ぐるりと円形が取り巻く巨大な書庫の形は、ルーキウスの歴史と知識の結晶体のように見える。
3階建ての建物の中央は大きな吹き抜けになっていて、ホールから望むと天井まで本で出来た森が聳え立っているようでもある。
宮から続く回廊と同じくこの書庫にも細工の施された天窓があり、きららかな光は格子の如くに射すけれど暑さは感じない。程好く保たれた温度と湿度は紙質で出来た情報という宝物を保存するのに、最適な環境。
そして、本と書類と巻き物に埋もれるようにして過ごす、何物にも代え難い時間が此処には存在する。良い意味での緊張感と、圧迫感。
壁に直接横穴の形で設けられたいくつかの扉の無い小部屋は、人が向かい合って座ればもういっぱいの大きさで、小さな文机が据付けられている。いつまで座っていても疲れないお気に入りの椅子には、沢山のクッションを。
夏場の夕暮れは、居心地の良い此の場所で過ごすことが多い。
古書独特の匂い。ゆらゆら蕩う虫除けの香。誰も居ない、静謐の場所。
自分の背丈よりも遥かに高い書架を見上げ乍ら、ゆっくりとその間を抜けてゆく。今日はどの本にしようか。読んでも読んでも尽きることのない、国内随一の蔵書量を誇る、王宮の書庫。
興味を引いた専門書を数冊と、装丁の気に入った物語の本を何冊か。司書官が城下で仕入れてくる情報誌、新聞は最新のものを。それらを次々と取って背後に控えている従者に渡す。背の高い彼はそれを受け取って、書籍の森を抜ける自分に離れず付いてくる。
分厚い上製の本。あれだけ両手に積めばかなりの重さになるだろうに、何の苦も無く持ち運んでカナン様まだ読まれるのですか、などと言ってくる。細身の体躯に似合わない程の膂力は、彼がこれまで一日たりとも欠かさず続けてきた鍛練の成果であることを知っている。それに。
(細身に見えて着痩せするからな、こいつは)
何故に自分がそんなことまで知っているのかを考えて、知らず頬が熱くなった。こんな感情は、この場所には似つかわしくないと思う。それなのに、彼の肩筋から腕、本をしっかり持つ指先に目が行ってしまってどうしようもない。
「どうかされましたか?」
「どうもしない」
訊かれたことへ鸚鵡返しに答えておいて、ばつの悪さを誤魔化すように、ぼすぼすと書籍を追加した。顔の高さまで積み上げられる本に慌てながらも尚ぐらつかない、腰周りと広い肩幅。
意地悪をして、一番上に安定の悪い巻き物を置いてやる。すぐにも転がりそうなそれを、おっと、と言いつつ押さえる顎のライン。きれいなカーブを描くそれと喉仏がよく見えるかたちになって、何故か墓穴を掘った気分になった。
「カナン様、一旦置きに参りますので、此の辺にいらして下さいね」
「うむ」
自分は何とも複雑な顔をしているのだろう。しかし翆緑の瞳はいつもと変わらず細められて、注意深く書架の間を擦り抜けて行く。密かに見送る後ろ姿、その腰に佩かれた一振りの剣。
飾りだと、思っていたわけではないけれど。
しかしこの年になるまで、その剣の鯉口が切られる様を見たことは一度も無かった。実際に、彼の剣技の冴えを目の当たりにしたのは、ダンジョンの中でモンスターに遭遇してからだ。
それは武術大会で見せる、型重視の流れるような動きとはまた違う、まさしく実戦での技。
その時の抜刀から繋がる居合いに近い斬撃は、カナンの動体視力では追いつかなかった。此れ程までに、と思ったのをよく覚えている。普段は情けない程に優男の風情で居ながら、しかも自分と同じくレベル1という経験値で有りながら、いざ殺気を放つ瞬間の鋭さ。
思い返されて鼓動が早まった。果たしてその時の自分は、別人のような彼を恐いと思ったのだったか、それとも今までこんな一面を見せたことのない彼を、ずるいと思ったのだったか。
完璧に管理されている筈の室内温度が何度か、上がった気がした。
従者であると同時に近衛の副隊長でもある彼に、実は宮仕えの侍女たちの人気が集まっていることを何となく知っている。ついこの間まではこんなのほほん然としたやつの何処に、と不思議に思ってもいたのに。
(女性は鋭い、ということか)
慣れた手付きで軽く払った剣を鞘に収め、振り返る所作。そんな時でも常と変わらず、自分を認めて細められる翆眼。軽く翻る白のマント。騎士団の制服では普段見ることの無い二の腕と、其処にバランス良く配された筋肉。
気が付いたらそんな処ばかりを、見るとも無しに見ている自分に気が付いた。その度に早まってゆく鼓動と上昇する体温。
そして、自分だけが知っている事柄。
彼が、自分だけに見せてくれる表情、優しさ、厳しさ、・・・激しさ。
性質の悪いことに、いくら見ていても、足りない。
この止められない感情は、どこまで膨張するというのか。
もうこれ以上、彼に占められる心はいっぱいで苦しいのに。
浅ましい妄想を払うように、努めて書架を見上げて漫ろ歩いた。俯いていては、底の無い沼に嵌まり込んでしまいそうで恐い。重症だ。
いっそのこと、こんな知識の海に溺れてしまえれば、どんなに楽だったことだろう。何も考えず、いつまでも子供のように無邪気に絵本を読むかの如く。そうでなければ、御伽噺の住人のように罪の無い夢を弄ぶが如く。
しばらくそうしてとりとめのない物思いに耽っていると、ふと一点に視線が留まった。
少し高い所に収められている魔術の書。背表紙は青紺。鮮やかな。
