「・・・こんなにきれいなお爪なのに、どうして切る必要があるんです」
深い溜め息は従者の側から。
「ちょっとは伸びたんだぞ。ほらこことかこことかそれと」
「あーはいはいわかりました。じっとしていて下さいね」
人の話は最後まで聞けといつも言うくせに、とぶつぶつ漏らすのは王子の側から。
しかしその手をそっと取ると、それだけで頬を少し染めて押し黙る。赤ん坊がするように、ちょっとセレストの指を握ったりなどして。
そういうところがまだ子供っぽくて可愛らしいが、しかし。
白いまろい手の指先に付いているのは、まだ見熟な桜貝のようで、今からそれを切るのだと思うと何故か感傷的になったりして、セレストはまた溜め息をついた。
城に帰ってきてからまっすぐ部屋までカナンに引っ張ってこられたセレストは、ソファに隣り合って座らされた。
主君と同じ処に腰掛けるなど云々といったことも、さあ切ろうそれ切ろうと両手を差し出す無邪気な当人の前では、抗う気力も奪われる。
更に盛大な溜め息を上乗せして、仕方ないか、とカナンの仕入れてきた爪切り鋏をぱちんと開いた。この神の造形と言っても過言ではない程の美爪をカナン様ご本人に切らせるくらいならいっそ自分が、と悲愴なまでの決意がすこし。
物珍しげにじっと見ている顔付きが、好奇心の強い猫のようで苦笑を誘われる。切りすぎないよう、そっと近づく爪切り鋏に柔らかい指先がすこしふるえた。
「・・・な、なんだか緊張するな」
「止めますか?」
「いや、いい。ばっさりいってくれ」
ばっさりいったら指でしょう、と内心脱力しつつ先端をすこし、ぱちっと切る。
「ん・・・っ」
漏らされた声に動悸が跳ね上がった。
「あっ、いい痛かったですか!?」
「いや、違う。・・・すまない、大丈夫だ」
心臓に悪い。
そもそも、そんなに切る程伸びた爪ではないのだ。おまけにカナンの爪は薄く、ちょっと切る角度を誤っただけで割れてしまいそうで、恐い。深爪にならないよう、細心の注意を払ってはいるが、万一ということもある。
指先は、人間の五体でいちばん神経の集中している箇所だ。少しの傷が、いつまでもじくじくと痛む。カナンの指にそんな痛みを与えるわけには、決していかない。
丸く形を整えるように、ミクロな単位で周囲をぱちぱちと揃える。細かな破片が膝に敷いたハンカチにぱらぱらと落ち、日溜まりで見るとまるでそれは光る石英のかけらのようだ。
「・・・へえ、上手いものだな」
「妹が小さい頃に、こうして切ってやっていましたから」
「そうか・・・」
何となく黙り込んで人差し指を終え、中指、薬指へと。右手が終ったら軽くやすりをかけて、次は左手へ。
そうして初めて、セレストは気が付いた。カナンの手がびっしょり汗ばんでいることに。
「カナン様?」
驚いて主君の顔に眼を向ければ、熟れたトマトのような赤い顔。
「な、なんだ」
声が上擦っている。
「あの・・・。どうかなさったんですか?」
「う、うううるさい。何でもないっ」
左手をセレストに預けたまま、ぎゅっと目を瞑って俯いてしまう。
「はあ。・・・いや、あの、ひょっとして、痛かったですか?」
「痛いとかゆーなー!」
じたばたされる。
(何なんだ・・・?)
めちゃくちゃ変になっている主君に、セレストは困惑を隠せない。
「い、いいから続けろ。僕のことは放っておけ」
「?はあ」
赤い顔のままで命じられ、不審に思いながらも左手の爪に取り掛かった。
カナンさま・・・痛みは
思い出してしまった。
あの、最後のダンジョンでのことを。
カナンが見つめていたのは実は自分の手ではなく、その爪を切ってくれているセレストだ。
(前髪が伸びたな・・・)
目にかかる程の前髪に少し隠れて、真剣な眼差しの翠緑。自分の右手の指をそっと取る、長い指先。その温もりが嬉しくなってしまって軽く握ると、ふっと雰囲気が和らいで。
器用に動く指が、慣れた手つきで真新しい爪切り鋏をぱちんと開く。カナンの指先を傷付けないよう、細心の注意を払ってくれているのが伝わってきて、少しだけくすぐったかった。
最初に切られた時、経験のない指先の感覚に驚いてしまう。切られたのは先端の、しかもほんの僅かだというのに急に軽くなったような感じがしてすかすかした。
「あっ、いい痛かったですか!?」
「いや、違う。・・・すまない、大丈夫だ」
いつも真っ先にカナンを気遣ってくれる、その言葉。
それで、思い出してしまった。
あの、最後のダンジョンでのことを。
カナンさま・・・痛みは
あの時も、カナンの身体を一番に気遣って。
湧き上がる欲情を、それ以上の優しさで覆って。
幼い頃からずっと傍に居たセレストの、そんな表情を見るのは初めてだった。常には穏やかに見える青年の内側に、こんな熱があったなんて。しかもそれがすべて自分に向けられていて。
・・・実際あの時、まったく痛くなかったと言えば嘘になる。だが、その痛みでさえもセレストから齎されるものならば、何であろうと受け入れることが出来たから。
そこまで思い出して、ついその前とか後の一連まで走馬灯が廻りかけ、カナンは慌てて意識を他に逸らす。
