた。だから、俺たちがどこに行ったか 知る人はいない。」 「悪いな。」 草太が擦り切れかけた足袋を脱ぐ。椰央は汲み置きの水で手ぬぐいを濡らす。 そして草太の足を片方ずつ取り、拭いてやる。草太はおとなしくされるままになっていた。 「椰央、お前これからどうするつもりなんだよ?」 「博隆さんに…鬼の家の次男に会いに行く。」 「鬼の家?」 鬼の家は、その浅ましい家柄により、村の中では微妙な位置にいた。伝説を伝える 三家の一つでありながら蔑視され、疎まれると同時に恐れらてもいた。 「3年前村の宝物を勝手に持ち出して村から消えた男さ。あの人は今、この山を越えた町に 住んでいる。何をしたかは知らないけど、今は牢屋に入れられている。あの人は、 お前も知っているように村でも名高い放蕩者だ。でも、村一番の物知りだった。 普通の知識じゃない。鬼の家を始めとし村中に隠された呪術の知識だ。」 彼は、もう二十を超えたというのに一切働かず、呪術の研究をしていた。彼は、村人全員が 見て見ぬふりをしてきたもの、触れてはならないとされていたものに次々と 手を触れていった。禁忌とされる洞窟や岩場に平気で入って行った。神社に伝わる 門外不出とされた本を忍び込んで勝手に読んだ。 「あの人は、うちのひい爺さんの書庫で妖しげな本ばかり日がな一日読みふけってた。 あの人なら、何か分かるかもしれないって思ったんだ。」 椰央は山小屋にあった予備の足袋と草履を草太に渡し、隣に座る。 「俺、あの妖樹を退治したいと思う。」 「退治する!?あれはこの世に七度現われ、その都度その時代の人がいろいろな事を試して それでもどうしようもなくて、仕方なく封印されてきたんだぞ。それを、 倒そうって言うのか?どうやって?これまで俺たちはあらゆる方法であれを倒そうとして きただろ?」 「分かってる。斧で切りつけても斧が弾かれた。火をつけても燃えなかった。 毒を吸わせてもものともしなかった。でも、じっとしているのは嫌なんだ。 何かをしていたいんだ。だから、とりあえず思いついたことをやってみたんだ。 それに、過去にあれが復活した時には、博隆さんほど呪術を研究した人は 居なかったかもしれない。」 「…分かったよ。でもお前、なんで俺に黙ってそんな事をしたんだよ?俺に一言くらい 言っていけよ。―――水臭いだろ。」 「言ったらお前、俺も連れて行けって言うだろ。」 「俺が居たら邪魔なのか?」 邪魔ではない。むしろ、嬉しい。でも、だから連れてくるのを躊躇ったのだ。 「―――お前が居たら…帰りたくなくなる。」 博隆に会ったところで何かが変わるとは限らない。何も変わらない可能性のほうが高い。 その時自分はどうするだろう。そんな時、もしも草太が一緒に居たなら、多分、 そのまま逃げ出してしまいたくなる。剣だけ村に郵送かなんかで配達させて、 別の誰かを犠牲にして、二人で、どこか遠くへ。 「―――…」  山小屋の夜は寒く、薄着だった草太には寒さが堪えた。二人は小屋にあった毛布を 2枚重ね、背中をくっつけて一緒に包まった。そして、やっと眠りについたと思った頃には 目がさめた。日が昇ったのだ。空が明るくなるのに合わせて出発し、町に着いたのは 昼過ぎだった。  面会はすぐにかなった。うちのような狭い村はどの家とでも、遠い近いはあるものの 姻戚関係などで親戚となっている。子供とはいえ、身内となれば無視するわけにも 行かなかったようだ。  面会のための部屋に案内された。部屋はガラスで仕切られていて向こう側とこちら側 それぞれに机と椅子が用意されている。仕切りガラスには蜂の巣のように細かい穴が 開いていて声だけ伝わるようになっている。博隆は看守に連れられ、向こう側の扉から 部屋に入った。看守は博隆に座るよう合図し、自分は部屋の隅の椅子に陣取った。 博隆は妖樹のことについては看守や罪人たちの噂で知っていた。 「そうか。それでお前ら、俺に会いに来たのか。村の存亡を呪術に頼るとはな。 落ちぶれたものだ。」 「違う。お前を頼ったのは悪魔で俺個人だ。」 