「ちょっぷ」
「あたっ」
交わりも解かないうちに組み敷いた恋人からちょっぷを貰う男は、この広い世界中どれほど探しても自分だけではなかろうか。
その瞬間セレスト・アーヴィング(23)の脳裏に浮かんだのは、そんな事柄だった。
「・・・お前、また、可愛いと言った、・・・だろう」
まだ情交の残滓を色濃く残して下から睨み上げてくるひとは、それ以外に形容しようのない表情でそう言った。
上気して熟れた瑞々しい桃の頬、汗で額に張り付いた蜂蜜色の髪と、潤んで溢れて流れた夏空の蒼。ちなみにくちびるは摘みたての苺のようだ。そこから零れ出る掠れがちの声は、未だ魅惑の甘さを含んでセレストの鼓膜を蕩かす。
そして極めつけが今此迄の、・・・艶麗の様。
思い返されてまた性懲りも無くきゅんとくるものがあるけれど、もうそろそろカナンの方が限界だろう。
紅い痕を点々と散らされた白い滑らかな胸をゆるく上下させて、喉が渇いたのか軽くけふけふと咳き込んでいる。
このひとのこんな姿を見て、心を動かされない人間が居たら是非お目にかかりたい。
苦笑して手を伸ばし、水差しから注いだ水を含んでそのまま口移しで与えると、恥じらいつつも貪るように嚥下した。
・・・尤も、他の誰にも見せるわけにはいかないけれど。
可愛いものは仕方が無いのである。実はその言葉に愛も恋も尊も欲もすべて集約されていると言って良い。
そのすべてを捧げたひとは水を飲んで少し落ち着いたらしい。力の戻ってきた蒼が、不満そうに眇められた。
「あれだけ言うなと言っても、まだ言うのかお前は」
セレストにとっては万感の想いを込めて告げるその言葉も、しかし彼の君にはまったく通じていないのが何だか切ない。そしてこの場合、禁句と知って言ってしまったセレストに非が有るのだ。更に切なさ倍増である。
「あー・・・はい、すみません」
ここは素直に謝っておくことにする。いつかは想いの届く日も来るだろうと、乙女の祈りにも似た純粋さと諦観でもって汗を含んだ金糸をかき分け、皮膚の薄そうな額に唇を落とした。が。
「そうやって謝っておいて、次の時にまた可愛い可愛い言うんだろう。お前の言うことは、もう信用できん」
きゅ、と枕の端を小さく握って、ふいと顔を背けられた。
「あ、いやその」
雲行きがおかしい。
「大体今日、何度言うなと僕は言った?それなのにお前ときたら可愛いだの可愛いだのお可愛らしーだの、もっと他に形容しようが無いのか僕の顔は」
・・・どうやら愛すべき王子は自分の顔の造作だと思っているらしい。元々が小振りの、ともすれば姫君とも見紛うばかりの楚楚とした美貌である。凛々しい勇者像に並々ならぬ憧憬を寄せる王子が常日頃、自室の鏡を見て気に入らない気に入らないとぶつぶつ漏らしていたのは知っているが。
ここで臍を曲げられてはこの後の甘い時間までも失ってしまう。長いとは決していえないひと時の逢瀬、一分一秒でも貴重なのに。
そして焦ったセレストが何とか晴天を呼び戻そうと、猛スピードで繰る語彙の札。案の定、こんな状況下では気の利いた文句など出よう筈が無く。
「あ〜・・・では今度から、お綺麗ですというのは」
「却下だ」
即座に否定される。
「では、お素敵です、は」
「何だそれは」
眉を顰めて嫌な顔をされた。
「それでは辛抱堪りません、では」
かあ、と上気したカナンの顔にますます朱が上乗せされる。
「・・・お前恥ずかしくないのか」
「・・・恥ずかしいですね」
しかも情けなさいっぱいだ。なにゆえ最中の台詞をこのひとに相談しなければならないのだろう。
がくりと項垂れる従者には頓着せず、拗ねたように視線を逸らせた王子は口篭った。
「だ、第一その、・・・その時、の、僕の顔なんて可愛いなんてものじゃないだろう」
「はい?」
そして一体何を言い出すのか、このひとは。
「涙でてるし」
「ええ?」
いやそれはかなり可愛い材料です、との言葉を何とか飲み込んだ。
「鼻水も出てるかもしれないし」
「いえそれは無いです」
即座に否定する。
「なら良・・・、いや良くないな、とにかく」
びし、と人差し指を突きつけられた。
「可愛いってゆーな」
「そんなご無体な・・・」
何度も述べるようではあるが、可愛いものは仕方が無いのだ。一体、他に何と言えば良い?
ひょっとして、ここは本人に希望を訊いてみるのが一番ではないだろうか。
「では・・・何と申し上げれば」
「うむ、そうだな・・・」
暫し有り、そうして見上げてくる恋人の笑顔は、今までに無く最上級のものであった。
「よし決めた」
「何でしょう」
「格好いい、でいこう」
「・・・・・・・・・・・・」
「格好いい、と言わなかったら減俸だ」
「そ」
れもご無体です。と言う気力でさえ失ってしまった。
一体、事後の甘いひとときは何処へ消えたのだろう?いやそれは端から期待してはいけない事だったのか。
自問自答でぐるぐる巡る頭を内心で抱える従者に、最上級の笑顔のまま、王子は言った。
柔らかな腕を伸ばして、ぎゅう、と抱き付く。
「セレストも、格好よかったぞ」
「!」
その意味するところは、果たして自分の言う可愛いと同義語なのだろうか?
そんな些細な疑問でさえ、セレストにとっては甘い悩みなのだ。