(何を思い出すかな僕は)
だから別に、爪なんて多少切りすぎたってかまわないのだ。他ならないセレストに切って貰うのだから。
そもそも、爪をもう少し切ろうと思ったのだって・・・。
(あ)
そしてまた、思い出してしまった。
セレストは、気付いていない。
あの夜、自分が目覚めていたことに。
そして衣服を身につける彼を見ていたことに。
・・・真白いシャツで隠される直前に垣間見えた、背中の痕に。
(うわ)
どっと、汗が噴き出るのがわかった。
アーヴィング父を見て爪切り鋏で切ってみたい、と考え付いたのは事実だが、順番が違う。
広い背中に付いた、幾筋もの赤い爪痕。蚯蚓腫れ、とまでには至らないものの。
騎士団の風呂は確か、共同浴場だった気がとてもする。大いにする。
(・・・誰も何も言わないのか、こいつの背中にっ)
いや、言ってはいるだろう。・・・しかしそれを本人に言わないだけであり。
シャワーを暢気に浴びるセレストの背中を、遠巻きにざわざわと見ている騎士団員の面々が容易に想像できた。まさか誰も近衛副隊長の情人が第二王子だとは知らないから、えらい噂になっていることだろう。
知らぬが仏とは、よく言ったものである。赤面を抑えられない。
(す、すまんセレスト)
恥ずかしさと申し訳無さで、胸がいっぱいになる。
当の本人は涼しい顔をして、右手の爪を切り終えようとしていた。爪切り鋏に付いている金属のやすりで切り口を軽く均し、指先に付いた細かな屑をふっと吹く。
(〜〜〜っ!)
麻酔にかかったかのような感覚が走った気がした。じんわり痺れているようで、けれど皮膚の存在を感じない。過敏になっている。
(や、やば)
「カナン様?」
目を、合わせられない。
「な、なんだ」
努めて平静を装おうとして、・・・失敗した。
「あの・・・。どうかなさったんですか?」
怪訝そうな声。今はこんなに近くに居ることでさえも恥ずかしいのに。
「う、うううるさい。何でもないっ」
ここで手を振り払ったら、絶対に変だと思われるし。それに。
左手をセレストに預けたまま、ぎゅっと目を瞑って俯いてしまう。
手を、離したくないし。
「はあ。・・・いや、あの、ひょっとして、痛かったですか?」
更にその一言に、過剰に反応してしまった。
「痛いとかゆーなー!」
じたばたしてしまう。
変だ変だ変だ。こんなのは変だ。絶対におかしく思われているだろう。必死で言葉を紡ぎ出す。
「い、いいから続けろ。僕のことは放っておけ」
お願いだから。
「?はあ」
困惑顔でそのまま左手の爪に取り掛かってくれるセレストを盗み見、カナンはやっと細く息を吐いた。今程、この従者の鈍さに感謝したことはない。・・・寿命が縮んでいる気がする。
揃えて貰ったばかりの右手の指先をそっと自らの首筋にあててみた。
(・・・よし、大丈夫かも)
爪切りは初めてなのでよくは判らないが、これは上手い方なのではないだろうか。流石は妹の爪を切ってやっていただけのことはある。
(そんなに力を入れなければ、痕が付くほどには・・・、って)
用意周到、という四字熟語が浮かんでまた居た堪れなくなった。考えれば爪を“立てさせる”当の本人に切らせる図、というのも実は物凄く。
(〜〜〜っ)
またしても込み上がるものを理性の力を総動員して押し静める。小刻みに呼吸を繰り返して気分を鎮めた。
(なんだかな・・・何をやってるんだ僕は)
恋人の朴念仁さは脇に置くとして、しかし自分だけがうろたえているのが無性に馬鹿らしくなってきたカナンである。
見ればもう左手も最終段階。あとはまた軽く整えて終わるばかりだ。
寿命が無為に縮んだ所為か、何だかひどく疲れた。
「・・・さ、これで如何ですか?」
爪切り鋏をぱちんと閉じながらセレストは訊く。
「うん。うむ、なかなか良い感じだ」
カナンが両手を目の前に広げて検分しつつにっこり微笑ってやると、翠緑の瞳が優しく細められた。
「それはようございました。この爪切りはお預かりしておきますから、また御用の折はお申し付け下さい」
「それでは僕が切る練習が出来ないじゃないか」
「何を仰います。駄目です」
「むぅ」
「それに・・・」
言いかけて、セレストは口を閉ざした。視線が落ち着かない。
「?」
「またその・・・もう少し伸びたら私に切らせて頂けませんか」
「・・・は?」
「いえ、何でもないです。お忘れ下さい」
「??」
・・・まさか、言えない。
カナンはきっと気付いてはいないだろう、とセレストは思った。
自分の背中に残るカナンが付けた、痕。
付けられる分には一向に構わないのだが、他人に整えられた爪で付けられると思うと・・・、なんて。
いい大人が言うには何だか馬鹿らしいじゃないか。
・・・この時点で大きな牡丹餅を逃したことに気付かないセレストは、矢張り暢気なのだろうか。
答えは、誰も知らないのだ。
end.
back.
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