「対して変わりはしないさ。まあこんな場所での話もなんだろう。俺のアパートの場所を 教えるからそこで夜まで待ってろ。中に勾玉があるから、月が出たら表に出て、 これを勾玉の穴にくぐらせろ。」 彼は自分の髪の毛を一筋とって仕切りの穴から二人に渡した。そして、二人に 自分の住んでいるところを教えると、立会人に“もういい”というなり、 さっさと奥へ引っ込んでしまった。  指定されたアパートの場所はすぐにわかった。しかし二人は鍵を渡されてはいない。 管理人に正直に打ち明けたとしても入れてくれる訳はない。どうしようかとしばし思案し、 仕方なくガラス戸を打ち破って入る事にした。博隆の住んでいるところは二階なので、 塀を伝えば入れない場所でもない。ベランダに入り、音を立てないようガラスに ガムテープを張って、剣の柄で割る。そこから手を入れ、鍵を開けて中へ入った。 「博隆さんは勾玉を探せって言ってたな。」 「多分、そこの押入れだ。鈍い光が見える。」 草太が頷く。草太は家系的に、普通の人には見えない不思議なものを見る力がある。 「あった。」 押入れの中を見ると段ボール箱に子供の玩具のようにガラクタが詰め込んであり、 その下の方から勾玉が出てきた。 「この勾玉が博隆さんが村から持ち出した宝物だよ。」  二人は博隆に言われたように夜になるまで待ち、月が出たらベランダに出て、 勾玉の穴に博隆の髪をくぐらせた。勾玉からしゅるりと煙が浮き上がり、 何もない暗闇から博隆が姿をあらわした。 「よう。どうやら成功したようだな。」 二人が呆気に取られている前で、博隆は、こういう術なのだと説明にもならない 説明をした。博隆は、囚人服のまま家の中に入って、部屋の隅で壁を背にしてどっかと 座った。どうやらそこが自分のいつもの指定席らしい。そして、その近くに座るように 椰央と草太を促した。 「話を聞いて、幾つか術を持ってその妖樹を打ち破る方法を考えてみたが、 自分で考えていて、どれもどうもしっくり行かない。たとえば、木を食べるタイプの 小さな虫を木に植えて、その中で異常発生させるという方法がある。だが俺は、 この妖樹はそんな物理的な方法で倒されていいものだとはどうも思えない。 俺はこれが何か伝説的な方法を使うのではないかと思った。しかし妖樹に関する言い伝えは 全国的にみても少ない。お前の村でも現れた封じ込めたの記録しかない。 だがな、八つの枝を持って八つの根っこを持って七人の人柱を食って八人目を食おうとして 退治された妖怪ってのは居ない事もない。」 博隆はもったいぶって話した。二人はなんだろうとしばし思案した。草太は ぱっとした思いつきで答えた。 「それ…もしかしてヤマタノオロチのこと…?」 「なんだ、わかってるじゃないか、クシナダ姫。」 博隆は、草太をクシナダと呼んだ。言うまでもない。クシナダ姫といえば、 オロチに捧げられる予定だった最後の娘で、スサノオに助けられるのだ。 「ちょっと待てよ、あれはどこからどう見たって植物じゃないか。だいたいオロチってのは 八つの山と八つの谷を背に持つほどの巨大な蛇で…」 「あれだって土地の養分をたっぷり吸えば、そのうちそれくらい大きくもなるさ。 まあとりあえずあれをオロチと仮定する。必要なのは八つの樽とたっぷりのキツイ酒だ。 あとは、オロチノアラマサノツルギ。オロチを切ったとされる剣だ。 これは…その剣かもしれんが、どうもそれは短くて気に入らないな。 まあ剣に文句を言ってもうしょうがないが。」 椰央は持ってきた神剣を鞘ごと博隆に渡した。博隆は剣を抜いて、 矯めつ眇めつそれを見て、鞘のほうもじっくり見て、鞘だけを草太に渡した。 そしてメモ帳と鉛筆を草太の前に出した。 「その鞘の内側に書いてあるものをそっくりここに書き出してくれ。 お前なら、見えるだろう。」 草太は少し困った顔をした。しかし、両目を閉じて感覚を集中させると、 頭の中にその内部の模様が入ってきた。どうやら鞘だけよりも剣を入れた状態でのほうが 見えやすいようだった。