色に惹かれるとは僕も大概、と少し自嘲して手を出したものの。
抜けない。
本をきちきちに詰められた棚、指をその間に入れることもできず、半ばつま先立ちの姿勢である為に力も入らない。それでも、どうしてもその本を手元に置いてみたかった。
左手を棚に預け、無理矢理に本の天に指先を掛けて引っ張り出そうと、そうしたら案の定、用の無い両隣の本までがずるりと釣られるように引き出されてきて。
「うわっ」
どれも皮表紙の重い本、それらの下敷になれば只では済まないが、弓形に崩れてきた本の羅列が、いやにゆっくりと眼に映る。
落ちると思った次の瞬間、素早く背後から腕が伸びてきて、たん、と崩れそうになった書列を押さえてくれた。
「間一髪ですね」
耳元で独り言のように低く吐かれた安堵の台詞に、声が出ない。
「危ないですから、こういう場合は私にお申し付け下さい、カナン様」
目当ての本に手を伸ばしたまま、書架とセレストの間に挟まれた形になっていて。
「この本でよろしかったのですか?」
そう言って自分の手の甲に、大きな手が重ねられた。そっと力が入れられると先程の強情さは欠片もなく、難なくその本は引っ張り出されるけれども。
セレストの手の、力の入り加減が直に自分の手へ伝わってきたことに、ひどく動揺した。火傷を負った時のように、手を引っ込める。その手を胸に抱きこむ。
「カナン様?」
振り向くことは出来ない。今振り向けば、また。
好きになってしまう。
もう、これ以上は苦しくて堪らないのに。なのに。
今、その髪の色を見たくて仕方が無い。瞳はまた自分を見て和らぐだろうか。困ったように微笑むのだろうか。いっそのこと、危ない真似をした自分を叱ってくれても良い。
もう一度、手を繋いで。
もう一度、今度は違う感情で名を呼んで。
そうしたら、もう一度、触れて。
高波のように押し寄せた、狂おしいほどのこの感情を、どう扱えば良いのかがわからない。
「カナン様」
そしてもう一度、呼ばれて肩がふるえた。
どんどんと上がる熱。ますますどうしようも無くなって、抱きしめた右手に力が篭る。喉元に当てて、何とか動悸を静めようと儚い努力は続けるが。
「!ひょっとして、御手に怪我を?」
突然、ぐいと手首を掴まれ振り向かされて、息が止まった。否が応も無く目に飛び込んでくる、翠緑の視線。自分の右手を検分するその視線に、・・・視線だけで何故こんなに恥ずかしいのか。必死になって冷静さを努めても、戦慄く指先だけはどうしても制御出来なかった。
「お怪我は無いようですね」
良かった、と心底安心したかのような息が指にかかって、後手に隠した左手が、ぎり、と本棚に爪を立てる。
「お前が掴んでいる手首の方が痛い。離せ」
どうかこれ以上、声までも震えないように。染まった頬と潤んだ眼は見られてしまっただろう。
その証拠にひょいと形の良い眉が上げられて、視線が和らげられる。すみませんと言いつつ離しては貰えない、手首。振り解けない自分に、ほとほと愛想が尽きる。
「・・・怖かった、ですか?」
本の、事を言っているのだと思う・・・思うが、やんわりと握られた右手に意識が行ってしまって、うまく思考が纏まらない。
「べ、別に怖いことなど・・・」
自分の左側の棚へ、閉じ込めるように掛けられてきた腕に気がついたけれど、視線を逸らせたら負けだと思った。
もう、最初から勝負は決まっているようなものなのに。
そうですか、と密やかに微笑う吐息が自らの唇にかかって。
唯一触れている右手、まるで其処へも心臓が移動したかのようで、でも触れていることに安心する。指の間に汗が滲んで恥ずかしいとか、考える余地でさえこの青年に奪われている気がして・・・最早頭がいっぱいで、苦しさを通り越して陶然とした。
視線を絡めたまま、今はもう至近に有る翠緑。だがふと逸らされて、
「止しましょうか」
俯いた苦い笑いと共に、首筋へ吹き込まれた。たったそれだけで膝の力が抜けかかるのを、辛うじて堪える。
「このような場所では、その、・・・畏れながら、止まらなくなりそうです」
誰も居なくて。
自分を閉じ込めたまま、その腕に額を預けるセレストの顎の線が横目に見えた。そのまま、書架ごと抱き締められた形になって。
言いつつきゅ、と改めて握られた右手に、かあ、と更に熱が上がった。
「ば、馬鹿者っ」
突然襲い来る羞恥の嵐に、じたばたともがく。
くすくすと笑いながら、あっさり離れてゆくセレストの制服に、安堵半分、残念半分。
こういう時の彼の余裕が、自分との年の差を思い知らされる。
だからぎゅ、と力を込めて握りかえすと、驚いたように見下ろされてしまった。
「ずるいぞ、お前ばかり余裕があって」
言ってしまってから正直すぎて失敗した、と思う。なんて子供のような癇癪。けれど、思いがけず真剣な瞳で見詰め返されて、みっともなく狼狽えてしまった。
再び、彼の端整な顔が近付いてきて、心臓が早鐘を打つ。
こつ、と額を合わせられてびくっと目を閉じてしまうが。
「冗談じゃない。カナン様がお相手では、いつも全力投球です」
ふう、と溜息と共に吐かれた言葉に開いた目へ映ったのは、紛れもなく彼の本音であるようで。
右手を取られたまま戻りましょうかと誘われて、言葉もなく頷いた。
自分は一体、何処へ攫われて行くのだろう。
けれど、ずっとこうして手を繋いでいられるなら、それも。
それも、悪くはない。