んー、とひなたの猫よろしく机の前で伸びをする主君に、セレストはお茶を差し出した。
「お疲れ様です。捗られましたか?」
「うむ、まあまあだな」
濃い目に煎れた紅茶と、ほっこり焼けたアップルパイに上機嫌の笑顔を見せる。勉強中、書物を追う目線の怜悧な表情とはうって変わる子供っぽさが、セレストの気持ちを惹いてやまない。
「ふぅ、疲れた。セレスト肩もんでくれ肩」
外見にそぐわず年寄りくさいことを言う王子に苦笑を漏らしながら、失礼しますとその背後に立つ。おやつに手を伸ばす仕草の邪魔にならないように注意して、肉付きの薄い肩をそっと揉んでやった。
「あー、そこそこ。うーん効くなあ」
「・・・随分凝ってらっしゃいますね・・・」
「うん?そうかな。昨夜、変な体勢で本を読んでいたからかな」
「・・・って、あれからですか!?」
「いたいたいた、セレスト、痛い」
「し、しし失礼しました」
つい、力を込めてしまって焦る。驚いたのだ。昨夜はカナンの部屋へ上がって話が弾んで、いい雰囲気になってその、えーと、だから。
記憶を反芻して独り赤面する背後の従者に、王子はまったく気付かない。
「まったくもう。お前、訓練で普通の握力じゃないんだからな、気をつけろ」
「すみません。しかしカナン様、その、私が下がった後に本を読んでいらっしゃったのですか?」
「そうだ。ちょっと気になった調べ物があったのでな。事典を見ていた」
「では、・・・失礼ながら、あまり眠っておられないのでは」
改めて柔らかにと努めつつ上から覗き込むようにすると、心なしか少し目元が腫れているような。・・・昨夜はちょっと泣かせてしまったから、その所為なのかもしれないけれど。
また反芻して動悸のする自分が情けないセレストである。更に、「眠らせなかったのは誰だ」と言葉を浴びせられて、すみませんと小さくなるしかない。
撫でるように揉んでいる華奢な肩から無理矢理に意識を外して、カナンとの会話に集中する。
「カナン様は、昔から勉強がお好きですね」
うん?と紅茶を含みながら見上げてくる小さな主君。そう、この方がもっと幼くていらした頃から、そういえば初めてお会いした時も、大きな本を大事そうに抱えて。色の濃い金の髪と、利発さが窺えるような蒼眼は今もまったく変わらない。
「私などは子供の頃から騎士たる教育を受けて参りましたので、勉強というよりは騎士に必要な知識を叩き込まれるといった毎日でした。英才教育、というのとはまた違いますが」
自分は決して生まれながらに才能を持っていたわけではない。今の、この実力と地位、これは騎士として訓練を受けやすい環境にあった家庭の事情と、自らの努力に因るものだという自負はある。しかし。
「自分をより研ぎ澄ます為としての剣術の鍛錬は好きでしたが、長時間机に向かうのは少し苦手で・・・。身体を動かす方が好きでしたね。同期の者も大概そんな感じでしたから」
才能というのなら、まさに目の前のこの王子が持っている、と断言できる。遺伝的に持つ幻獣使いの血、魔術の心得、そして何より絶対の普遍的なもの。
これをカリスマと呼ぶのかもしれない、とセレストは思う。誰もが惹かれるその個性。それらを後天的に身に付けるには、生半なことでは叶わない。
羨まれると同時に、誇らしく。
「同じ年頃の男の子は皆そんなものだという思い込みはありましたが・・・しかし、カナン様の勉学に向かわれるご姿勢は、何でしょう、年頃は関係なく王子殿下として学ばれる範囲を広く超えていらっしゃいますよね」
王子として必須的に毎日教師から学ぶものは語学、地理、経済、そして帝王学。更にカナンが独自に興味を示すものは生物学、天文学、果ては考古学にお婆ちゃんの知恵袋的なものまで様々と含まれる。
生まれついた才の上に胡坐をかくことは、決してない。探究心という名の光は、日に日にその輝きを増して。
言いながら気付いた。もしやこれは。
「それはもちろん僕が将来、冒険者となった暁に役立たせる為の勉学だからな」
ああやっぱり。
夢いっぱいでわくわくと言われてしまっては、何も言い返す術がない。凝った王子の肩を揉みほぐしながら、とほほと言う。
「・・・なにもこんなにお疲れになる程、お勉強なさらなくとも」
勝手に城を抜け出されるよりはマシですが、との独白は胸の内に。
「馬鹿者め。勉強というものは、疲れて当たり前だ」
ふと、声色の変ったあるじに手が止まる。
「カナン様?」
すました顔でアップルパイを器用に切って口に運びながら、しかしその眼は書物を追っていた時の怜悧な表情。金の長い睫毛を少し伏せ。
「セレスト、この匂いは何だと思う?」
「は?」
逆に問い掛けられて狼狽する。反射的にふんふんと嗅いでみるものの。
「あ、アップルパイの匂いが」
「違う、馬鹿め」