草太は苦心しながらもその模様をそっくり紙に書き写していった。 「これは神代文字の一つだ。特に、お前らの村のあたりで頻繁に使われていたものだな。 こちら側には色々な神様の名前が列挙して書かれている。反対側のだが、一行目のは 封印を施す際に唱える呪文。二行目は術を解除するための呪文。三行目は…わからんな。 なんでこんなものがここに書いてあるんだか…。」    十 紅に御剣染めし柱と共に あやかし縛れ大地の神よ    ○ 偽りに隠れ潜みし魂よ 放たれ真の姿に帰れ    の 猿沢の池の大蛇が焼け焦げる その火をもどす芹の露々 「これ、火傷を治すおまじないじゃないか。」 椰央が言う。それは、村で普通に使う言葉で、誰かが火傷をしたときに、 芹の葉で火傷部を撫でながら言うおまじないだ。怪我を治すのに"ちちんぷいぷい…"と 言ったり、子供を寝かすのに"ネンネンコロリ…"というのと同じように使われる言葉だ。 「そうだな。それについてはわからん。しかしまあ、ここに“大蛇”とある。あの妖樹が ヤマタノオロチと関係があるって論拠の一つにはならないか?」 「確かに何かしら関係はありそうだけどな…」 「ん?」 「俺が今一番知りたいのはあの妖樹をどうやって退治するかなんだよ。酒ぶっかけて、 この剣で一つ一つ枝を切り落とせばそれでいいのか?」 博隆はさあと言って肩をすくめた。草太に目を向けると少し考えて草太は言った。 「酒はどうだか知らないけど、この神剣で直接妖樹を切るってのは過去の村人たちも 実験して、失敗しているんじゃないかな。ところで博隆さん、呪文の最初にある絵、 十と○とのっていうのはどういう意味か分からないんですか?」 「ああ、それはあれさ。村の御三家にそれぞれ宝が伝わってるだろ。剣と鏡と勾玉。 それさ。封印するのに剣を使って、それを解除するのに鏡を使う。勾玉は… まあいろいろ妙な術が使えるからなんとも言えないな。」 勇者の家と鬼の家に剣と勾玉があったように、ユタの家には鏡が伝わっている。 「さて、俺は明日になればすぐにでも手配が回るだろう。いや、もうここに 役人が向かってきているかもしれない。お前らと一緒に村へ向かうのは少し難しそうだ。 お前らで何とかして奴を退治してみろ。この紙は一応お前らに渡すが、なるべく早く 燃やしてしまえ。特に二行目のは封印解除の言葉だ。誰かに知られたら後が厄介だ。」 「逃げないのか?」 「まあそうしてもいいが、な。ムショに帰るさ。住めば都…っつーか、な。 友達ができたんだ。俺は、まだお前らよりも小さい頃、よく苛められていた。 鬼の子だと非難されて友達がいなかった分、嬉しくてしょうがないんだ。心配するな。」 脱獄して刑が重くなるというのに、博隆さんはまるで気にしていない。 寧ろそれを嬉しがっている。 「俺の父親も爺さんも、それでも世間の枠に入りたくて普通を装ってた。 俺はすねて異常になろうとして研究を始めた。親父たちは怒り狂ったよ。 実際俺も俺以外の人間がこんな研究し出したらと思うとゾッとする。 悪用したいと思ったらし放題さ。俺は、この力で医療行為っぽいものをやって その謝礼で暮らしてた。」 「もしかしてあんた、それで捕まったのか?」 「ああ。無免許だ詐欺だって言われて捕まった。保釈金払えば出られたらしいがな。 今ごろ脱獄で刑が加算されてるさ。」 博隆はあっけらかんと言った。外に出ればまだ助けを求める患者は居ないでもないだろうに 無責任な話だ。いやしかし、呪術なんて妖しいものを取り扱うには、こういういいかげんで 微妙なバランス感覚が必要なのかもしれない。  いつまでもこの家にいると脱獄の共犯として何かと厄介なことになりかねない。 博隆は二人に、患者だった老夫婦の家を紹介し、そこに泊まるように言った。 夫婦は、深い事情も聞かず、こころよく二人を泊めてくれた。そして夫婦は二人に こんな話を聞かせてくれた。  この老夫婦の夫のほうには、以前、背中に刺青が彫ってあった。若い頃にヤクザの仲間に なった時期があり、入れたのだが、足を洗って以来これを負担に思っていた。 それを博隆が綺麗さっぱり消してしまったのだという。  次の日椰央と草太は、朝早く老夫婦の家を出た。以来ずっと山を歩き、山の峠を乗り越え 村が近くなり少し開けた道に差し掛かったところだった。向こうの方から二つの人影が 近づいてくるのが見えた。大人たちが椰央たちを山まで探しに来たのかとも思ったが、 目を凝らしてよく見ると、それは翔子と裕樹だった。 「二人とも、俺たちを探しに来たのか?」 「ええ。私一人じゃ山道が心許ないから裕樹くんに連れてきてもらったの。 椰央兄ちゃんたちがいなくなったって今村では大変な騒ぎよ。でも、帰ってきてくれて 本当によかった。」 四人は村への道を歩きながら、町で博隆にあって言われた事を伝えた。 あの木がオロチだと聞いた裕樹は呆れたような困ったような顔をした。 翔子はあの木を退治すると聞いて、武者震いを感じた。 「でも、どうやってあの木を退治するって言うの?」 そう言われてしまうと返す言葉はなかった。椰央は、具体的な策など 持ち合わせてはいなかったのだ。しかし、草太はそうではなかった。 「―――俺に、少し考えがある。」 「何?どうするの?」 「裕樹、お前らがこっちに来たという事は村の人たちは知っているのか?」 草太が裕樹に訊ねた。 「いいや。翔子が大人には内緒にして欲しい言われたし、俺も大人たちには 言わない方がいいと思った。」 「なら、二人に頼みたいことがあるんだ。裕樹はうちの社殿の奥にある御神体の鏡を こっそり持ち出してあの木のところに持って来ておいてくれ。翔子はなんとかして 八つの酒樽を用意しておいて欲しい。俺たちは、そこを右に曲がったところにある 花火師の庵を訪ねて、隠し花火で使う木枠を貸してもらう。」 「本当に神話を再現するつもりなんだな…。兄さんにそこまで言われると、 あれがオロチだって言うのも信じられる気がする。しかし、御神体の鏡なんて、 そんなものを持ち出して一体何に使うつもりなんだ?」 「後で分かるさ。それと裕樹、あの木のところまで行ったら、俺たちがやろうと していることをそこに居る人にざっと説明しておいて欲しい。儀式の直前に 村を抜け出した俺たちが説明してもなかなか納得してもらえないと思うんだ。」 「分かった。」  裕樹は家の者の目を盗み、普段は誰も入ってはならないとされている社殿に 忍び込みんだ。一番奥にある御神体の鏡を前に一礼し、絹の布で包み懐に入れる。 そして、例の木のところに走った。  翔子はまず家に帰り、押入れの中敷の下に母親が隠してあるヘソクリを持ち出した。 そして酒屋へ走り、一番強い酒を八樽買い、手間賃を払って酒屋の一家に手伝ってもらい、 それを木のところまで運んだ。  椰央と草太は花火師の庵に行った。庵には、代々そこで花火師をやっている一家が 仕事をしていた。彼らも村の一員として草太と椰央が村から逃げ出した事は知っていた。 しかし事情を説明すると不承不承花火に使う木枠を用意してくれた。しかし、 オロチを前にそれでは少し心許ない。椰央たちは協力して改良した。 樽の大きさを考慮して下に台をつけ、木枠自体も二つ三つ重ねて補強した。 できた物は八つに分かれている状態で台車に乗せて村まで運ぶ事にした。  村が近づくと、椰央たちを見つけた村人たちは二人に冷たい目を向けながらも、 それを運ぶのを手伝ってくれた。妖樹の前に行くと、そこには村中の人が集まり、 翔子が用意した八つの樽を胡散臭そうに眺めていた。  妖樹の周辺は土地が枯れ、神社の周りにある三つの田畑までがすっかり干上がっていた。 草木はひとつ残らず枯れ、ガチガチに硬い土地の上に風が吹けばすぐに舞い上がるような 乾いた砂が広がっている。その中央で、あのけったいな木だけがすくすくと成長し、 建物にしたら3階まで届くほどの高さに成長していた。幹は太く、 大人二人でようやく手が回るほどだ。桶の周囲ほどもある八つの太い枝は、 絡み合いそうで絡み合わない微妙な状態を保って、互いにくねくねとうねっている。 