即、言われて肩が落ちた。何のことだかまったくわからない。
「ライラックだ」
「・・・?」
それなら、この部屋に入ってきた時から。
開けられた窓。優しげな春の風に乗って芳香を漂わせている。雲雀が歌う、麗らかな春の午後。
「・・・そもそも、この香りは何だろう、と疑問に思うことから勉強は始まる」
紅茶のカップを両手で包んだ王子は、テーブルに肘をつく。
「ならば、香りの元を辿ってみればわかる。この樹だ。この樹は何だろう?一枝貰って、書物で調べてみよう。低木で芳香を持つ薄紫の房状の花、ライラックだ。木犀の仲間で春に開花し、秋に落葉する。・・・たったひとつの疑問に、これだけの情報が集まる。これが勉学の基本だ」
その蒼瞳は、どこか遠くを見ているようでいて。
「疑問というものの根本は、好奇心で出来ている。これは当然自発的にでないと発生しない。疑問を解決する、即ち好奇心を満たす行為のみをしかし勉学とは呼ばない。そうやって得た知識を使役して初めて勉学と呼ぶことが出来ると、僕は思う。些か定義的だが」
そうして、柔らかく笑む。疲労漂うものの、満たされたような笑顔はとても清廉なものだった。
「僕の人生は、好奇心なくしては語れないものになるだろう。いまここでありったけ吸収した知識をいつか役立たせる為に、僕は勉強する。その為の疲れなど、ものの数には入らない」
いつか冒険者になるという夢を叶える為なら。
「カナン様・・・」
対するセレストは驚愕する。才能、というひとことでは決して括られない何か大きなものを、少年に感じる。同じ年頃だった過去の自分は、ここまでものを考えていただろうか。そもそも人生を語ることが出来るほど、この王子は老成しているわけではない。なのに、自分よりずっと達観したその様子へ素直に尊敬の念が湧いた。
それと同時に、沁み出でるような寂寥感。もう、自分の手に届かない存在となってしまったかのような。
その時のカナンの微笑みが、自分に向けたものではないと解ってしまったから。
いつか、この国を出奔するであろう王子。留めることは最早不可能であり、無理に繋ぎ止めるのは彼の人生を奪うようなものと知ってしまっている。ではそのいつかが来た時、自分は、どうするのだろう。
安易に付いて行くと、言えない自分をセレストは自覚している。
「セレスト?」
きょとん、とあどけなさを残して見上げられる顔を見るのが切ない。柔らかい金髪が手の甲に触れた、その感触でさえも。触れているのが辛い。でも離したくない。
どうしたらいいかわからなくて、王子の肩から手を外せない。自分はこんなに、迷っている。
なんて、弱い。
こんなに弱い自分が、このひとの傍に有ることでさえ間違っているような気までする。だからといって、他の者には決して譲れない。譲ることなんて出来ない。
身の内に巣食う、仄暗い独占欲。
目眩がするほどの懊悩、しかしそれは突然に打ち切られた。
ぽす、という軽い感触。
腹に当る、それはカナンの後頭部だった。
「肩を、揉んでくれ」
「は、はい」
慌てて肩揉みを再開すると強い蒼が見上げてきて、きっぱりと言われた。
「何かまた色々と考えているようなので言っておく。僕の肩はお前専用だ。僕が疲れたら、お前は肩を揉む。簡単だろう?」
何もかもを切り開いてゆくような、力のある言葉。まるで暗雲が立ち消えるかの如く。
今や微妙なバランスの上に立つセレストにとって安定剤とも成り得る言葉を、こうしてかの王子は易々と口にする。
どこまでも惹きつけられる、強烈な誘引力。
不思議な感情の変化に、セレストは微笑した。間違いもなく、このひとが許してくれるこの時は、自分だけのもの。
このひと無くしては有り得ない自分。ずっと。
「簡単ですね」
肩を揉んでいた手を、そっとずらして前へ。軽く手を伸ばすだけで、こんなに近くなる。
細い肩は、セレストの腕には楽々と一周させることが出来る。引き寄せてみればすっぽりと収まる華奢な身体。すこし恥ずかしがるような風情は、いつ抱いても初めてのような新鮮さを失わない。
頬を染めながらも腕にすがり付いてくる少年の耳に唇と期待を寄せて、囁いた。
「では、私が疲れた時、カナン様は?」
それは対等なパートナーとしての、甘い交換条件。
む?、と眉を寄せたカナンはしかし次の瞬間、悪戯っぽく見上げてセレストに言った。
「お前も勉強して疲れたというのなら、考えてやろう」
お互いにくすくす笑う。抱きしめあって。心まで温まるような恋人の体温。傍に居るだけで、ほっとするような大切なひと。
「では遠慮なく勉強させて頂きます」
「え」
続く予想外の言葉に見開かれる蒼の目に、こほん、とわざとらしくひとつ、咳をして。
「アップルパイの匂いがします、カナン様」
「・・・っ!」
「香りの元を辿ってみても良いでしょうか」