そのうねりから、直接に団扇のような葉がびしびしと突き出ている。  こうしてみると、なるほど、ヤマタノオロチのように見えなくもない。 あの団扇のような葉を全部取ってしまい、地面に埋まっている根が地上に姿を見せたなら、 まさに木の姿をしたオロチだ。おまけに地上に微かに姿を現している根は、 確かに八つに分かれているのだ。しかし、これはどこからどう見ても木であって 蛇ではない。  妖樹の姿を遠巻きに眺める村人たちの前に、山の道のほうから椰央と草太の一行が 木枠を運んできた。それぞれの家の者たちは互いに二人が村を無断で抜け出したことを 責めたがった。しかし今は一刻も早くこの木をどうにかしたい。二人はこれが駄目なら 大人しく封印の儀式をやるつもりだという。ならば、これに協力をしてやろうということで 意見の一致をみていた。  村人たちは協力して八つの木枠をつなげて柵を巡らし、その向こう側に樽を置いた。 裕樹はその中で、こっそりと草太に例の鏡を渡した。  全ての準備が整ったところで草太は前に出て、村人たちに下がっているように言った。 草太は、懐から裕樹に渡された鏡を取り出し絹の布を取った。古ぼけた鏡には 禍々しい木がそのままの姿で映っている。 「偽りに隠れ潜みし魂よ、放たれ真の姿に帰れ」 それは、あの剣の2行目に書かれていた封印解除の呪文だった。草太がそれを唱えると、 鏡の中の木が渦巻くように姿を変えた。渦が流れを止めたときそこに映し出されたのは、 八本の尾を地面に横たえ、空へぐるぐると首を伸ばした巨大なオロチの姿だった。 草太がそれを確認したのは一瞬だった。鏡から、太陽が降ってきたような 激しい光が放たれ、天地の全てを真っ白に包み込む。草太も椰央も村人たちも、 眩しくて目を開けていられなかった。  その白い光の中で、妖樹は姿を変えていた。根を支えていた地面が崩れ、 八本の長い尾が姿を現す。ざくざくと生えていた葉が消え、滑らかで硬い皮膚となる。 枝の先端は俄かに丸くなり、口の部分が大きく裂け、瞳が赤く光りだす。 まるで蛇が脱皮をしたかのようだった。眩しさが消えて皆が目を凝らしたとき そこに居たのは、巨大な身体をうねらせて光の痛みに耐えるヤマタノオロチだった。 「ヤマチノオロチだ!」 「逃げろ!」 集まっていた者たちが蜘蛛の子を散らすように四散していく。オロチは 逃げ遅れた村人たちを喰らおうと首をくねらせる。  柵の裏にいた猟師たちがオロチの気を反らすため、一斉に矢を射かけた。猟師たちは ないよりいいだろうと思ってそれぞれに弓を持ってきていたので、椰央が 柵の裏に居るように指示をしたのだ。  矢はオロチの身体にサクサクと刺さった。怒ったオロチの首が次々に こちらに向かってくる。注意を引きつける事には成功したが、オロチは矢を ものともしていない。 「皆、逃げるんだ!」 椰央の声で猟師たちも柵から逃げ出す。オロチは鋭い目を彼らに向けたが、大きな樽に たっぷりと満たされた酒の臭いを嗅ぎつけると、ぴたりと追うのをやめた。八つの首が、 それぞれに酒を求め、柵の間に首を通し、樽の中に頭を突っ込む。 「よし、飲んだぞ。」 村の自慢でもある酒はすぐにオロチを夢中にさせた。オロチはぐびぐびと酒を飲み、 見る見るうちに樽の中の酒を飲み尽くし、樽に頭を突っ込んだままぐったりとなった。 地を這うような鼾が、喉の奥から漏れ始める。  椰央は柵のすぐ近くで、神剣を持って隠れていた。ところでこの剣だが、 不思議なことが起こっていた。先ほど鏡から光が放たれたときの事。光が収まり 目をあけると不思議とそれが暖かくなっていた。見ると、短剣だったはずの神剣は、 手の長さほどの剣となっていた。しかしそれは羽根のように軽く、 椰央の手にぴったりと吸い付くようだった。  オロチがすっかり眠りこけた事を確認し、椰央は一番端にあった首に近づき、 神剣を振り下ろした。首は豆腐でも切るようにすとんと気持ちよく切れた。 よしこの調子でと思い次に行こうとした時、その首の切り口から めらめらと炎が燃え上がった。炎はオロチの血によっていよいよ燃え上がり、 肉を焼きながら次第に大きくなっていく。オロチの血は、油のようにごうごうと よく燃えた。  何事かと恐ろしかったが、まごまごしていては自分も火に巻き込まれる。 椰央は急いで残りの七つの首を切り落とした。するとどうだろう。 それぞれの切り口からそれぞれに炎が上がり、オロチ自身の身体を 燃やしていく。  全ての首を落としたとき火はオロチの頭を焼き、柵を焼き、身体を焼き、 養分を吸い尽くされて枯れた草木に燃え移っていた。首だけではない。 オロチの胴からも八つの尾からも、鱗の間から火が噴出すようにして オロチの巨体が燃え出した。  村人たちがこぞって火消しに走る。その時、俄かにオロチの身体が動き出すと、 最期の力を振り絞り、苦悶のうちに激しくのた打ち回った。何人かの男女が 振り回された尾や首に跳ね飛ばされる。炎は四方に散り、田畑だけでなく、 それを耕している二軒の家にも燃え広がる。それでもオロチはまだのた打ち回っている。 「どうするんだ椰央、あの大蛇、首を切っても死なねぇぞ。」 「そんなこと言われたって…あの蠢く尻尾も全部切れってのか!? 近づくだけで丸焦げだぞ。」 草太ははたと三行目の呪文を思い出した。 「そうだあの呪文…」 「どうした草太?」 「“猿沢の池の大蛇が焼け焦げる その火をもどす芹の露々”。あれはもしかすると この炎を消すための呪文だったのかもしれない。それ以外あの呪文が 神剣の鞘に書いてある理由がない。―――だとしたら、俺たち大変な事をした。 俺たちは博隆さんから勾玉を預けてもらうべきだったんだ。ここには勾玉がないから この呪文は使えない。」 「落ち着け草太!」 「椰央…」 「あのオロチをよく見るんだ。いいからよく見ろ。―――いいか、オロチの尻尾だ。 あのなかのどれかだ。どれかに、草薙の剣があるはずだ。」 火達磨となって燃えるオロチは見ているだけでも涙が出てくるほど熱い。 しかし、目を凝らすとそこに確かに、きらりと光るものが見える。 「…見える。あれだ、今松の木をなぎ倒したやつだ。あの尾の先から二尺くらいの所。」 椰央は、池に飛び込んで全身をぬらすと、燃え盛るオロチに向かって走った。 いまだ振り回されている燃え盛る尾を掻い潜り、焼けて倒れた木を乗り越える。 目標を目もあけていられないほどの業火の中半目を開けて草太に言われた場所を睨む。 の尾が自分に向かって叩きつけるように向かってくる。チャンスだと思った。 逃げ出そうとする身体を静止し、向かい来る尾へタイミングを計り神剣を振り下ろす。  神剣は見事オロチの尾を真っ二つに切断した。しかし切られたものを 避ける余裕まではなく、車に引かれた人形のように椰央の身体が弾き飛ばされる。 宙に舞い上がった刹那、椰央は切られた尾から剣の柄が突き出ているのを見た。 椰央が乾いた地面に叩きつけられる。持っていた神剣を手放してしまう。 叩きつけられ身体に激痛が走る。それでも朦朧とし始める意識の中で、椰央の目は 尾から突き出た剣の柄を捕らえていた。立ててばたった三歩の距離を、 腕を交互に前に突き出し、軋む身体をばたつかせて這う。もう少し、あと少し―――     届いた!  椰央の手が剣の柄をしっかりと握り締めた。剣からごうと風が巻き起きる。 それはたちまち椰央を包み込み、その服を焦がしていた炎を吹き飛ばす。  風は、椰央を中心として炎の中を駆け抜けた。秋の夕に吹くような、澄んだ風。 それはオロチの鱗の上で燃え盛る炎を、たちまちのうちに吹き飛ばしていった。  炎の鎧を剥がれたオロチの身体は、燃え尽きた墨のように白くなってカチカチとひび割れ 終いには自らの重みを支える事もできなくなり、どさりと地面に横たわった。燃えつき、 横たわったオロチの身体は、もう二度と動くことはなかった。椰央は目の前のオチが 白くなり動かなくなのるを見届け、目を閉じ、安堵の眠りに深く落ちていった。  椰央は、草薙の剣にこんな力があったなど全く知らなかった。 ただ、オロチの尻尾から草薙の剣が見つかったと言う話が強く自分の中で 印象に残っていて、それを手に入れれば何かあるかもしれないと思っただけなのだ。 全くのヤマカンだったのだが、これは間違いではなかった。ヤマトタケルノミコトは、 その命を狙われ草原で火攻めにあった時、この剣で自分の周りの草を刈った。 そして、風の神に祈りを捧げ、火を操り、逆に相手を火攻めにしたのだ。 だとすれば、この剣自体に風を操る力があっても不思議ではない。  椰央はそれから二日たった午ごろ、自分の家の床の中で目を覚ました。記憶を探り、 あたりを見回し、今自分の置かれている状況を悟る。そして助かったのだと自覚した。  身体は重く、ぐるぐると包帯に包まれていた。足は片方が石膏で固められていた。 一番重症だったのは腹で、あばら骨が二、三折れていた。これはしばらく動けなさそうだ。 「でも不思議だな…。火傷の後が一つもない。あんなに熱いところにいたのに。 草薙の剣の力なのかな…?」 そのことは家族の皆が不思議がっていた。なんでも、昨日の夜までは腿や胸、背中、 手足などいたるところが焼けて爛れていたらしい。しかし、今朝おきて 帯を取り替えてみると全て綺麗に消えてしまっていたというのだ。  その時はそれで終わってしまったのだが、両親や祖父母が自室に戻り 翔子と二人になったとき、翔子が真相を教えてくれた。 「椰央兄ちゃんの火傷はね、それはそれはひどかったの。焼けたところから いっぱい水が出てきたの。お医者様が一日中係りきりで看病して下さって、 それでも椰央兄ちゃん、すごく苦しがってうなされていたわ。それでね、 草太、もういちど山を越えて町まで行って、博隆さんの家から勾玉を持ち出してきたの。 それで鬼の家の隆臣くんに頼んで術をかけてもらったの。昨日の夜中のことよ。 私、草太に頼まれて二人が家に入れるように手引きしたの。」 隆臣とは博隆の兄の子で博隆から見ると甥に当たる。椰央たちと同い年で、 よく苛められている大人しい子だ。草太は彼に事情を話し、術のかけ方を教えた。 隆臣が勾玉を椰央の胸元に置き、“猿沢の池の大蛇が焼け焦げる その火をもどす芹の露々”と唱えると、椰央の身体にあった火傷は 見る見るうちに消えていったと言う。  椰央が目を覚ましたと言う事が知れると、家族や親戚、友達が どやどやと見舞いに駆けつけてきた。目を覚ました日とその次の日は、 一日中それで終わった。みな口々に椰央を褒め称え、お大事にと言って去っていった。 ユタの家の者たちは、手のひらを返したように、草太を犠牲にしようとした事を 恥ずかしいと言った。  だが、当の草太が見舞いにきたのは、それからさらに三日ほど経った日の 昼下がりだった。椰央は遅いと草太を毒ついた。悪意のあるものではない。 甘えて我がままをいっているだけだ。 「博隆さんの家に例の勾玉を返しに行ってきたんだ。隆臣は渋ったけど、 博隆さんは決して悪い使い方をする人ではないし、この勾玉の能力を 病人の治療に役立てていた事を話したら分かってくれたよ。」 「それは分かったよ。にしても遅すぎないか?」 「早く来ても、あれだろ。いっぱい見舞いの客が来ててなんか忙しそうだったから。」 草太が弁解する。椰央はそれでもまだ恨めしそうに草太を睨んでいた。 「俺、早くお前に会いたかった。」 「…分かったよ、俺が悪かった。…それくらいでヘソ曲げんなよ。」 「別に、そんなんじゃ…ただ俺は…。ほら、火傷を治してくれた礼、 言わなきゃならなかったろ。だから、それだけだよ。」 ムキになる椰央は、年齢以上に子供っぽかった。草太は、草薙の剣を見つけろと 自分を叱り付けた椰央を思い出し、くすくすと笑い出した。 「そうだな。ありがとうな。」 「は?なんでお前が俺に礼を言うんだよ。逆だろ。」 椰央がそう言っても、草太は笑うだけだった。草太は今、人柱になるはずだった 自分の命を救ってくれてありがとうと椰央に言ったのだ。椰央はそれに まったく気づいていない。草太は、そんな椰央が可笑しくてしょうがなかった。